月の導き(2)
人間の視覚では、月が水面に反射した一筋の白い光と、微かな輪郭しか見えない廃墟に、おぼろに浮かぶものがある。飛竜の感覚では、そこに明確な存在が感じられた。高度を下げ、人の目でもそれを視認できる距離にある建物に着地する。
それは、髪の長い女性に見えた。ウェーブのかかった髪が背中を覆い、しなやかな両腕は透き通るようで、体の線が分かるような薄い襞のある布を纏っている。しかし、その全身には色がなく、顔は仮面のようで、下半身はどこまであるのか判然としなかった。そして、間違いなく、それは魔物の気配を漂わせていた。
何か、奇妙だと思った。
飛竜の時とは違うが、通常の魔物には感じない違和感がある。
ぎこちない動きでこちらを向いたそれから、空気の塊が勢いよく放たれ、避けるように飛竜が飛び上がった。先程まで止まっていた建物が、一部砕かれる。
夜間で条件も悪いが、町の近くでもあるし、対処しないわけにはいかない。伯爵の館を出る際に、ナイアラには出撃準備を頼んである。
町へ戻ると、魔物討伐部隊は既に門のところに待機していた。近衛隊と守備隊、正規軍も程なく集まってくる。
地上から近づいていくと、それは水上に浮いているように見えた。ゆっくり水上を移動しているが、水辺に近づくとまた戻っていく。
一班がこっそり近づいていくが、水辺にあまり身を隠す場所はない。
こちらの動きに気付いたのか、水辺に近づいた魔物がぎこちなく動いた。まるで粗いCGを見ているかのようだ。その周りで空気が浮き上がった後、一陣の風が叩きつけられた。悲鳴が上がり、人間達は吹き飛ばされて地に転がり、皮膚を斬られて血を流した。すかさず舞い降りた飛竜が翼で風を叩きつけると、それはスイと離れていく。その隙に怪我人を連れ戻して様子を見ていると、それはこちらに注意を払うでもなく、ゆるゆると水上を動き回っている。
そのまま動く様子がなければ朝まで待機でも良かったが、それは水上を滑るように動き回りながら、町へ近づいているようにも見えた。そしてこちらの姿を見つけると、空気の塊や、刃のような風を放ってくる。ある程度の距離を取れば、それらは拡散して威力を失うが、距離を測り間違えるとすっぱり斬られる。傷はそれほど深くはないが、場所が悪ければ致命傷にもなり得る。近づくことは出来ないから、こちらからは矢を射かけるしかない。
不規則に動き回る相手に矢を射るのは易しいことではないが、ファリエンもだいぶ精度を上げている。しかし、その魔物には、手応えを感じなかった。まるで月の光を反射したかのように白く浮き上がるそれは、射かけられた矢を全て吸収するように飲み込んでいく。これでは、アルテア草を塗った貴重な矢など使えない。試しに投石もしてみたが、結果は同じだった。
「レイナ。」
「ナイアラ?」
「あれの下。」
そう言って、ナイアラは、白い魔物の下の方を指した。
魔物がまた、風を叩き出す。その風圧の余波が微かに届き、かざした腕に擦り傷をつけた。その風の生まれた瞬間、ナイアラの言わんとしたことが理解できた。水中に、何かある。あるいは、それこそが本体なのか。
「狙える?」
「難しいけど、やってみる。」
やりようによっては、矢と同程度の威力を持つ投石だ。水面に近い場所にいるならば、何かしらの反応は見込める。振りかぶったナイアラの手元を離れた石が、弧を描いて飛んでいき、水面を穿つように飛び込んだ。水上の対象を狙うより的が小さくなった分、やはり難しく、微調整をして3度、投石が行われた。
それが届いた時、水面が大きく揺れ、水上の白い像が大きくぶれた。揺れる波間に、白いチカリとした光が見え、また沈み込む。
ずっと、白い魔物が水面に投影されている光だと見えていたものが、水中にあった。そしてそれは、何か黒々としたものに乗っているようだった。黒く、平たく、細長く、うねるように動く何か。二重の月の光が照らしたそれはおそらく、アルジュールの商人が持ち込んだ、あの生物だ。
「ナイアラはここから投石を。私は上空から矢で狙う。」
飛竜に乗り、上空から白い光を狙う。距離を取らなければならないのは空でも同じだが、地上からよりは的が確認しやすく狙いやすい。矢が白い光に届くと、明らかな変化が現れた。水上の像が揺らぎ、表面に罅が入っていく。狙うべき的が分かったことで、地上からも矢が射かけられ、石が投げられる。水上には小舟が浮かべられ、小舟と建物を移りながら攻撃を続ける者もいた。
小舟を建物の陰に配置し、円で囲むというより、ベレンの方が厚くなるように布陣しているのは、おそらく近衛隊長の指示だ。
的を狙うことに集中しすぎて目測を誤り、風の直撃を受ける者もいたが、像の罅は着実に増えていき、ところどころ赤黒く染まっていった。
水面により近づいた瞬間を狙って、アルテア草を塗った矢を射こむと、像の一部が吹き飛んだ。その衝撃で大きく揺らいだ後、像の腕が大きく振られ、今までより広い範囲に風が吹き荒れた。地上から悲鳴が聞こえる。白い魔物は、大きく口を開け、咆哮したように見えた。しかし、それはか細く、風が吹き抜けていくような、ぼうとした音だった。既に全身は傷だらけで、顔に一筋の赤黒い罅が入り、まるで血の涙を流しているようだ。
なぜか、悲しい感じがした。
これは魔物だ。飛竜と違い、危険で狂暴な魔物だ。
しかしその中核には、真逆の感覚があり、深い嘆きで覆われている。そんな気がしてならなかった。
水中の光と共に、水上の像が赤黒い靄に包まれ消滅すると、黒い生物も動きを止めた。魔物の気配はもうない。
その傍に寄ろうとする他の舟を制止して、近衛隊長の乗る小舟だけが静かに近づいていく。網も用意されたのだが、地上からは少し距離があった。
隊長が槍を繰り出すのと、黒い生物が躍り上がるように飛びかかるのは同時だった。驚いて息を詰めた時には、深々と槍の突き刺さったそれが、水面で暴れている光景に変わっていた。その煽りを受けて、小舟が大きく揺らぐ。漕ぎ手は舟にしがみつくのが精一杯で、流石に隊長も膝をついているが、既に抜き放った長剣を構えている。そして、舟の動きに合わせ、剣が一閃すると、黒い生物は静かに動きを止めた。
怪我人の移動と手当をしながら夜明けを待ち、網をかけて引き上げてみると、案の定それはワニだった。ただ、昨日のものより大きく、真黒で、顔の上部に丸い半透明の石が付いていた。石には矢が刺さっており、幾筋もの罅が入っていて、中には赤黒い靄のようなものが漂っていた。
網に絡めたまま、顔に半分近く埋まっている石を槍でつついていると、コロリと取れて転がった。拾い上げてみると、片手に乗る程度の大きさだ。
「何だろうね。」
「水晶玉みたい。色は変だけど。」
「金持ちが持つようなもんだろうな。」
「こんな綺麗な丸にするには結構大変だからな。」
石を囲みながら勝手なことを言い合っていると、討伐完了の報告を聞いたビフェルン伯から、事後処理の様々な指示が届いた。その指示に従い、怪我人を治療所に運び、町へ撤収していく。ワニは確実に仕留めること、ということだったが、魔物化しなくても生け捕る気などなかったのではないかと、何となく思う。
その後、なぜか停泊場に連れてこられた。商人達の持ち船が並ぶ区画で、あっさりした実用的なものから、少々凝った意匠のものまで様々だ。ベレンの守備兵達は何かを探しているようで、伯爵までがわざわざ来ていた。傷を負わなかった隊員が治療所と停泊場を行き来して、怪我をした隊員の様子を教えてくれていたのだが、ナイアラが戻ってきた時、首を傾げて少し考え込むような顔をしていた。




