ハイクエル山(2)
「彼の女性の好みは、あまり分からなかったのだけどね。そうか。」
この士官は、何かとんでもなく恐ろしい勘違いをしているように思う。
兵士達の間で、私が近衛隊長の弟子と認識されている話は、聞いている。そこまではまだ良いのだが、今のニュアンスからすると、全く別の方向性の話になっているような気がする。
「まあ、悪くはないけれど、私は、ハイクエルに来た小鳥の方が、好みだな。」
すっと胸の奥が冷えていくのを感じた。心の奥に、冷たい怒りがある。それを悟られないよう、意識して視線を外す。
その話は聞いていた。
作戦もなく坑道に突入させようとしたこの士官に、魔物の正確な場所が分からないから危険だとエレナは進言した。君が私のものになるなら、君の仲間は免除しても良い、とこの士官は答えたという。エレナは青ざめながらも、その要求にも、班員を行かせることにも頷こうとしなかったと、アンヘラから聞いた。
この貴公子からすれば、最大級の恩寵のつもりかもしれない。けれど、エレナにとっては侮辱だ。彼女にも矜持がある。
結局は止めきれず、班員からも死者が出た。
帰ってきた時の、彼女達の憔悴した顔は、忘れない、決して。
「あの小鳥は、いずれ私の庭で囀る一羽に入れてあげるよ。」
そう言って微笑む様は、実に優美で、その奥に潜むものは、実に不快だった。その言葉は、私に向けたものでもなく、ただ自分の中で確認するだけの呟きのようで、もはやこちらに興味を示すことも無く去って行った。
彼にとって、ほとんどの人は、同じ人間ではないのだ。異境の民だけでなく、一般の兵士達も、道端の雑草ほどのものでしかない。いくらでも生えてくる、いくらでも替えの効くもの。でなければ、今回のような使い方はしない。
探索班の報告書のことは、静かに兵舎の中に広まった。どのような話を聞いたのかは知らないが、何人かの兵士や十人隊長が、遠回しに激励の言葉をかけてきた。
百人隊長の一人は、苦渋の表情で忠告に来た。
「相手が誰か分かっているのか。大貴族相手に、喧嘩を売るなんざ、正気の沙汰じゃあない。お前も部下を持つ身だ。よくよく考えろ。」
言いたいことは、よく分かる。おそらく私が考えていた以上に、身分の問題は大きい。
それでも。
「引き下がるわけにはいかないのです。」
「軍を放り出されて路頭に迷うことになるかもしれんぞ。」
その不安は、もちろんある。せっかく存在を認められ、生きる場所を得られたのに、それを失ったらどうなるのか。
けれど。
「このままでは、一年後にどれだけ生き残っているか分かりません。」
このまま、あの士官が咎められもせずに力を得るなら、私達は鉱山のカナリヤのように扱われ、早々に全滅するかもしれない。その不安の方が、より強かった。
「これは?」
武器担当のアンヘラが、製作所から三種類のナイフをもらってきた。以前よりいくらか軽くなっているようだ。親方が、約束した通りに取り組んでくれたのだろうか。
「レイナが前に言ってた方法を試しているらしいよ。その過程でできた試作品ね。薄くなった分軽くはなったが、強度の方はあんたらで確認してくれって。」
「ああ。手間がかかりそうだから出来ないって言ってたけど。あの説明で分かったのかな?」
「奥さんに、パイ生地の作り方を見せてもらったんだって。」
「・・・そうなんだ。」
「配合とか鍛える回数とかいろいろ試しているんだって。感想聞きたいって言われてる。」
あの時はあまりやる気はなさそうだったが、意外にも気になっていたらしい。さすがに職人だ。研究熱心なことである。
早速、今までのものと比べて扱いやすさや強度の確認を行い、翌々日、製作所に感想を伝えに行った。工場の雰囲気は、以前にもまして活気に満ちている、というより、どちらかというと、殺気立っていた。新しい方法を試すだけでなく、ハイクエルで新しく見つかった金属の使い道の研究も加わり、猫の手も借りたいという様子だった。
対応した職人からは、親方の職人魂にすっかり火がついてしまい、前にもましてカリカリしているから、今は近づかないほうがいいと言われた。ところが、そうしているところに、親方の方から顔を出しに来た。いつも通りの顰め面だから、特別気が立っているのか分かりにくいが、いつもより大声なところを見ると、職人の言う通りなのかもしれない。一通り意見のやり取りを終えると、親方が少しだけ、声量を落とした。
「ところで、お前さん、あのぼんぼんに反抗したそうじゃないか。」
誰のことを言っているのかは、すぐに分かった。親方が、あの士官にいい感情を持っていないことも。
「するべき報告を、しただけです。内容が、第二隊の副官のものと違うようですが。」
そう言うと、親方が珍しく口元を歪めた。それが、苦笑なのか威嚇なのかは分かりにくかったが。
「何でもかんでも、都合よく捻じ曲げてもらっちゃあ、たまったもんじゃねえ。だが、そこがお貴族様だ。お前さんたち、潰されるかもしれんぞ。」
「似たような忠告は受けましたが・・・。理不尽に従って嵐をやり過ごせるとも思えないので。むしろ、より酷いことになるのではないかと。」
親方は顎をこすりながら少し考えて、思い出したように言った。
「ツグミの館のカリアと関わりがあるらしいぞ。」
「はい?」
「ディオラの件でな。」
「はあ。」
主語もないし、唐突だったし、一体何の話か分からなかった。だから、それ以上は突っ込まずに製作所を後にしたのだが、兵舎に戻った後、新しい志願者と話をしていて、ふと気が付いた。
「ああ、そうか。」
自分の鈍感さに、思わず宙を睨む。こういう時、賢い人間なら、相手の意図を即座に理解するのだろうに。
数日後、報告書の件で呼び出しがあり、エレナと共に上級士官棟へ向かった。その部屋には、連隊長と副官、それから各大隊の筆頭隊長と副官、さらに関係する中級士官が集まっていた。件の士官は第二隊の副官だ。
連隊長がおもむろに口を開く。
「今回の討伐に関しては、既に総司令官閣下に報告済みだ。陛下も高い関心を示しておられる。詳細を報告せねばならんのだが、第二隊と探索班で、内容が異なるものが提出された。委細を確認したい。」
「必要ないでしょう。第二隊の報告書は、私が書いたものですよ?」
件の士官が微笑みながらそう言って、エレナに視線を移した。その声色にも表情にも、どことなく嘲るような色がある。
「近衛隊からの指示に関して、第二隊の報告にはないが、探索班の報告書によれば、貴官がそれを無視したように取れる。事実か?」
構わずに連隊長が続けると、その士官はつまらなそうな顔になった。
「彼はもともと私に指示できる立場ではない。けれど、一応尊重はしましたよ。彼が先頭切って坑道に入り、崩落ですぐに指揮不能になってしまったから、私が指揮を引き継いだのです。」
近衛隊の指揮官とこの士官の間で交わされたやり取りに関しては、立ち会った者が少ないから証明は難しい。当の本人は崩落に巻き込まれ、しばらくは意識不明の重体だった。意識が回復してからも、記憶が混乱しているという話が聞こえてくる。
ただ、起きた出来事の順序は多くの者が知っている。全兵士を坑道に突っ込ませたことを知った近衛隊の指揮官は、現場に行って、部隊のほとんどを引き返させた。魔物と接触していた先頭部隊が後退したことで、魔物が表層近くまで移動し、そこで崩落が起きたのだ。その間この士官は、後方でのんびり様子を見ていた。
エレナは、報告書にも書いたその経緯を改めて説明したが、士官は鼻で笑うような笑みを浮かべた。探索班以外は、彼の直属の部下達だ。彼らはきっと、このお坊ちゃんを恐れて事実は語らないだろう。
「当初、魔物は山中深くにおり、数も全容も不明。その段階で、偵察も行わず、全兵士を投入したとある。第二隊の報告では、坑道から魔物が溢れそうになっていたため全兵力を投じたとあるが、どうなのか?」
「愚問ですよ、連隊長。この私の言うことと、小鳥の話を比べるなど。」
連隊長は微かに眉を寄せた。
「探索班副班長はどうか。」
「報告書には、事実のみ記してあります。」
琥珀の瞳の士官はくすくすと優美に笑った。
「小鳥は、姿や囀りは美しいが、知能は低い。籠の中で飼い主を楽しませる方が合っているよ。」
「オルトレイ卿」
窘めるように口を出した第二隊の筆頭隊長を、その士官はじろりと、はっきり嘲りの色を乗せた目で睨んだ。
「ちょっとした冗談だ。」
相手は、自分の上官のはずだ。ただ、その筆頭隊長は平民だった。先程からの振る舞いを見ていると、この部屋の中にいる者は、ほとんど格下と思っているようだ。連隊長ですら、軽く見ている雰囲気がある。そのことに対し、追従する者はいないが、はっきり咎める者もいない。
組織内の序列と、社会的な序列のどちらが優先されるのか、どうにも曖昧なところがある。感覚的なものだから、ここに来て日の浅い私には分かりにくい。ハイクエル山でもこうだったのかもしれないが、派遣されていた近衛隊の指揮官が、あの隊長だったなら、どうなっていたのだろうか。
貴族が皆こうであるわけではない。むしろ、特殊なのだと思いたい。現に、この士官が来るまでは、組織内の序列は、当たり前のように保たれていたと思う。中級士官には平民と貴族が混在している。軍に所属するようになって一年半にはなるが、今までこの手の問題は起きていなかったのだから。




