追放の女主人
ベッドで起きた自分が、まず一番最初に驚いたのは自分がベッドに寝ているということだった。
いや別に気が動転しているとか、頭がおかしくなったとか、そういうことじゃなくてむしろこれが正しい反応のはずだ。
なにせここ5年はベッドどころか床さえない場所で寝起きしていたのだ。
朝目が覚めて視界に映るのは白いシーツではなくこげ茶色の地面。
(まあ前世ではあのつるつるとしたシーツは好きになれなくて、もっとざらつきのあるものを使っていた)
起きてすぐに頬と口の中にまで入り込んだ土を水で洗い流すことから始めなければならず、
(とはいえ前世でも頬にはだいたいよだれの跡がついていて、口の中には髪の毛が混じっているのだが)
起きなければサラからの鋭い一喝が飛ぶのだ。
(前世では大学の一限目は大体起きられず寝過ごしてしまっていた)
……。
どちらが環境が整っているかと言われれば前世だが。
……
……向こうでの朝は酷かったことを思い出した。
だがシーツの好みについては譲る気はない。
そんな迷走に迷走を重ねた果てに着地点を見失った思考は今、最も関係のない後悔に行きついた。
(知らない、天井だ……っていうのを忘れたああああ!!??)
アホ、ここに極まれり。
そんな心の声が聞こえてくるようなあきれた視線を感じて振り向くと、サラが歩いて近づいてきた。
できれば弁明させてほしい。
それほどまでに混乱しているのだ。確かにあの作品も人並みに好きだったのだが。
共有でいる相手がいないというのは中々堪えるな。
違う違う。まだ混乱してる。
そう、ベッド。これはあり得ない。自分から潜り込んだ覚えがないということは誰かが運んだということだ。
その誰かとは一人しかいないわけで、だけど今までの関係からそれだけはありえないはずで。
そもそもここに寝かされるまで何をやっていたのかが曖昧で……
と、そこまで考えを巡らせたことで井戸に落ちたことを思い出した。
声をかけずに黙ってこちらを見ていたサラが軽く息を吐きだし、
「思い出したようね」
と頬を緩ませる。
絶句した。
サラの顔の筋肉が動くのは常に瞼より上。
それも見下げ果てたと言わんばかりに瞼を細めるか、怒りのあまり眉根を寄せるか、それすら通り越して瞳孔が開きっぱなしになっているか、である。
最後のは前世で刃物を向けられた時などとは比べ物にならないほどの恐怖だ。
なんならめった刺しにされているのと変わらないほどである。
あっ……震えがっ……
じっと自分の顔を見たまま唐突に震えだしたこちらを怪しんだのか、サラが胡乱げな目を向けてくる。
その目も知らない……
混乱が全く収まらず表情をころころと変える自分を、サラはしばらく見つめた後
「まあ、いいわ」
とつぶやいて自分の寝ているベットに腰かけた。
そのはずみでベッドが軋み、彼女の美しい茶髪がふわりと揺れる。
さらにこちらの肩が跳ね上がる。自分が挙動不審になっているのがよくわかる。
サラはあきれたように、しかしどこか楽しそうに自分の頭を優しく撫でながらベッドに押しやる。
「生きていてよかった」
つぶやかれたその言葉は何よりも自分に重くのしかかった。
それがなぜかは全くわからなかったが。
困惑して目を泳がせていると、ゆったりと彼女の目が細められていった。
そして……
笑った。
小さく、しかし確実にサラは笑みを浮かべた。
それは優しく儚げで、噛みしめるような、慈しむような、聖母のごとき笑顔だった。
口をパクパクさせて何も考えられずにいた自分の頭を最後にもう一度撫でる。
名残惜しそうに目を伏せ、しかし次の瞬間に顔から笑みは消えていた。
「そういえばあなた、丸一日寝ていたのです。何か食べなさい。今作りますから」
そう言って立ち上がったサラの表情はいつも通り凛としていた。
いや、どこか雰囲気が柔らかくなったかもしれない。
颯爽と部屋を後にした彼女、その左右に揺れる長髪が何となく嬉しそうに見えたのだから。
大幅な軌道修正が必要になったことで一日遅れました。彼女、サラさんの暴走が原因ですね。
もともと彼女は最後まで鉄の女みたいな立ち位置のはずでしたが、だいぶ印象を変えてきましたね。
なんか、ちょっとかわい……あ、やめて。その目をこっちに向けないで。