漂流の赤子 3
「向こうの世界で死んだときもこんなじゃなかったっけ」
ぽつりとこぼした言葉は水面に映った夜空を揺らす。
そう夜空。
つまり、こうしてずぶ濡れの状態で夜になってしまったわけだ。
実物よりも血で汚れてしまっている水面の夜空は、しかし実際には夜空かどうかもわからないくらい周囲が暗くて実は見えてない。
何とか溺れないように水に落ちてすぐズボンを脱いで服に空気を入れていた。
これは小学生の時に一回だけ授業で行った着衣水泳を思い出して実行してみたのだが、案外沈むことなく水面に漂い続けている。
当時デニム生地のズボンをはいて来いと言われ、実際にはいて参加すると水に入った途端、鉛のように重くなったのが印象的だった。あの衝撃のおかげで対応できたと考えると初等教育はなかなか侮れない。
元々馬鹿にしていたわけではない。が、正直軽く見ていた。
しかし、ここにきてその重要性を再確認したのである。
この世界で教育を受けることは当たり前ではないので、自分は今何一つ知らない状態なのだ。
自分は同世代の子供と比べたらまだ前世で教育をある程度受けている分、それなりの知識を持っている方だろう。
しかし、およそ手にしている知識の半分も活用することはできないとも思っている。
それは歴史が違い、文化が違い、生態系が違うからである。
今のところ歴史も文化も知りようがないのだが、その二つだけを基準に考えたら地球のどこかに生まれ変わった可能性を考えていたかもしれない。
しかし精霊がいた。精霊の存在が否応なく異世界であると認識させた。
ならば精霊がいなかった地球とは確実に生物の生きる環境が違う。それはヒトにも当てはまり、なにかしらの違いがあってしかるべきではないかと考えている。
地球とこの世界のヒトに違いがないとしたら、それこそ何者かの手によって調整されていることなどを疑うだろう。
今のところ体が前世と別人ということ以外に差はないのだが、これから現れるのか、それとも内面的な違いなのか。
個人的には体の内部であってほしい。例えるなら魔力的な。
創作の世界ではありふれているが、別の世界に行き魔法を使えるようになるというのは誰もが一度はあこがれるものだと思う。
それにより便利になる日常。発展する科学とは違う技術。夢が広がるというものだ。それに、魔法が使えるのならば……
ここから脱出できるかもしれない。
つまるところ、ここからさっさと出たいという理由で、ぐるぐると考え続けることによって現実逃避していた。
そもそもなぜこんなことになっているのか。
それは数時間前にさかのぼることになる。
魚を捕まえて昼飯にする計画を立てた自分は、まずは川をさがしに森の中に入っていった。
いつも、家と小屋を境にして小屋側の森に入って探索していた。そのため家側の森はほとんど入ったことがなかった。
理由は簡単。
間取り的に家の中から森が見える、大きな窓があったからである。
仮に家側の森で何かしらをやっていた場合、それをサラが確認できる。
そうなれば、森の中でやらかしているあれやこれやをサラに知られることになり、とても恐ろしいことになることは明白だった。
つまり、サラの視線を気にしながら森を探索したくなかったので避けていたという理由だった。
そんなわけで外から窓を通して家の中をのぞく、というのがなかなかに新鮮で、テーブルやイスなどがいつもと違う角度で見ることができ、少し興奮していた。
サラの生活サイクルがわかれば、目を盗んでこちらでも色々やらかせるかもしれない。そんなしょうもないことを考えた。
っとそうだ。川を探すんだった。
気を取り直し振り向いたとき、とあるものを見つけた。
それは円柱状に組まれた石が地面から突き出したもので、その上に長いロープが巻き付けられた小さな屋根がある、歴史の教科書で見かけた姿の……井戸だった。
開始数分で自分の計画が音を立てて崩れ去った。
というよりも、なぜ水を川で汲んできていると思い込んでいたのか。
井戸があると考える方が自然だろうに。
しょせん水に困らない国で生活していた者の想像力なんてそんなもんだろうよ、と無駄に敵を増やしそうなことを考えるまでに至っていた。
枯れている可能性も考慮して井戸の中をのぞいてみるが、水特有の光の反射がかすかに見えた。
そりゃあるだろう。ロープに修繕の跡があるし、枯葉などもなく日ごろから使っている様子が見て取れる。
思わず膝から崩れ落ち、井戸のふちに手をかけながら肩を落とす。
諦めて制裁を受けよと、そういうことなのかと、サラの氷点下のまなざしにさらされる自分を想像して身震いをしていたその時だった。
ピチャンッ……
と何かが跳ねる音がした。
反射的に顔を上げ井戸の中を覗き込む。
そういえば井戸の中でも魚が生息することがあると聞いたことがある……気がする。
この井戸には屋根があるため外から井戸の中に何か落ちたとは考えにくい。
ならば井戸の中に魚がいて、そいつが跳ねたと考える方が妥当だろう。
それに元々魚をとるために川を探していただけで、とれるなら井戸だろうと問題ないではないか。
急に光明が見えたことでやる気を取り戻し、魚を捕る算段を考える。
とはいっても井戸の深さが十数メートルはありそうなので、水を汲むための桶で魚の周囲の水ごと引き上げることぐらいしか思いつかないのだが。
そうと決まれば、と立ち上がり桶に手を伸ばした。
突然ぐにゃりと視界がゆがんだ。
「!?」
まともに立っていられなくなり体勢を崩す。
井戸のふちを掴みなおそうとするも体を支えられず、桶に伸ばしていた手も無情に空を切った。
視界が回転しわずかな浮遊感のあと、身体が水にたたきつけられる。
足がつかないほど深かったのは幸か不幸か。全身を包んだ水を押しのけるようにして水面から顔を出しあえぐように息を吸い込んだ。
こうして自分は間抜けにも井戸の中に落ちてしまったのだった。
そして今に至る。
思い返してみれば井戸の上には屋根があった。つまり水面に映っていたのは夜空ではなく屋根だったのかとうなだれる。
これは暗くなって何も見えなくなったのと、落ちるときに頭を石にぶつけたせいに違いない。
血が出ていることに気づいた時はそのぬるりとした感触もあって軽くパニックになったが、傷がついたのが額だったおかげで仰向けに浮かんでるうちに乾いたので助かった。
今問題なのは寒さだ。
元から水温が低かったのに日が落ちたことで気温まで下がり、体の震えが止まらない。
手足に感覚がなくなってから久しく、今はむしろ痛みさえ感じるようになってきた始末だ。
井戸の中に自分の浅い呼吸がこだましている。
落ちた時点で脱出は早々にあきらめ、体力を使わないことだけを意識していたが失敗だったかもしれない。
明日になればサラが水を汲みにくるだろうから、その時まで耐えていれば引き上げてもらえるのではと思っていたが、そこまで意識を保っていられる自信がない。
見つけられても溺死しているか、凍死しているのではないかと思う。
どうせそうなるなら、落ちてすぐに全力で脱出しようとあがいて体力を使い切っていた方が楽だったんじゃないだろうか。
………り…………………さい……………て……………………!
……さと……………!………………とを………………!
サラの声がきこえる。
いつのまにか帰ってきていたのか。
そういえばここは家のすぐそばだったとおもい出す。
ああ、できればそんなにおこらないでほしい。
うっかり落ちてしまっただけでごはんを食べたくないわけじゃないんだから。
そういえばゆきやまでそうなんしたら眠ってはいけないのは有名だけど、れい水はどう……なんだろう……か……。
だんだんと意識をたもてなくなっていき、どうにか出していた顔さえも水の中へと消えていく。
そうしてシフと名付けられた少年は、井戸の底へと静かに沈んでいった。
区切りがつくはず、だったんですけどねぇ……。
あ、続きます。まだ旅にすら出てないですから。