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〈閑話〉白く染まることもなく

 ピチャンッ……


 雫が髪に落ちる。

 唐突に訪れた小さな衝撃に身体が跳ね、一拍置いて思い出したかのように背筋が震えた。

 ぬかるんでいた地面にばかり気を取られていたせいで、頭上がおろそかになっていた。

 素肌に落ちたわけではない、とはいえ吐息といきが白い時期。それも空気さえ凍る早朝に、水滴なんてあまりに嬉しくない。濡れた髪を抑えながら視線を上に向けると、屋根の端から先端の丸まった氷柱が実際に生えていた。

 昨夜は寝ているうちに雨が降っていたようだ。至るところに水たまりができている。わざわざ汚れる必要は無いと遠回りをして歩いてみたが、避けた先で踏みしめた雑草が濡れていたらしい。結局足先に冷たい水の感触が広がっていった。

 ただでさえ寒くて指先をこすり合わせていたのに、足の指まで凍り付いてはかなわない。さっさと面倒な水()みなど終えてしまおう。

 そこまで考えると、思いきって水たまりを意識することなく井戸まで直進した。一歩踏み出すたびに泥が飛沫となって足元を汚していった。……家に入る際にはサラの小言を覚悟しなければならない。別の意味でも体を震わせながら井戸までたどり着くと、縄が括りつけられた桶を穴底へ放り込んだ。

 思えばこの井戸とも因縁があるものだ。まあ因縁というには一方的で、あまりにくだらないものではあるのだが、ここを起点にして自身を取り巻く環境が様変わりしたことに違いはない。少し感慨深く思えてくる……こともないか。

 ただ、いま改めて井戸を覗くことで感じることもある。

 それは原始的な恐怖だ。

 落下しているときには考える暇すらなかったが、地上から水面まで結構な高低差があり、感覚的には崖から下を覗き込んでいるのと変わらない。

 さらに井戸の直径はそこまで広くないため狭さを感じるし、日の光が通りづらいためか暗さも際立っている。高所、閉所、暗所と後ろに恐怖症がつけられる組み合わせは、加減しろと言いたくなるほどである。よくこの中で平静でいられたものだ。

 井戸のふちに添えていた手のひらにじんわりと汗がにじむ。

 息を吐いて顔を上げると、目の前に縄があった。

 暗闇に目を奪われ、ここに来た目的を一瞬忘れていた。砂利と埃が付いた両手をはたいて落とし、縄の凹凸に指を絡ませるとゆっくりと桶を引き上げる。

 少し時間がかかったものの、桶を水で満たし終える。足の指の感覚が無くなって久しかったが、ついに痛みを覚え始めていた。

 汲み終えた水を溢さないように室内に向かおうとして、ふと、足を止めた。

 やはり、()()()()()()

 実は今朝(けさ)家の扉を開けてからずっと言いようのない気持ちの悪さを感じていた。しかし何に対してなのか、判断できなかったため考えないようにしていたのだが、ここにきて無視できなくなっていた。

 身にまとわりついていたもどかしさが好奇心をそそのかして、ふたをしていた未知を暴こうとしている。間違いなく濡れて凍えている今、考えることではないのだが……仕方がないか。

 諦めて家の扉の前に腰かけると、運んでいた水桶をわきに置いて頭をひねり始めた。


 自身が外に出てから座り込むに至るまでに行ったことはひどく単純だ。

 井戸まで歩き、水を汲んだ。ただそれだけ。移動距離も大したものではない。

 加えて扉を開けたときから矛盾を感じていたことを考慮すると、自分の何かしらの行動によって違和感が発生したとは考えにくい。

 であるならば、風景の中でおかしいと感じる部分があったのではないだろうか。

 可能性の候補は多くない、と言うより一つしかないだろう。

 雨である。

 そもそも違和感を感じるということは、一見(いっけん)自分の持つ知覚情報と変化が無いように見えて、そのじつ齟齬そごが生まれている状態だと考えられる。ならば自分の持つ知覚情報、すなわち日常風景との違いを探せば話は早い。

 朝水を汲むのは珍しいことではない。寒くなってきたのもしばらく前からだ。となれば家から出た瞬間、認識できるほど分かりやすい違いは雨以外にはない。

 ……ない、のだが。ここで考察への問題点が一つ挙げられる。

 雨が降ること自体には何の不可思議もないことである。雨は当たり前に降るものであり、今までも降っていることなどいくらでもあった。

『扉を開けて外に出ました。昨日は雨が降っていたことに気づきました。』こう聞いて不自然さを感じることなど普通に考えればありえない。

 もっと他にあるはずなのだ。自身の認識と現状の景色の間に生じる歪さの象徴が。


 ピシッ……


 ふいに背後から暖かい風が吹きつける。

 その風を背中に感じた瞬間、寒さで感覚が麻痺していたにもかかわらず、全身の肌が泡立つのを感じた。途端、身体がガタガタと震えはじめる。


「随分と水を汲むのに時間がかかっているようですが、何かありましたか?」


 猛吹雪に晒されたと勘違いしてしまいそうなほどの極寒の声に身をすくませる。

 錆びついた機械のように軋む音を立てながら振り返ると、瞳孔の開ききったサラの瞳と目が合った。

 一応、何とか弁明を試みる。


「えっと……ちょっと、気になることが、ありまして……」

「それは水桶を室内に持ち込むことすらせず扉の前で座り込まないとできないことですか?」


 サラは口元をほころばせながら極めて()()()()()たずねてきた。目元は一切笑っていない。


「いや、必ずしもそういうわけでは……」

「ならば、速やかに入りなさい」


 有無を言わさぬサラに黙って従い部屋の中に入ると、全身を暖かい空気が包み込んだ。サラには素直に感謝しなくてはならない。あのまま扉の前に居座り続けていたら体調を崩していた可能性が高い。

 それに先程の一連の流れで、違和感の正体に気づけたのだから。

 

少年が感じた違和感について、傍から見ればわかりやすいのに当の本人には意外と気づけない、なんてことはよくあるのかなと思います。なのでこんなに簡単なことに何故思い至らないのか?と考えても生暖かい目で見守っていただけると助かります。

さて恒例になってしまっている反省タイムですが、言い訳をさせていただくと細々と書いてはいたのです。今日こそ投稿しよう。今日こそは……。が続いた結果、前回から一月半になってしまいました。

このエピソードも一話で収まるはずだったんですが、ままならないですね。

次話はそんなに間を置かず書き終えられるはずなので、気長に楽しんでいただけたらと思います。

間を置かずに……たぶん、きっと、おそらくは。……断言は怖いので濁しておくことにします。

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