付き人
俺はこの度、楽縁亭花々師匠への弟子入りを果たし、付き人となった。コネも落語への技術も何もない俺が、古典も創作もお手の物、女流トップと言われる師匠にあっさり弟子入りできたのは、はっきり言って奇跡だった。何でも、付き人が不足していたからちょうどよかったということだった。しかし、すでに師匠には二人も付き人がいた。俺は三人目の付き人だった。
付き人の中で、年長者が薔薇さん。運転手および荷物持ちを担当している。大学で落ち研に入って、学生時代からアマチュアの大会で名を馳せていたエリートだ。
次に牡丹さん。高校を中退して弟子入りしているということで、年齢は薔薇さんより六歳も若いが、芸歴は薔薇さんと同じだ。ただ、牡丹さんは俺よりも若いのにいつも疲れた顔をしていて、むしろ付き人の中で一番老けて見える(口が裂けても言ってはいけないが)。
そして三人目の付き人である俺。師匠が女性ということもあってか弟子も女性が多く、付き人の中では男は俺一人だ。しかしそんなことはまったく構わない。
師匠には、まず薔薇さんと牡丹さんの働きぶりを見て覚えろと指示されたので、師匠を含めた三人の周りをうろうろすることから俺の付き人生活は始まった。
最初に違和感を覚えたのが、年上の薔薇さんだけが荷物を持ってせこせこ動いていることだった。牡丹さんは荷物も持たず、運転もせず、ただ花々さんの横にくっついているだけなのだ。花々さんや薔薇さんが牡丹さんの行動を注意するわけでもなかった。
付き人になり、他の高座に上がる師匠の見学をすることも増えた。その中に、俺らと同じように、動く付き人と動かない付き人がいることに気付いた。もっと有名で偉い師匠には、動く付き人が一人だけなのに対し、動かない付き人が何人も着いていることすらあった。何もせずにただ付き従うだけの人々は、実に異様な光景だった。
高座終了後に花々さんを家に送り届けた後、弟子が共同生活を送る貸家に三人で向かっている最中、俺は思いきって尋ねた。
「あの、薔薇さん、牡丹さん」
「何」
返事をしたのは薔薇さんだけだった。相変わらず薔薇さんが運転をして、俺が助手席、牡丹さんが後部座席と、牡丹さんが一番上座に座っている。バックミラーで牡丹さんの様子を確認すると、身体をシートにもたれるようにして座っていた。右手で側頭部を押さえている。あまり元気がないようだ。
「一つ訊きたいことがありまして。あの、正直言って、薔薇さんばかりが仕事をしていて、牡丹さんが仕事をしていないように見えるんです。しかも、牡丹さんはいつも元気がなさそうだ。特に、今みたいに仕事が終わるときはぐったりされている。何でですか? ていうか、牡丹さんも仕事しなくていいんですか?」
「何言ってんの」片手でステアリングを回しながら薔薇さんが呟いた。「牡丹もちゃんと仕事してるよ。むしろ、私よりすごくしてる」
「え? だって、今ですら牡丹さん運転しませんし、荷物も一切持たないじゃないですか」
「手で持てる荷物は、ね」
「手で持てる荷物?」
「牡丹は、手で持てない荷物を抱える仕事をしてんの。そんで、アンタもようやく気付いたから、明日から牡丹と同じ仕事をするようになるよ」
「助かった」後部座席から、牡丹さんのか細い声が聞こえた。「やっと気付いてくれた。早速なんだけど、これ持ってくれない?」
牡丹さんが震えながら手を伸ばしてきた。その掌には何も見えなかったが、俺は牡丹さんの方に向かって自分の右手を差し出した。
牡丹さんの手が触れた刹那、ずどんと右手が押し潰されるような錯覚を覚えた。勿論、俺の手には何か乗っかっているわけではない。物理的な重みを感じるわけでもない。それなのに、右手がうっ血するほどの圧迫感を感じた。しかし脈を確認すると、通常通りだ。手を引っ込めると、だんだんと肩や腰、首が重たく感じられてきた。
「何ですか、これ」
「重責、重圧」
牡丹さんが呟いた。先ほどより声が出ていた。震えも止まっている。血色も良くなった。反対に、サイドミラーで自分の顔を確認すると、顔色が悪くなっているように見えた。
「私とアンタの役は、師匠のプレッシャーを肩代わりすることだよ」
「俺たちが師匠の代わりに舞台に立てるってことですか?」
「アホ。なわけないでしょ。師匠は落語界の重鎮の一人として、ご高齢にもかかわらず、日々沢山の仕事をこなしていらっしゃる。大師匠としての振る舞いや結果も求められる。そういった重責をまともに食らっていたのではいいパフォーマンスができない。だから、私たちが代わりに持って差し上げるんだよ」
「じゃあもしかして牡丹さんが普段何も持っていないのは」
「持っていないように見えただけだよ」薔薇さんが口を挟んだ。「牡丹は常にプレッシャーを抱えてるんだよ。しんどいよ、プレッシャーは増えるばかりでなかなか減らないし、こうして前任者が辞めたら次の人が入るまで一時的にすべてのプレッシャーを背負わなければならない。普通の荷物持ちや運転手の方がずっとマシだよ。私も一昨年まで『重責持ち』だったからよく分かる」
「アンタが入ってくれて助かったけどさ、死なない程度に頑張りなね」後ろから牡丹さんが手を伸ばして、俺の肩を叩いた。牡丹さんに触れられたせいで、俺がさらに必要以上にプレッシャーを肩代わりさせられているのではないかと感じた。
***
正面には岡田の写真が額縁に納められていた。
重責持ちとなってから半年ほどで、楽縁亭安々こと岡田はこの世を去った。原因は、プレッシャーによる心臓への負担、圧死だった。
江戸落語協会主催の大きな舞台でトリを務めることになった花々は、その多大な重責を二人に背負わせた。牡丹がつらそうな顔をする度、岡田はついつい「俺が持ちます」と率先してプレッシャーを持とうとした。しかし、手に持てる荷物と違って、男性の方が女性よりプレッシャーを持てると言えば、必ずしもそういうわけではない。
岡田が肩代わりしたこともあり、花々の本番まで何とか牡丹はプレッシャーを抱えきった。一方、岡田は耐えきれずに前日にとうとう押し潰されてしまった。稽古場で倒れた岡田には自力で起き上がる気力は残っておらず、搬送された病院で死亡が確認された。
なお、岡田が倒れたことにより、岡田が持ちきれなかった分のプレッシャーも結局牡丹一人で背負わないといけなくなったのだが、牡丹も本番終了直後に倒れてしまったという。幸い、臨時で薔薇が慌ててプレッシャーを抱えられるだけ抱えたため、一命は取り留めたということだ。