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与一の矢

作者: 蠍座の黒猫
掲載日:2020/09/07

時は文治元年(1185)年2月18日。

屋島の戦にて、この日の帰趨はすでに定まった春の夕ぐれ。

負け惜しみの戯れに平家のものが扇を立てた小舟を漕ぎい出、源氏棟梁を誘った。

的の扇は朱の塗りに金の日の丸。扇の小舟で美しき女房が手招きしている。

呼び出された那須与一は当年やっと十と五であった。

当てねば死である。当てれば誉である。

与一は、その白面を強張らせたまま、ざぶり、ざぶりと海へ馬を進めた。

ころあいに、平らな岩があり、そこへ馬を歩ませる。

岩の上、与一は馬上半身で、びたりと弓を構えた。

りゅうりゅうと引き絞る弦の音。

波が少し高い。夕風が与一の鬢の毛を揺らす。

右手、馬首の方から金色の陽が朗らかに射している。

静まり返る源平の武者ども。笑みを浮かべる平家の女房ども。

もはや、与一は覚悟を決めた。

与一は馬と弓とひとつであった。

波と的だけが与一の他にあった。


――扇の的は船の上で波に揺れ。

我と馬もやはり波に揺れ。

ただしそれとこれとは同じ波なれば。――


沖の船を揺らした波はやがてこちらへと打ち寄せる。

揺れてまた揺れている中のひとつきりの波を、凪の波を与一は待っている。

ひとつ、打ち寄せ……

ふたつ、打ち寄せ……

みっつ、打ち寄せ……

よっつ、いつつ、むっつ打ち寄せ。

名馬は乗り手のこころのままに揺れる。

的はただ波のまにまに揺れる。

与一もまた波に逆らうことなく揺れている。

ななつ、打ち寄せ……

やっつ、打ち寄せ……

ここのつ、打ち寄せ……

そして十の波のあと、ついにひとときの凪が訪れた。

ひょうと、与一の弓から鏑矢が放たれる。

その一矢が晴れた夕空へ高く、唸りを上げて昇っていく。

そこへ風が西から吹いた。

矢は流れたが、こんどは東風が吹いた。

与一は真っ直ぐ的を見つめている。

その視線に全く従うように矢は弧を描き落ちる。

ぶーんと、矢の立てる蜂の羽音のような音だけが響く。

的は動かない。風が止み、海が一瞬凪いだ。

矢と音が導かれるように的へ向かう。

戦場は水を打ったように静まり返っている……

がつと、矢が扇の要を砕いた。

朱地に金の扇がひらりはらりと晴れた夕空を舞う。矢は力尽き落ち、深く海の底へ沈んでいく。

どうと、歓声が上がる。

敵も味方もこの神業を褒め讃えている。

この騒ぎの中にあってさえ、与一は矢を放ったそのままの姿勢で、的のあった船を真っ直ぐに見つめていた。

与一の眼には、まだ扇の影が消えずそのままに残っていた。

緊張した場面は、クライマックスでもあり、とても凝縮されています。例えば、ジュエリー細工の場合、ダイヤモンドやルビー、サファイア、そして金、プラチナ、銀など、その材料と輝きの程度は誰しも知っています。しかし、だからこそその細工には精度とデザインが求められます。1/10mmの歪みもゆるされない精度には、視覚を超えた感覚が求められます。慣れた指先の感覚が、イメージに沿って滑らかに形を作るとき、そこに息が詰まるような感覚があります。それでいて、こころはどこまでも広い晴天へ昇るように自由です。己自身をすっかりと忘れて、そこには宝石と金属と工具の先と、完成イメージだけがあります。この感覚を文章にしてみました。息の詰まるような自由さを共有して頂ければ幸いです。

*9/8誤字訂正しています。本文中の「余一」→「与一」。2か所もあった……

*2020/10/18誤字訂正。(扇の)鼎→要

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