与一の矢
時は文治元年(1185)年2月18日。
屋島の戦にて、この日の帰趨はすでに定まった春の夕ぐれ。
負け惜しみの戯れに平家のものが扇を立てた小舟を漕ぎい出、源氏棟梁を誘った。
的の扇は朱の塗りに金の日の丸。扇の小舟で美しき女房が手招きしている。
呼び出された那須与一は当年やっと十と五であった。
当てねば死である。当てれば誉である。
与一は、その白面を強張らせたまま、ざぶり、ざぶりと海へ馬を進めた。
ころあいに、平らな岩があり、そこへ馬を歩ませる。
岩の上、与一は馬上半身で、びたりと弓を構えた。
りゅうりゅうと引き絞る弦の音。
波が少し高い。夕風が与一の鬢の毛を揺らす。
右手、馬首の方から金色の陽が朗らかに射している。
静まり返る源平の武者ども。笑みを浮かべる平家の女房ども。
もはや、与一は覚悟を決めた。
与一は馬と弓とひとつであった。
波と的だけが与一の他にあった。
――扇の的は船の上で波に揺れ。
我と馬もやはり波に揺れ。
ただしそれとこれとは同じ波なれば。――
沖の船を揺らした波はやがてこちらへと打ち寄せる。
揺れてまた揺れている中のひとつきりの波を、凪の波を与一は待っている。
ひとつ、打ち寄せ……
ふたつ、打ち寄せ……
みっつ、打ち寄せ……
よっつ、いつつ、むっつ打ち寄せ。
名馬は乗り手のこころのままに揺れる。
的はただ波のまにまに揺れる。
与一もまた波に逆らうことなく揺れている。
ななつ、打ち寄せ……
やっつ、打ち寄せ……
ここのつ、打ち寄せ……
そして十の波のあと、ついにひとときの凪が訪れた。
ひょうと、与一の弓から鏑矢が放たれる。
その一矢が晴れた夕空へ高く、唸りを上げて昇っていく。
そこへ風が西から吹いた。
矢は流れたが、こんどは東風が吹いた。
与一は真っ直ぐ的を見つめている。
その視線に全く従うように矢は弧を描き落ちる。
ぶーんと、矢の立てる蜂の羽音のような音だけが響く。
的は動かない。風が止み、海が一瞬凪いだ。
矢と音が導かれるように的へ向かう。
戦場は水を打ったように静まり返っている……
がつと、矢が扇の要を砕いた。
朱地に金の扇がひらりはらりと晴れた夕空を舞う。矢は力尽き落ち、深く海の底へ沈んでいく。
どうと、歓声が上がる。
敵も味方もこの神業を褒め讃えている。
この騒ぎの中にあってさえ、与一は矢を放ったそのままの姿勢で、的のあった船を真っ直ぐに見つめていた。
与一の眼には、まだ扇の影が消えずそのままに残っていた。
緊張した場面は、クライマックスでもあり、とても凝縮されています。例えば、ジュエリー細工の場合、ダイヤモンドやルビー、サファイア、そして金、プラチナ、銀など、その材料と輝きの程度は誰しも知っています。しかし、だからこそその細工には精度とデザインが求められます。1/10mmの歪みもゆるされない精度には、視覚を超えた感覚が求められます。慣れた指先の感覚が、イメージに沿って滑らかに形を作るとき、そこに息が詰まるような感覚があります。それでいて、こころはどこまでも広い晴天へ昇るように自由です。己自身をすっかりと忘れて、そこには宝石と金属と工具の先と、完成イメージだけがあります。この感覚を文章にしてみました。息の詰まるような自由さを共有して頂ければ幸いです。
*9/8誤字訂正しています。本文中の「余一」→「与一」。2か所もあった……
*2020/10/18誤字訂正。(扇の)鼎→要