フェイズ:08 「各世界の再編成」
一部ヨーロッパで使われている西暦で20世紀に入ろうとしている時期、ヨーロッパ世界の苦難と混乱の時代は続いていた。
当時ヨーロッパ世界では、西暦1878年から1908年まで断続的に続いた「ドイツ・ポーランド三十年戦争」による混乱が続いていた。
戦争は、世界初と言われる国際会議の「ヴェストファーレン会議」によって一応の終結を見るが、その後もヨーロッパ世界での戦乱は続いた。
戦争によってカトリック諸国は国力を消耗して没落し、イスラム教徒はバルカン半島とイタリア半島南部以外からは駆逐された。
この結果、海外進出にも成功していた新教国のイングランド、ブルゴーニュ、スウェーデンの勢力が増すことになる。
しかしスウェーデンはバルト海沿岸部を中心とした北ドイツ、ポーランド地域、旧ドイツ騎士団領域での勢力を拡大したため、国家としての努力を当面内政と近隣諸国となった国々に対して注がざるを得なくなる。
この中で、イングランド王国とブルゴーニュ王国による、ヨーロッパ及び大西洋での制海権を賭けた戦争が勃発した。
これが、1914年に始まった「イングランド=ブルゴーニュ戦争」だった。
同戦争はヨーロッパ近海及び北大西洋の制海権を巡る戦いのため主に海上を舞台として都合三度行われ、国力に勝るブルゴーニュ王国が押し切る形で勝利する。
以後ブルゴーニュ王国は、本国周辺部の領土併呑を続けながら、ヨーロッパ最強の国家として歩んでいく事になる。
敗北したイングランドは、ブリテン島への侵攻阻止に成功し、本国の制海権は何とか維持したので海外交易での生き残りを図ろうとするが、海外ではブルゴーニュ王国やスウェーデン王国だけが競争相手ではなかった。
また、「航海条例」を飲まざるを得なかったため、ブルゴーニュ王国の優位はいっそう進むこととなった。
20世紀前後のヨーロッパ世界全体が制海権を継続的に維持できる地域は、基本的にヨーロッパ近海と北大西洋全域、カリブ海の一部、そしてアフリカ大陸沿岸部程度だった。
貿易拠点としては、西アフリカ、カリブ海が完全な領域となる。
インド洋では、華南帝国の強引な進出のため小競り合いを中心とする戦争が続いた。
そして1898年に起きた「南アフリカ戦争」によって、ヨーロッパ人によって一度はケープと名付けられたアフリカ大陸南端部は、1902年には華南帝国の領する所となっていた。
この結果ヨーロッパ勢力は、インド洋に出る海の道をほぼ閉ざされる事になってしまう。
結果、ヨーロッパ世界の多くの努力が、イスラム世界の突破に向けられるようになる。
当時イスラム世界は、オスマン朝トルコが断末魔の悲鳴をあげていたのが、その呼び水となっていた。
オスマン朝はかつては先進性にも優れていたが、国家が長く続きすぎたため、国家としての腐敗、停滞といった状況が頂点に達していたのが断末魔の原因だった。
しかし巨大な国のまま末期的症状を示していたにも関わらず、ヨーロッパ世界を始めとして近隣諸国が簡単に手を出せる地域でもなかった。
オスマン朝の断末魔から新国家に向けての胎動は、基本的にイスラム世界(スンニー派)の出来事となった。
ヨーロッパ世界に出来たことは、依然としてオスマン(イスラム)の支配の続く南イタリア地域の奪回、バルカン地域、ウクライナからの出来る限りの駆逐と言うことになる。
また新たな国家が貿易統制を行わないように仕向ける事が、貿易上是非とも必要とされ、そのための干渉が実施された。
このため革命勢力の一部を武器や資金の面で援助する行動すら取られた。
とはいえ、やはりヨーロッパ世界がイスラム世界の再編成に大きな力を発揮すること難しかった。
イスタンブールを中心とするイスラム世界の再編成は、1918年に新国家の興隆ではなく革命という形で進行した。
この時のイスラム世界の再編では、基本的にトルコ中心という点が動かないのが特徴だった。
今までは別の地域から大きな王朝が勃興していくのだが、流通網、資本蓄積の問題などから、結局トルコ地域が中心となったのだ。
しかし他の経済や文化の中心地も革命の波に乗って自立や覇権を目指した動きを実施し、その結果エジプトは自主独立を確立し、ペルシャでも同時期に王朝交代が起きた。
しかも1925年に成立したパフレヴィー朝ペルシャは、シーア派イスラム世界の統合のために積極的に動き、チグリス=ユーフラテス川の同胞が住む地域の多くを、トルコから奪い取ることに成功していた。
もっともこれは、スンニー派の新国家がシーア派を支配することを嫌った結果とも言えた。
かくして、1923年、「ケマル朝トルコ」が成立。
トルコ、バルカン半島、南ウクライナ、中東主要部、アラビア半島、北アフリカの一部が参加した。
ケマル朝は、オスマン朝同様に多数の民族と地域を抱えているため、民族融和、宗教融和をオスマン朝に引き続き実施した。
そうした上で近世的中央集権国家を再編成し、強力な国家へと変貌していくことになる。
イスラムの教えの解釈変更すら実施して国の制度も大きく変更し、日本が暗中模索しながら導入しつつある近代的な政治体制を取り入れた、次世代の先進的な国家へと進みつつあった。
このためヨーロッパ世界は、再編成されて強大化したイスラム世界と向き合わねばならず、バルカン半島近辺、東地中海に面する国々は、その後多くの努力をイスラム世界に向けなければならなかった。
一方、ペルシャ以東のアジア世界では、主に海洋を舞台にして日本と華南が熾烈な制海権獲得競争に興じるようになっていたが、距離と規模の問題からヨーロッパが介入できる戦いではなかった。
二つの国を合わせた総人口はヨーロッパ全体に匹敵し、それが二つの中央集権国家のもとで争っていた。
しかも、それぞれの勢力圏が持つ国力や富の総量は、一国だけでもヨーロッパ全体を大きく凌駕するほどだった。
インド洋に最初に赴いた冒険家が言ったように、アジアは富みに溢れていたのだ。
そして富こそが力の源泉であり、巨大な海洋軍事力を作り上げた二つの国が、インド洋と東南アジアを主な舞台として戦い合っていた。
後世の歴史家が名付けた戦乱名は「第一次日南戦争」。アジア世界で歴史上初めての、アジア全体の海洋覇権を求めた戦いだった。
この上に距離の問題が加わる。
帆船が最高の交通手段だった時代、ヨーロッパと東アジアは基本的に干渉不可能なだけの開きが存在し続けた。
なお、この戦いで大東洋がほとんど舞台とならなかったのは、北大東洋一帯を日本が完全に押さえているため、補給の出来ない華南船が深く入り込めなかったからだった。
当然というべきか新大陸は、日本人のものであり続けた。
そして1868年に「大日本国」と改名した島嶼国家と1860年に成立した中華帝国らしくない名称を持った大陸国家は、以後100年に渡り断続的に戦うことになる。
このため「日南百年戦争」とも呼ばれる。
そして、東アジア全体が、東アジアの二大大国の影響を受けることになる。
一番に影響を受けたのは、東南アジアだった。
当時東南アジアには、半島部には国家の再編成を進めるシャム王国を始め、いくつもの国々があった。
しかしスンダ地域は、長年の日本の進出によって現地国家が大きく衰退していた。
また日本人が長年進出を続けていた呂宋諸島は、まともな国家が成立したこともない後進性もあってほぼ完全に日本人の領域となっていた。
また大陸の漢族にとって不本意だったのは、大陸近在の台湾島が日本人の領域であることだった。
このため東シナ海、大東洋では日本人の優勢がより強まっていた。
また東南アジア地域は、ここ300年ほどは日本人が、その前は漢族が多数移民して自らの拠点を各所に作り上げ、それぞれ日僑、華僑と呼ばれるようになっていた。
これも東南アジア、特にスンダ地域の衰退を強める要因となっていた。
それぞれがお互いの宗主地域との繋がりを強めることで、単に経済力を握るだけでなく、現地の植民地化を押し進めたのだ。
その最たる戦いが、「日南百年戦争」の一つの争点だった。
この戦いでは、華南がマラッカ海峡から日本人を追い出したが、日本人は人口の多いジャワ島に拠点を移して植民地化、文明化を進めることで対向。
また呂宋島から続く、スラウェジ島、モルッカ諸島、パプア島と環大東洋沿岸に押さえ続け、スンダ地域を華南帝国の二分するようになる。
しかし、日本人が東南アジアでの争いで実質的に負けたことは違いなく、日本人達はその先に延びるインドではなく、大東洋の向こう側の新大陸に努力を注ぐようになる。
また東南アジアでの争いに劣勢になったので、南の新大陸(「大南大陸」)に対してもようやく本気で目を向けるようにもなった。
こうした一種の棲み分けが進んだため、この時期の日本が植民地帝国と言われ、華南帝国が商業帝国と言われたのだった。
そして日本は、新大陸で産出される豊富な金銀を元手として自らの経済を運営して産業を発展させ、さらには日本列島で溢れる余剰する人々を各地の新大陸へと送り込んだ。
対する華南帝国は、国内で作った商品を売りさばき商業を発展させつつ、巨大市場であるインドへと進んでいった。
そしてこの時期、華南帝国が中華本土ではなくインドに進んだ原因が発生していた。
中華中央部に広がる大清国が、いよいよ倒壊を始めたのだ。
大清国は17世紀半ばに成立したので、約2世紀半続いた事になる。
中華王朝としては長命な王朝の方で、儒教的土地分配と人口増加などからも妥当な倒壊時期だった。
中華世界を完全に統一できず、北と南に脅威を抱え続けた事を考慮すれば、十分な及第点と言えるだろう。
しかし1894年にジュンガル汗国との戦争に敗北して、ついに属国としていた朝鮮王国の宗主権を失うと、一気に国家の瓦解が進んだ。
当時ジュンガル汗国は、日本などから積極的に技術、武器を輸入する事で、強力な軍隊とそれを支えるだけの国力を養うようになっていた。
国土も、ウラル山脈から東の全てを覆い尽くすほど広がり、シベリア奥地でも毛皮を求めて北の果てまで彷徨い歩いていた事を考慮すると、単純な領土面積はかつてのモンゴル帝国を凌駕する程だった。
国家としても騎馬民族だけでなく、近隣の農耕民族も受け入れていたので、かなりの人口を有していた。
そうした国が、中華世界の覇権を求める動きを始めたのだ。
つまり、中華の歴史上では「よくある事」だ。
そして大清国の実質的な統治者だった西太后が死ぬと、一気に動きを加速させる。
これが1904年に起きた「前七年戦争」だ。
戦争の名の通りこの戦争は7年間続き、1911年に大清国が崩壊して一旦は幕を閉じる。
ジュンガル汗国は、ついに万里の長城を越えて北京を占領し、黄河流域にその勢力範囲を広げた。
しかし、広大な領土と巨大な人口を持つ大清国も簡単には倒れず、首のなくなった巨竜となった国家の残骸は暴れ周り、事態は一時泥沼化。
そこに今度は、大清国と一応の不可侵の約束を交わしていた華南帝国が、交わした書面のことを無視して南から侵攻を開始。
対処できなかった大清国の残余は一気に崩れ、後は南北双方の中華系国家の征服競争となった。
そして両者は、取りあえず握手を交わすことで戦争終結のための話し合いを実施。
ここで大清国の消滅が宣言され、中華の大地に新たな統一王朝をおかずに、華南を名目上の中華国家として両者が並び立つことが約束された。
しかし翌年、ジュンガル汗国が自らの国号を改めることを発表。
ジュンガル汗国はモンゴル帝国、ラマ教の全ての権威を手にしたことでモンゴル帝国の正統な後継者であることを宣言し、1912年に「後元帝国」と改める。
歴史的には「後元」と呼ばれる国が興ったことになるが、これに華南帝国が激怒した。
それもその筈で、国号そのものが自らが中華王朝だと宣言しているに等しいからだ。
既に揚子江流域を押さえていた華南としては、これほど短期間に交わした約束が反故にされるとは予想しておらず、それだけに怒りは大きかった。
かくして、中華世界に一つしかない天子の座、中華王朝の座を巡って、大規模な戦乱が発生する。
これが1914年に勃発した「後四年戦争」だった。
戦争は、今までの中華王朝内での戦争と少し違っていた。
日本人達が、気軽に世界の海に出るようになり、中華世界にも簡単にやって来るようになっていたからだ。
海からの強大な干渉者というのは、中華世界史上で今までにない事だった。
また、大量の鉄砲、大砲といった火薬式前方投射兵器の存在が、戦争の短期化を促し、工場制手工業の発展、船舶を中心とする技術の向上が戦争の大規模化を促していた。
10万単位の兵団が各地で激突し、双方ともに百万を越える兵士達が戦った。
そうした戦争は、ヨーロッパ世界とは比較にならない規模と凄惨さだった。
後元と華南の戦争は、人口と経済力では華南が有利で、軍事力では後元が有利だった。
また日本人は、海外で華南といがみ合っていたので、全ての条件に合致する政策として、後元を軍事的、経済的に支援した。
本当に数十万の大軍が激突する激しい戦争が何度も起きたが、戦争の規模拡大のため、かえって決戦と呼びうる戦いで結果は出ず、両者の損害が山積みされた。
後元の龍騎兵(鉄砲騎馬)は強かったが、大砲、鉄砲が飛び交う広い戦場では決定打とならなかった。
華南の艦隊は強力だったが、日本人が邪魔をした事と沿岸部や大規模河川の一部以外では役立たずなので、こちらも後元を倒す力とはならなかった。
しかし大きな戦争は、中華中原を短期間のうちに荒廃させた。
流通網の混乱、戦争に連動した形での各種飢饉、戦闘による破壊と殺戮によって、中華中原では総人口の30%が失われると言われるほどの被害が出た。
現在の調査でも、死者の総数は1億人に達すると考えられている。
当然ながら、経済的損失も計り知れなかった。
そうして1917年に、日本が正式に華南帝国に対して戦争を始めると、日本は華南本国に対して大規模な海上封鎖作戦に出て華南を経済的に苦しめた。
その上で後元の大攻勢が実施され、華南はたまらず和平を呼びかける。
そして後元も大規模化しすぎた長期の戦争に耐えられないため、和平を受け入れる。
日本も、戦争特需で十分に儲けた上に華南の力を殺ぐことに成功したので文句はなかった。
それに日本としては、統一された中華世界よりも、分裂し対立している中華世界の方が都合がよいので、文句がある筈もなかった。
かくして1919年に「南京会議」が実施され、ほぼ現状で国境が確定する。
後元帝国の名も名称だけは認められる事になった。
その後後元帝国は、かつてのモンゴル帝国同様に中華世界の統一は一旦棚上げし、中央アジア、ロシアに対する攻勢を強めるようになる。「南進」と「西征」は、これ以後後元の伝統的政治目標となっていく事になる。
一方の華南帝国は、こちらもかつての南宋同様に貿易の促進による経済力強化に勤しむようになる。
大砲、鉄砲、帆船といった新技術が使われるようになっても、巨大すぎる中華世界の戦争では、まだ大きな変化を与えるほどの力はなかったのだ。
そして中華地域の再編成を見た日本人達は、まだまだ中華の分立が続くことに安堵し、自らの歩みを進めることになる。