表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

フェイズ:05 「東西の競争」

 西暦19世紀前半、地球が球体であることが人の往来によって証明され、いち早く世界進出を実施した日本人と一部ヨーロピアンが地球各地で接触を引き起こした。

 またユーラシアと大東大陸の接触も起きた。

 このため、この時代のことを「大接触時代」と呼ぶことがある。

 

 そうした中で、東アジアからもう一国のゲームプレイヤーが出現する。「後明」王国だ。

 


 「後明」王国は、17世紀半ばに滅亡した明王朝の末裔のうち、中華地域南部で辛くも生き延びたも人々を新たな始まりとしている。

 とはいえ、18世紀初頭に大清国の封策(属国扱い)を受ける形で生き延びたため、王朝でも帝国でもなく中華世界での中華王朝の属国であることを示す「王国」であった。

 扱いとしては、朝鮮王国と似たような状態だった。

 

 だがその宗主国となるべき大清国は、ユーラシア大陸北部一帯に広がったジュンガル・ハン国によって北と東から常に軍事的に脅かされる、騎馬民族由来の国家らしくない中華王朝だった。

 主に北から軍事的脅威を受けるため、南の政策については疎かにならざるを得なかった。

 このため「後明」王国が、辛くも生き残ることが出来たといえるだろう。

 また、東アジアの新たな雄であり東の海の向こうにある日本に対しては、彼ら(大清国)の欲しい物産(海産物の乾物、銀)の輸入先という以上には考えていなかった。

 

 そして内政安定のために「海禁(=鎖国)」している大清国にとって、意外に不足する物産が見られた。

 国家の生存のために必要なものでないので死活問題ではなかったが、あるに越したことはない物が多く、しかもこの時代の交易で手に入れることが可能な物ばかりだった。

 

 このため中継貿易先として、明朝での琉球王朝のように「後明」王国が使われるようになる。

 18世紀に入ってからの広州は、中華世界の一大貿易拠点となり、中華系漢族の商人が広州からアジア世界へと船出していった。

 また、日本商人、インド商人、イスラム商人が頻繁に立ち寄るようにもなった。

 そして交易によって力と技術、さらには外交力を蓄えた「後明」王国は、徐々に大清国から自立する向きを強め、18世紀の終わり頃には事実上の独立を勝ち取るまでに至っていた。

 人口飽和状態によって中華王朝の末期的症状を示しつつある大清国は、「後明」王国の行動を止めることが出来なかった。

 止めるべき官僚や宦官も、膨大な賄賂ですっかり籠絡されていた。

 しかも「後明」王国は、表向きは臣下の礼を取って封冊体制下にあることを示し続けているため、皇帝が具体的行動に出たくても出られなかった。

 

 そうした所に、一大転機が訪れる。

 

 日本人とヨーロッパが世界各地で接触し、日本人達は大東大陸(アトランティス大陸)での圧倒的優位を獲得した事が契機だった。

 そしてさらに、日本人達が新大陸の南北二カ所で、かつての石見銀山に匹敵する超巨大銀山を見付けることで、アジア経済が一変した。

 西暦にして1830年代のことだ。

 


 それまで金=銀交換比率は、16世紀で1対14、17世紀初頭は1対10程度だった。

 しかし日本人がユーラシア北東部の金を掘って回った事で、18世紀中頃には1対4にまで落ちていた。

 アジア経済が銀本位制とでも呼ぶべき状態なのは、ある意味常識的な状況だったのだ。

 

 ところが1830年代以後になると、毎年300トンもの今まででは考えられないほど大量の銀が、毎年東アジア世界にもたらされるようになると、半世紀の間に交換比率は1対10にまで広がってしまう。

 

 織田家の家紋の入った石山幕府の「宝物船団」は、強固に武装されているにも関わらず、世界中の海賊、私掠船の対象とされるほどで、溢れかえる銀で日本は一大繁栄期を迎えていた。

 当然その莫大な銀は、主に日本商人の手によって東アジア世界にも濁流となって押し寄せた。

 ヨーロッパ勢力は大東洋に足場がないため、ほぼ全ての銀が東アジア世界に注がれた。

 

 この場合問題だったのは、当時の日本が基本的に「金本位制」と呼ぶべきほど金を重視していたのに対して、中華世界が「銀本位制」と呼ぶべき状態にあったことだ。

 織田家を中心とする石山幕府と大清国の貿易でも、日本の銀と中華の金が交換されることがたびたび見られた。

 

 このため日本人達は、突如出現した無尽蔵な銀を使って、主に中華世界から金を買い上げ、自分たちの経済的均衡を何とか取ろうとした。

 ここに国家戦略は殆ど無かった。

 経済の原則だけがあった。

 

 そして莫大な銀の奔流は、中華経済を大混乱に陥れる。

 

 当初は、大量の貨幣(銀)によって貨幣流通量が激増し、経済が大いに発展したことを喜んでいた中華世界だったが、10年もすると大清国にとっては由々しき事態となっていった。

 1835年には、大清国は突如日本との貿易停止を宣言し、日本や後明の猛抗議にも関わらず日本を中華世界から締め出してしまう。

 当然日本人は怒り狂い、突如天文学的となった経済力で自らの軍備増強に走り、東アジア中に銀をばらまいて自らの味方作りをしていった。

 中でも多くの銀と日本製の武器が、当時ユーラシア奥地からヨーロッパを伺っていたジュンガル汗国にもたらされた。

 

 東アジア世界は、たった数年で中華世界とそれ以外という構図に分かれ、大清国と石山幕府(日本)の関係は急速に悪化。

 ついに、西暦1840年には「金銀戦争」とも言われる「日清戦争」が勃発する。

 


 「日清戦争」は、圧倒的と呼べる水軍(海軍)を建設するに至っていた日本が制海権を握っていたため、主戦場は中華沿岸となった。

 しかし海洋国家である日本の陸上戦力は大清国に対して劣勢で、多少の武器の優位を若干持っている程度では本格的な侵攻が出来るほどではなかった。

 この頃には、大清国も火薬兵器を持つようになっていたからだ。

 このため日本軍の攻撃は、主に海賊行為、沿岸、河川都市の破壊と攻撃となった。

 この中で「後明」は、両国に話を付けて事実上の局外中立の立場をとり、両者の利益を肩代わりする事で大きな利益を上げていった。

 

 そして戦争が膠着すると、日本は莫大な援助を送ったジュンガル汗国に参戦を求め、中華世界を含んだ「モンゴル帝国」の復活という野望を持っていたジュンガル汗国は参戦に応じ、戦争は1848年に「中華戦争」へと拡大する。

 

 そして、イスラム、ヨーロッパ世界からもたらされた火薬式前方投射兵器、つまり大砲と鉄砲が急速に普及、発展して戦争へと続々と投じられるも、戦争はむしろさらに泥沼化していった。

 

 中華世界は、方々からの侵略によって大きく荒廃する事になるも、戦争中はジュンガル汗国が「後元国」とでも呼ぶべき国を復活させることはできず、日本人も東アジアの制海権を得る以上の事はできなかった。

 

 そうして戦争は、初期の頃以外は締まりのない状態で断続的に続いてしまい、1860年にようやく各国の合意によって終戦。

 戦争の結果、中華世界の中型船が入り込める場所の殆どが日本人の手によって壊滅的打撃を受け、北部はジュンガル汗国との陸戦が各所で発生し、こちらも大いに荒廃した。

 大清国の総人口も、戦争による経済の破壊と搾取、流通の滞り、コレラ、インフルエンザの流行により10%から15%も減少した。

 当然だが、大清国の経済は破綻寸前にまで追い込まれ、これが大清国から戦争終結を呼びかけさせる切っ掛けとなっていた。

 

 新大陸からの銀の奔流と「中華戦争」は、新時代の「北虜南倭」となったのだ。

 

 以後、大清国の国力は大きく衰退し、この時「後明」王国は諸外国の承認を得る形で正式な独立を獲得。

 1866年には「華南帝国」と国号も新たにする。「華南」と国号を漢字二文字とすることで、大清国よりも名目上下位に立つ国とされるが、日本同様の完全な独立国だった。

 

 一方ジュンガルも国号を「後元」として、埒のあかない中華世界に半ば見切りを付けて、当時勢力を拡大しつつあったウラル山脈の向こう側にいる白人(ロシア=ロシア大公国)への挑戦を始めるようになる。

 

 こうして完全な独立を獲得した華南帝国は、日本から様々な方法で手に入れた技術で大船団を作り、世界各地の海へと乗り出すようになった。

 主な進出先は、インド方面。

 大東洋と新大陸では日本人に大きすぎる遅れを取ったため、巻き返しが可能で、かつ市場としても有望なインドへ活路を見いだしたのだった。

 また南太平洋への進出も強め、日本人が「大南大陸」と既に命名していた南の乾いた大陸にも熱い視線を注ぐようになっていた。

 

 こうして東アジア世界では、新たに強力なゲームプレイヤーが増えることになる。

 華南帝国は、日本並の人口規模、経済規模を有する大国であり、インド及び東アジアへの進出を図ろうとしていたヨーロッパ勢にとって強敵の出現となった。

 日本と華南を合わせた本国の総人口は、約9000万人。

 大清国を除いても、当時の全ヨーロッパの7割以上の総人口とそれ以上の国力を有していたことになる。

 周辺地域の人口と経済力を合わせれば、ヨーロッパ以上だった。

 


 一方、19世紀中頃のインドでは、ブルゴーニュ王国、石山幕府、後発のスウェーデン王国と華南帝国が主に経済的進出を果たしていた。

 そしてインド洋交易では、外洋帆船での効率的な航海の為に環インド航路を手にすることが重視された。

 

 東端の拠点となるスンダ諸島ジャワ島のジャカトラは日本が、インド洋中央部のセイロン島はブルゴーニュが押さえて、互いに経済的協力関係を結ぶことで初期の優位を作り出した。

 また日本人達は、スンダ各地(特にモルッカ諸島)の香料独占を図り、新大陸で得た莫大な銀を財源とした大艦隊と大船団による商業進出によって、極めて優位な立場に立っていた。

 しかも日本の場合は、ヨーロッパの一部地域と違って、造船、船員の調達、経済の全てを日本列島で賄っているため、当時のヨーロッパ諸国に対して大きな優位を得ていた。

 この事は、後発組の華南においてもほぼ同様だった。

 国内の大人口とそれに似合うだけの経済力が、東アジアの優位を作り上げていたのだ。

 

 そして日本人が手にした巨大な銀の奔流は、徐々に東アジアからインド洋へとなだれ込みつつあり、ヨーロピアン達が香辛料の主な対価として持ち込んだ銀の価格は大きく下落していった。

 このため、ヨーロッパ船がせっかくイスラム世界を介さずに香辛料を手に入れに来ても、価値が半減してしまっていた。

 

 しかもインド、東南アジアでは、日本人はもちろん日本人以外の東洋人商人の数が急速に増えつつあり、傭兵や軍隊、軍艦や武装商船、そして私掠船の数も増えつつあった。

 しかもヨーロッパに対する場合は東アジア人同士で連携する向きが強く、日本、華南連合がインド洋を徐々に覆い尽くしつつあった。

 

 この劣勢をヨーロッパが挽回するには、経済的優位を獲得することが一番であり、多くのヨーロピアンが新大陸での「積極的な」行動を考えるようになっていた。

 


 そしてその新大陸だが、大東洋側をほぼ全て押さえる日本の優位が続いていた。

 

 半ば形式上だったが、新大陸の大東洋岸は全て日本の領有宣言が行われていた。

 交通の十字路に当たるパナマ地峡も日本人のもののため、カリブ海にまで日本人が入り込み始めていた。

 新大陸南端も間宮海峡と命名され、大西洋側にも入ってきていた。

 しかも、距離の不利があるにも関わらず、日本人の数が多かった。

 どこに行っても、織田家の家紋が翻っていた。

 大東洋側には、無数の日本人入植地も切り開かれつつあった。

 

 旧アステカ帝国も、「飛鳥・東大和国」と名を変えて、日本の幕府による直轄地となっていた。

 南大陸では、約四半世紀続いた戦争によって、アンデス山脈地域のほぼ全てと「銀江ギンコウ」と名付けられた大規模河川、その周辺部の温帯平原一帯の領有宣言が出されていた。

 この地は、アンデス山脈から河川交通の拠点としても活用され、名称も銀を運ぶ船からきていた。

 

 旧インカ帝国の残骸に対しても「印加」という名が与えられ、こちらは一部の諸侯(主に薩摩藩(島津家))が入った形で、広大な日本領とされていた。

 パナマ地峡にも大量の労働者と奴隷を動員して巨大な拠点が建設され、そこからカリブ海、南の新大陸沿岸へと広がりつつあった。

 

 しかも新大陸に至った日本人達は、既に何カ所も入植地を切り開いていた。

 北大陸西岸中央部の肥沃な平原地帯、同北西部の平野部、さらにはミシシッピ川中流域の南部、ミシシッピ川河口部、カリブ海の一部、南部の大平原、様々な場所が幕府の命令により各藩の進出が進められている結果だった。

 そして日本列島が人口飽和に達していた事が、日本人社会全体で移民を後押ししていた。

 日本人の奔流は、日本で大飢饉と経済危機が発生した1836年に一気に巨大なものとなり、以後北大陸西岸中央部は開拓地であるばかりでなく、日本人の策源地にすらなっていく。

 

 そうして大東洋で運行される船は、行きは日本列島で各種加工製品と移民を乗せ、帰りの船で銀と新大陸の特産品を載せた。

 

 また日本人達は、鉱山の開発を日本や日本の近辺で行われたのと同じ方式を取る傾向が強かった。

 同じ方式とは、日本人達が直に赴いて採掘する事であり、また原住民に自分たちの採掘方法を教えて掘らせる事だった。

 ヨーロピアンが一部で行っていた、原住民を使った、場合によっては奴隷労働による強制的な採掘は、規模と距離に対してあまり使われていなかった。

 日本人にありがちな、凝り性や玄人好みの発露とも言えるだろう。

 

 なお、新大陸での日本人の数は、1850年の段階で既に10万人を越えていたと考えられている。

 対する当時のヨーロピアンの数は、百分の一にも満たない。

 


 一方のヨーロッパ諸国だが、イングランド王国が北大陸東岸の一部に入植地を開いていたが、まだ気候的に厳しい事もあって、あまりうまくいっていなかった。

 しかもイングランド本国は、日本のように人口が飽和しているわけではないため、あえて新天地に旅立とうという農民が少なかった。

 加えて言えば、1860年頃までは地球全体でやや寒冷な気候(小氷期)が続いていたため、高緯度での農業移民が極めて難しいのが現状だった。

 このためイングランドは、何度か入植を行うも全て数年で失敗に終わっている。

 

 最初の成功例とされるのは、1870年に宗教弾圧にあった清教徒達が後にボストンと呼ばれる場所への移民だったが、この入植も農業に不向きだったため一年で半数近くが命を落としている。

 それでもこの時期には、地球全体が温暖化のサイクルに入っていたため、その後は少しずつ入植が進んでいくようになる。

 

 19世紀の前半で日本人が成功したのは、ほとんどが温暖な場所を選んでいたからで、日本人も大東洋岸北西部への入植事業は、ヨーロピアンと同様にあまりうまくいっていない。

 


 南大陸の南岸の占有権を主張していたスウェーデンも同様で、しかもスウェーデンが最初に発見した地域は亜熱帯系の乾いた気候で、農業に不向きなうえに原住民も農業を知らないほど遅れた民のため奴隷としての価値も低かった。

 とりあえずヨーロッパ世界に対して領有権を主張し、軍事拠点、航路拠点を作る程度のことしか行われなかった。

 

 このためスウェーデンも、イングランドと同様に北大陸の東岸に入植地を開き、実質的な一歩を記す事になる。

 少し遅れてブルゴーニュ王国も新大陸にやってきて、北大陸の沿岸、聖ロレンス川流域に入植地を切り開いていた。

 

 カリブ海では、ヨーロッパ諸国による優位が続いていたが、言ってしまえばそれだけだった。

 ヨーロッパ諸国が望んだ、日本人の有する銀山を奪い取る事は簡単に叶う状況ではなかった。

 しかもパナマから徐々に日本人の勢力がカリブや大西洋に広がりつつあった。

 

 銀の産地のある飛鳥、印加共に日本人鉱夫を中心とした数多くの日本人が住むようになっており、最低でも数千の日本人が滞在していた。

 既に現地との混血児も多数生まれるようになっており、各地の新大陸文明の上に日本人の文明が上書きされつつある状態だった。

 日本から送り込まれた軍隊(屯田兵含む)も多数駐留していた。

 

 しかも日本人達の軍事力、科学技術は、ヨーロッパとほぼ同じだった。

 軍艦、大砲、鉄砲など各種武器の差もほとんどなく、新大陸人のように疫病で倒れる比率は白人とほぼ同じだった。

 そして上記したように、数において日本人が優位だった。

 加えて東の海からは、華南の人々も新大陸の富みにつられて流れ込み始めており、数の優位はますます白人の手からはこぼれ落ちつつあった。

 

 これは1840年から1860年にかけて「日清戦争」「中華戦争」が行われている間も、大きな変化はなかった。

 軍事力については、技術面で大きな進歩と発展が見られたほどだ。

 

 同時期の前後は、日本(石山幕府)そのものの体制が大きく揺らいだ時期でもあったのだが、日本社会そのものは急速な拡大を続け、軍事力、軍事技術でもヨーロッパ勢力を凌駕していたからだ。

 特に日本が重視した制海権維持のための艦艇建造能力は、格段の進歩を遂げている。

 しかも大東洋という世界最大の海洋を踏破するため、船の建造技術が漸進と改善そして向上が続いていた。

 積載量1万石どころか2万石(約3000トン)に達する「大名船」や、最高速力15海里ノットに達し高い航海性能を有する「天馬船」は、その後世界の列強がこぞって真似ることになる優秀な船だった。

 この頃には、日本船の帆もヨーロッパ、イスラム世界同様の形態に変化していたので、時には日本がヨーロッパを全て模倣したと非難に近い評価を受けることが多いが、事実は違っている。

 日本人達は、ヨーロッパとの接触から僅か四半世紀でヨーロッパ、イスラム世界の優れた技術をものにして、それ以上のものを産み出すようになっていたのだった。

 だからこそ世界の海と新大陸での優位を維持し続けられたと言えるだろう。

 日本人の優位は、湯水のような銀だけがもたらしたものではなかったのだ。

 


 しかも西暦1848年、もう一つの巨大な幸運が日本人の上に訪れる。

 

 「銀極楽」に続く「黄金祭」の到来だ。

 

 場所は、北大陸西岸中部(現在の加州)の当時中規模な開拓村だった櫻芽村の郊外。

 ここで日本人の山師達が、小川の底できらめく黄金の輝きを見付けたのが始まりだった。

 

 この結果、日本人、華南人を始め、大勢の人間が黄金を求めて新大陸に殺到することになる。

 

 二ヶ月で大東洋を渡る過酷な航海もなんのその、幕府の統制も半ば振り切るように続々と人々が新大陸に押し掛けた。

 発見から最初の三年が経過する頃には、現地の奉行所による統制が作られるほどの人が押しよせた。

 しかし押しよせる人の数に対して、黄金の量は尽きないほど豊富だった。

 このためその後も「黄金祭」は、御用商人達による金鉱の開発が本格化してもまだ続いた。「黄金祭」は、徐々に川などでの砂金拾いから周辺での鉱山採掘へと移行していったが、足かけ10年続くことになる。

 その間に10万人と言われる人々が新大陸へと足を運び、日本の新大陸でのアジア優位を一層確かなものとする大きな切っ掛けとなった。

 年平均1万人もの人が大東洋を渡り、その後の大東洋航路を広げる大きな切っ掛けにもなった。

 

 そして何より、日本経済の根幹とされていた黄金が大量に見つかったことで、東アジアの経済は一層活発なものとなり、日本そして東アジア世界が貨幣による優位をより一層強める結果となった。

 

 この時櫻芽で見つかった黄金は、初期の砂金堀で約350トン。

 その後100年間の間に1000トンに上ると推計されている。

 最初の十年は毎年30トン以上、それ以後も毎年10トンの黄金が市場に供給された。

 これは当時の新大陸で見つかった全ての銀に匹敵する価値であり、当時も現在進行形で進んでいた銀の価格下落を再び押し戻すことにもなった。

 


 なお、19世紀前半から以後100年の間に、約1万5000トンの銀、約1400トンの金が、日本人社会を蛇口として世界中に奔流となってあふれ出すことになる。

 この結果、東アジアだけでなく、インド洋、イスラム、そしてヨーロッパでも貨幣流通量の増大とそれにともなう商業の活況、さらには価格革命と呼ばれる経済発展を呼び込むことになる。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ