フェイズ:03 「世界の接触:東洋と西洋の出会い」
西暦16世紀から19世紀にかけて、ユーラシア大陸の主要な地域では中世的もしくは近世的な世界が緩やかに続いていた。
ヨーロッパ世界では、自分たちの文明停滞の責任をタタール、つまり13世紀半ばのモンゴル帝国の侵略とその後の支配に求めることが多い。
モンゴル人がヨーロッパ中心部を侵略、支配したため、その後の発展と拡大が大きく阻害されたというのだ。
しかし同様に、モンゴル人の侵略を受けた中華地域、イスラム世界では、それぞれその後に強大な世界帝国が出現している。
しかし一方では、イスラム世界の世界帝国であるオスマン朝トルコの影響が、ヨーロッパの発展を阻害したと言われることもある。
実際、ドイツ中心部とポーランド主要部は、16世紀末までオスマン朝の領土だった。
19世紀に入っても、旧オーストリア、ハンガリー地域以南のバルカン半島のほぼ全域がオスマン朝領だった。
ロシア大公国が勢力を拡大しつつあるルーシでも、ウクライナは依然としてオスマン朝とその属国が押さえていた。
地中海の制海権もイスラム教徒が握っている場合が多く、多くの面でヨーロッパ世界は劣勢であり続けた。
しかしヨーロッパ世界は、いつまでも停滞を続けている訳ではなかった。
イスラム世界からの技術吸収と独自の改良は、少ない人口と資本の中で地道に続けられ、徐々にではあるが少なくない成果を出すようになっていた。
農業革命(※複合農業の発明と普及)も北海沿岸の国々で始まり、人口増加も上向きとなっていた。
そうした頃、オスマン朝の緩やかな衰退に伴って、ヨーロッパ世界に回ってくる香辛料などインド洋からやって来る物産が減少するようになる。
オスマン朝が衰退して内部腐敗が進んだため、流通が滞ると共に中間搾取が増えて、約200年ぶりに香辛料などの価格が暴騰していった。
この事を憂慮したヨーロッパの人々は、自力での香辛料獲得を画策するようになった。
そのための準備も、数百年間の漸進の間に少しずつではあるが進められていた。
主なところで、船舶の改良、羅針盤などの新規技術を用いた航海技術の進歩、火薬兵器による軍事力の強化が主なところとなるだろう。
多数の船を遠方に出すための資本力も、ようやく持てるようになっていた。
国力の指標の一つとなる人口も、各地でかなりの伸びを見せていた。
では、この頃の世界を少し見てから、「大接触時代」と言われた時代を追っていきたいと思う。
まずはヨーロッパだが、先にも書いた通りオスマン朝の勢力は、衰えつつもヨーロッパ中心部にまで残っていた。
しかし、イングランド王国、スウェーデン王国、ブルゴーニュ王国と言った経済的に進んだ国々が出現して、主にこれら三国が海外への経済的な膨張を始めようとしていた。
100年ほど前ならイスパニア王国も数えてよかったのだが、イスパニアはイスラムの攻撃を矢面に受け続け、さらに教皇領を守るために国力を消耗した末に、大きく衰退していた。
フランス王国も似たようなもので、イスパニアと同じく教皇領をイスラムの脅威から救うために国力を消耗し尽くしていた。
そしてカトリック諸国の消耗の上に、新教国三国の商業的発展があったとも言えるだろう。
最初にアフリカ大陸を周回してインド洋に出ようとしたのは、ブルゴーニュ王国だった。
フランドル地方からライン川にかけて大きな拠点を構えるようになったブルゴーニュ王国は、ヨーロッパ経済の中心地に存在する非常に裕福な国家だった。
とはいえ裕福さの度合いは、オスマン朝やアジア世界に比べると小さな規模でしかないため、長らくヨーロッパ世界に閉じこもり続けてもいた。
しかしようやく外へ出るだけの力と利器を備えるに至り、豊富な資本、優れた技術を背景として、喜望峰と後に名付けられるアフリカ最南端を目指した。
では、ヨーロピアンが海を使ってまたごうとしたアフリカは、この頃どうだっただろうか。
アフリカは人類発祥の地でありながら、地形、気候、住民の気質や習慣のため、世界でも発展の遅れている地域とされていた。
特にサハラ砂漠以南の地域では、大規模な国家や王朝はほとんど成立していない。
また、巨大宗教の誕生や広範な伝搬を見ることもなかった。
技術的産物も、石器時代以後見るべきものが発明されたとは言えないだろう。
それでも18世紀末の頃、サハラ砂漠以南の地域には幾つかの国家が各地に点在していた。
サハラ砂漠中心部にあった「ボルヌ王国」は、アフリカ西岸とイスラム世界をサハラ砂漠を使った中継貿易で栄えた国で、一部イスラム化され、黒人とは言い切れない人種による国だった。
どちらかと言えば、「砂漠の民の国」という方が印象としては近いだろう。
そしてアフリカ西岸のニジェール川河口部のアフリカ随一の大人口地帯に、「ベニン王国」が存在した。
ニジェール川というアフリカでは希な巨大交通網を有するため、他にも国家とは言えない規模の国が多数存在していた。
黄金(砂金)や岩塩、場合によっては他民族の奴隷を商品として、イスラム世界と商業的な繋がりを持っていた。
そして以上三国は、イスラム世界との繋がりを持っているため、イスラム世界の優れた文明をそれなりに有していた。
文字や数字はもちろん、農業、家畜、各種金属器、酒を造るアランビク(蒸留機)、そして一部は火薬を有していた。
ただし、アフリカ諸国は親族重用を主な原因とした古い政治的弊害で内紛が絶えず、巨大で集権的な国家が出現する可能性がまだまだ低かった。
また自然崇拝以外での宗教がないため、社会的な発展の阻害も続いていた。
自然現象の為、ユーラシアの穀物や家畜の到来も限られていた。
さらに言えば、温帯以北の地域に比べて「働く」という事に対する考え方が、悪く言えば旧態依然としすぎていたため、優れた農業社会、産業文明、そして巨大産業を基盤とした巨大国家の出現が起きる気配に乏しかった。
当然ではあるが、優れた技術的産物を自ら生産する力は持たなかった。
アフリカの後進性を、交通網が発達できない地理環境と疫病に求めることも多いが、それ以外にも問題は山積みだったのだ。
そうした中での例外の一つが、アフリカ東部の高原地帯に広がる「エチオピア王国」だった。
同国は、アフリカ唯一のキリスト教国であり、同じ場所でずっと同じ王朝が続いている希有な地域でもあった。
遙か昔から、農業も盛んに行われている。
ナイル川、紅海、インド洋を通じてサハラ以北の世界との繋がりもあり、世界的にはユーラシア世界と隣接してもいた。
またインド洋を通じて世界とつながっていたのが、アフリカ南部東岸に存在する「モノモタパ王国」だった。
同国は、インド商人、イスラム商人が交易に立ち寄って様々な文物をもたらすため、サハラ砂漠以南でも屈指の文明が存在する地域だった。
ただし、イスラム商人の影響が強いため、アフリカ固有の文化を持つ国家と呼ぶには弊害も多い。
なお、モノモタパ王国を中心にして、東南アジア地域の根菜が農作物として入ったため、アフリカ東部にこれらが広まり、新たな国家、文明の勃興の苗床を作る役割を果たしている。
適切な農作物さえあれば文明の発展が促されるという典型例だった。
そうした地域の一つである、同地域の奥地にあるルワンダ地方は農業に非常に適した高地地帯のため、高度な集約的農業による高い人口密度を実現していた場合もあった。
とはいえ、自力で文明を構築するにはまだ時間がかかる状態であり、独自に産み出されたのは石造文明に止まっていた。
金属の加工も青銅止まりで、鉄器については遠方の商人達からの輸入に頼っていた。
なおモノモタパ王国にインド洋の商人達がやって来た理由は、同地域で産出される黄金のためだった。
これはアフリカ西岸とも似た例であり、商人が求めそして持ち帰られる黄金こそが、人を遠隔地へと行かせる何よりの原動力だったと言えるだろう。
それ以外だと、コンゴ川河口部に王国と呼べる規模の社会が存在したりしたが、ほぼ全てが他の地域から断絶に近い状態にあるため、国家として存在したとしても原始的な国家でしかなかった。
以上が、18世紀末頃のアフリカの現状であり、ヨーロッパの人々が船で同地域を横断しても、人為的な障害はほとんど無かった。
上記したような一部例外も、経済的対価を出せば素通りさせてくれる程度の地域ばかりだった。
このため18世紀末に、ヨーロピアン達は航海以外で大きな苦労もなく、アフリカ大陸南端へと到達することに成功する。
19世紀初頭、ついに東西が出会うことになる。
ブルゴーニュ王国から香辛料を求めた大船団がインドへと旅立ち、厳しい航海の中で数を減らしながらも、1805年遂に自力でインドに到達する。
到着先はインド半島南部、マイソール王国の貿易港コーチン。
主に用いられたのは、「カラック」と呼ばれる竜骨と複数に分かれた船倉、多数の楼と帆(+滑車)を持つ船で、平均的な排水量は200トン(約1500石)程度だった。
最初23隻の大船団で出発するも、長い航海の中で脱落が続き、インドまで無事にたどり着いたのは約半数の12隻に過ぎなかった。
喜望峰と名付けられた大西洋とインド洋の境界線となる場所が海の難所であり、ここで多くの船が犠牲になっていた。
そして多くの犠牲の末にたどり着いたインド世界は、物産と人に満ちあふれていた。
彼らが望んだ香辛料も、信じられないほど安価で取り引きすることが出来た。
そしてそこで香辛料を取り引きした商人の一部が、ヨーロピアンの知るどの言葉とも違う奇妙な言葉を話していた。
そう、ユーラシアの東の端に住む日本人の姿もそこにあったのだ。
ユーラシアの東の端と西の端との出会い。
つまり「大接触」の歴史的瞬間だった。
モンゴルとイスラムによるヨーロッパの停滞、東アジアでの漸進の双方の結果が、インドでのユーラシア両端の民族の出会いとなったのだ。
そしてここでブルゴーニュ人と日本人は、現地の通訳を何人も介する事で互いの存在を認識し、世界の広さを痛感する事になる。
この時ブルゴーニュ人は、伝説上でしか伝えられていなかった進んだ文明世界が東アジアにあることを知った。
各種香辛料以外にも、お茶、陶磁器、上質の絹、インドの綿布 (キャラコ)などの存在を知ることになる。
一方の日本人は、ブルゴーニュ人よりも受けた衝撃は大きかった。
既に日本人達も、イスラム世界(オスマン朝トルコ)から火薬を用いた新兵器の存在を知り、石山幕府も個々人に勝手に作られるよりはと、自らが音頭をとる形で開発と自力生産を開始していた。
主な用途は戦争のためではなく、海の上や海外の港湾都市(日本人町)は危険が大きいため、護身用に装備、搭載するためだった。
日本人が革新的な火薬式兵器を知識として知ったのは、イスラム世界へと商人が足を運んだ18世紀初頭だとされる。
ブルゴーニュ人と邂逅した日本人達の商船にも、既に複数の新式大砲が自衛用として搭載され、鉄砲を持った用心棒が乗っていた。
この時の日本人にとって驚きだったのは、ブルゴーニュ人の船そのものにあった。
自分たちの外航用大型船よりかなり小さいながら、分厚く丈夫な帆布、多数の優れた滑車を用いた合理的な機構、強固で合理的な船体構造、複数の船倉、どれも衝撃だった。
また最初の接触ではなかったが、ブルゴーニュの船長が有する改良された羅針盤の存在も、日本人には大きな衝撃をもたらしていた。
既に多くの技術の基礎を自分たちのものとしている日本人としては、知ってしまえば「何だそんなことか」という事が殆どだったが、漸進と改善を旨とする日本人にとって、ヨーロッパ世界の革新的発想は思考の埒外の事だった。
だが理解できるだけの知識と素養は持っていたので、すぐにも模倣と技術の習得が開始された。
また日本人、ブルゴーニュ人双方が、両者の等価での情報交換で航路を教え合い、交易を活発なものとしていく事になる。
日本人、ブルゴーニュ人が手を携えたのは、イスラム商人、インド商人、漢族商人を介さず、自分たちだけで大洋の交易を独占すれば、巨大な利益が得られると考えたからだ。
対抗国の間では、この時の握手を「魔王と悪鬼の握手」と呼ぶこともある。
そして日本人達は、すぐにも行動を開始する。
「香料諸島」と呼ばれていたモルッカ諸島にすぐにも軍隊(※大商人達の雇った傭兵)を派遣し、それまで商業進出に止めていた現地の権益の独占を図った。
またマレー半島のペナン、ジャワ島のジャカトラに軍船と軍隊を派遣して、勢力を大きく拡大した。
ヨーロッパとの取引を独占するためだ。
また船の改良、改良された羅針盤の量産も、すぐにも行われた。
新機軸を取り入れた船の建造も俄に開始され、船の規模も一気に巨大化した。
船を巨大化させた理由は、沿岸づたいではなく長期間波の荒い大洋を航行するためだった。
織田幕府も商人達の声に押される形で動き出し、官僚腐敗が進んでいた当時の日本としては、信じられないほど短期間の間にお膳立てが整えられていった。
幕府に命じられた近藤重蔵に率いられた幕府船団が、広大な大東洋を踏破したのは西暦で1806年の事だった。
この時4隻の船団で銚子港を出発した船団は、約二ヶ月の大航海の末に新大陸へと到達した。
航海には、ヨーロッパの技術を応用して建造した船と、大幅に改良された羅針盤や航海道具が用いられた。
既に、沿岸づたいで行ける新大陸の事は判明していたが、大洋を一気に押し渡るのは初めての事であり、歴史上の快挙だった。
だが当時の日本人達が、当時門外不出の情報としていた新大陸発見の情報がなければ、これほど早く日本人が新大陸へ本格的に出向くことも無かっただろう。
しかし予想以上の長期間の航海は、当時の日本人達にとって非常に過酷だった。
世界的にも非常に良質な日本の水は、北太平洋上の航海では何とか腐らずに保ったが、復路の温かい海を踏破するときには常に不安が付きまとっていた。
醸造酒である清酒も、南の海では保存に不安があった。
保存可能な食料の方も、海の上では米が食べにくい為、蕎麦、麦、各種豆、保存食の棒鱈、梅干し、干し柿、各種酢漬けといった副食を大量に積み込むも、栄養不足による病気(壊血病)によって数多くの船員が命を落としていた。
蒸留酒作りが盛んになったのも、日本での獣肉、特に家畜肉を食べる習慣が一気に進んだのも、他国からの伝来よりも大航海の苦労がもたらしたものだと言われている。
しかし日本人による野心的な大航海は成功し、新大陸にしかない珍しい文物が日本に持ち帰られた。
なおこの航海の過程で、太平洋に広がる島の幾つかが発見され、以後日本船の補給拠点となっている(後のハワイ諸島、近藤島、大御所諸島など)。
そしてその後の日本人達は、積極的に新大陸へと足を伸ばすようになった。
日本人達が欲しがる物が、海の向こうに存在したからだ。
そしてそれは金銀に他ならなかった。
当時の日本では、既に国内の金銀の多くは枯渇するか産出量が大きく落ち込み、主にユーラシア大陸北東部の北氷海沿岸の金山に頼っていた。
このため金は比較的流通していたのだが、銀が徐々に不足するようになっていた。
銀については金と交換で、中華地域から得たりもしていたが、経済規模に対してまったく足りていなかった。
このため、一部では紙幣が用いられ始めていたほどだった。
だが、新大陸の中部高原地帯で出会ったアステカという現地国家には、豊富な銀が存在していた。
しかも、アステカ以外で出会った各地の先住民達の多くが、金銀を初めとする金属の加工技術を知らなかった。
最後の事は18世紀末のアラスカ地域への到達で既に判明していた事だったが、それがより明確になり、尚かつ金銀が存在することが立証されたため、多くの人々が新大陸へと足を運んだ。
鯨取り、山師、食い詰め者、犯罪者崩れ、多くはそう言った人々で、一部の船が交易を目的として旅立ち、さらに希に幕府の軍船が調査と国交を開くために新大陸へと旅立つようになる。
そして1815年、次なる出会いが発生する。
新世界の最大級の貿易拠点として繁栄していたパナマ王国(パナマ地峡)に到達した時、日本人達は反対側からやって来た白人と出会ったのだ。
ヨーロッパ世界で最初に新大陸に到達し、無事ヨーロッパに戻ってきたのはイングランド王国の船だった。
ジョン・バンクーバー率いる4隻の船団が、西暦1792年に後のカリブ海のニュー・イングランド島に到達し、真っ赤な香辛料(赤胡椒、紅辛子)を携えて帰国していた。
裕福なブルゴーニュ王国を出し抜くべく、西回りでインドを目指した賭にも似た冒険的な航海だったが、予想外の発見をもたらしての帰国だった。
しかしこの情報は、しばらくイングランド王国の門外不出の情報とされ、その後イングランド王国単独による小規模な調査が続けられることになる。
そうした中で分かったのは、長らく一部の漁民達が鱈の秘密の漁場としていた遠方のバンク(堆)の向こうに存在が察知されていた陸地が、新大陸そのものだという事だった。
そして四半世紀後の調査と植民活動の末、日本人とほぼ同じ時に大東洋へと至ることに成功していた。
もっとも、当時のイングランドの国力の限界から、計画だけされた世界周航の挑戦は行われていなかった。
しかし、この時の日本人とイングランド人の出会いは、地球が球体であることを立証する大事件であることに変わりなかった。
そして、実際に地球が球体だと知ったのは、より多くの情報を持つ日本人の方が早かった。
何しろ、インドにイングランド人は来ていなかったからだ。
なお、この当時新大陸を「発見」していたのは、日本とイングランドだけではなかった。
大航海後発となったスウェーデンが、他の二国を出し抜くべく野心的な航路開発を開始した結果、アフリカ西岸から南の新大陸の東端(エイリーク地域)へと到達し、そこから再びアフリカ沿岸へと戻ってインドへと至る事に成功していたからだ。
この情報はスウェーデンの極秘事項であり、かなりの期間他のヨーロッパ諸国が知ることはなかった。
そして多くの国が秘密にしたまま、それぞれに新航路や新大陸に足を伸ばした結果が徐々に判明するようになると、世界のありようが見えてくる。
世界最初に世界一周の旅を画策したのは、世界で最初に最も多くの情報を手にすることに成功していた日本の織田幕府だった。
間宮林蔵率いる大型船6隻の船団は、積み込める限りの食料と水、酒を持って世界一周の旅路に出て、3年の航海の末に日本に帰り着く事に成功する。
時に西暦1822年の事であり、歴史的快挙とされた。
そして彼の功績は世界各地に地名として残され、間宮海峡、林蔵諸島などが今日でも使われている。
しかし間宮林蔵が旅立って一年後の西暦1821年、新大陸で大事件が発生していた。
イングランド王国と日本の石山幕府軍が、現地国家のアステカ王国での利権を巡って戦争状態に突入したのだ。
当時、互いに1000名単位の小規模な入植地を開き、疫病(主に天然痘)の大流行で大混乱状態のアステカ王国で半ば略奪的な交易へと進みつつあった両国は、そのどん欲さのまま衝突に至ったのだ。
この時、日本側は数で優位で、イングランド側は若干だが本国からの到達時間が早かった。
この時勝敗を分けたのは、現地の協力を取り付けた日本の石山幕府となる。
しかし、単純な国力を図ってみれば、日本側が勝利するのはある程度自明の理といえた。
当時の石山幕府は、蝦夷島を含む日本列島、樺太島、琉球、小琉球(台湾)を自らの領土としていた。
航海の革新が始まると、半ば植民地状態だった呂宋の支配も強めた。
東南アジア各地からも大量の物産を輸入し、琉球、台湾、呂宋では大量のサトウキビが栽培されていた。
このため日本人の総人口は、約4000万人を数えていた。
当時のヨーロッパ全体と比較した場合、約3分の1にも当たる人口だ。
対して、当時のイングランドの総人口は、農業革命を成し遂げて尚も600万人程度しかなかった。
しかも日本の産業も、近世レベルとしては既に世界最良と言えるまでの発展を遂げていた。
加工品の生産は工場制手工業が一般的に行われ、インド綿 (キャラコ)に押される一方だった紡績業においては、豊富な水力(水車)を動力として用いてすらいた。
日本で足りない技術の幾つかは、中華世界やイスラム世界から船で舶来し、既に日本人のものとなっていた。
イスラム社会、ヨーロッパ社会よりも数学、自然哲学(科学)で多少遅れている面はあったが、産業など多くの面では日本の方が優位となっていた。
ましてや、依然としてヨーロッパの辺境であるイングランドでは、遠方に投射できる力そのものが日本よりもずっと小さかった。
しかし当事者であるアステカ帝国は、建国から300年以上の歴史と約3000万人もの人口を抱える巨大社会だった。
その巨大国家で、遠方からやって来た二つの国家が戦争を行うという事に、「大接触」の悲劇が存在した。