夜景が美しい恋人たちの聖地と呼ばれる場所にきたんだが彼女の様子がおかしいことに気がついた
「ナナちゃん、着いたよ」
車を止めると田川良明は助手席の女に言った。
「わぁ~、スゴく暗いよ。何も無いじゃない」
助手席の女、名を山崎七海、が言った通り、だだっ広い砂利道が広がっているだけだった。
「この道を少し行くと橋があるんだよ。そこが目的地だよ」
「え~!ここを歩いていくの?
ナナ、怖い~~!」
「大丈夫、大丈夫。何かあっても俺がナナちゃんを守るから」
「ほんとう?
ナナ、嬉しい!」
七海は良明の胸に頭を寄せると甘えた声で言った。
バラの香りが良明の鼻孔をくすぐった。良明は微かに鼻の穴を拡げその匂いを吸い込むと七海を抱き寄せる。
二人は一度視線を絡み合わせると熱いキスを交わした。
「さ、行こうか、ナナちゃん」
「うん。良いよ」
車の中でたっぷり一分程イチャイチャしていたが、ようやく二人は車を降りた。
「本当にこの先に橋なんてあるの?」
人気のない道を歩きながら七海は聞く。
聞きながら、七海は体をぐいぐいと良明に押しつけてきた。
「あるよ。
もう、ナナちゃんは怖がりさんなんだから」
良明は腕に伝わってくる柔らかい感触ににやけなが答える。
「だってナナ、本当に怖いんだもん。
なんか薄気味悪い……
よっちゃん、ここが恋人の聖地なんて嘘でしょ!」
「嘘じゃないよ。ほら、これ見てよ」
良明は携帯を七海に見せた。闇の中に携帯を見つめる七海の顔が蒼白く浮かび上がる。
「ほんとだ。橋の行き止まりでキスをすると二人は永遠に結ばれるって書かれてるね。
でも、橋の行き止まりって、この橋、未完成なの?」
「さあ、知らね。いきゃあ分かるんじゃないか」
「もう!よっちゃんいい加減過ぎるよ」
七海は少し口を尖らせて文句を言って、ぽこんとねこパンチを良明の肩にお見舞いした。
「なんでも良いじゃーん。さっさと行こうよ」
良明は軽いノリで七海の肩に手をかけ、先を促した。
「あっ、見えた。ほんとにあったよ!」
しばらく二人で砂利道を行くと闇の中に突然大きな鉄橋が姿を現した。赤く塗られた橋桁が河の対岸に向かって伸びている。
「橋桁、河の真ん中ぐらいまでしかないね。
途中で造るの飽きたのかな」
「あの造りかけのところでキスしたら良いらしい」
「へぇー。何処から上るの?
あ、あれかな?」
七海が指さす先になにか建造物らしき物があった。行ってみるとそれは幅10メートルくらいの階段だった。むき出しのコンクリートは飾り気も何もない。
女が言ったように造るのに飽きて無造作に放逐したような寂れた雰囲気が漂っていた。
二人は手に持つ携帯の簡易ライトで上を照らしてみたが、頼りない光の輪は無機質な段差がただ上に続いていくのを示すのが精一杯だった。
底無しの闇に消える階段は、何か異界へと続いているように思え、良明は初めて微かな恐怖を覚えた。
チラリと七海の方を見る。七海も同じ気持ちなのか自分の腕を良明の腕に巻き付けるように絡み付けていた。
夏の肌の露出の広い服から胸の谷間が少し覗いている。肌の温もり、汗の匂いが感じられる至近距離。
良明はごくりと唾を飲み込む。
「だ、大丈夫だって。さ、行こうぜ」
良明は出来る限り陽気な声で言った。
二人が手に持つ簡易ライトでは自分たちの足元しか照らせない。歩く度に大きく左右に揺れる光の輪を頼りに二人はコンクリートの階段を黙々と上っていった。
「殺風景だね」
沈黙に耐えきれなくなったのか七海が呟く。
「一番上まで上れば夜景が見えるさ」
良明は答える。声が心なしか震えていた。
しかし、永遠かと思われた階段にも終わりがあった。
「わあ、本当だね」
七海は歓声を上げた。
階段を上りきると良明のが言ったように美しい夜景が広がっていた。周囲に高い建物はなく、漆黒の闇を背景に海岸線に点滅する光が煌めき、360度の大パノラマを展開していた。海からの風が吹き通り、夏の蒸し暑さを忘れさせてくれる。
「うわっ。欄干、低ッ!」
対岸に連なる光の大瀑布を見ようと欄干に近づいた七海が驚いたような声を上げる。思いの外、欄干が低い。ヘソより下にある。油断するとまっ逆さまに落ちてしまうだろう。
「あんまり近づくと危ないよ」
良明はそう言い七海を橋の真ん中に引き戻した。
「さっ、行くよ」
「えーー、まだ歩くの?」
「当たり前じゃん。橋の行き止まりでキスするんだろ」
良明は橋の先にライトを向けたが、階段の時と同じで先はぼっかりと闇に続いていて、見通すことはできなかった。
少し歩くと、二人の行く手をロープが遮った。『工事中』、『関係者以外立ち入り禁止』の立て札も見えた。
「よっちゃん、立ち入り禁止だって」
「ここは恋人たちの聖地だぜ、俺たちは入っても良いのさ」
七海は少しキョトンとした表情を見せたがすぐに笑い顔になる。
「そうだね。よっちゃん、あったま良いー!」
二人はロープを跨ぐとそのまま橋を進んでいった。
ロープの先は、今まで歩いてきたところより更に荒れ果てていた。工事に使う工具やズダ袋が両側の端に積み上げられていた。工事が再開したら使うために置かれているのか、それとも破棄されたものなのかは判然としない。
河を半分位渡り終わった頃、橋を吹き抜ける風が一段と冷たくなった。今では肌寒さすら感じられた。
「ね、やけに風、冷たくない?」
「気持ち良いじゃないか。河の水で風が冷やされてるんだろ」
「ふーーん」
シャリ、シャリと細かな砂を踏みしだく音だけがしばらく続く。
「ねっ!」
突然、七海は立ち止まると大声で叫んだ。そして、今度は声をひそめる。
「なんか、変な音しない?」
「変な音?
変な音ってどんな音?」
「う~ん、とカツン、カツンっていう感じの足音?っていうのかな」
七海は不安そうに後ろを見た。
「後ろの方から聞こえてくるの」
良明はライトを後ろに向けたが闇以外はなにも見えなかった。おかしな音も聞こえない。
「なにも聞こえないよ」
良明の言葉に七海はふるふると首を横に振った。
「ロープを越えた辺りから聞こえるよ。ナナたちが歩くのに合わせてカツン、カツンって……
まるで誰かがついてくるような!」
「ちょっと、ナナちゃん!落ち着いて。
もしかしてたら、俺たち以外にカップルが来てるのかもしれないよ」
「だったら、なんで今、聞こえないのよ?」
「さあ?
向こうも止まっているのか、それとも単なる空耳かも」
「空耳じゃないもん!」
七海は頬をぷくっと膨らませると良明を睨み付けた。
「まあ、まあ。とにかく試しに少し歩いてみよう。後ろに注意しながらさ」
良明の提案に七海は渋々同意する。
しかし、10歩も歩かないうちに七海は金切り声を上げた。
「ほら、聞こえた!
聞こえたでしょ?
カツン、カツンって音!!」
「えっ?いや、あまり……
シャリ、シャリっていう俺たちの足音しかしなかったような」
半分パニックに陥っている七海を懸命になだめながら、七海の言葉の違和感に気づく。
「落ち着いて。
ナナちゃん、落ち着いてったら。
ねっ、カツン、カツンって音なの?
ジャリ、ジャリって音でなくてカツン、カツン?」
良明の問いに七海は半泣きでコクりと頷く。
「カツン、カツンだよ。金属の上を歩いてるような音」
七海は足元を見る。コンクリートで作られたがっしりしたものだ。コンクリートの粉なのか砂にまみれているのでそれなりに足音がするかもしれない。だが普通に歩いてもカツン、カツンという音はしないだろう。
もしも、カツン、カツンと金属の上を歩くような音がするとしたら……
良明はライトを橋の欄干に向ける。
もしも、金属音がするとしたら、それは欄干のところ、それも欄干の外側を歩いていることになる。
良明は、ぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
いつの間にか乾ききった唇を舐めて湿らせると、良明はゆっくりと欄干に近づく。
ライトで欄外を照す。欄干の外側には金属の板材が剥き出しで張り出していた。幅はおよそ30センチ位だろうか。ここを歩けば、七海が言ったようにカツン、カツンと音がするかもしれない。だが、こんな真夜中に、誰が、どんな目的でこんなところを歩くというのだ?
「ん?」
良明は欄干の所に妙なものが有るのに気がついた。
「花?」
欄干の下に空き瓶に入れられた花があった。まるでお供えのようだ。
なんでそんなものが置いてあるんだろうと思った刹那、今度は欄干の落書きに気がついた。
「なんだこれ?」
釘かなにかで刻んだのだろうか、塗装が削れた部分が錆びて赤茶けた文字になっている。
『アズサ やすらかに』
落書きにはそう書かれていた。
落書きは一つではなかった。
すぐ横。
そのまた隣、また横にも刻まれていた。
『マコトバイバイ ナナ』
『アツシ ごめんね』
『さきいく カナコ』
『みんなシネ ユマ』
欄干の根元や柱にそんな落書きが無数に刻まれていた。
「なんだよ。なんでこんな気色悪いもんがあるんだ?
ここ恋人の聖地だろ……」
良明は言葉を失う。さっきまで心地よさすら感じていた空気が肌を刺すような冷気に変わっていた。
「ナ、ナナちゃん」
良明は後を向いて七海の名を呼んだ。
だが、七海の姿はどこにもなかった。
「えっ?ナ、ナナちゃん、どこ?
ナナちゃん。
ナナちゃん!」
良明は大声で叫び、ライトを振り回し七海の姿を探すが全く見つからない。
「そ、そうだ。携帯!」
良明は七海の携帯にかける。闇の向こうから微かに聞きなれた呼び出し音が聞こえてきた。橋の先の方だった。
「ナナちゃーん!」
良明は闇に向かって走り出す。やがて、橋の先端までやって来た。
未完成の橋の先端。
暗闇に包まれ良くは分からないがその先は本当に何もない空間が広がっているであろうところまでやって来た。
その闇をバックに七海は佇んでいた。
「ナナちゃん!」
肩で息をしながら良明は七海に呼び掛ける。後ろ姿から七海の表情は伺えない。今にも闇に身を投げ出しそうな、そんな雰囲気があった。
「ナ、ナナちゃん?ど、どうしたの。
そんなところに立っていると危ないよ。
こっちにおいでよ」
良明は出来るだけ優しい声で七海に呼び掛ける。
正直、何が起こっているのか分からない。だがこの状況が普通でないのは分かる。
良明の呼び掛けに七海は反応を示さない。
「ねっ、危ないから。
お願いだからこっちにきなよ。
な、何か怒ってるの?
ハハハ、オレ、何か不味いことしたかな?」
なんとかこの雰囲気を和らげようと良明は陽気に七海に声をかけた。
「…ス…て」
七海は掠れた声で言った。
「はい?」
「キスして」
今度は聞こえた。
良明はちょっとほっとした。
「な、なんだ。おまじないの続きがしたいのか。
良いけど、もうちょっとこっちに来ようか。
そんなところだと落ちちゃうよ」
良明はそう言ったが、七海は黙って頭を横に振り、拒絶の意志を示す。
良明は小さくため息つく。しかし、このまま説得を続けるより、さっさとキスをして終わらせることにした。
さっきの落書きが良明のテンションを極限まで下げていた。今は一刻も早くこの場を立ち去りたい。
良明は慎重に足場を確認しながら七海に近づいた。
「おおう」
七海の横に立った良明は思わず声を上げた。
後、一歩踏み出せばまっ逆さまに落ちるれる位置だった。河から吹き上げてくる風もかなり強かった。
「ねっ、やっぱりもうちょっと奥に行かない……わっ!」
七海に抱きつかれ、良明は驚き、叫んだ。
「やっと……」
七海はぎゅっと良明の胸の顔を押しつけ、小さく呟いた。
「もう、遅いよ。待ってたんだから」
そんなに待たせたろうか?と、良明は思う。
「ごめん」
とりあえず謝って、七海の肩に手をやる。
(わっ?!冷たいな)
七海の肩は思った以上に冷えていた。河から吹き上げてくる風は想像以上に体温を奪うのだろう。良明もさっきから寒くてたまらなかった。
「キスして」
七海が甘えた声で言い、目をつむり顔を上げる。
「おう」
良明は七海にキスをした。
「ああ、マコちゃん。
ずっと待ってたんだから。
酷いことしても、裏切っても絶対戻ってきてくれると信じていた」
七海は潤んだ瞳で言った。
良明は心臓が止まるかと思った。
「マコちゃんって?
だ、誰だよマコちゃんって」
「マコちゃんはマコちゃんだよ」
女の力がぐっと強くなる。
「お、お前、誰だ」
「ナナだよ」
女を引き剥がそうとするが引き剥がせない。まるで万力で締め付けられているような圧迫感を感じる。
「ナナ、なんだ。本名を言え」
良明の声に女は嘲るような、哀しそうな表情を見せた。
「ナナはナナだよ」
良明は体がぐらりとよろめくの感じる。足場がなくなる。抵抗する間もなく、良明と七海の体は闇に、冷たい河の中に落ちていった。
2018/09/02 初稿