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北大陸の者  作者: るるる
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大樹

大樹の周りをまわっていた子供達は、回廊近くへ下がり樹を見上げるようにしゃがみこんでいた。入口近くには、今度は大人の白装束の一団がいて、子供の清めた場所へと鈴を鳴らして歩き出す。中央の目隠しした黒髪の女性が、低く歌うような声をあげ、囲むように歩く男たちが答えるように唸りだす。気がつくと、大地を踏む足音と、男たちの唸りとがリズムになって、庁舎の中で反響しだす。


建物が揺れるような音の反響に、体がびりびり震えだす。そのさなか、音も声もピタリと止まると、延々と朗唱していた女性の声が、シンと静まり返ったホールの中にこだまする。


「我ら時の始めより、水の神を迎えるにあたり、この大地の、この時の、この人間の、中央にあたる、この場所の、この大樹の中に、我らの声を届けんとす」


女性の声がはっきりと聞こえた。と思うと、男たちの足音が響き始めて再びかき消されていく。アーヘルゼッヘが耳を澄ますと、女性の言葉が聞こえてくる。


「神々の集いし、我らの世界に、我らの喜びと恐れと敬いを届け、神々の声に耳を傾けん。我らの声が聞こえし神が、我らの声に応えし神が、今、ここに、この大樹の命を通して、我らに喜びをもたらさん」


アーヘルゼッヘは、神への問いかけを延々と聞いた。身体に響く男たちの唸り声と、床から感じる軽快な足を踏むリズムと。天空を駆ける神々がいる彼らの世界を感じ、大地から湧き上がる力を信じる彼らの世界を感じた。そして、ふと眼を開けると、大樹の天辺に光輝く球を見つけ、北の主の気配を感じた。遠い世界で、異世界を信じる人間の声を聞いている、と感じた。アーヘルゼッヘが片手を伸ばすと、光は強く瞬いて瞬時に消えた。


「館さま」

とつぶやいて、アーヘルゼッヘの目から涙が落ちた。許してはくださらない、と強く感じた。自分はあの方に逆らったのだと今更ながらに理解した。


 アーヘルゼッヘが木々の枝を眺め、その向こうの何もない青空を見上げていると、あたりがざわめき始めた。気がつくと、樹の近くで空へ向かって手を伸ばしている、白装束の女性が何か大声で騒いでいる。女性を囲む男達が、必至になってなだめているが、女性はほとんど我を忘れているようだ。見降ろす人々も不安になり始めたのか、市庁舎の窓と言う窓から顔を出して下を見たり、互いに顔を見合わせたりとおちつかない。

「神がいない。消えた」

と言う声が聞こえた。アーヘルゼッヘにも聞こえた。見学客達にも聞こえたのだろう。ざわめきが不安に変わった。


「そんなはずはない。気のせいだろう」

と言う声も聞こえた。が、反射的に、

「では、あそこ。あそこの光がどこへ行ったと言うのか!」

と樹の天辺を指差した。見えていたのは、アーヘルゼッヘだけではなかったらしい。回廊にしゃがみこんでいた子供達が、見上げては隣通しでうなずいている。アーヘルゼッヘは焦燥を感じた。自分のせいだとあせっていた。手を伸ばさなければ。自分が、許しを請わなければ、今でもあそこで、この儀式を見守っていたはずだ。と、アーヘルゼッヘは唐突に気が付いた。


あの騒音の中、女性の声だけはよく聞こえた。心の耳が聞こえなくなっていたアーヘルゼッヘにも聞こえたほどの、声だった。あれなら、この祭りを気にしている者なら、きっと誰だって聞こえていた。神に感謝し、世界を喜び、わずかな恐れとともに、豊さを祝う。あの、神事と言う名の語りかけは、きっと北の者達の喜びになり、楽しみになったはずだ。


それが、北の者達の喜びが小さな波動になって、世界に奇跡をちりばめたとしても不思議はない。そうやって、人の心で荒んだ大地が、年に一度、わずかながら、穏やかな気配に満ちあふれれ、気配が修正されて安心が造り出されていたのだとしたら。恐ろしく重要な儀式だったのかもしれない。


それを、アーヘルゼッヘは、手を伸ばし、彼らの祈りにちゃちゃを入れることで妨害したのだ。アーヘルゼッヘは血の気が静かに引き出した。座っているのに、そのまま倒れそうになる。この南の大陸に北の者がくることはほとんどない。なぜなら、来なくても感じることができるからだ。そして、北の者がちゃちゃを入れない世界を、北の者は穏やかな目で見守ることができる。見守りながら、繁栄を願うこともできる。自分たちの心を乱す者がない世界だからだ。


人間は心を乱しやすく、気配を壊しやすい。そこへ温かく柔らかな気配を流し、北の館の主は、あの大戦で傷ついた人間をいやそうとしていたのではないのだろうか。そして、人間から出る負の感情が、南の大地から北の大地へ流れ込むことがないように、それこそ、文字通り遠大な計画で世界を癒していたのではないだろうか。


それを、成鳥を見つけてくると言って出た自分が、成鳥も見つけないまま、ぼんやりと儀式を見ながら、主を見つけ、何もしない自分を置いて許してくれと手を伸ばしたのだ。北の主のやさしい気配が、今、この瞬間、この大地に注がれるはずのその時に自分は、情けないほど勝手なことで、汚したのだ。


北の主の怒りが流れなかっただけでも良かったのかもしれない。そうなる前に、向こうの目を閉じ、アーヘルゼッヘの姿を視界から消したのかもしれない。大事な儀式だと、人間達は言っていた。その儀式の最中、自分がしたことと言えば、本当のレヘルゾンなら決してしない、それどころかする前に、祭りの意味に気づくはずのその瞬間に、全てを壊してしまったのだ。


一年間。その間にたまっていた、人間の不安や荒み、恐怖と言ったものが、全く消されず、再び一年積もって行く。アーヘルゼッヘは力を入れてたちあがった。パソンは、白装束の人々の間へと、女性をなだめに向かっている。山岳民のプロトルは、だから、山の神は樹を大事にするようにとおっしゃったのだ、これは、樹を動かすなと言うう神々の警告だ、と言う様な事を、アゼルや大神官へヒステリックに話している。


アーヘルゼッヘはよろけるように立ちあがると、今だけでいい、と願った。自分には、力がない。ついさっき、あれほど大きな神事の力があっても分からなかったほど、力が消えてしまっている。でも、今この時だけでいい。前ほど大きな力でなくてもいい。だから、自分に力を戻してほいい、と切に願った。そして、ふらりと歩き始めると、大樹に向って両手を上げた。両手をあげて、大樹に語った。


「人の命を預かる大樹よ。言の葉に通じ、世界を北とつなげた大きな樹よ。我が声を聞きたまえ。聞いて我らに語りたまえ」

アーヘルゼッヘのささやきに、不思議なことに広場中の言葉が消えた。パニックを起こしていた女性はほおけたように宙を見て、慌てたように周囲を見る。


「大地の底から人の命の水を汲みだす美しい樹よ、我らが声を聞きたまえ」

とアーヘルゼッヘがつぶやくと、女性ははっとアーヘルゼッヘを見た。女性だけではなく、パソンも、大神官達も、そして、庁舎の人々も回廊で立ち上がりだした子供達も、ざわめいてた踊りの男達もアーヘルゼッヘを見つめ、目が離せなくなっていた。


 アーヘルゼッヘは大樹に行きつくと、根もとの大きなうねりの上に手を置いた。壁のような幹に目を細めそっとよりそうように頬を寄せ、願いながらささやいた。

「人々を愛する大樹よ。お願いだ。彼らに光を見せて欲しい。彼らの神がおられる光を、彼らのために見せてくれぬか? 彼らを愛する神がいる。それを彼らに感じさせてやってはくれまいか」

自分に力がないのなら、大樹に力になってほしい、と切に願った。


安らかさや温かさを神からもらい、安心し幸せを感じる人間の為に。館の主ほどの力にはならないかもしれない、と思うと心がきしんだ。北の主ほどの力があれば、人間が望んだ優しさを大陸中に広げることができるだろう。ほんの一時、人間達の心の中に穏やかさが生まれれば、北に吹く風は一時だけでも優しくなる。それで、息をつぐものもいるだろう。


北の主なら、そのくらいはできるだろう。自分にそんな力はない。北へ吹く風が変わるほど大きな変化は作れない。だけど、ここにいる人々が毎年感じる温かさや喜びくらいはほしかった。あと一年、悲しさや怒りが降り積もる前にして、新たな一年を作りたかった。自分が消してしまった、大事な光を、元に戻せなくても償いたかった。


「大樹よ。我が名はアーヘルゼッヘ。この地に生を育む者の意味を持つ。外から来た者なれど、己が光を我に見せてはくれまいか。大樹が愛する人々の、温かさや優しさを、我に見せてはくれまいか」

そう言って、頬を水気の感じる木々の香りに押し付けて静かに目を閉じた。


とたんに、大地に根が張り、手足が外へと広がった。大樹のように空に太陽を感じ、大樹のように足元にうねるような水を感じた。伸ばすとぴちゃんと足が鳴る。地底湖に足を入れ、砂漠に顔を出して太陽を浴びる。なんてここは気持ちがいいのか。


アーヘルゼッヘは一瞬人間を忘れ、北の主のことも忘れて、水が足から天辺へ駆け上がり、太陽の光が頬から両手両足へと下って行き、鼓動のような大地を感じた。喜びだった。純粋な楽しさだった。

「よくぞまいられた」

と言う声を聞いた気がした。誰かが自分に話しかけていた。

「居心地はいかがか?」

「すこぶるよい」

と言う古めかしい問いに古めかしい言葉で答える自分を感じた。

「なれば、そこはお任せしよう。頼んだぞ」

と言う声に、アーヘルゼッヘははっとした。


目を見開くと、大歓声の真ん中に立っていた。庁舎の窓と言う窓から、ハンカチや花が降り注ぎ、アーヘルゼッヘを中心に、いつの間にか、祭りの男達が力強く踊り始めていた。我を忘れていた女性は、今は、よく澄んだ声で喜びの歌を歌っている。パソンは大樹の幹の根元に腰かけ、目をしばたたせてアーヘルゼッヘを見上げている。回廊にいた子供達は、踊る男たちのすぐそばまで近寄ってきて、枝や鈴を振っている。


「何があったんでしょうか」

と言うアーヘルゼッヘのつぶやきに、

「神事があったのですよ」

と言うパソンの疲れた声が返った。と思うと、パソンは立ちあがって、アーヘルゼッヘの傍に来た。かと思うと腰に両手をあてて、あごを突き出すように立ち、

「わたくしうっかり忘れていましたわ。あなたは北の方。それこそ、神事の主にもっともふさわしい方ですもの」

「ですから、何があったのですか?」

と言うと、パソンは片手をあげ、手のひらを上にした。手に釣られて上を見る。と、大樹は大巨木になっていた。これまでも大きな樹だった。庁舎の屋根を作るような大きさだった。しかし今は、それを越し、まるで世界を覆う屋根のようだ。町の一部は樹の下だった。足元の石畳は膨れ上がって、庁舎の回廊近くまで根っこがのたうっている。


「わたくし、奇跡の話は立場がらよく聞きますが、目にしたのは初めてですわ」

そう言って、パソンは笑った。目だけで笑っていたのだが、その直後ついに顔全体を崩すように笑みを浮かべ、

「神々が、この地に大樹を植えられたのですわ。世界を守るために。ここの町のこの樹は、ここにあるからこそ素晴らしい。この奇跡は、そう言いたかったのですわ」

そう言って、いたずらっ子のような目の色になった。


「わたくし、この樹はここにあってほしかったのです。帝都は大好きで、今は大変なことになっていますけど、この町も同じくらいわたくし大好きですの。大樹は町の誇りです。なくなってしまってはわたくし達の何かが欠けてしまいます」

と言って、晴々しい顔になった。そして、両手を腰に当て、天辺が高すぎて見えなくなった樹を見上げ、

「これほど大きな樹になってしまったら、誰も運べませんものね」

と大らかに言った。声は、めでたしめでたし、と言っているようだった。


 帝都に運んで一時的にも人々の不安を消し去る、と言う話を今更ながらに思い出す。そして、思いだしたとたん、チウの声だと気が付いた。あの、まるで自分が大樹になっているかのように感じていた時に、聞こえていたのはチウの声だと気が付いたのだ。そして、

「帝都はどうなっているのか分からないのでしょうか」

と聞いた。声に不安さが入った。パソンの顔が曇った。しかし、聞かづにはいられなかった。


「誰か分かる人はいないのですか? 北の力を持つものがいると言うお話です。町の、庁舎のどこかに遠見ができる人間はいないのですか? 常に目と眼をつなぐものや、耳に声を聞く者や。連絡をとれる体制などはこの町にはないのでしょうか?」

アーヘルゼッヘは自分の北の町の様子を思いながら言った。


力を目覚めさせない者や、使うことをよしとしない者の町がある。そんな町でも、要所要所では、訓練を積んだものが町と町をつなぐ要の役や、物を運ぶ窓の役をやっていた。ないと不便で、外部と切れるとさまざまな差しさわりがあるからだ。だから、人間の町にだって何かあるに違いない、と思ったのだ。しかし、答えは違っていた。


「森の中でつながった方が奇跡だったのです。わたくしがここに来れたのは、人間の力ではないのです。お忘れですか? あなたの、北の方の力です。こんなはっきりした力は、北の方でなければ使えませんし、持ってもいません」

アーヘルゼッヘは目を閉じた。

「ならばそこはお任せしよう」

とつぶやいた。

「わたくしにでしょうか?」

とパソンが怪訝そうに聞く。


「いいえ、先ほど、樹と一体となっていた時に聞いた声です。チウの声だったと思うのです。なぜ、チウは、渇水が問題となっている帝都から離れて、この時期ここにいらしていたのでしょう? 水の種を探しに、とおっしゃっていましたが、そんな不思議なものはここにはありません。あるのは、大樹くらいです。これを運ぶために、ここに来ていたと言うのなら分かるのですが」

と言って、その為にいたのだと気が付いた。そして、ぶるっと震えが来た。北の者である自分なら、これほど大きくなった樹でも運べるだろうと思ったのだろうか、と思ったのだ。歓声は喜びのざわめきになりはじめていた。木々の傍に人々が順番に降りて来て、回廊から二階に届くほどの根っこを丁寧に触って行く。


監督しているソン隊長が、

「触るだけです! むしるなど、神罰が下されますぞ! だめです。舐めるのもダメ! なでるだけです」

と必死になって叫んでいる。


 樹に触れていく人々はまるで子供のようだ。それこそ頬ずりしていくものもいる。大事に布でなでてきれいにしていく者もいる。根っこの下の土を持っていこうとして叱られている者もいれば、目も開かないような幼子を樹の根の上にそっと乗せている者もいた。

「とてもじゃないが、この樹を動かす気にはなれません」

と言ってから、アーヘルゼッヘはほおが恥ずかしさでかぁっと熱くなった。動かすような力はない。この樹が大きくなったのは樹がそうしたかったからだ、と気が付いたのだ。まるで、レヘルゾンであるかのような口のきき方をしている。あの絶大な力が今もあると思って話している。恥ずかしいと思ったのだ。これからは、改めなければいけない、と自分で自分に言い聞かせた。


「どちらにしろ、私にはできません。チウが、私にこの樹の運搬を頼んだとしても、できないのです。どうしたいのか、連絡を取ってこちらの状況をお知らせしてから対応を伺った方がよさそうです」


と言いながら、アーヘルゼッヘは首をかしげた。なぜ、あの声がチウだと自分は確信しているのだろうと思ったのだ。そして、チウは、どうして、この樹がこれほど大きくなったのに、持ってこいと言うのだろうと思ったのだ。


知らなかったのだろうか? 自分が目を開けるまでこの樹が巨大になったと気づかなかったように、チウも遠見で地底だけを見ていたせいで気づかなかったのだろうか、と思ったのだ。それにしても何かが変だ、と思った。思って初めて、

「そうだ。大祭は終わったのですよ。もう、ここでチウを待つ必要はない」

と気が付いた。


帝都に行って聞けばいいのだ。水の種を持って行くことはできない。巨木化が原因だと言えば納得するかもしれないし、それでも必要だとなったら、それから考えれば十分だ。また、パソンは大祭の神事で祈りたいと言っていたが、自分が台無しにしてしまった。水の神は彼女にとってどんなものか分からない。本当に神に挨拶したかったのかもしれないし、単に樹を見たかっただけなのか、それとも、神に挨拶しそびれて困っているのかもしれないが、姫巫女を見つけこれ幸いと祈りに来た人々の相手をしている落ち着いた様子からは分からない。


後で夜にでも、別に神事をすれば良いと思っているのかもしれない。アーヘルゼッヘには分からないことだらけだった。しかし、自分がここにいる理由はもうなくなっているのだ、と気が付いていた。



チウはここを頼むと言った。しかし、大樹は立派で生き生きしていて、大きくなりすぎて運べそうもない。祭りはどうやら成功していそうだ。人々の喜ぶ顔からは失敗だとは思えない。パソンは無事に都へ戻るだろう。アゼルが手配をぬかりなくするだろう。ソンが護衛に立つかもしれない。チウが帝都で細工を終えたら、渇水問題はしばらく棚上げになるだろう。


大樹以外にもっと現実的な方法で水を引く方法を考えればいい。それこそ、国交が復帰しだした北の力を使ってもいいはずだ。それには、アーヘルゼッヘがいないほうが良い。北の主の不興を買っている者が、帝都にいるとなれば、きっと交渉は難航する。あの素早い隠れ方を思えば、自分とは縁を切ったと思われた方がずっと良いに違いない。


アーヘルゼッヘは重いため息をついた。たった一つ良いことがあるとすれば、力が消えたことで人間の間に入っても混乱しないですむと言うことだけだ、と思った。成鳥を見つけて出会えても、成人できるかどうかわからなくなってしまったが、それでも、成鳥を見つけて大人になる方法を探さなければならない。


アーヘルゼッヘはさらに深いため息をついた。良い事なのかどうか分からないが、新しい発見は、自分は嘘をつけるようになってしまった、と言うくらいの事だ。手は光らなかったし、血は踊るように脈打つことは無かった。つまり、頑張らないと嘘をたくさんついてしまう。どこか虚無感を感じた。嘘をつけない場合の工夫はたくさんあった。しかし、その逆は初めてだ。うっかり、大樹は動かす気にはなれない、と言ってしまったように、つい、現実と違うことを口にしてしまうだろう。


それを訂正するか、本当に現実になるように努力するかしないと、自分はレヘルゾンの誇りである、真実の口、と言う称号までなくしてしまうことになる。力だけならまだしも、誇りまでなくしたら、本当に何もかもなくなってしまうだろう。


アーヘルゼッヘは樹を離れた。回廊にあるベンチは空っぽで、みな思い思いに興奮して、樹を見上げながら語りあっているようだ。石のベンチに手を置くと冷たくて硬かった。これからは、こういった庭園の椅子がベットになるかもしれない。と思って軽く撫でた。


力がないなら、館の主も自分を見つけることはない、と悲しい笑みを浮かべた。太陽を気にして力を抑える必要もない。この先、成鳥探しにだけ集中していけばいいのだ。そうして、成人し、その後、茫漠と続く何千年何万年と言う人生を歩む方法を考えていけばいいのだ、と考えたのだった。


アーヘルゼッヘは無意識にベンチに腰かけていた。そして、両手で顔を覆って空に向けた。何も見えない。水晶の洞窟の中心で、今の眠りについている人々がいる。自分がそうならないと言う保証はない。明日も明後日も、何もないただ息をしているだけの人生を思うと、それが、何千年も続く日々を思うと、その瞬間に塵になって消えてしまいたいと言う気持ちが湧き上がってくる。横になって目をつぶる。あとは、大地の呼吸に息を合わせて、つい先ほどと同じように大地になって鼓動を感じて、木々の芽吹く喜びを感じて、そうやって過ごせばいいのだ。どれほど幸せな日々になるか。


 アーヘルゼッヘは手を離して空を見た。空の一部に大樹が見える。上空はるか上にある。

「北の方、どうされましたか?」

と言う声を聞いた。振り返ると、両手いっぱいに果物を抱えた島の少年だった。頬を赤く上気させ、こぼれそうなオレンジをアーヘルゼッヘへ突き出すように腕ごと胸をそらしている。


「さあ、どうぞ! これは僕の島の果物です。って言っても、取れたのはこの町でなんですけど。種は島のですから」

と言ってにこにこしている。アーヘルゼッヘが一つ手に取ると、

「甘いですよ。絶品です!」

と言って、大神官の方へ危なっかしい動きで近寄って、同じように果物を自慢しながら配って行く。


「人間をみならって、生きていく方法を考えればいいのか」

とアーヘルゼッヘはつぶやいた。虚無感はどうしようもなかった。オレンジを皮のままかじった。少年のティアラーネの反射的に動いた首は、アーヘルゼッヘへ意義ある食べ方だと表情いっぱいに訴えていた。苦味が混じって美味かった。みずみずしい大地の味に、アーヘルゼッヘは地底湖を思った。あそこから汲み上がる命の水が、砂漠で果実を実らせる。大地に生かされているような感じがした。

「人間になるのもいいかもしれない」

とつぶやいた。


銀の髪を黒く染め、銀の瞳に色を入れる技法を見つけて。年をごまかす方法さえ手に入れれば。十分人間で通るかもしれない、と考えていた。成人して北の主に仕えたかった、とアーヘルゼッヘは考えた。まだ、二週間もたっていないと言うのに、まるで、何十年も前のことのような気がしてくる。


本当に、北の主と過ごしたかった、とアーヘルゼッヘは思った。北を愛し、世界を愛し、そして、人々のために自分の力を使っていく。そんな日々を送りたかったと、アーヘルゼッヘは思った。思ってから、もう過去のことだ、と感じていた。終わったのだと感じていた。



「アーヘルゼッヘ殿。ちょっとお話があるのですが」

ぼんやりとベンチに腰かけていた。回廊をぐるりと回り、大樹を見上げては人々が歓声を上げていく。あたりは暗く日が落ちて、天井には満点の星だった。回廊にはランプがともされ、大樹を照らすためか、樹を見上げる為か、窓からもランプの明かりがもれている。町中の人間が、樹を見に来ているに違いない。


パソンやオッソ・ローゲルら、神官達は別室に下がっていた。中には、自分の宿舎にされている屋敷に戻った者もいた。アーヘルゼッヘは、どのくらい座っていただろうかと思いながら視線を上げた。


彫像のように動かない、銀の髪を流した銀の瞳の美しい姿は、回廊を回る人々の楽しみの一つになっていたのだが、本人はきづかなかった。だから、顔をあげ、ランプの明かりが顔にあたり、一瞬、白く幻のように姿が浮き上がった時、人々が声をのみ、中にはその姿に祈りの文句をささげてたものもいたのだが、気づかなかった。



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