神事
大祭は、巨木を中心に始まった。鬱蒼とした枝を広げた巨木を囲む、庁舎の窓と言う窓は開かれて、人々で埋まっていた。老いも若きも金持ちも貧乏も、この時ばかりは差別もなければ区別もなく、誰よりも早く庁舎に並んだものが、樹木の見える窓近くに陣取っていた。
美しい敷石が泥で汚れていたが、よく見ると美しい絹の絨毯は丸められ壁に立て掛けられている。また、家具は隅に積み上げられて、シーツを掛けられ、警備のためかお仕着せを来た部屋係りが見張っている。窓近くから、外の廊下まで、ささやきあいつつ行きあう人々が、窓をちらちら見つめながら、肩を寄せ合い立ちつくす。
時折、廊下の端から水が瓶で回されて、手に取っ口に含んで喉をうるおすものもいれば、ハンカチに含ませて子供の唇を拭うものもいる。石でできた庁舎は、人の熱気と外の熱砂の空気とで、いられないほど蒸していた。時折倒れる者がでる。それが誰であろうが、手に手を差し伸べ支えあい、時には外へとはこびだされる。待つのもそろそろ限界だ、と言う時間を、かれこれ小一時間は過ぎていた。
アーヘルゼッヘは、人々が庁舎へ流れ込む前に、階下にあるがらんとした部屋へ案内されていた。外の広場に続く部屋で、人気がなく涼やかだ。アーヘルゼッヘの他には、アゼルにパソン、そして、黒いローブの男に、髪を顎の下で切りそろえた女と、白い服の子供と、都会の若者と年寄りだった。
黒いローブの男は、西の訛りで話した。贅沢な金の腕輪や胸飾りをつけ落ち着いた雰囲気で、この部屋の主役のようにふるまっている。案内されたアーヘルゼッヘを見て驚いて、それが良い意味での喜びだと分からせようと両手を広げて歓迎しなおした周到ぶりだ。慌てた様子はなかったが、一瞬値踏みをするような目をアーヘルゼッヘに向けていた。名をオッソ・ローゲルと言い、西国の大神官だと言う。パソンとも知りあいで、アーヘルゼッヘの歓迎が終わるとパソンと近況を話しだした。
髪をぶつりと顎の下で切りそろえた女は、プロトルと言った。この暑さの中きっちりと首から足の先までマントでくるみ、マントの下で両手を体に巻きつけている。両手の先にマントのどこかが留めてあるのか、さらにマントを引き寄せている。山岳民の女祭司で、無表情で簡単な挨拶で聞いた声は低くかすれたものだった。宣託を聞く身であり、山から出てはいけない身だと言いながら、山の神の指示でここにいると言う。
そばに立つ少年も同じように神殿から来た者だった。ティアラーネと言う華やかな名前で、東の大陸へ渡る島々の出身で、曰く、神の気配をもっとも多くまとった者を敬意として遣わした、と少年が読んだ小さな巻物に書かれていた。少年自身は、物おじしないはっきりした声で話す男の子で、大陸の真ん中の砂漠の真ん中でやっと神の恵みを発見した、と聞き様によっては大変失礼なことを言ってにこりと笑った。つまりは、移動した旅の途中では、大陸の町々はどう見ても神がいる世界には見えない、と言いたかったらしいのだが、みなは大人だからか、旅すると何か思うことがあるからか、顔色を変えて反論する人間はいなかった。
単に、そのくらい、この町の大樹は素晴らしいと言っていて、本当に素晴らしいと全員が思っているだけだったのかもしれないのだが、アーヘルゼッヘには小さな大使の皮肉のように見えた。
最後に、上品な服装や大げさな振る舞いから帝都から来たとわかる、若者と年寄りの二人ずれが名乗った。帝都の代表だと言いながらも、アーヘルゼッヘへ名乗った、セノ卿とゼ大臣補佐と言う名前と肩書以外は何一つ口にせず、神々に関係のある者達ばかりがいる場所で、場違いだと思うのか肩身の狭さを表すかのように、部屋の片隅で二人で顔を寄せ合って立ちつくしていた。
アーヘルゼッヘ達と部屋に入ったアゼルが、華やかな笑顔を作り、二人と同じような大げさな身振りで近づいて、都会の様子を尋ねだすと、やっと表情の硬さがとれはじめる。耳を傾けると、旅の話や砂漠の暑さに花を咲かせる様子は、暇な貴族の御曹司と窓際の官僚と言った風情だ。大祭を口実に祭り見物に来ただけように見えた。
部屋はがらんとしていた。美しい磨き抜かれた床石に、厚い布地を張ったクッションのきいたソファーと椅子が置かれている。他の部屋は人間がすし詰めなのに、ここは中央に大きな丸テーブルがあったり、果物の籠や果物酒の水差しまである。
内庭に向かって両開きの扉が開かれ、まるで、テラスでお茶を楽しもうとでもしているかのようだ。内庭にこだまする人々の騒然とした声の響きがなければ、また、庁舎を揺さぶるような人々の足音が無ければ、どこかの豪華な商家にでも招かれたような風情に見えた。
外の内回廊には警備が立ち、暗い廊下は祭りの準備であわただしいのか人々の行きかう足音が聞こえる。しかし、ここにまで聞こえる声で話す者はいない。また、支持を仰ぎに来るものもいなかった。それどころか、全ての人々がこの部屋は見えないかのように振舞っていた。
両開きの扉の両側には腰丈の窓があった。アーヘルゼッヘは、窓に立って内庭を見上げた。大樹の向こうに庁舎が見える。壁一面の開かれた窓には鈴なりの人また人だ。つまりは、向こうからも、このがらんとした部屋の様子が見えるはずだ。なのに、誰も騒がない。
実際、階上では、遠方から来た町の男が、「自分は有力な取引先なのに汗臭い物売りの横に立つのは納得がいかない、アゼルを出せ!」と、さんざん騒いでいるようだった。なだめる声は警邏だろうか。よく通る几帳面な声で、「神の前ではみな等しく平等であります、どうぞお静かに」と何度も何度も、執拗とでも言えそうはほど丁寧に繰り返していた。
その声の人物が、この部屋を見たら怒鳴り込んでくるのではと思うのだが、そんな気配はない。階上へあがる階段や、向井合わせの建物の窓からは、アーヘルゼッヘ達のいる部屋が見えるのだが、取り立てて騒ぎ出すものはいなかった。
これは、本当に特別の部屋だからだ、と思うのだが、祭りを前のはしゃいだような空気もなければ、特権を感じてるような気取った空気もない。この込み合った庁舎の中、ゆったりとした涼しい部屋にいられる好運に喜ぶ様子もなかった。
それどころか、両開きの扉に立って、一人二人と、大樹を見上げ始めると、心なしか彼らの顔は厳しいものへか変わって行った。
「育ちすぎ…」
とつぶやいたのは、山岳民の女祭司のプロトルだった。隣に並んだパソンが、一歩前に出て大樹を見上げる。
「三年前は屋上よりも低かったのですが」
「大樹の幹が太いのだから、こんなものではありませんか?」
と黒いローブのオッソ・ローゲルが言った。説得しようとして話していたが、自分でも納得していないのか、眉間に深い皺を寄せていた。
「こんなに元気でみずみずしいのに、いったい何が問題なのですか?」
アーヘルゼッヘは、窓枠に手を添えて、遠慮がちに彼らに聞いた。
彼らはアーヘルゼッヘを見ると黙った。パソンがしゃべりだそうとするのだが、ゼ大臣補佐が空咳をして止めた。アーヘルゼッヘはアゼルを見た。アゼルはゼ大臣とセノ卿の脇で、肩の力を抜いて全員の顔をまんべんなく眺めている。上着は詰襟に金縁が付き肩から胸にモールを付けて、庁舎の代表や町の長老職と言うよりも警備の隊長としてそこにいるように見えた。
アゼルは、誰も話しださないなと顔を見て確かめると、
「アーヘルゼッヘ殿は北からのお客人です、みなさま。その気になれば、何もわれわれに尋ねずとも全てをご覧になれるのです。アーヘルゼッヘ殿は、遠慮してわれわれに聞く、と言うスタンスを取っておられるのではありませんか? それとも、せっかくご招待いたしたお客人に対し、みなさま黙殺と言う無礼を働かれるおつもりですか?」
と聞いた。
それは、北の方々へ無礼をするのかと言う脅しにも聞こえたが、アーヘルゼッヘの耳には、町の長老や庁舎の者達が総出で招待しているのに、自分たちの顔をつぶすつもりか、と不平を言っているように聞こえた。
パソンが空咳をして、ゼ大臣補佐を斜めに睨んだ。ゼ大臣補佐は痩せて筋の浮いた手で上着の裾を引っ張って、それでも、しゃべるなとでもいうかのように顎を突き出し睨み返した。セノ卿が二人の様子を見て、遠慮がちに声を出した。思っていたよりもしっかりした声の若者だった。
「帝都での水不足はご承知のことと存じます。この大樹は水の大神を祭るものです。植え換えて帝都へ運ぼうと言う計画があるのですよ」
アーヘルゼッヘは意味がつかめなくて聞き返した。
「つまり、植え換えようと思ってお二人が帝都から来たのに、大きくなりすぎていて運べそうもない、とここのみなさんが心配しておられる、と言うことですか?」
とても、そんな心配のし方には見えなかった。もっと別のそれこそ彼らの神々の何かを恐れているかのような雰囲気に聞こえた。もちろん、ここに集まっているのが、神殿や神秘に関係している人々だから、そんな風に想像したのかもしれない。事実、セノ卿は、うなずいて、
「この大祭が、ここで開かれる最後になるかもしれないので、方々のみなさまがこうやって招待されているのです」
と答えるのだった。
アーヘルゼッヘは、セノ卿からパソンへ視線を移した。セノ卿達を睨みつけているかと思ったら、目を大きく見開いたまま固まっている。どうやら、パソンは知らなかったようだ。セノ卿は、重々しくも丁寧に、固まっているパソンへ会釈をして、
「皇帝陛下が、帝都はもちろん巫女姫さまのことも大層心配しておられるのです」
「わたくしは聞いておりません」
「姫君はこちらのご出身です。何かと複雑に思われるのではと、大議会にかけてしばらくは公にはせずにことを運ぼうと言う決済がなされたのです」
「つまり、わたくし以外のものはみなさまご存じだとおっしゃるのですか?」
と言うと、視線をまっすぐアゼルに向けた。アゼルは表情を消して見返している。
この場へ島々の人間や山岳民の祭司、南の大神殿の神官を呼んだのはアゼルだろう。知らないはずがないのだが、パソンはそんなはずはない、とでも言うようにアゼルの目の中に表情を探した。しかし、何も見つけられなかったようだ。口を固く結ぶと低く喉の奥から絞り出すような声で、
「神々はこの場の大樹にお宿りです。神意を聞かずに人間が勝手な振る舞いをすれば、きっと神の怒りを買いましょう」
「もちろんです。ですから、大祭が終わるまで待って、そのあと、巫女姫さまへ神意をおうかがいするはずだったのです。まさか、こうやってこちらでお会いできることになろうとは思ってもおりませんでした。わたくしはこれこそ神意を感じます」
「わたくしも神意を感じます。まさに、このような暴挙を止めよと神々がここに使わしたのではないかと思うほどです」
と言うと、あたりに静けさが落ちた。
アーヘルゼッヘは、二人を見てから外の大樹に視線を戻した。壁のように見える幹に、五階の建物を超えるほどの枝ぶりで、広場はうっすらと暗がりになっている。この砂漠の地でこの陰りはありがたいばかりだ。まさしく、この場所のために伸びあがったかのように見える。
「この大樹を根も枝も損ねず、別の場所へ運ぶのは、われわれでも難しいと思うのですが、みなさまどうやってお運びになる御予定ですか?」
「もちろん、樹に詳しいものに運ばせます」
とゼ大臣補佐が言うと、パソンは、
「北の方が難しいと言うほどのことを我々ができると御思いですか?」
「もちろんできると思っておりますよ。巫女姫様。我々は北の方と対等です。ですから、大戦を終わらせることができたのです」
ゼ大臣補佐は、小さい戦争をよく知らない子どもに、自分たちが人間の力を使って終わらせたのだ、と誇りと子供への諫めとを混ぜて言った。
パソンの顔に朱色が昇る、と思ったのだが、落ち着いたものだった。子供扱いはよくあることらしい。アーヘルゼッヘへは顔色を変えて怒ったが、ゼ大臣補佐へは微笑さえ浮かべて、
「争いは双方の協力がなければ終わりません。双方の力があってのことだと存じます。それよりも、わたくしが話しているのは命を育む話です。健やかにある命を摘もうとすると、そこに争いが生まれると申し上げているのです」
「戦争が起こるだろうと、巫女姫様の予言でしょうか」
丁寧だが、半分あざけりが混じっている。巫女姫の立場を利用して、政治も外交も知らない子どもが何を言っている、と言う声が聞こえてきそうな皮肉り方だ。が、パソンはまったく引く気配も見せず、
「命はそこにあろうと常に戦いを続けています。この大樹もです。砂漠の真ん中で人々に涼を与えながら、大地に根を張り生きるために闘っているのです」
「ならば、もっと住みやすい都にうつれば、それこそ大樹も神もお喜びになられるでしょう」
「大樹の世界を取り上げて、どうして別の世界で戦えといえるのでしょう?」
「ですから、戦いではなく、癒しになると」
「なりますか?! 都は水がなくなり日々危機にひんしているのではありませんか?! 大樹に乾いた大地へ行って、慣れない場所で戦えと、本当にあなたは言えるのですか!」
ゼ大臣補佐は突き出していた顎を戻し、引っ張っていた上着から手を離した。狡猾で捻た老人と言った風情が消えた。まるで、意識して作っていたかのように雰囲気が消え、まっすぐ立って背を伸ばすと、思った以上に貫禄が出た。閑職に追いやられた老人には見えない。それどころか、すべてをくぐりぬけてここまで来た人間の知恵や意思が感じられた。
「ですから、先ほどセノ卿が申し上げたのです。皇帝陛下が帝都を心配し、それと同じくらいにあなた様の事を心配しておられるのだ、と」
アーヘルゼッヘは、その言葉の裏にある意味を聞いた。まっすぐした意思は、はっきりした声のようにアーヘルゼッヘには伝わった。つまり、巫女姫が命をかけようとするくらいなら、砂漠の大樹を一つくらい犠牲にしてもかまわないだろう、と言うのが都にいる皇帝をはじめ人々の気持ちだった。ゼ大臣補佐は、
「砂漠の強い水の神をお連れすれば、帝都も救われます。その思いが人々を救うでしょう」
「大樹が枯れれば、人々の思いも枯れるのではありませんか?」
「ですから、樹の専門家にお願いし万難を排して、ここの大樹においでいただくのです」
アーヘルゼッヘは黙り込んだパソンを見た。そして、再び、
「パソン殿。なぜ、樹が大きいと不安になるのでしょう?」
と聞いた。
「パソン殿は、帝都へ大樹が運ばれるとはご存じなかった。なのに、樹が大きくなりすぎていると不安になった。そうですよね?」
パソンはうなずき落ち着いた声で言った。
「この大きさの大樹が、この砂漠の地でどうやって維持ができるのか不安になったのです。朝夕の水やりがあります。庁舎で管理していますが、町の者達が持ち回りで担当になり、わたくしどもの大事な樹として、お礼をこめて水をやります。しかし、これほど大きくなっては、そのうち水が足りなくなるのではないかと不安になったのです」
「今は朝と昼と夕方です」
とアゼルが答えた。すると、ゼ大臣補佐はそれはよかったと言うようにうなずいて、
「ですから、もっと熱砂の少ない過ごしやすい都に大樹をお招きすれば、水不足に悩む必要はなくなるのですよ」
と言った。この言葉に合わせて、セノ卿も、パソンへとりなすように、
「木へやる水を人々に回せるようになれば、この町ももっと過ごしやすくなるのではありませんか?」
と言うと、パソンが、
「ここでは樹に水をやっても十分人々へ水が行きわたります。しかし、帝都には人々への水もない。なのに、この大樹の水を維持できるとは思えません」
「ですが、大樹が水を呼ぶなら、きっと帝都にも水を呼んでくださるはずです」
「ならば、わたくし達が大樹を持ち去れば、この町の水は熱砂の中に消えていく、と言うことですわ」
とさらりと告げる。
セノ卿がため息をつき、ゼ大臣補佐が渋い顔をする。パソンは再び、アゼルを見ると、
「ご存じでしたのね。もしや、チウ従兄上も?」
「従妹の命に勝る物は何もない、と言っていましたよ」
と静かに答えた。パソンは口の端を噛んだ。
「わたくしの命は神々に捧げられたものです。人々のために捧げられているのです。今更、何かをためらう必要などありませんのに」
「大事だと言う思いは、譲れません。何ものに代えてもです」
と、アゼルは、チウの気持ちを代弁したのか、それとも、この大樹を町から運びださせてでもパソンの命を守りたいと思った、と自分の気持ちを言っているのか分からなかった。しかし、気持がこもっていた、パソンには何かが伝わったようだった。
アーヘルゼッヘは彼らを見て、再び言った。
「ですが、この大樹を運ぶのは、かなり難しい作業になります」
「わかっています。北の方ができそうもなくても、我々は我々の方法で、解決しているのですよ」
ゼ大臣補佐が誇りをかけて、と言うように言った。しかし、アーヘルゼッヘは樹を背にし、彼らに向かって再び言った。
「この乾燥した砂漠の地で水を吸い上げるために根を深く張っているのです。あの、町の外れの森の水を使っているのだとすると、あそこまで根が伸びているのかもしれません。森の木々よりも太い根が、この町の下へ広がっているんです。それをすべて掘り返せば、町の建物が崩れてしまう。また、根を切って運べば水を吸い上げられなくなって、途中で枯れてしまうでしょう。町も樹も無事にここから運びだすのは難しいのです」
「ですから、樹の専門家に」
と言うゼ大臣補佐の言葉を押えた。
「専門家なら、さらに困難さを感じるでしょう。また、樹には好む気候が存在します。この照りつける太陽に慣れた葉や枝が、帝都にあうかどうかもわかりません」
「同じような気候になるよう、それこそ帝都に温かい場所を作ってでも準備しますぞ」
「なら、帝都が砂漠になるよう準備するのですか? 水が欲しくて樹を植え換えるのに?」
「あなたは何もわかっておられないのですよ、北の方!」
とセノ卿が声を挟んだ。苛立った声だった。
「何でも簡単に手に入る北の方に、われわれ水の乏しい都の現状なぞ分かるはずもない。巫女姫が一途に思いつめるほどの惨状を、あなたに分かれとは言いません。ですが、われわれのやることに口をはさむ言われもない!」
「私は単に実現の可能性について述べているのであって、否定をしているわけではありません」
「ならば、可能性を高めるよう、ご協力いただきましょうか!?」
と言ったのは、じっと聞いていた西の大神官、オッソ・ローゲルだった。アーヘルゼッヘが振り向くと、
「大陸の平和に、帝都の繁栄が必要なのですよ。せっかく大戦が終わったと言うのに、内戦にでもなれば、疲弊した人々がやっと立ち直りかけたと言うのに、また、いやもっとひどく荒んでしまいます」
確固とした意思のある男の声だった。
神々の声に耳を澄ましている男の声ではなく、現実の人間の声に耳を傾けている男の声だった。アーヘルゼッヘは、オッソへ、
「ですから、北の者でも難しい、と申し上げているのです」
「我々と力を合わせるわけにはいかない、とおっしゃるのですか?」
「そうではなくて、本当にこれは難しいのだと」
「我々の知恵など大したことではないと言う意味でしょうか?」
「そうではなくて!」
「そう言っているのといっしょでしょう! あなたの意見しかない。我々の知恵など聞くまでもない、と言っているのですから!」
アーヘルゼッヘはオッソを見て黙り込んだ。背後の樹のみずみずしい気配を背中に感じ腕に感じた。まるで、愛しむにアーヘルゼッヘの項をなでた。
「気が進まないのです。私には、樹がここにいたがっているように見える」
そう言って、項に手を添え樹の気配をそっと掴んだ。そして人々には、謝罪するように片手を広げた。
「あなたは所詮は北の方だ」
オッソは吐き捨てるような声で言った。が、パソンは違った。
「わたくしも同じです! 大樹はここにいたがっているような気がします」
「あなたは帝都のぬくもりです。そのあなたがいなくなれば、帝国がどうなっていくか少しは自覚をお持ちになるべきです」
オッソの声は冷たかった。大戦後の十年。人間はまだ立ち直りだしたばかりなのかもしれない。そう思わせるほど、余裕がなかった。
「大樹を守れと神はお告げです」
かすれた声がした。全員が顔をあげると、両手を上へあげ天上へ顔を向けうつろな顔で宙を見る女祭司の姿があった。オッソは見るからに胡散臭そうな顔で女祭司のプロトルを見た。が、島の少年ティアラーネは、もっと率直に、
「本当に聞こえるの?」
とプロトルに聞いた。プロトルは怒った顔もせず、うつろな表情のまま、
「聞こえる。大樹は守れとおっしゃっている」
「なんて名前の神様?」
「名はない」
「僕の島の神々は二百三十五人おられるけど、みんな名前があるよ」
「お一人だから、神と言う呼び名だけで十分」
と告げると、少年は目を見開いた。それもそうだと思ったようだ。プロトルは少年との会話で意識が現実に戻って来たらしい。手を下げて全員の視線の中央にいると気づくと、マントをさらに強く自分に巻きつけ、かすれた声で早口で、
「山の神意思だ。わたしは伝えた」
だからどうと言う意味はないらしい。
帝都と意思が異なっていると告げることに意味があったらしい。ゼ大臣補佐は探るような目でプロトルを見ると、脇に立ちセノ卿に何かを言った。セノ卿は何度か首を横に振ったが、説得されたらしい。
「プロトル殿。昨年よりお話のありました、山々のお望みを、我が家の名に懸けて、検討するよう帝都議会にかける準備がございます」
プロトルの視線は動かなかった。外の大樹を見つめたままだ。セノ卿はさらに、
「今すぐにでも、早便で便りを出しましょう。私の指示だと申せば、動かないわけにはまいりません」
「ハンゼンホーンの次代の当主のお言葉ですか?」
と初めてプロトルが顔を向けた。表情は消したままだが、先ほどより生気がある。
「私の言葉はすべてがハンゼンホーン家の言葉です」
「本当に、通行税を課してもよいと?」
「山のことは山の民が一番よくご存じのはず。検討する時には、山岳の民の代表を交えて討議するように申しましょう」
セノ卿が探るように言う。プロトルはまっすぐに、セノ卿を見た。神経質でぶっきらぼうな女祭司の顔はなくなり、思慮深い主のような顔になる。
「帝都のことも大樹のことも、大地に住まう人間達の方がよく存じていましょう。私の使命は山の神の言葉を伝えることです。山と平地は神が違う。山の者達はみなそれを存じています」
「ありがたいことです」
「お礼を申します」
と最後に付け足しのように、ゼ大臣補佐が言った。
アーヘルゼッヘは部屋の空気に人間の気配を感じた。つまりは、圧倒的な人々の気配があるだけで、大地や宙の、人間達が神と呼ぶ、聖なる気配は感じなかった。つまりは、山の人間達が、都へ行くために山越えで大陸を横断する人々から通行税を取ってもいいかと許可を求め、帝国が収める大陸といえども山は山の民の者だから勝手にすればいい、と帝国の実力者の家計らしい青年が許可を与えた、と言うことらしい。もちろん、許可を申請するための場所を設けた、と言う話になっているのだが、許可をもらったも同然、と言う顔をプロトルはしていた。
つまり、とアーヘルゼッヘは考えた。ここに居て、気配を感じて空気を操れる本当の巫女や神々に使える神託を得る立場の人間は、もしかしたら、パソンだけなのかもしれない、と。あとは地方の代表で、神々の声よりも人間の声の方が重要だと思っているのだろう。だからこそ、とアーヘルゼッヘは皮肉な気分になった。自分達にはない、不思議な力を持つ巫女姫が自殺をしてまで帝都を守ろうとういのなら、樹の一本や二本くらい、それが神の木と言われていても犠牲にして、帝都を守る方がいい、と思うのかもしれない。
巫女姫は神々に頼もうと自殺を図ろうとしているのに、巫女姫の命をかけるくらいなら神々の命を取ってくる方がずっと良い、と思っているのかもしれない。彼らにとって、目に見える神として、巫女姫パソンがあって、そのためにはすべての神々を捧げる気なのかもしれない。パソンは、堂々めぐりのど真ん中にいる、とアーヘルゼッヘは気の毒になった。人のために神を守り神に仕え、人はパソンのためにその神を犠牲にする。
人を思う人の心と言うのは、アーヘルゼッヘには分からない、と思った。思っているうちに、
「神事の準備が整いました。今から童子の清めの道行きに入ります」
と廊下から声がかかった。
アーヘルゼッヘは、そこで初めて、ここの部屋は他の人間達から隔離するために作られたのだと気が付いた。彼らの会話を他の人間達に聞かせないために。これから神事を見て、感じて、彼らの大事な神々に喜びをささげて、一年の無事を祈る。そんな人々の目から、帝都のためだ、巫女のためだと言いながら、彼らの大事な樹を引き抜く相談をしている人々を隠すために作ったのだと気が付いたのだった。
だからだろう。何か嫌な空気がここにある、と不安を感じて、人々はこの部屋のことを視界から消したのだ。気付かないようなふりをした。もし、ここが祭りを楽しむ気配に満ち、ゆったりとした空間に喜びを感じ、特権を味わいつくしているような楽しい気配に満ちていたら、きっとうらやましくなり問題になっただろう。今のここは選びたくない選択をしている人々の集まりだ。息苦しくて、きっと見るのも嫌だと感じているはずだ。だから、きっと、とアーヘルゼッヘは考えて、考えをそこで止めた。
周囲を見た。
神事が始まると聞き、歴史上最後の神事になるはずだ、と思う彼らは扉の外へ出て行った。円柱のある回廊の、庇の下で、すり足で庁舎の入口に入ってこようとする子供たちを見守っている。美しい彫りの石のベンチや、運ばれたクッションの効いた椅子に座って、万感の思いを込めたまなざしを、子供や大樹へ向けている。
アーヘルゼッヘは扉の脇に立ち、外の人々を見て両手で自分の腰を抱いた。震えそうな恐怖を感じて力を込めた。聞こえなかった。いつもなら遮断していないと、勝手に襲いかかってくる、人々の気配が、全く感じられなくなっていた。あるはずの音がない。物音が消えた世界にいるような、茫漠とした無の世界にいるような気がした。
音がなかった、心の声が聞こえてこない。階上の人々が、庁舎の屋根から出た子供達の姿が見えたのだろう。子供たちは、白い着物に銀の帯をしめて、髪は頭の両側で結いあげて銀のひもをなびかせている。姿だけでも祭りの気分を味わえて、華やかで生気を喚起させるものがある。
人々は子供の列を見て歓声を上げる。子供が手にした細い造り物の銀の枝を左右に振ると、息をのんで声を落とす。それなのに、アーヘルゼッヘには音としての歓声が聞こえるだけで、何も波を感じない。熱く頬を打つような感動のうねりがない。音以上にびりびりと震えるような人の心の波があるはずなのに、全く見えない。わからない。
理由が分からなかった。ついさっき、庁舎についた時には暴走していた。ちょっとした言葉の彩で力ははじけた。制御ができなかったのだ。なのに、今は力がない。アーヘルゼッヘは腰の手をはずして、片手を目の前に持ってきた。
「手に光が宿る」
と小声で呟いてみた。子供のころからやっているお遊びだ。暗がりで手を光らせて振ってみる。光の筋がついて、動かすと絵のように筋が踊る。単なる子供の遊びだった。明るいところでやると、一瞬のまぶしいほど光、暗がりでやるとぼぉっとした光になる。
「手に光が宿る」
と再び呟いてみた。しかし、手は白く長い指があるだけで何もない。光もなければ、まぶしさもない。
「血が踊る」
と言ってみた。一瞬赤い血の筋が浮かび上がってくるはずだった。が、血管どころか手の筋も動かなかった。
「何の呪文ですか?」
と脇に立ったのは少年だった。
北の方に敬意を表しているようで、生真面目な目で見つめている。アーヘルゼッヘは少年を見下ろした。あの部屋に入った時には力は全くなくなっていた。と、少年を見て気が付いた。この少年が好奇心に目を輝かせているのは分かる。しかし、神々にもっとも近いところにいると島の人間達が思っているほどの光は見えない。
パソンにあった時には分かったことが分からない。島の人間の思い込みで本当に力がないのかもしれないが、それも今のアーヘルゼッヘには分からない。部屋の人間達のことも分からない。祭司だと言ったプロトルが神意を聞こうと手を挙げた時でさえ、わからなかった。
もしかしたら、あの時本当に大地のうねりがあったのかもしれない。なのに、パソンしか本物はいない、と思ったのだ。だからこそ、人々はパソンを守ろうとしているのだと思ったのだ。しかし、自分は見えないだけだ。力がなくなっていただけだった。アーヘルゼッヘは少年を見て首を左右に振った。心細い気持ちになった。
「いいえ。子供のころにした遊びです」
「童を見たから、子供のころを思い出したのですか?」
と後ろの大樹の周りを小枝を振りながらゆっくりと歩み続ける子供の姿を、さして言った。そして、その子供よりもずっと幼い少年は、大人びた顔で、
「見て上げていただけませんか? 北の方がご臨席すると聞いて、きっとみんなは興奮しているはずなんです。なのに見向きもしないとなると、きっと自分達に何か失敗があったのかもしれないと不安になります。がっかりすると思うのです」
アーヘルゼッヘは少年から、大樹の周りの子供に目を向けた。一生懸命、樹を見上げては左右に枝を振り上げて、祈りを唱えて半歩進む。うつむいては、すり足をして左右へ動き、再び枝を下へ振り払い、半歩進む。
「見えているんですよ、結構」
と少年は、神事をする子供たちを見ながら悪戯っぽい声で言う。きっと、この少年も島々では神事をしているのだろう。そんな声だ。
「一生懸命であればあるほど、周囲がよく見えてくるんです」
そう言って、少年はまっすぐアーヘルゼッヘを見た。あなたの姿で、彼らの成功が失敗になったかのように感じてしまうと訴えている。アーヘルゼッヘは、このまっすぐな視線の意味はよくわかる。と思った。そして、この子供が分かるようには、神事に励む子供の気配の意味は分からなかった。胸が痛い。北の方、とこのティアラーネは声をかけてくれた。
しかし、本当に今も自分が、北の者か分からなくない。もう、北の主とは縁が切れて、だからあの無限に思えた、レヘルゾンの力も消えてしまったのかもしれない。もう、自分はどこの誰でもなくなってしまったのかもしれない、と思った。
アーヘルゼッヘは大きな喪失感を飲み込んだ。飲み込みながら少年に視線を落して、
「失礼なことをしているつもりはなかったのです。私も神事を見届けたい」
そう言った。すると少年はうなずいて、アーヘルゼッヘを先導するように歩きだし、部屋の外へ、パソンの脇の寝椅子へと、アーヘルゼッヘを導いた。