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北大陸の者  作者: るるる
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階段の下は人であふれていた。椅子を持って来て座っている者もいたが、ほとんどが立って建物の奥へと目を凝らしていた。パソンが、背の高いアゼルのあとから姿を出すと、ざわめきが波が引くように引いて行った。


階の上に立つパソンは、静寂の中、大勢の人に見上げられていた。人々は、めいめいの風習に従った礼をとり、胸に手をあてて頭を垂れるものも、胸の前で手を組んでじっと目を凝らす者もいた。また、声にならない声で祝辞を唱え続ける者も、神殿での祈りの所作を繰り返し、指先で胸や額を何度もこする者もいた。みながみな、そこに立った祈りの姫の空気を感じ、恐れと畏敬の念に打たれていた。


パソンは、人々の視線の中で当たり前のように、両手を上げ、左右に広げ、長い袖で、周囲を包み込むような仕草をしてから、

「大祭を迎え祝意を表します」

告げた。細く澄んだ声が、不思議なほど静まり返った森の中へ沁み入った。と、思ったら、どっと人々の歓声が上がった。まるで、噴き出すような喜びの熱気が、彼らから吹き上がり、森の上へと広がっていく。


パソンの後ろで、静まり返った森の気配に身を任せていたアーヘルゼッヘは突然の変容に思わず身を正した。人々は、両手を頭上で打って大声で騒ぎだす者もいれば、となりと嬉しそうに話すものもいて、巫女姫の隣席は大祭への神の祝意だと騒ぎあっている。


もちろん、冷静に帝都とのつながりの濃さを喜ぶ人々もいたようだが、それ以上に、彼らの巫女姫がやってきた、と言う喜びの方が大きい。


「さあ! 姫を町へお連れするのだ。道を開けよ!」


アゼルの腹に響く声は、人々の胸へずんっと落ちたようだ。慌てて、または、まちまちに、巫女姫の乗る馬車道を開けようと押し合いへしあい脇へと寄り始めた。そんな中、屋敷の脇から、馬具の音も賑やかに、護衛の衛兵がやってくる。二頭立ての無蓋馬車を先導している。


立錐の余地のなかった階の下は、空地になり、馬車の周囲は広場のように人垣ができる。パソンがアゼルの手を取って階を降り、土に足をつける前に、階段から渡された板の通路を通って馬車に乗り込むと、町へ続く通りの人波がさらに脇へと下がり始めた。人垣が割れ町へ続く道が生まれる。アーヘルゼッヘが、パソンに声をかけられて馬車に乗ると、先導の馬と一緒にゆっくりと動き出した。


人垣は割れ、左右に立つ人々は、ゆっくりと動き出した馬車に向かって、手を振る者もいれば、頭をを垂れる者もいるのだが、目の前を通り過ぎてゆく、絢爛豪華な装いの美しく前をまっすぐ見て身じろぎ一つしない気高い巫女姫の姿を生涯の宝だとでもいように、しっかりと眼に焼き付けていた。


馬車は果樹園の中を通り、外壁沿いに立つ村々の家や遠方から来た人々のテントの間を通り、そして、厚く高いトンネルのような外壁の通路をくぐって、町中へとはいって行った。背の高い建物の間に、細い道がうねっている。通りには人々があふれ、警邏に押されながら巫女姫を見ようと押し寄せている。


しかし、建物の上の窓は閉鎖され、小道には警邏達が警戒して立ち、時には長い棒を振って人を押し返したり下がれ下がれと大声をあげたりと、一種異様な雰囲気だ。馬車の両脇の、建物との間に立つ人々は、花を投げたりレースを投げたりと喜びを表そうとするのだが、そのどれもが、警邏達の棒や腕の機敏な動きで落とされていく。


中央の巫女姫は、まっすぐ前を見つづけている。が、時折、ゆったりとした動きで周囲の人々を見回している。すると、人々の動きが止まって声も落ち、あたりに馬車と蹄鉄の音だけが響き出す。その静寂に人々が感動し、感動した瞬間に、また、その直前以上の熱気に包まれていく。


「広い通りに出るまでの辛抱です」

と馬車を御する兵士が言った。まるで、周囲の町の人々が襲ってきそうな気配で、アーヘルゼッヘは緊張の極みにいた。何かがあった時には、パソンを連れて森に飛ぼうとまで思っていた。しかし、パソンはまっすぐ前を見ながら、

「大丈夫です」

とだけ答えた。それは、自分が大丈夫だと言うよりも、何事もない、何かが起こるはずがない、と言っているようにも聞こえた。


ともあれ、馬車はすぐに大通りへ出た。周囲を護衛の馬が囲うと、熱気も声も離れて行った。すると、パソンは笑顔を見せた。周囲を見ながらまるで、今さっきまでの気高さは嘘だとでも言うようににこにこしながら、人々をながめ始めた。


木立の間をしばらく行くと、見上げるばかりの威容の建物が見えてくる。人々は、木立の間の歩道から、パソンを見ては両手を振ったり騒いだり、先ほどとは違った色の、それこそ祭りで楽しむようなにぎやかさだ。


パソンの笑顔を見ると、両手を上げて歓声を上げるが、先ほどのようなしんと静まる気配はない。すぐそばで腰かけているアーヘルゼッヘは、笑顔のたびにパソンから噴き出していく清浄な空気に身も心もリラックスしていた。これほど穏やかな空気をまき散らせるのなら、町までの道も、細い通りでも、笑顔でいればいいものを、と思っていた。が、パソンが笑顔を振りまいていると、慌てたように、離れて護衛をしていたアゼルが馬を駆って近寄って来た。


と、思うと、パソンに向かって、

「ご自重ください。あなたは巫女姫なのですぞ!」

と厳しい声で戒めた。アゼルの顔は穏やかで、遠目には何気ないご機嫌伺いに見えただろう。しかし、そばで聞いているアーヘルゼッヘには、ぴりりと肌に来るような厳しさがあった。パソンは、アゼルに負けないほどつんとした声を出した。


「わかっています。力の調整くらい、わたくしでもできます」

「なら、なぜ、今の今、私の兵は、あなたの笑顔欲しさに狂い出した人々を必死に抑えているんです!」

「これほど離れていて、笑顔も何もわかりません」

「なら、あれは。あれをどう見ておいでです!」

と、馬上で、軽く肩を引く形で右を差した。そこには、木立の間で、警邏達の棒を乗り越えて通りにでたせいで、騎乗の兵士たちに馬で追われるように歩道に戻される人々がいた。


「神への笑顔は人々には毒なのですぞ。麻薬のようにとめどもなくほしくなると、帝都で習ったのではありませんか?!」

とアゼルが厳しい声で言うと、パソンは口を固く閉じた。目はまっすぐ前を見たたまま。遠目には、行先に好奇心が湧いて正面を見ているように見えたかもしれない。しかし、そばに座るアーヘルゼッヘには、悔しさに口をかみしめているのが分かった。それで、つい、アーヘルゼッヘは、

「毒ではなくて、滋養でしょう」

とつぶやいた。パソンが気配をアーヘルゼッヘへ向けた。が、アゼルが手厳しく、

「過ぎれば何であれ毒になるんですよ。北の方」

と言う。パソンは諦めたかのように気配が消える。それを感じて、

「必要なだけ足りていれば、滋養はどれだけあっても滋養です」

と言い返した。パソンが顔をアーヘルゼッヘへ向けた。アゼルが手厳しく文句を言おうとした。が、それより前に、

「わたくしもそう思います。すべての人々が満ち足りていれば、巫女の笑顔があってもみな気にもかけなくなると思うのです」


「気持ち良い笑顔を気にかけなくなると言うことはないと思うのですが」

「いいえ! 巫女だのみなど、よくありません。みな、自分たちの力で悠々と生きていけるような世界にならなければ」

「巫女姫殿!」

とアゼルが、怒りを含んだ声で止めた。ほおに力が入って顎から首の筋が浮く。


「懐かしい場所だからだと言って、巫女姫の立場をお忘れになられては困る」

「わたくしは忘れてなど」

「なら! 我らの前で、巫女姫がいなくてもよい世界などと言わないことです。我らの中にはそれだけを救いに生きているものもいるのですぞ」

馬も馬車も広い通りを粛々と、威容な建物へ向かって進んでいた。庁舎だと言う。役所に関係する建物や、商人の取引所などが増え、庶民の建物が少なくなっていた。周囲を囲む人々は、木立の向こうで顔が見えない。


「パソン殿。どんな世界を望むにしろ、巫女姫が望むべき世界をお望みください。神々に仕えるものがいなくなる世界など、ぞっとする」

「でも、人がいてもいなくてもどうせ神はおられるのですから」

「パソン!」

とアゼルが声を上げた。それは、帝都の巫女姫に対する声ではなかった。慣れ親しんだ友人を諭すような声だった。


「わかっております。わたくしが行った場所は、神々に使える者が必要な世界です。その世界を維持することで平和になる。実際、穏やかな世界を願っているのですから」

「なら、それ以外があるなどと言わないことです」

「でも、アゼル…」

「巫女姫が世界のあり方を疑っていると、思いたい人間はほとんどいない」

「そうね」

パソンはそう呟いて黙ってしまった。アーヘルゼッヘは、

「信じていないことは、いくら言っても真実になどならない。思っていないのなら、思っているとは言わないことです」

アゼルが苦い声で答えた。


「北の方。あなたには関係ないことだ」

「巫女姫がいない世界の方がいいのなら、そう話せばいい」

「あなたは人間社会を知らないから、そんなことが言えるんだ」

「もちろん、学んだことしか知りません。しかし、別に巫女姫がいない大陸だってあるですから」

「もちろん。偏狭な人間の支配する大陸もあるにはある」

「素晴らしい文化をもった大陸です」


「あなたたちにしたら、人間はみな似たり寄ったりなのでしょう」

「いいえ。みな変化に富んで、われわれの想像を超えた存在です」

「なら、よく分からないと言うことです。口を挟まないでいただきたい」


「そうですね。もちろんです。ただ、パソンは、巫女姫じゃない声で、あなたに話しているように見えたのです。心をつぶした人間は、心のパワーが消えていきます。もし、あなたが本当に巫女姫を大事に思うなら、パソンの本心をつぶさないことです」

アゼルは、もくもくと馬を借りながらアーヘルゼッヘを見た。アーヘルゼッヘはまっすぐ、背の高い思慮深い表情の男を見ながら、

「人のパワーはわれわれにはない世界を揺るがす力です。その力を調整する大事な巫女姫だからこそ、人々はこれほど大事にしているのではありませんか? だからこそ、巫女姫を大事に思うのならばこそ、彼女の本心の吐露を受け止める人間が必要でしょう? あなたは、あのパソンの空気を感じていても普通に話しかけられる人間のように見えます。数少ない、貴重な人間なのではありませんか?」

「あなたには関係ないことだ」

と再びいった。が、今度は力が全く入っていなかった。


「あの。いいのです。わたくしを叱っても心がいたまない貴重な人間は、アゼルくらいですから。彼は昔から、幼い私に対してきつのですわ」

「パソン」

と言う、何とも言えない表情のアゼルを無視して、

「わたくしは、チウ従兄上の大事な従妹です。かけがえのない従妹です。無二の親友でありたいアゼルにとっては、私は生まれた時から邪魔者なのですわ」

とつんとした顔で言った。アーヘルゼッヘが思わず笑った。すると、アゼルはむかっとした顔で、

「何を子供じみたことを言っているんだ。おまえは昔っから何もかも分ったような顔で、その実何もわかっていない」

「あら、じゃあなんでいつも、わたくしに意地悪をおっしゃるの?!」

「言うのは意地悪じゃなくて、指導だ! 自分勝手にわがままばかりの小娘に対して、少しでもチウの価値を下げないようにだな」

「まあ、やっぱりチウ従兄上のために、わたくしに難癖を付けていらっしゃったのではありませんか!」

「だから、そうじゃなくて」

と、まるで子供の言い合いだった。そのさなか、御者席から遠慮がちな空咳が聞こえた。三人がはっと前を見ると、アーチ型の門を馬車がくぐろうとしていた。


威容を誇る町の庁舎は、四角い中庭を囲むように建っている。大通りから、外壁のような建物に向い、アーチ型のくりぬかれたような建物の下をくぐり、鉄柵で止まる。トンネルのようなアーチ型の建物の真下が、庁舎の入口、玄関そのものだった。


人の腰丈ほどの鉄柵の向こうに、広場が見えた。広場は薄暗くひんやりしている。山育ちのアーヘルゼッヘにとって、町の空気は乾いていて鼻の中が痛いほどだ。それが、ここではみずみずしい。痛いほどの日差しが消え、広場の向こうのアーチが見える。光の差す遠いアーチから風が吹くと、緑の香りに包まれる。静かな葉擦れの音が湧き上がる。気がつくと、中央の、大きな広場の真ん中に、一本の木があった。木は太く、ともすれば大きすぎて視界からそれ、そこにあるとは気付かない。濃い樹液の滴る古い木の壁があると錯覚してしまうほどだった。見上げると、蔦の絡まる巨木は上へ行くほど枝を広げて四方へ大きく膨らんで、広場の屋根になっていた。木漏れ日が光のつぶのようにみえた。



「すごい」

アーヘルゼッヘのつぶやきに、アゼルが答えた。

「大陸の誕生とともにある木だ」

誇らしかった。が、アーヘルゼッヘは、

「それは嘘です。大陸ができた時には、木はいまだ存在しなかった」

「あなたは、人の気持ちを踏みにじるのが好きなのか?」

「いえ。そうではありません。そんなつもりで言ったのではなかった。ただ、そう。これは、そんな歴史を作らなくても、十分これだけで素晴らしい。本当に素晴らしい」

と言って木を見たまま動かなかった。アゼルは、そんなアーヘルゼッヘに嫌な気はしなかったようだ。目が穏やかになった。アーヘルゼッヘが、

「大気の全てがここから外へ広がっている。水の生気を大地から吸い上げて人の世へとささげている。人に愛されている木だ。そして、人を愛している木だ」

と宙を見ながら言うと、アゼルは、

「ご神木だからな」

と軽く言った。アーヘルゼッヘは、そんな人間の定義の問題じゃなくて、と言おうとして振り返った。


 アゼルはとっくに馬を下り、御者は馬車の扉を開いた。建物の玄関の大きな扉は開かれて、飛び出すように錦の絨毯を抱えて来た庁舎の役人達が、石段を駆け下りていた。アゼルは馬の手綱を係りの者に手渡すと、馬車に座って周囲の動きをぼんやりと眺めて、木から人へ意識を必死に戻そうとしてルアーヘルゼッヘへ、

「我町へようこそ。庁舎の主、長老の代表として、北の方であるアーヘルゼッヘ殿を歓迎いたす」

と穏やかな声で告げたのだった。


アーヘルゼッヘが、馬車のすぐわきに立って見上げているアゼルを見つめた。長老職は町の重鎮の集まりで、その代表だと言う。そして、庁舎の主とは役人の主のことで、アゼルは警邏の隊長で、兵士を集めてやってきた。と思ったところで、

「長をやっていない役職ってあるのですか?」

と聞いていた。


 町に北の方がやってきた一大イベントに息をのんでいた役人達は何とも言えない顔をした。馬車の扉を抑えて、これまた一大イベントを彩る帝都の巫女姫を馬車から降ろそうとしていた厚い生地にきらびやかな柄の上着を着た口髭の男が苦い顔で動きを止めた。言われたアゼルは階段を上り振り返った。そして、鼻で笑って、

「家長は父だ。私はベストレート家の何でも屋だ」

と答えた。


あたりはしんと静まり返った。彼は役所で嫌われているのだろうか、とアーヘルゼッヘが思ったところで、髭の男が身を乗り出すように、

「アゼル閣下は、この町で、いいえ、この大陸でももっとも歴史のあるベストレート家の次期主殿でございます。今は、町の簡単な役目をお引き受けいただいているだけでございます」

「簡単な役目…?」

とアーヘルゼッヘが眉間にしわを寄せて聞いた。長老職が簡単だとはおもわなかった。もちろん警邏達をまとめる仕事も、町を収める庁舎の主も。大変な仕事だろうと思ったのだ。だからこそ、そんなに何もかもできるのだろうかと思って聞いたのだ。しかし、髭の男はアーヘルゼッヘの疑問とはかけ離れたことを言った。


「そうです。大陸間のお役職に比べたら、町の主などは簡単なお役目かと存じます」

アーヘルゼッヘはアゼルを見た。アゼルは表情を消していた。アーヘルゼッヘは、

「あの顔はそうは思っていないように見えます」

と答えると、髭の男は首を左右に振って、

「とても優秀なお方です。もっともっと重要な役目を担われるようになるはずです」

と期待もあらわに言うのだった。アゼルは、

「そっちの方が簡単な仕事だ。情報を集めて分析して人を動かせばいいのだからな」

と苦い声で言った。簡単な仕事だと言うより、嫌っている仕事だと言う雰囲気だった。気まずい空気が流れた。アーヘルゼッヘは、横道にそれたのは自分のせいだと気がついた。そして、慌てて、

「私のようなものを歓迎してくださり感謝の言葉もありません。礼を申し上げます」

と言い、簡単に言いすぎたと、慌てたせいで、せっかくの町の代表の歓迎の言葉を踏みにじってしまったのではないだろうかと焦り、慌てて、

「我が名、アーヘルゼッヘにかけて、この歓迎の喜びをすべての者達へ伝えましょう」

と付け加えた。


 アーヘルゼッヘは馬鹿だった。自分は決して嘘はつけない。言った言葉は端から事実になるからだ。つまりは、言い終わった瞬間、アーヘルゼッヘの体はほんのりと光はじめて、輪郭が明るく青く膨らんで、人に向かえ入れられた自分を実感し、その実感が喜びになったところで、

「お待ちください!」

と言う厳しい制止の声を聞いた。


アーヘルゼッヘが目を何度かしばたたくと、目の前には、石段に立ちすくんだパソンがいた。顔色が悪かった。パソンの手を取っていた髭の男は震えていた。どうにか、パソンに手を添えたまま身じろぎしないように体を固まらせていたが、玄関に出てこの大事件をつぶさに見ようとしていた人々は転んだり、跳ねるように後ろへひっくり返ったり、こちらを見ながら死に物狂いの表情で後ろへ後ろへと逃げていた。


アゼルは、石段の中ほどで、パソンの前で片手を広げ、まるでアーヘルゼッヘから守ろうとしているかのように立っていた。アーヘルゼッヘは、言葉が崩れていくのを感じた。喜びが戸惑いになり、広がった言葉の波が収縮し、自分の胸に帰ってくる。ぎゅっと心臓をつかまれたような感じになり、それでもさらに足らないとでも言うように小さくなって、自分の喜びの声を聞いて喜ぶ者が北にいるだろうかと言う疑問が沸いた。


沸いたとたんに縮んだ言葉の波は万力になって心臓をひねりつぶしはじめ、アーヘルゼッヘは目を三度しばたたいて、宙を見た。目の前のパソンもアゼルも見えなかった。北の館で立つ主を探そうとして、胸に手を当て自分を止めた。北の主に、自分のあの喜びをみなに伝えてほしいのです、と伝えるだけで、きっとすべては事実になって、この痛みは消えたはずだ。


しかし、主の前を飛び出したのだ。助けを求めて主の傍へは近寄れない。虫が良いからとか、プライドが邪魔をしてとか、成鳥を見つけるまではだめだからとか、そんな理屈では全くなかった。ただ、自分が頼みに声をあげ、今までのように当たり前のように、うなずきひとつで引き受けてくれるとは思えなくて。つまりは自分の裏切りを許してくれないだろうと言う恐怖から、主を信じることができなくて声を出せなくなっていた。


アーヘルゼッヘは、爪を立てて襟を鷲頭掴みにしていた。痛みは心臓に杭が刺されているのではないかと言うような大きさに膨らみだして、目の前が真っ白に景色が消えた。パソンの悲鳴が聞こえたような気がした。アゼルが何か云いながら、駆け付けてくれているように見えた。髭の男が舌打ちをして、御者が青ざめながら駆けもどってくる。歓迎してくれていたのだ、とアーヘルゼッヘは思った。


膨らんだアーヘルゼッヘの光は、人々の意識を吹き飛ばすほどの明るさで、パソンが慌てて止めたのだ。そして、光が止まってアーヘルゼッヘの喜びの伝達は中途半端で中に浮き、事実にならなくなってしまって、アーヘルゼッヘへ嘘の報復となって翻り、アーヘルゼッヘは事実にしてくれる数少ない手段の一つを捨てて、そして、報復を全身で受け意識を飛ばした。


「強情な」

というつぶやきを聞いたような気がした。パソン達が思ったよりもよく見えていたから、これも、周囲の誰かが言った言葉だったんかもしれない。しかし、声はさらに、

「後でみんなに伝えればいいのだ。今すぐじゃなくったっていいのだ」

とアーヘルゼッヘの状況に精通しているように助言した。しかし声は大変な怒りようだった。アーヘルゼッヘが、そうか、今すぐには無理があるから。この喜びはきっといつか。北の主にも伝えて。そうしたら、許しを得た後だったら、きっと主も喜んでくれるはずだから大丈夫。すべてはきっとうまくいく、と安心して意識がそっと遠のいた。声はまだ低く長く続いている。


「北の主よ、なぜ、きちんと話さずに解き放ったのだ!」


と怒りは収まらないようで、北の主へ言い放つ。畏敬の念はかけらもなく、小言を言っているように聞こえた。自信があって、のびのびした声で、なぜか、チウの声に似ているような気がした。


悠々と話す男の声は、これから先みんなチウの声に似ていると思うのかもしれない、と思いながら、北の主の声にも似ている、などと考えていた。考えながら、今度は本当にすべての意識が消えていき、気がつくと、ベットの中で眠っていた。眠る自分の姿を感じて、静かに目をあける。すべてが夢で北の館にいるかもしれない、と迂闊にも期待した。期待したせいで、目を開けた時、心配そうにのぞきこむパソンの目を見て、失望の目をしてしまう。十四歳の少女は、失望の目を覗き込み、いたわりの籠った眼差しで静かに手をのばして、アーヘルゼッヘの崩れた前髪をやさしく梳くった。


アーヘルゼッヘはなされるがままに目を閉じて、自分が小さな年端もいかない子どもになったような気がした。本当に、彼らの年に換算すると小さな子供なのだと思うと、悲しみが広がった。おまえにはやれないと言われた物を駄々をこねてほしがって、手に入れたのは異郷の地にいる無力な自分だ。小さな自分が悲しくて涙が溢れそうになる。そこに、パソンの穏やかだが、落ち込んだ声がした。


「心配しました。わたくしが余計な事を云ったばかりに」

アーヘルゼッヘはあわてて眼を開けた。理由がすぐには分からなかった。パソンは、アーヘルゼッヘの髪を静かにかきあげながら、

「わたくしが止めてと叫んだばかりに、アーヘルゼッヘ殿は力を抑えられたでしょう」

よく見ると、パソンは口の端を噛んでいる。


「力が逆流するなんて、わたくし知らなかったのです。ですから、アーヘルゼッヘ殿にこれほどの負荷がかかるとは。そうですよね。森でちゃんと見ていたと言うのに。森いっぱいに膨れ上がった力を包み込むのにも、あれほど力が必要だったのに、噴き出る前に抑えたのです。アーヘルゼッヘ殿が目を開けてくださって、わたくしどれほどうれしいか」

そう言って、アーヘルゼッヘの目を覗き込みながら、震える口でほほ笑んだ。


そして、微笑みながら、

「申し訳ございません。考えなしのことを申し上げて」

「まさか。そんなに、謝っていただく必要はないんです。わたしがうっかりしていただけで」

「いいえ。自然なことをなさろうとしていたはずです。わたくし近くにいたからわかりましたの。温かい空気が膨れ上がって、あの光に触れた者は、陽気な気持ちになっただけでしょう。それ以上のことはなかったはずです」

「いいえ。そうではなくて。ではなくて、何と言えばいいのか」

と言いながら、アーヘルゼッヘは身体を起こした。


と、素早く背中の後ろにクッションが添えられる。見ると、白いふち飾りのついた帽子をかぶった少女が二人、アーヘルゼッヘの脇と、パソンの脇に立っている。一人は水差しを手に、パソンのグラスの傍に立つ。


小さな丸い台の上には、レースの敷物が敷かれていて、赤いカットグラスが置かれている。部屋は大きく、壁には極彩色に花が描かれ、壁と天井の境の白い御影石の縁取りや、飾り棚やソファーが美しい。床のピンク色の大理石が部屋を明るく引き立てている。大きな腰高窓の向こうは森のような樹木で、その木々の枝の向こうに青空が見える。豪華だが落ち着いた部屋だった。首を回すと入口近くにも剣を腰に差した女性の警備兵が立ち、外の気配に耳を傾けているようだ。


「議長室ですわ」


パソンが部屋に驚いて見回すアーヘルゼッヘに答えた。アーヘルゼッヘは、こんな華やかな女性的な、しかも、ベットのある部屋が、と驚いていた。パソンは、多くの人間がアーヘルゼッヘと同じように驚くらしい。セットになった説明文のように、

「かつて、町の議長は女性と決まったものでした。今が例外なのですわ」

とほほ笑んだ。


 アーヘルゼッヘは、パソンの笑顔を見てほっとした。ほっとしてやっと、自分が話そうとしたことを話しだした。

「私がせっかちだったのです。私は、嘘は言えません。ですから、北の者達へ伝えるすべがない今、北の者達へ伝えると約束してはならなかったのです。そして、約束が破られたと思った瞬間、自分は必ず約束を守るんだと言う強い意志で、嘘のほころびを許さないと立ち向かわなければならなかったのです。なのに、うっかり出した言葉だったせいで、うっかり嘘になりそうだと気がついて、収集がつかないところまで行ってしまったのです。パソン殿のせいではありません。私こそが、申し訳なく、パソン殿へ謝らなければならなかったのですから」

と言ってから、ばつ悪そうに笑って、

「申し訳ありません」

と謝った。パソンは目を見開いて聞いていたのだが、

「光を押しとどめてくださったではありませんか」

「出しちゃいけない光ですから」


「いいえ。わたくしが止めてと言った一言に、驚くわたくし達の為にすばやく止めてくださったのです。嘘をつけないと言った説明は、正直わたくしにはよくわかりません。でも、アーヘルゼッヘ殿が、わたくしたちが恐れることは決してなさることはないと信じることができたのです」


アーヘルゼッヘの首筋に、脇に立つ少女が冷たいタオルを当てた。目が覚めて気持がよかった。帽子の影の目は、はにかんでいたが笑っていた。怖がってはいなかった。アーヘルゼッヘの銀の髪は、相変わらず鈍く輝き、瞳の奥にも銀の輝きがあるはずだった。それなのに、数日前に見た、町の人々の恐怖の影はどこにもなかった。パソンが続けた。


「北の方が、わたくし達の為に、命を賭して力をセーブしてくださった。そう言う方がここにいる、と、市庁舎にいた者達は知ったのです。北の方が祭りに参加してくださるのは、町にとっても世界にとっても喜ばしいことなのだと、皆で感じることができたのです」


アーヘルゼッヘはタオルを額に持って来て、うっすら浮かんだ汗を拭いた。忘れていたが、つい先日まで、怖がられていたのだった。パソンと一緒の馬車できたから、妨害されずに済んだだけだ。もとい、パソンと大量の警護の人々がいたおかげで、町の中心までこれた。彼らが大事にする、神とも仰ぐ樹木のそばまでこれたのだ。


もしかしたら、アゼルは反対を押し切って、アーヘルゼッヘを連れて来たのかもしれない。また、パソンは、アーヘルゼッヘの力を止める役目を負っていると思いつめて馬車に乗っていたのかもしれない。アーヘルゼッヘは、自分が異郷にいたのだと忘れていた。周囲との軋轢を食い止めたからこそ、こんなに穏やかになれた。なのに、まったく気付かなかった。自分は鈍くなったのだろうかと思った。心の声を聞く自分が、こんなに周囲の声を聞かずに過ごすとはありえないはずだった。北を離れたせいで耳が悪くなったのだろうか、と不安に思った。


がしかし、不安を追いかける間もなく、

「わたくしとても嬉しかったのです」

とパソンに言われて意識が今に戻った。何がだろう、とアーヘルゼッヘの顔に書いてあったのだろう。

「だって、わたくしに願う人々は大勢いますけど、わたくしの願いを聞いてくださる方はめったにいませんもの」

とにっこり笑った。どこか、小悪魔めいていた。そう言いながらも、どこででも「お願い!」の一言が通じるのではないだろうかと思わせた。アーヘルゼッヘはタオルを掴んでどっとクッションに倒れこんだ。そして笑った。力が抜けると笑いが沸いた。なんだかバカバカしくなった。


「何もなくてよかったです。誰かを傷つけていたら、きっと後悔していたでしょう。パソン殿のおかげです。ありがとう」

「ですから、わたくしがお礼をいいたいのであって、お礼を言われたいのではありませんわ!」

「どっちでもいいではありませんか」

「いいえ。わたくし、こう言ったことに、なあなあはよくないと思っていますの。だってね、いつもそうやって、お礼を言われるばかりでは、わたくしの中のお礼は貯まる一方ですもの」

「貯まる一方って、別に量の問題ではないでしょう」

「いいえ。わたくしも、たくさんお礼をいいたのですよ。なのに、わたくしはされて当然の立場ですもの。お礼を言うと、失礼になってしまいますのよ」


「どうしてですか? 言いたいのなら、いくらでも、ありがとうと言ってしまえばいいでしょう」

「いいえ。言わない時には不満があるのだろうかと言うことになってしまいます。わたくしにお礼を言われるために仕事をなさる方もでてきてしまいます」

「別に構わないのではありませんか? 本当にうれしい時に言っているのだとすぐに気付きますよ」

「わたくしは神殿に努めております。わたくしは巫女です。わたくしになされることはすべてはわたくしのためではなく神々のためなのです。わたくしごときがお礼を言うべきではないのです。ましてや、人々がわたくしのために尽くしだすなど、間違ってもあってはならないことなのです。でも、わたくしもお礼をいいたくなるのですわ」

「それなら、神様にお礼をお渡しすれば、貯まりませんよ」

と神への感覚もろくに知らないくせに、アーヘルゼッヘは軽くいった。


巫女姫として尽くされているけれども自分へではないと言う毎日は、よほどフラストレーションが貯まるのだろうと思ったのだ。だから、こんなささやかなお礼程度の話に力説するのだろうと。


すると、パソンは口を尖らせた。文句を言おうとしたらしい。そんな失礼なことはできないとか、神々は知っているのだから自分がわざわざ言うのはそれこそ余計なお節介になってしまうとか。何か、言おうとしたのらしい。が、すぐに、にっこり微笑んで、

「素晴らしい考えですわ。わたくし神々へお伝えすることにいたします」

「よかったですね」

と再びアーヘルゼッヘは軽く流した。重々しく思っていないのに、そんな顔はできなかった。が、目の前のパソンは、満ち足りた笑顔になった。こんなに人を満足させる神と言う存在はどういう存在なのだろう、とアーヘルゼッヘは不思議に思った。


もしも本当にいるのなら、一度会ってみたいものだ、とも思った。それこそが、神を信じる人々に対しては不遜な思いだったのだが、もちろんアーヘルゼッヘは気付かない。それどころか、パソンが、

「わたくしお礼を言われるのも好きですけど、お礼を言いたくなる人々がたくさんわたくしの周りにいるって感じることも大好きですの。きっと神々も同じように思われます」

と言うと、アーヘルゼッヘは、

「人は、神を人に模して造ったと言うのは本当ですね」

と言っていた。パソンが一瞬表情を固めた。

「神々はおられますのよ。人が造ったりはできません」

「そうでした。人の信念の中にいらっしゃるのですよね」

「違います。この世界に存在しておられるのです」

「神と言う意識があるのですよね」

「意識ではなく、存在です」

「どこにでしょう?」

「ここにです」

とパソンは両手を広げて見せた。世界中のあらゆるところに神がおられる、と言う言葉を具現する仕草だった。が、アーヘルゼッヘには分からなかった。それで仕方なく、

「見えません」

と静かに答えた。パソンはうなずき、

「それが普通です。神々は人の目からは隠れておられます。でも、おられるのです。人は忘れてはいけないのですよ。どこにでも神々がおられ、どこででも我らの言葉を聞いている、と言う事実を」

アーヘルゼッヘは、まるで、北の主の存在のようだ、と感じた。


南大陸のことは、太陽の反射があって初めてわかるとおっしゃっておられたけれど、北大陸のことで分からないことはないのではないだろうかと考えた。しかし、言うのは止めた。パソンから伝わる空気はまっすぐでゆがみがない。穏やかでブレがなく、わずか足りとも神の存在を疑ってはいない。神々に思いを伝えるために焼身しようとしたほどだ。疑っているはずがなかった。それを全く分かっていない自分が神について語っても、心の行き違いにしかならない。ただ、疑問は疑問だったので、思わず聞いた。


「すべてご存知ならば、お伝えしなくてもご存じではありませんか?」

「知っているから言わなくてもいいのだ、と言うのは人間のおごりです。伝えたいと思うことは、相手が知っていたとしても伝えるからこそ価値があるのです。言葉にして初めて、相手に心の機微が通じるように、言葉にして初めて神々はわたくしたちの喜びを感じともに喜んでくださるのです」

何となく、アーヘルゼッヘには分かった。


知識として知っていても、喜びにあふれた波動を感じた方が本当に喜んでいるのだと実感できる。神々にもそう言った実体験を渡してあげたい、と言うようなものなのだろうと思ったのだ。言うと、それは違うと言われそうだが、アーヘルゼッヘはアーヘルゼッヘなりに理解した。


とにかく、ストレス発散の方法が見つかったのだ、よかったよかった、と簡単にまとめてしまった。相手が大事にしている考えをもっと大事にしたいとか、真剣に考えようと言った考えがアーヘルゼッヘにはなかった。人は人、自分は自分。それこそ、必要になったら、相手は言ってくるだろう、と言う風にしか思わない。それこそが北の者の特徴だったのだが、そんな心の動きが、常に人々と向き合いつづける巫女姫に気づかれないはずがない。


パソンは、アーヘルゼッヘが気持を切り替えて、ベットを出ようと着替えを始めた姿を見て、どことなくさびしい表情を浮かべた。巫女姫としてではなく人間として扱ってくれるアーヘルゼッヘが、神々の気まぐれのように、簡単に心が離れて行ってしまったからだ。しかし、アーヘルゼッヘは気付かない。それこそ、どうして、心の声が聞こえなくなったのだろうと、考えるチャンスだったのだが、気づくことさえできなくなっていた。


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