アゼル
長い庇の下で、アーヘルゼッヘはたたずんでいた。月は傾き、森の木々の陰に隠れた。星の輝きが遠い砂漠の砂を照らしている。パソンは、ソン達が用意した奥の建物で眠りについた。あれから、どこを探しても屋敷の家人はいなかった。チウと共に帝都へ連れて行かれたか、それとも、チウが帝都へ連れて行かれたと知って、砂漠を馬で駆け戻ったのか、アーヘルゼッヘにもソン達にも分からなかった。
きれいに片付いた屋敷は、まるで以前からいなくなるとわかっているかのようで気味悪かった。森の中にあるせいか、建物が点在している造りのせいか、季節外れの別荘のように静かだった。
まるで、自分のようだ、とアーヘルゼッヘは思う。熱く友のためにと語った自分は、他人のようだ。チウを襲った光が消えて、北の者が関係しているとわかった時にはじけた気持ちも収まって、気配が目まぐるしく変わる少女が眠った。アーヘルゼッヘを混乱に陥れていたすべてが寝静まっていき、森の大地の気配が濃くアーヘルゼッヘを包みだす。
獣の気配も、寝静まった鳥の寝息も、風にそよぐ静かな枝葉のささやきも、人の熱気にはかなわない。
「友のために」
と呟いて、アーヘルゼッヘは額に片手を当てた。嘘ではないのに、真実とも思えない、これまで味わったことのない奇妙な気持ちを感じていた。レヘルゾンは嘘を言わない。
言うことができないのだが、まさしく、嘘をつくとこういう気持ちになるのだろうかと言うような不安が襲う。
「北の館を飛び出した時から、レヘルゾンの戒めが消えてしまっているのかもしれない」
とアーヘルゼッヘはつぶやいてみた。自分の力や存在が変わってしまったような不安を感じた。しかし、北の主といえども、他人の存在を変えることはできない。つまりは、すべては自分の気のせいで、昨日までの自分と今の自分は同じはずだった。なのに、なんでこんなに不安に思うのだろう、とアーヘルゼッヘは再びため息をつく。
遠くに光る砂の海に、アーヘルゼッヘに夢の中ように感じた。三日ほど、点々と移動しただけで、遥かかなたにやってきたような気がしてくる。太陽がすべてを伝え、北であろうが南であろうが世界はひとつであったのに、この小さな森の世界に切り取られてしまったかのような、北とのつながりが希薄に感じる。
「追われているのだから大丈夫」
と奇妙なことをつぶやいていた。逃げているのに、捕まってはいけないのに、まるで捕まって北に戻って、どこか大陸の片隅で、無益な子供に戻って静かに息づいていたいようなそんな思いに襲われる。
「北の主が見放すような、気迫のない性格だったと言うことだろうか」
と不安は不安を呼んだ。
「これだから、大人になれないと思われてしまうのさ」
と自分で自分を笑ってみたが、悲しい気持ちしかわいてこない。チウの為に、帝都の為に、パソンの為に、全力で生きている彼らを見て、自分の無力さを感じている。悲しみはそのせいだ。アーヘルゼッヘは自分で自分を観察した。ため息はさらに深く、憂いを帯びた。と、そこに、
「まだ、お休みにならないのですか?」
と階の下から声がかかった。
見ると、巡回中のソンだった。部下は四方へ目を向けて、静かな夜だと言うのに警戒を怠らない。ソンはアーヘルゼッヘの視線の先を見て、町を見ていると思ったらしい。
「今頃は、町の周囲に俄か町が生まれていて賑やかです。ここからでも明かりが見えます」
言われて視線を左に向けると、果樹園の向こうに黒い影が見え、砂漠の大地に広がっている。
「寝静まっているように見えます」
「町の中にいるのでしょう。前夜祭が始まっているはずですから」
「アゼル殿は何とおっしゃっていましたか?」
「もちろん、巫女姫のご来場を歓迎しておられます」
と言うが、顔には微妙な影が落ちる。アーヘルゼッヘが先を待つと、言いにくそうに、
「警備責任者でもあられるので、警固計画の変更等がありまして」
「短気なお方なのでしょうか?」
「計画は長期間かけて練って作る、と言うのがお好きな方なのですよ」
アーヘルゼッヘは目が和んだ。ソンの上司のかばい方にやさしさを感じた。
「それでは、急な変更で周囲の方々にはご迷惑をおかけしていますね」
「いいえ。それは違います。ここでも安全ではないとわかったので、できる限り早く向こうへお招きしたいと申しております」
「チウがいなくなってしまいましたから」
「ええ。隊長は、烈火の如く怒り狂って、自分を責めておられます」
「どこにいても、北の力が入っていれば同じだったと思います」
「北の方は介入されていません。そう約条がなされています」
「しかし、あの力は…」
ソンはアーヘルゼッヘを見て首を横に振っていた。
「帝都では、北との戦いの間であってもあの力はあったのです。私はそう聞いています。北の助けではありません。われわれの力です」
とソンは言った。パソンの誇りに満ちた言葉でもなく、屈辱を吹き飛ばそうとする言葉でもなかった。彼にとっての事実を述べただけだった。
「明日にも町へ入れます。こちらの警護も万端ではないとわかった今は、少しでも早く近くで警護したいと言うのが隊長の考えです」
「それなら、今からでも」
「ご冗談でしょう? 巫女姫が来たとわかれば祭り以上の騒ぎになります。なんの準備もしていない中、お呼び立てするのはいくらなんでも無謀です」
と軽くいなされてしまった。チウが連れ去られた今、巫女姫がここにいると知っているのは帝都の人間しかいない。あの力ならどこに居ても抗えないが、他の人間にならこの森が一番安全だ、と言うことらしい。それなら、と、
「巫女姫一人くらいなら、私が守ります」
アーヘルゼッヘが言うと、ソンはそれこそ軽くいなしてくれた。
「それがもっとも隊長の嫌がることです」
アーヘルゼッヘの表情は変わらなかった。ソンは階の下からアーヘルゼッヘを見上げて、
「北との争いほど、人間にとって忌むべきことはないのですから」
と続けた。アーヘルゼッヘも同感だった。アーヘルゼッヘが動くことで争いが生まれたら、この十年の平和が水の泡だ。数百年かけて紛争を収める努力をした仲間たちの思いが水の泡になってしまう。おかげで、アーヘルゼッヘも、うなずくだけだった。
翌朝、広間の片隅でマントにくるまって仮眠をとったアーヘルゼッヘは、人声で目を覚ました。思ったよりもぐっすり眠れたらしい。朝露が髪に滴り、軽く拭と手先が濡れた。固い木のソファーから体を起こして、手すり近くへ歩いて行くと、恐ろしいほどたくさんの人でごった返していた。
とりあえず駆け付けた、と言う姿の町の人々だ。つましい服の農夫もいれば、豪商にしか見えない立派な服に身を包んだ人々もいる。その家人が周囲を囲って団体になっている。かと思えば、大きな革の前掛けをした職人達が固まって立っていたり、旅装のままの、荷物を馬車に置いたままではないかと思えそうな一団もいる。
大きな木の下には、好奇心に満ちた顔でこの様子を見に来たんだとでも言いたげな琴を抱えた詩人もいて、そんな中、警邏達が駆けずり回って人々を屋敷から押し放そうと苦労している。見ると、果樹園の間の町へ続く道は人々で埋まっいて、町を囲む外壁まで人の波が続いている。
アーヘルゼッヘが階の上に立つと、一斉に人々の視線が上がった。と思ったら、動揺したような声が上がった。アーヘルゼッヘの後ろから慌てたような声がかかる。
「アーヘルゼッヘ殿。奥へ頼みます」
振り返ると、苦虫をかみつぶしたような顔のアゼルがいた。
襟の高い厚い生地の上着に、ふんだんに刺繍を施した飾り布をまとって凛として立つ姿は、優雅な腕の動きも手伝って、隊長と言うよりも貴族のように見えた。相変わらずだ、と言う感じだが、ほんの一週間ほど前に見た時には、余裕のある若者の表情をしていたのだが、額の汗といい、人ごみにもまれたのか、乱れた前髪といい、疲れた顔に見えた。
「忌々しいことに、昨日の光を巫女姫の降臨だと言って触れて回った人間がいるのです」
と言って口の中で毒付いた。アーヘルゼッヘがなんと答えていいか迷っていると、腕を掴んで強引に奥へと歩き出した。後ろに残った人々のざわめきは、一瞬大きくなったのだが、アゼルへ視線が行くと静かになった。巫女姫の傍に北の者がいると知って、巫女姫の危機だと慌てた人々が、自分たちを守る隊長がそこにいると知って安心した、と言うようなことだった。
黒髪の青年でもあるアゼルは、アーヘルゼッヘの腕を放すと忌々しそうにアーヘルゼッヘを上から下まで眺めた。回廊の一角で、外からは見えない。中庭の緑がみずみずしく、朝の光がすがすがしい。まだ、砂漠の熱気もここまでは入り込まない。空を見上げると青空がまぶしい。回廊の四方にさらに部屋部屋へ続く廊下が続く。アゼルは、回廊をちらりとも見ずに、アーヘルゼッヘの脇で仁王立ちになると、胸を張って見下すような視線を見せた。そして、
「なぜ、北の方の力を使いながらも、チウを見殺しにしたんだ」
と低く唸るような声で言った。アーヘルゼッヘが疑問に眉を寄せると、
「人間だからごまかせると思っているのか? 人の心が読めないわれわれにも、推察する、と言う技がある。まるで人間のふりをして、力の出し惜しみをしていた。あれは、われわれを油断させるためだったのか!」
「何を言っているのか、私にはわかりません」
とアーヘルゼッヘは正直に言った。
いくらかイライラが伝染し、声がつっけんどんになっていた。しかし、不思議なことに、目の前でイライラを爆発させていると言うのに、こちらにそれが伝わらない。見せているだけで、相手に対して威嚇しない、そう言った品の良さがあるらしい。
アーヘルゼッヘの観察を知っているのか、アゼルは、アーヘルゼッヘが、アゼルを上品な人間だと思った瞬間、まるで殴りかかるような怒気を、アーヘルゼッヘにたたきつけた。思わず片手で、アゼルの怒りを防ぐかのように顔の前に手をかざしていた。無意識だった。
「人間の心の怒声は聞こえるのか。少しは、北の生き物らしい特徴はあると言うことか」
吐き出すような言葉に、
「何を怒っているのか、私は本当に分からない」
と低く抑えた声で答えた。
「何を言っているのか。昨夜、貴様は、力を使った。この砂漠一帯に太陽が落ちたかのような光の海を作っておいて、わからない、と言う気なのか?!」
「それは。確かに力を使ったが、それは、パソンが抑えてくれて」
「その、パソンを、帝都から引きずり出すために、力を使ったのだろう! なぜ、その力で同時にチウを助けなかった。おまえなら造作もないことだろうが!」
「私の力…。パソンをつかんだ。…確かに。あの時力を使っていたのか」
と、アーヘルゼッヘは思い出していた。ソンが見えなくなるほどの力の渦の中にいた。あれは自分の力の渦か、帝都を包む力の幕か分からなかったが、あそこに触れた時、確かに力を感じていた。
「ほぉ。本当に、今まで気づいていなかったのか」
あきれたようなアゼルの言葉に、アーヘルゼッヘは、
「それほど、大きな力だったとは思わなかった」
「町の明かりが闇夜に思えるほどの明るさだった。おかげで、前夜祭は即中止で、恐怖に駆られた人々は、大祭の神々の怒りを買ったと本気で信じ、神々の怒りを鎮めようとやっきになった」
「鎮める?」
「そうだ。明かりがあるのに、闇にしか見えない。神々は水も光も人々から取り上げるのかと、恐ろしい妄想が広がったのさ」
乗りは軽く、しかし、表情も声も重かった。
町の噴水広場では、大勢の人がランタンやたいまつに照らされながら、輪になってダンスを踊り、路地裏にまで広がっている屋台を練り歩き、時には楽団の一段の前で足を止め、時には花屋で明日の祭りのための花冠を買いながら、一瞬の光とその直後の闇を経験したのだ。恐怖に動きを失った人々は、歌も楽の音も声もなくして、乾いた風の音だけが町中を吹き抜けた。そこに落ちた、誰かの声が、
「神々の怒りだ」
と言うつぶやきが、町を一瞬にして悲鳴と叫び声の渦に巻き込んだのだった。
闇夜に乗じた者達もいた。スリ、カッパライ、はては強盗まで。外から来たならず者が、祭りの客から強盗へと変貌した。警邏達が笛を鳴らし、互いの場所を確認しあい、互いに手をつないで家へ戻るように呼びかけて。徐々に目が慣れてきて見渡して時には、これが、大祭の前日かと思うような有様だった。
倒れた屋台や、敗れたマント、踏みくちゃにされた花冠や果物が、そこらじゅうに散乱し、しかも、がらんと静まり返っていた。アーヘルゼッヘは、見るともなしに、アゼルの回想を追っていた。見ているとの意識もなかった。だから、アゼルが、
「もし、あの後に、姫巫女の声が響き渡らなかったら」
と言って苦い顔をしても、黙るだけで何も言えなかった。
アーヘルゼッヘが、帝都を探るために出した光は、巫女姫の祈りの声で包まれた。あの時、町中があの祈りに包まれていた。あの優しさは、森の獣も虫も人も、何もかもを安らかな世界の中へと包み込んだ。あの祈りがなかったら、再び人は光と闇を味わっただろう。神の怒りを感じた直後に。
「すみません。私のせいです」
とアーヘルゼッヘは言葉短く謝罪した。アゼルは頭の弱い奴は嫌いだと顔に書いてあった。まっすぐアーヘルゼッヘを見ながら、あごの先で軽蔑をあらわした。しかし、言った言葉は違っていた。
「我らが巫女姫を帝都のウジ虫から救ってくれたことに対して礼をいう」
軽蔑していたのは、帝都の人間達だったのかもしれない。しかし、アーヘルゼッヘは尊敬やいたわりしか向けられたことのない者だ。町での冷気に満ちた人間の態度にも凍ったが、このまっすぐぶつけられる侮蔑にも弱かった。視線を外し、うつむいて、
「チウは、そこへ行ってしまった。私が至らないばっかりに」
とつぶやいた。アゼルは鼻で笑った。
「初めから期待などしてない。一人助けただけでも上出来だ」
と言った。思えば、ずいぶん失礼な言い方だった。しかし、アーヘルゼッヘは、首を横に振って、
「期待など関係ない。本気で助けなければと思っていたなら、二人とも助けていた。できなかったのは、状況を知ろうとしなかった私の怠慢だ。申し訳ない」
と今度は、本当の意味で、つまり、気弱な自分が出した言葉ではなく、責任を感じるものとして謝罪をした。
アゼルは黙ってアーヘルゼッヘを見た。片手をあげると、アゼルの後ろで兵士が動いた。ベージュの上着に緋色の帯をかけ、ブーツは黒く、こげ茶のズボンには赤と金の筋がつく。帽子は横に平たく三角だった。その帽子を器用に頭から落とさないようにかぶりながら、腰に下げたサーベルや背中に背負った銃をどこにもぶつけないように、回廊の手すりの脇から、音もなく近寄って、片膝をつきながらアゼルの下に床几を置いた。アーヘルゼッヘの後ろにも、いつの間にか兵士が立って、同じような布製の椅子を置く。
そして、アゼルが座るのを待っていたかのように熱いグラスが二つ差し出された。アゼルは、二つを両手で鷲掴みして、一つをアーヘルゼッヘへ差し出した。
「前夜際には、温酒を飲むものだ。さあ」
と言って、アーヘルゼッヘが手に取るまで、身動き一つしなかった。
アーヘルゼッヘには、分からなかった。ついさっきまで、侮蔑もあらわに睨んでいた男が、今は、まるで、親しい来客であるかのように振舞っている。気配も先ほどの怒りもなければ、いらだちもない。まるで、全くの別人が目の前にいるようにさえ見える。
「毒など入っていないぞ」
「いえ。そうではなく」
一瞬口ごもったが、アーヘルゼッヘは素直に聞いた。
「なぜ、このような歓迎するような事をしてくださるのでしょうか?」
「歓迎をしているのではない。前夜祭に喧嘩をするのは、水の神の不興を買う。あってはならないことだ」
「しかし、もう、今日は当日ですし」
「ならなおさらだ。さあ、酒をとれ。気に入らなくても、これから二週間ばかりは、我らは腹からの友である」
アーヘルゼッヘは酒を見た。ぐらぐら沸かした果実酒を柄杓で固いグラスに入れたらしい。濃いオレンジ色に泡が立ち、鼻をつんとした酒の匂いがさす。
「これは上手いぞ。帝国随一の温酒だ。まず、帝王だとて飲めない酒だ」
アーヘルゼッヘは覗き込んだ。
「疑うか? 帝都へゆられて運ばれたら、温酒にした時に香りが消える。ここでしか飲めない酒だ。だから、町の祭りでは大判振る舞いになる。町の者なら誰もが飲む感謝の酒だ」
そう言ってからアーヘルゼッヘと眼を合わせた。その目がゆるくなるのが分かる。
「私の謝罪の意味もある。あなたは、自分の身を守るためには力を使わなかった。しかし、巫女姫のためには使ってくれた。帝都に姫がいないことが、どれほど我らの救いになるか、きっとあなたにはわからない。チウもきっと喜んでいるはずだ。しかし、昨日の夜はひどかった。本当にひどかったのだが、それも今では過ぎたことだ。私は、これを飲んで流してしまいたいと思う。私はおまえに感謝がしたいのだ。これを飲んではくれまいか?」
とアゼルが言った。
アーヘルゼッヘは、自然と腕が伸びていた。グラスは細い足まで熱かった。指が二本で、他の指が熱さで浮いた。それを見て、
「そうそう。早く飲まねばやけどする」
アゼルは言って、グラスに口をつけた。アーヘルゼッヘも真似てグラスに口をつけると、息を合わせたように二人一緒に飲みほした。恐ろしく熱かった。思わずむせた。見るとアゼルも軽くせき込んでいるようだった。口に黒い手袋の手をあてて、軽く咳をしている。むせているのを見せないようにしているらしい。
「まあ、子供のころから飲むとなれるらしいが。体質は人それぞれだ」
と言って、口の端を持ち上げた。笑ったようだ。アゼルは、帝国一の酒も、あまり好きではなかったらしい。アーヘルゼッヘは、口の中に残った香りが、口の中で膨らみ始め、鼻に抜け、空気になって自分を覆っているように感じた。
「これは、飲むのではなく、吸う酒だな」
「うまいことを言う。今度、売り出す時に、うたい文句に追加しよう」
アゼルはそう言って、立ち上がった。
本当に、いっぱいの酒で水に流してしまったらしい。先ほどまであった怒りもなければ、侮蔑もない。そうだった、おまえは女か、とでも言いたげに、立ち上がるアーヘルゼッヘに今更ながらと言う感じで、立ち上がるために手を差し出した。女性をエスコートする人間の所作があることは、アーヘルゼッヘも知っていた。しかし、見たのは初めてだった。
そのアーヘルゼッヘでも、これほど神経のこまやかさが全くない、いたわりもなければ、やさしさもない、うっかり手をつかむとそのまま引きずり立たされるか投げ飛ばされそうな、力強さしかない手の差し出し方が、女性用だとは、どうしたって思えなかった。
アーヘルゼッヘは冷めた目で見ながら、手を片手でたたくと、さっさと一人で立ち上がった。そして、
「大祭をほおっておいていいのですか?」
とかなり真剣に気になっていることを聞いた。
「もちろん良くない。私は巫女姫を迎えに来た」
文句はついでだ、と言うことらしい。と、
「なら、わたくしへのあいさつが先ではなくて?」
と言う声が、回廊の対岸から聞こえてくるのだった。
すっかり身支度を整えた、帝国の巫女姫がいた。内庭の向こうに立ち、差し込む木漏れ日の下に立つ。朱色の着物に、銀糸と金糸で鳳凰が羽ばたいている。長い袖は膨らむ着物の裾の下まで広がり、光沢のある白く柔らかな布地の帯が、腰から胸まで覆う。
袖から覗くほっそりした手首には細い透明な輪がいくつも重なり、足もとから覗く布靴は銀の布に朱色の鳥が羽ばたいている。髪は膨らませながら頭上で結いあげ、いくつもの編みこみと光沢のある透明な布とが絡み合い、帽子のように、着物以上に大きく膨らませている。
白い頬には小さい薄い桃色の蝶が飛び、唇は着物に合わせた朱色で、目もとにはどきりとするほど濃い青色を刷いている。その目で、二人を見ると、
「さあ、何をしているのです! 祭りは待ってはくれません。今日の正午には、水の神へ祈を捧げなければならないのではありませんか! 神々はもちろん、祭り自身も、参加しに集まった人々をも、侮辱したことになるのではありませんか?!」
と厳しい声を上げた。
アゼルがゆったりとした動きで腰を落として胸に手を当てた。後ろに控えていた兵士達はさらに下がって、アゼル以上に腰を落として身をかがめた。アーヘルゼッヘは彼らを眺めて、真似をしようと腰を落とした。が、胸を手に当てる前に、
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
と言う、固い声に出くわした。
アゼルの、低い感情の消しさった声だった。先ほどまでの、表情があからさまに出る男の声ではなかった。アーヘルゼッヘは驚いて、姿勢を戻してしまった。アゼルを見下ろす形になる。アゼルは、腰を落としたまま、内庭の向こう、離れた場所にたたずむ少女に、床を見ながら、
「このような拙宅にご来場いただくことになり恐れ多くももったいなく存じます」
と平坦な固い声で言った。言われたパソンも黙ったままだ。
アーヘルゼッヘに見せた、つんとした子供っぽい表情もなければ、大人びた慈愛に満ちた巫女姫の顔もない。こちらも、驚くほど表情を消していた。違いと言えば、顔色がやや青ざめているくらいだ。アーヘルゼッヘは床を見る男に、
「巫女姫が助かって嬉しかったのではないのですか?」
「うるさい」
と小声の即答が返ってきた。
「巫女姫を助けたことが、世界にどれほど感謝されるか、つい先ほど言っていたのではありませんか」
「黙りたまえ」
「助かって嬉しい、と一言言うと、喜ぶのではりませんか?」
と言ったところで、アゼルは床に吐き捨てるように、
「身分の違いがある」
とつぶやいた。
「喜びに身分もなにもないでしょう」
「声をかけてよい身分と、声をかけるのも僭越になる身分がある」
「しかし、チウの従妹でしょう?」
「巫女姫である」
と言ったまま、床をにらむようにし、腰をかがめたまま後ずさり始めた。
「アゼル殿!」
「北の方なら治外法権。もとい、それ相応の身分の方とみなすことができる。姫巫女をお連れしてくれ」
と言って、さらに下がっていく。彼の部下はもっと腰を下げながら、もっと素早く下がっていく。アーヘルゼッヘは腹が立ってきた。
「身分が違うかどか知らないが、自分には挨拶に来ないのかと、あの少女は怒っているんですよ。自分で挨拶に、つまりは、文句を言いに出てきたんだ。しゃべっても良いと言うより、しゃべりたいと言う合図じゃないですか!」
アゼルは止まらなかった。アーヘルゼッヘは三歩歩いて、かがんだままのアゼルの前に立つ。
「突然、自分の屋敷から連れ出された十四歳の少女が、従兄の知り合いの顔を見たくて出てきたんですよ。なぜ無視をするのです」
アゼルはそこで動きを止めた。しかし、顔は挙げなかった。アゼルはただ、
「北の者にはわかるまい」
と言っただけだった。アーヘルゼッヘが振り返ると、朝の光の真ん中で、ぽつんと少女がたたずんでいた。きりりとした青い目元は、見開かれている。しかし、中の瞳はガラス玉のようで、何もかも映っているのに、心の動きは全く見えない。
「アゼル殿、巫女姫が泣いている」
とアーヘルゼッヘはつぶやいた。アゼルがはっと顔をあげる。パソンの目に生気が戻る。が、
「アーヘルゼッヘ殿。からかってくれるな」
と苦い声で言うと、顔をあげたついでとばかり身をひるがえして、回廊を後に、広間へ戻ってしまった。と、今度は、本当にパソンの目から一筋の涙がこぼれた。アーヘルゼッヘは、震えるような悲しみの波を感じた。ついさっき、パソンからはじき出たのは喜びだった。朝日の光の下で、アゼルを見つけて、声が弾み、心が温かさと嬉しさではじけ飛んだ。アーヘルゼッヘが思わず見とれるほど、その心のひだは明るく美しかったのだ。
なのに、次に告げた言葉は固く、心の波は潮が引くように引いていき、最後は震えだけが残った。
「アーヘルゼッヘ殿。参りましょう」
アゼルの背を見ながら、ゆっくりとした歩みでアーヘルゼッヘの傍にパソンは近づいてきた。そして、アーヘルゼッヘの横をすり抜けると、顔をそむけて、まるで見られまいとでもするかのように、前に立って、はっきりした声で言ったのだった。