チウ
アーヘルゼッヘの額を、輝くオレンジ色の血が流れていた。男は舌打ちをして、上着の隠しからハンカチーフを引っ張り出して、血を素早く抑えた。自分の手に付かないように。他の誰にもつかないように注意して。制帽が、アーヘルゼッヘをつかもうとすると、手を振ってさがらせた。
アーヘルゼッヘは、されるがままになりながら、痛みが引くのをじっと待った。痛さはすぐに引いていく。傷もすぐに消えるだろう。しかし、漠然とした不安をかんじた。人間は強いと思いだしていた。恐怖の力を使わなくても、人間は強かったんだと思いだした。北の者達と千年もの間、戦争で戦えるくらい強いんだ、と言うことを、嫌な気持ちになりながら思い出していた。
男は、アーヘルゼッヘをレヘルゾンと呼んでいた。北の者に詳しいと言うよりも、もしかしたら、知りつくしているのかもしれない。丁寧に額の血を拭う姿からすると、血の恐怖も知っていそうだ。人間には99.99999%猛毒であるレヘルゾンの血のことも。
「大丈夫か? おい?!」
アーヘルゼッヘを覗き込みながら男は声をかける。老人には全く見えない。豊かな白髪の若い男の姿だった。男は、北の者の力を知っていて、傷で不機嫌になっているはずの北の者を目の前にして、気遣っている。
力をふるえば人間は一瞬にして吹き消すこともできる。そう聞いているはずだし、やりたい者がいるなら、実際するだろう。その気まぐれな性質も、知っているかもしれない。なのに、男は、恐怖のかけらも持っていない。アーヘルゼッヘは、不思議な思いで男を見た。
「怖くないのですか?」
「それは、こっちのセリフだろう…」
男は呆れたように言った。警棒を構えたままの男たちがいた。銃を手にした制服が、すぐ後ろに立ち、アーヘルゼッヘに狙いを定めている。確かに棒は痛かった。銃はさらに痛いらしい。怖いかもしれない。しかし、北の館に、ばれるかもしれない、と言う恐怖の方がずっと大きい。見つかりたくない。それが、アーヘルゼッヘの今の芯になっていた。
その時、空咳がした。と同時に、イライラしたような声が、
「チウ閣下?」
と杖の男に問いかけた。顔を上げると、あの、馬車の御者台から飛び降りた、ビロードの襟の男が、制帽達の間に立って腕組みをしていた。
「不法侵入者でしたら、こちらに渡していただかないと困るのですが」
と全然困っていないような声で言った。閣下と呼んで敬意を示しているのだが、腕を組んで仁王立ちに見下している。
噴水広場を囲む建物の窓には、人々が鈴なりになっていた。興奮に沸いた顔が覗いている。あとから来たのか、さらに増えた制帽達が、広場に入る馬車を止め、広場の端に人々を押しやっている。北の者がつかまって安心したのか、好奇心に負けたのか、制帽の腕の避けるようにして、つま先立ちになったり、しゃがみこんだりして、こちらを覗き込んでいる。
騒然とした雰囲気だが、恐怖はなかった。アーヘルゼッヘは、額のスカーフを自分の手で押さえ、ゆっくりと立ち上がる。人々が一瞬ざわめいたのだが、チウが脇から手を貸すように立たせると、別の意味でざわめいた。恐怖と興奮の空気が交互に湧き上がった。
「チウ。おまえが北と戦争を始めそうだという噂で駆け付けたんだよ」
とビロードの男はぐっと砕けた声を出した。
「アゼル。それなら、これで、戦争ではないとわかるだろう」
とアーヘルゼッヘの腕をとった手を視線だけでちらりと見た。アゼルは、苦く笑って、
「捕縛命令を怒鳴っておきながらか?」
「悪かったな。おまえの隊を……。しかしだな。これで証明できたわけだ」
「何がだ?」
「捕縛できるような北の方は、北の方じゃない。先祖がえりだ。見た目が人間離れしているだけさ」
「先祖がえりって、それでは、人間と北の方が同じ一族みたいな言いざまだな」
とアゼルは言った。種族が違うと言うことくらい、誰だって知っているぞ、と言うように。しかし、アゼルは、全く逆のことを、大声を上げて、周囲に聞こえるように、
「チウ閣下が、北と人間を、見間違えるとはお珍しい」
と素知らぬ顔で言った。チウはチウで、生真面目な顔を作り、アーヘルゼッヘへ手を差し出すと、
「勘違いをして、申し訳ありませんでしたね。北の方のマネをして、人をからかうような事をしてはいけない」
と諭すように言った。
こんな茶番をして、何をしたいのだろう、とアーヘルゼッヘは彼らを見た。どう見ても自分は北の者だ。だいたい、転移でここに現れたのだ。見ていた人間だっていたはずだ。あまりにもうそくさい。なのに、茶番を見ていた、制帽の男達から、力が抜けた。機敏な動きをしていた棒が腰の脇へ垂れていった。
制帽達は、チウとアゼルへちらちらと目を向ける。警邏隊の隊長らしく、アゼルは、緊張を解いた警邏達の動きを、うなずくことで許している。が、口では真剣に、
「チウ閣下。では、その不法侵入の人間を、我らに渡していただきたい」
と、しらっと言った。
アーヘルゼッヘは様子を見つめた。転移で逃げることはできない。この多い人間を割って駆けていく勇気もさらさない。しかし、夜になれば力を使える。捕まったところですぐに自由になれるはずだ。それよりも、捕まえようとしたくせに、唐突にかばい始めたチウの動きの理由を知りたくなっていた。
チウはさらに、
「アゼル。これは、不法侵入者ではない。迷子だ」
と強引に言って聞かせている。アゼルは、
「迷子…」
と失笑し、制帽達も、笑うに笑えず視線を落とした。北の者だとは分かっている。しかし、チウが違うと言えば、違うことのしたいのだ、と言う彼らの心の声が、この動きに出たように思う。
チウとは、彼らのなんだろう、とまっすぐ彼らに目を向けた。と、アゼルは、チウの腕を掴んで、アーヘルゼッヘからはなれた。二人で顔を突き合わせるようにして言い合いをしている。
何か、チウに厳しいことを言い、チウは逆に杖の握りでアゼルの胸をたたいている。アゼルはだんだん不機嫌そうな顔から、怒りへと表情を変え、
「なら、勝手にしろ。私は町を守るのが仕事だ。何かあったら、おまえの屋敷へ踏み込むぞ。治外法権だなんだと言っても言い訳にならんからな」
「ああ、いつでもどうぞ。おまえなら、いつだって大歓迎さ」
「言ってろ。何のためにここに来たのか思い出したら、私の忠告の意味もわかるようになるだろう」
そう唸るように言うと、苦虫をつぶしたような顔をアーヘルゼッヘへ向けた。
怒りと焦燥を含んだ、愛情にあふれた空気がアゼルから流れ出ていた。おかげで、アーヘルゼッヘは故郷に思いが飛んだ。
北の館で、
「成鳥にならない者もレヘルゾンには多い。おまえもその一人だと思えばよいのだ」
と館の主は言った。
焦燥と愛情にあふれた空気をまとっていた。何も、成鳥になれないのを悲しんでいたのは自分だけではなかった、とアーヘルゼッヘは思い出す。あの時の、館の主の声は、一生忘れられないかもしれない。戻ったら、そう伝えようと、アーヘルゼッヘは心に誓う。誓いながら、痛い言葉を思い出す。
「私に幼生のままで生きよと? 大人になるなとおっしゃるのですか!」
館で大声を出したのは、アーヘルゼッヘがはじめてだったかもしれない。透明な光を反射し、隅々まで清浄な光で満ちた館がびりっと震えた。館の奥にいるはずの、ボゾローネ達が顔色を変えて、飛び出してきた。小柄な、北の者達に使える彼らは、北の者の気配には敏感だ。きっと雷が鳴ったように感じたはずだ。
「アーヘルゼッヘ様、何事です?!」
と低い声で、咎めるような声で言ったのは、テローノだった。呆れていたのかもしれない。あの方の前で出すような声ではない。もちろん、北の館で出すような声でもなかった。しかし、アーヘルゼッヘは止められなかった。
「あなたに仕える為だけに、この百年と言う歳月を過ごして来たのです。あなたにとっては幼き者の短き期間かもしれませんが、私にとっては人生の全てです。それを、成人させるための成鳥がいないから、あきらめよ、とおっしゃるのですか? 私が打ちひしがれた時には、成鳥になるためだからと、励まされたあなたが?」
「アーヘル。何も道は一つではないと申しているのだ。館で私に使えるだけが、私への奉仕ではない」
「そんなことは存じています! 北に住むすべてのもが存じています。そうして、あなたに仕えています。でも、私はあなたのそばで使えるために人生をささげてきたのです! なのに、遠くから、あなたの存在を時折、楽の音色に聞き耳を立てるようなそんな存在になり下がれとおっしゃるのですか!」
「なり下がるとは、他者を見下した言い方だ」
「ええ、そうですとも。本当に頑張っているものだけが、ここであなたに仕えることができるのですから!」
「おまえは、もともと向かないのかもしれない」
「ここまで来てそれをおっしゃるのですか。もともと向かない?」
「だからこそ、このタイミングで、成鳥が北の館にいないのだろう」
「あなたがそこまでおっしゃるのですか…」
「北の者に身分の上下は存在しない。それをわかる者でなければ、館に住まうことはできない」
「わかっています」
「外へ下ることが、なり下がるのだと思う者が、わかっているとは言えない」
「あなたは、あなたと言う存在のために全力を尽くす者の心をおわかりでない」
「私に尽くすということは、世界に尽くすということだ。それが分からなければ、結局、アーヘルよ、おまえはここにいていないのと同じだ。それはあまりに哀れである」
「私は、成鳥になり、ここであなたにお仕えします。そのために、選ばれ、能力を磨き、力を育て、技術を身に着け、ここにいるのですから」
「本当の資質は、こうやう危機に対してあらわれるものだ」
「私の資質は、ここでのレヘルゾンのはずです!」
あの方の悲しみに満ちた顔は生涯忘れられないだろう。アーヘルゼッヘは苦い気持ちでうつむいた。思い出が苦い。あれほど楽しい時を過ごした館なのに。あの方は、
「おまえを、そばに置こうと思った私への戒めかもしれない。これは、おまえのせいではない。アーヘル、もう充分です。下がりなさい」
と言った。
あの「下がりなさい」は、永遠に館に来るなと言う意味だった。「はい」と応えれば、アーヘルゼッヘは二度とあそこへ戻れなくなる。そのくらい、強烈な言葉の波を持っていた。アーヘルゼッヘは、その瞬間、世界を飛んだ。あの場所から、飛び出していた。答える前に逃げたのだ。
「戻れるだろうか…」
とつぶやくと、戻りたい、と言う思いが湧き上がってくる。戻るには、成人しなければならない。成人するには成鳥を見つけなくてはならない。北では姿を消したという、万年の時を生きている北の者を。
「会えばわかるはずだ」
とアーヘルゼッヘはつぶやいた。成鳥に、成人するための最後の一押しをしてもらわなければならない。
アーヘルゼッヘは肩をぽんと叩かれた。飛び上るほど驚いた。こんなに簡単に、レヘルゾンに触る者は、北の大陸には存在しない。ましてや、北の者を触るような人間は、きっとほとんどいないだろう。人間は、北の者に恐怖を感じるらしいから。
目の前の白髪の男は、気軽にアーヘルゼッヘの肩を叩いて、苦い顔で笑った。
「と言うことで、あなたはしばらく私の客人になっていただく」
「と、言うことで?」
「聞いていなかったのか?」
とあきれた声で言われた。
本の一瞬物思いに浸っていたと思っていたが、ずいぶん考え込んでいたらしい。アーヘルゼッヘは、慌てて、時間に耳を澄ました。力を使うわけではない。つまりは、自然に圧力をかけるわけではない。漂う音の余韻に耳を澄まして、ここ数分の声を拾う。離れて散っていく音へ、静かに耳を傾ける。
アゼルとの話のあとだ。チウの声が聞こえだす。彼は、周囲に話しかけていた。
「北大陸との仲介者として、大祭を、祝いに来てくれた方だ!」
声は響いて、広場の中でこだまする。
「大祭のためにおいでになられた」
と建物から見下ろしている人々に聞こえるように大声を上げていた。通りのざわめきに対しても聞こえるように、
「大祭は、大陸の違いを超えて、世界をたたえる大事な祭りだ。この町に、仲介者がくるほどの祭りである!」
と怒鳴っていた。
これが聞こえていなかったとは、とアーヘルゼッヘは自分であきれた。時を戻して、空間の中で思い出に浸っていたようなものだ。アーヘルゼッヘは軽く頭を下げた。そして言った。
「嘘はよくない」
「嘘じゃない」
今、目の前にいる、チウが言った。
「私は仲介者ではない」
「北大陸から来たお方でしょう」
「逃げ出して来た者だ」
「いいんですよ。肩書きじゃなく、実質、仲介者になってほしいというだけですから。大祭に北の方がやってくる。恐ろしいが、貴重な体験になると興奮してくる。それで、十分我らの目的にかなっている」
「目的ですか?」
「ええ。北の恐怖を緩和して、世界の平和を祈ろうと言う気になれるのですから」
「世界の平和…」
「大祭の目的は、大地に眠る神々に世界の平和を訴えるものですから」
「眠る神々…」
「ここは、オアシスの町です。地中の神が、人間に生きよとささやき、泉を吹き上げさせる町。ハーナルホーンと言う名の由来です。神々がこの大地に眠っているという信仰があります」
アーヘルゼッヘは、チウの後ろの噴水を見た。砂漠の真ん中にある町で、惜しげもなくあふれ出る水がある。神を探したくなるはずだ、とアーヘルゼッヘも思った。
「北の方。あなた方が、その特異な目で、大地の下に何を見ようとも、人間のわれわれの思いを否定すようなことはおっしゃらないでください」
ひどくまじめな顔をしていた。アーヘルゼッヘもまじめに答えた。
「ええもちろん。言わないと誓います。それに、思考が自然を凌駕することはままあることです。本当に、人間の神々が眠っておられるかもしれない」
と、最後の部分はつぶやきだった。答えながら、アーヘルゼッヘは、北の大地で眠る人々のことを思い出していた。もし、北大陸でも、同じように祭りを行い、眠る彼らの心に平和を唱えることができたなら、みんな起きてくるのではないだろうかと言う気がした。
毎年誰かが地下へ向かう。別れの宴は、賑やかだがさびしくて、水晶宮の奥へ続く扉では、まるで死出の旅立ちを見送るような気がしてしまう。死の別れと言うのをよく知らないのだが、それは、こんな感じかもしれない、と思う。
人それぞれだから、止める者はだれもいない。しかし、生まれる子供はほとんどいない、北大陸では、深刻な問題になりつつあった。アーヘルゼッヘを含め、ここ百年で三人しか子供が生まれていない。成鳥が必要なほど大勢の子供はいない。
自分が成熟するころには、誰もいない北大陸になるかもしれない。アーヘルゼッヘは、しんと静まり返った地下空間のような、変わり果てた北の大地を想像して、背に冷たいものを感じた。
手を伸ばしても、心の温かさが返ってこない世界は、アーヘルゼッヘにとって死の世界と変わらなかった。
「大祭ですか…」
「ええ。十年に一度の盛大なお祭りです」
「賑やかになれば、神々が目を覚ますでしょう」
とうらやましい気持ちをこめて言った。すると、チウは苦い顔をして、
「目を覚ますのは、利得に敏感な人間達ですよ」
「チウ殿…」
「チウで結構。あなたは? 北の方にも、声を出して呼んでいい呼称がおありだとお聞きしました」
「私はまだまだ成人前です。アーヘルゼッヘと呼んでください。どう呼ばれても支障はありません」
「そうですか。成人前ですか」
とチウは言ってアーヘルゼッヘをじっと見た。どこもおかしい所はない。が、どうも、何かおかしいことを言ったような気がしてきた。チウが唐突に話題を変えた。
「アーヘルゼッヘ。大祭に参加してみませんか?」
「仲介役としての役目があるのですね」
「いいえ、そうではなくて。大地の神に、地上の小枝を備える儀式があるんです。白髪の長老の仕事ですが、きっと、あなたは、ここの人間の誰よりも年長者に違いない」
「あなたがすべき仕事だったのではありませんか?」
と遠慮がちに言った。
チウの白髪は、銀髪混じりの美しいものだった。しかし、目じりのしわや、深い口の脇にできた皺は、白髪になるほどの何かがあったとうたっているような気がした。髪の色には嫌な思い出につながっているかもしれないと思った。が、チウは眉を軽く片方あげ、
「残念ながら、私は警備担当なんです」
と楽しそうに答えた。
祭りを大事に思い、楽しもうとしている。アーヘルゼッヘは、ぜひ、参加したいと思う。しかし、首を左右に振った。
「うれしいです。私を誘っていただいて。しかし、私は人を探したい。大祭は人が集まってくるのでしょうか?」
チウがうなずくと、アーヘルゼッヘもうなずき返して、
「それでは、ぜひ、人探しをさせてください」
「わかりました。無理にとはいいません。あなたが、大祭に集まる人々に積極的に出会いつづけてくれれば、本当に仲介者になってくれるでしょう」
それもまたありがたい、と言うようにうなずいた。
そんなに会いつづけられるほど、ここにいられるかどうか、アーヘルゼッヘには分からなかった。途中で、北から派遣されたものにつかまれば、そのまま、大陸へ護送されてしまうだろう。
北の主の言葉を無視し、無礼にも館の中から転移したのだ。転移は気圧の変化を生む。家具を倒した程度だったかもしれない。しかし、北の主を危険にさらしたのは事実だった。どんな罪があるのか、アーヘルゼッヘには分からない。しかし、何もなしでわ済まないはずだ。
アーヘルゼッヘは、引くい声で、
「子供だからと許されることではないから。せめて、成人して、一人前に役立つものになって、北の館でお会いしたい」
とつぶやいた。そこにしか、アーヘルゼッの可能性はないような気がしたのだ。
アーヘルゼッヘは、視線を上げた。人で鈴なりの建物の窓や、警邏達に押されて押し合って、それでも前に出ようとしている人々を見る。血色の良い、生き生きとした眼が、中央へ向けられている。目を皿のようにしてチウを見ている。彼らが大事にする神々にお会いしてみたい気がした。人の心が生み出す神とは、どんな存在だろうと思ったのだ。
そんな中、チウは、
「さて」
と笑って、周囲に向かって杖を振った。そして、アーヘルゼッヘの肩を組み、
「大切な客人だ。みなよろしく頼むぞ!」
と言うと、どっと声が上がった。気持ちがいいほどの熱気がアーヘルゼッヘの頬をなでた。
ぜひ、大祭を見てみたい、とアーヘルゼッヘは思った。心の隅で、あの神への捧げものをする役を引き受ければよかったと、かなり後悔した。さらに、約束があると言えば、北の者達は、強引にアーヘルゼッヘを連れていけないじゃないか、と遅まきながら気がついた。目的は人探しなのだが、大祭に参加するために来たような気になり始めていた。
アーヘルゼッヘは、警邏達の乗ってきた馬車に乗り、広場を後に、チウの屋敷に向かった。警邏隊が馬で前後についていた。馬車の屋根には御者が乗り、箱の後ろに警邏が一人つかまって、アーヘルゼッヘは守られていた。広場に来ていたのは町の一部の人々だった。
町は、広場を中心に広がっていた。四方へ延びた道の一つ、北へ向かう道を行く。高い煉瓦の建物は、すぐに乾燥した低い土塀の家へと変わって行った。長いドレスや重ねた上着で着飾っていた人々が、薄手の着なりのシャツに古い生地のズボンやドレスに変わりだす。
乾いた塀の間を通る。白い大地に裸足で立って、馬車を見送る人々がいる。屋根のある門の窓から、子供が顔をのぞかせて、珍しそうに馬車を見る。中に座る、銀の髪のアーヘルゼッヘを見ると、慌てたように中に逃げ込む。銀の髪が怖いのか、馬車の人間と眼があったのが怖いのか、わからない。町は果樹園に囲まれていた。
馬車は、次第に人家を過ぎて、乾燥した果樹園の間を走りだし、明るい林の中にたたずむ平屋の建物へと入って行った。町はずいぶん広かった。林の中から町を振り返ってみると、まっすぐ伸びた道の先に、背の高い黒い建物が見えた。そこが町だ。すすけた緑の果樹園が、塀に囲まれた町を囲んでいた。
馬車は林の中を通って、屋敷の前で動きを止めた。高床式の建物だった。柱や手すりに凝った獣の彫り物が浮かぶ。エントランスが、テラスのようになっている。長い庇が外へ突き出て、柱が目につく。
床には絹の絨毯が敷かれ、重厚な木のテーブルに木のソファーが、接待用か来客用か、町の見える場所に並ぶ。金糸銀糸の華麗なラグやテーブルに華やかさを添える。柱近くには、大きな色鮮やかな甕が飾られている。柱につるした籠には、茎の長い白い花が活けられている。
みずみずしい、と言う言葉がぴったりの屋敷だった。よく見ると、テラスの奥に、本当の入口らしい扉が見えた。
「美しいところですね」
アーヘルゼッヘは感動のまま、つぶやいた。
心のままに言った言葉は、光がはねて、林の木々の葉を光らせた。すぅっと、あたりがぱっと明るくなった。人間が気づいたかどうか分からなかったが、アーヘルゼッヘは更なる美しさに、言葉をなくした。
そのわきで、片手を上げて、御者や警邏に礼を云いっていたチウが、さっとアーヘルゼッヘを振り返り、
「ありがとうございます。きっと、これを貸してくれたアゼルが大変喜ぶでしょう」
と言って、皮肉な顔をした。
チウはここが気に入らないようだった。美しい、と言うだけでは満足しない性質か、もしかしたら、これを美しいとは思わない性質か、えーヘルゼッヘには分からなかった。チウは、再び、警邏へ向かいあってしまう。警邏は、ここへ残ると言い、警固すると堅持している。
「見張らなくても逃げたりしない」
とチウがイライラしたように言っている。警邏は、馬に乗って前を守っていた、筋骨たくましい赤髪の男だった。目が落ちくぼんでいて、口が横に広く、暗いまなざしは知性と、したたかさがあるように見えた。チウはさらに、
「私を信用しないのか」
と突っぱねるように言うと、警邏は、
「もちろん信用いたします。しかし、私は隊長の命を受けて、ここを守れと言われましたので」
「別に襲ってくるものもおるまい」
「大祭に際して、何が起こるかわかりません」
とこれは、真剣な声音になった。
まっすぐに背を伸ばして、手には馬の手綱をかけて、肩はば程度に足を開いて立っている。閲兵を受けているようにも見える。男はまっすぐ卑屈さを見せることなくチウを見上げている。
「何かが起こるなら、町中であろう。だから、アゼルは、こんな辺鄙な場所に私の屋敷を用意したんだ。まったく、私が何のために来たと思っているんだ、あの男は」
と最後の部分は吐き捨ているように言うと、男は、
「閣下を大事に思っておいでです。何よりも大事なお方だと、われわれに直におっしゃられるほど、大事にしておいでです」
「私は礼を言わねばならないかね。大事にされるあまり、仕事の妨害をされているのを?」
「それは…」
「君にあたってもしょうがない。悪かった。私もアゼルが大事だ。彼が帝都に来たら、きっと塔の上に閉じ込めて、危ない繁華街には決してうろつけないように監禁してしまうだろうくらい、大事に思っているのさ」
と言うと、男は笑った。
「それは、いくらなんでも。隊長が気の毒では…」
「そうしたいくらいの気分になるさ。君もここで数日過ごせば」
そう言って、チウは背にした屋敷を見かえりながら見上げて見せた。男はまじめな顔でうなずいて、
「それでは、しばらくここで過ごさせて見せてください。結果次第では、隊長への仕返し方法を黙秘で検討いたしましょう」
「黙秘ねぇ」
と言って、首の後ろに手をやって凝りをほぐした。
テラスのエントランスから駆け降りてきた家人が二人立っていた。階段の下で、二人の話が終わるのを待っている。前衣を五組みの色鮮やかなひもで留めた、体にピタリとしたまっ白い服を着ていた。
ベルトも帯もない服は、長く、裾は四片に割れている。裾からは、色鮮やかな織生地のタイツのようなズボンが見える。足にはバックルを留め、爪を縫っている。しかし素足だ。
真っ黒の目に真っ黒の髪で、ぴたりと頭の形を見せるように結いあげた髪は、服もそうだが、髪も男女同じにするものらしい。町の人間と全く別の人種がそこに立っていた。彼らは、黙って静かなたたずまいに見えた。しかし、どこにも力が入っていない。いつでも動き出せるような隙のない姿に見えた。チウは、家人が待っているのを気にも止めずにぶつぶつ続ける。
「君たちが、アゼルに隠しごとができるとは思えませんよ。君を全然信じられないのだから、取引にはならない。私が逃げないと言っていても、信じてもらえないのと同じだろうけどね」
「……。」
アゼルは、自分の上司と対等な男の愚痴を、賢明にも黙って聞き流した。目は伏せたまま、くぼんだ窪みが表情を隠してしまう。が、アーヘルゼッヘは、楽しんでいる男の気配を感じていた。チウとのやり取りを、苛立っているようにはみえなかった。だから、つい、
「私は逃げない」
と言った。
言ってから、妙なことに気がついた。彼らは、アーヘルゼッヘが逃げるかどうか心配しているのではなかった。チウが逃げるのではと心配していたのだ。
「チウ殿も逃げないとおっしゃっている」
「それでも警護は必要なんです。ここは遮蔽物が何もない」
「人間、音探知機ならいるぞ」
とチウが言った。失礼な言い方で、アーヘルゼッヘはむっとした。が、アーヘルゼッヘことではなかったようだ。
「閣下の家人が護衛を兼ねているのも存じています。しかし、それでも、四方から同時に襲えるこの屋敷では心もとないのです」
「だから、町中に屋敷を用意しろと言ったではないか」
「あなたの場合は町中の方が危ないでしょう。まさか、方々が現れるとは隊長も思っていなかったのです」
そう言ってから、まじめな顔で、
「今からでも遅くありません。方々を我々は丁重におもてなしいたします。アゼル隊長の警邏隊に捕縛されている者を襲う人間は、この町にはいません。ですから、どうぞ、こちらへ」
と言って、アーヘルゼッヘを見た。チウはかたくなに首を横に振った。
「閣下? 隊長を信じていらっしゃらないのですか?」
と少しいらだったような声だった。しかし、チウは、首を横に振ってから、
「ソン。アーヘルゼッヘはご令嬢だ。たぶん、南のどの大陸にいる人間よりも深層の宮殿で育てられたお姫様だ。柵のついた部屋へ入れるわけにはいかない」
と言った。
アーヘルゼッヘは、首を横に振った。
「北に王宮はありません。それに、姫と言う肩書も存在しません。柵のついた部屋と言うのは初めてですが、どうせ、夜には出歩くのですから。どこに居ようと大差ありません。ご安心を」
「できません。あなた方の基準とわれわれの基準が違うのは確かですが、それでも、成人前の幼子で、しかもお嬢さんを、男たちのど真ん中に放り込むわけにはいかないのですよ」
「しかし」
「あなたは、さっき、棒で打たれたではないですか。もし、本物のレヘルゾンらしくあれば、誰も心配したりしないのですが」
と言って、チウはため息をついた。力を存分に使う北の者なら、人間なぞ敵ではないだろう、と言っているようだ。アーヘルゼッヘは、
「本当に危険なら、必ず転移でも何でもして、私は逃げ出します」
「危険、と言うのを、何をもってして言っているのかが問題なんですよ」
とわかったような事を云った。
アーヘルゼッヘにとって、もっとも危険なのは、成鳥に会えず、成人できないことだった。それを知って言っているような気がしてしまう。北の者は基準が違う。それは、長く生きるためのコツかもしれない。今、目の前の心のよりどころを失ってしまっては、長い時間を生きる心の強さは生まれてこない。
すなわち、発狂するか、地下へ眠りに降りていくかのどちらかになる。この、チウと言う男は、本当に、北の者を知り尽くしているのかもしれない、とアーヘルゼッヘは思った。自分は油断しすぎていないか、と問いかけた。と、その時、目を見開いたまま動きを止めていたソンが、
「お譲様、ですか…。この方は。こちらの若い方は、女性だったのですか?!」
と最後の部分は声を荒げていた。
「ソン、失礼だぞ。美しいご令嬢ではないか」
「あなたの、肝の太さに、大陸中がほれ込んでいますが。こんなところで、そんな太さを出さなくても…」
「何を言っているんだ?」
とチウがとがめた。アーヘルゼッヘは、女性には見えないらしい。と理解した。しかし、それが何なのだろうと、不思議に思った。
「男女差がないと、それほど、困るのでしょうか?」
と聞いた。
「困るとか、困らないとか、そういう問題ではなくてですね」
とソンがしどろもどろに答えると、
「大丈夫です。男だと思えば、そう扱っていただいてかまいません。実際、そう扱う北の者もいるのですから。幼生は、男女の差はないものです。成人して初めて、差が出るのですから」
「なら、北の方達の御嬢さんは、みんな男のようなのか…」
とどこか驚愕と言うより、がっかりしたような声を出した。人間にも夢を持つ者がいる。
淡い銀の髪を持つ、軽やかな肢体の美しい北の妖精、と言うのは吟遊詩人の歌う、悲恋物の定番だった。その妖精を守るために、悪魔のような力を持つ男たちがいる、と言うのが物語の趣旨だった。しかし、その男女に差がなくて、大きな若者が子供で小さなお嬢さんだと聞かされたのだ。ソンの気分はどれほど落ち込んでいっただろう。
アーヘルゼッヘはアーヘルゼッヘで驚いていた。人間の性別に対するこだわりは、自分たちの成人であるかどうかのこだわりに匹敵するかもしれない、とそれこそ目を見開くような発見をしていた。どちらでも良いと思ってはいけないのかもしれない、と思ったところで、
「ソンさん、ですよね。あたなは、男性です、よね?」
と。最後の部分は、か? と問いかけようとしたのだが、顔色が真っ白になったのを見て、言い方を変えたのだった。
「私には、男女の違いは分からないのです」
「みんな男なんですが。見た目がごつい…」
と言うのは、悲しみに満ちたまなざしでのつぶやきだった。アーヘルゼッヘはあわてた。
人を絶望させて喜ぶ性質ではない。喜ばせることもないのだが、自分たち北の者の情報が少なすぎるから何かおかしなことになっているのだ、とアーヘルゼッヘは思いこんだ。そこで、
「昔の子供達は、北の者の中であっても、人間の少女のような体型のものもいたそうです」
「昔話ですか…」
「ええ、ですが事実です。ちゃんと絵姿が残っていますし、当時の人々の心に残る思い出を見ればそれが嘘でないと言う事がわかります」
その少女のような姿の者が、人間の戦士の姿に酷似した姿に成人したのだが、黙っていた。ソンは、
「あまり気になさらずに。単なる思い込みです」
と言ってため息をついた。
気を換えるように顔をチウに向けたのだが、アーヘルゼッヘは、悲しみが消えてないのが気になった。そこで、さらに、
「本当は、もっとたくさん、少女の姿で育つのかもしれません。ただ、今の、われわれには、子供は三人しかいないのですよ。ですから、そんなに多くの種類があるかどうか見分けることができなくて」
と言った。その話に、チウが顔を陰らせた。
アーヘルゼッヘは見えなかったが、気配が陰ったのを感じて、チウをさっと振り返った。しかし、表情は消えていて、
「わかったでしょう。ソン。種族で三人しかいない子どもの、しかも、お嬢さんを預かっているんです。もし、彼女の身に何かあれば。きっと、その数分後には、人類は滅亡していることでしょう」
何を大げさなことを、とアーヘルゼッヘは思った。個人がしたことは個人に責任が及ぶ。ルールを破ったことへの罰があったとしても、ここでアーヘルゼッヘが倒れたことへの驚きはない。それが自然の摂理であり、摂理は曲げられないものであり、選んだのは本人だ。本人の意思を無視してまで、動くものは北にはいない。
「何をばかげたことを」
とアーヘルゼッヘが言うと、
「親の心子知らずと言うのです」
「私に人間で言う親はおりません」
「それでも、種の幼子にたいする愛情をあなたは知らないのですよ」
「……。」
だから、成人になりたいと思っていたのだ。常に子供扱いをされ、世界には自由があると言われながらも決して自由にはさせてもらえない。
「私は成人です」
「今のあなたが?」
と言う驚きに、アーヘルゼッヘは傷ついた。もちろん、見た目が全く違うので、成人とは言えないだろう、しかし、
「気持ちの上では、もうとっくに成人なんです。百の誕生の年を迎えました。長い歴史の上で、この年で子供のままと言うことはありえないんです」
と言う。チウは、それでも首を横に振って、
「あなたの次の世代はいない。となると、あなたは永遠に幼子かもしれない」
「そんなことにはさせない! 自然は大人を欲するはずだ」
なのに、なぜ、その機会を与えてはくださらないのだろう、とアーヘルゼッヘは思った。気持ちが膨らみ、宇宙への問いかけに変えようとした。しかし、自分の声は響きすぎる。
宇宙へ上げた声は、北の主が聞くだろう。もう、耳を傾けているかも知れない。アーヘルゼッヘはうつむいて、下唇をかむ。誰が何と言おうと、自分が役に立つ一人前の大人だと証明しなければならない。そのためには、成人の証を立て、役立つ仕事に就くことだ。
目の前に立ったまま、二人のやり取りを聞いていたソンに、うっすらと血色が戻ってきた。アーヘルゼッヘを見る目は複雑で、何とも言えない表情をしている。アーヘルゼッヘはそこに同情の色が浮かんでいるように見えた。
「私は成人になる身です。子供扱いはしないで結構!」
「ええ。まあ、その」
と言った後、ソンは、チウを見ないでまっすぐアーヘルゼッヘへ目を向けた。
「あなたが私の三倍は年上だとわかったので、子供扱いはできません。できるのは、閣下や同じ種類の人間達だけでしょう。それから、あなたが女性だと言うのなら、私は女性扱いしかできません。男のなりをしている健気な女性にしか見えない」
「ついさっき、女性と聞いて顔色を変えた」
「まだまだ、私自身が幼いからです」
とソンは答えた。そして、さらに、チウへ、
「今すぐ、私は戻ります。警邏達をここに残します。決して、閣下の家人をお傍から離さないでください。隊長に相談し、ここの警備の強固か、または、町の庁舎か、神殿か、どこか絶対の守りの場所へおいでいただけるように、話あってまいります」
そう言ってから、まっすぐアーヘルゼッヘを見た。
「ところで。本当に、子供は三名しかいらっしゃらいないのですか?」
「そうです」
「人類最後の三人になりました。と言われたら、私なら、卒倒するかもしれません。あなたはすごい」
「生まれた瞬間から、三人なんです。どちらかと言うと、二人しかいなかったところに生まれたので、大喜びされましたよ」
「その喜びをつぶしたのが人間だとなったら、きっと北中の方々が、我らを許さないでしょう」
アーヘルゼッヘは暗い気持ちになった。喜びに沸いた街の話は何度も聞いた。だからこそ、自分はその喜びに答えたかった。その喜びをつぶして、飛び出して来たのは自分だった。もしかしたら、本当に、北中の者達が、もう、アーヘルゼッヘを許さなくなっているかもしれない。最後の三人だからと言って信念を変えるような北の者は存在しない。ソンは続けた。
「決して、南で死ぬようなことはなさらないでください」
と面と向かって言った。
「そんなつもりはありません」
「それなら結構です」
と言った。
少し安心したかもしれない。自分の身を自分で守るつもりでいる、とわかれば誰だってほっとする。無謀なことをしないだけでもありがたい。その上、どんな力か一般には想像しかできないのだが、それでも人間を凌駕する力を持つ北の者だ。生き抜くつもりなら、何があっても大丈夫だろう、と思うはずだ。
しかし、ソンの顔の憂いは晴れない。もしかしたら、人間に不備があったら、外交問題として、不利になると思っているのかもしれない。人間は、絆をだいじにする。仲間の危機のために命をかける。それが自分の意志とかけ離れていてもしょうがないと思ってしまう生き物だ。だから、駆け引きに使われる要素となる、とアーヘルゼッヘは思った。
自分は人間の中に降り立った北の者だ、とかみしめていた。仲介者と言うのを本当に意識しなければならないかもしれない、外交をつかさどる立場の者としての振る舞いを考えておかなければ、人間達に大混乱を与えてしまうかもしれない、と思うようになっていた。
しかし、アーヘルゼッヘは、性別のない美しい若者に見えていた、と言うことは思ってもみなかった。男性にしか見えない、と言う意味がどういう意味か、本当の意味には気付かなかった。ソンは、
「怪我もです」
とつぶやいた。言ってから、手を伸ばした。無意識のようだった。
日に焼けた顔で、頬にふかい皺を刻んで口をかみしめている。手を、アーヘルゼッヘの額にのばして、傷口を探そうとした。自分達が勢いに任せて、女性の顔に傷をつけたことを後悔していた。深い悲しみと恐れの波がソンから湧き出していた。アーヘルゼッヘにはなぜ、そんな悲しみが生まれるのかが分からなかった。それが不思議で、ソンの手を眺めていた。額の血は止まり傷口は消えている。その手が、触れるか触れないか、と言うところでチウが穏やかにソンの腕に手にかけた。
「北の方の傷の治りは早い」
と教えていた。ソンは、慌てて手を腰のサーベルのつかに乗せ息を吸った。
「……閣下」
と言うと背を伸ばし、
「それでは、しばし、失礼いたします」
と、言うと思い切ったように離れた。埃が上がってもかからないところまで馬を引いて離れると、鞍に軽々とのり、集まってきた警邏の者に、手短に命令を下す。馬車の御者も警邏隊の一人だったらしい。命令を聞くと、馬車を裏へ回そうと、慌てて家人に厩を聞きに行く。そして、彼らが動き出すのを確認すると、ソンは、果樹園の道をまっすぐに町へ向かって、馬を駆けさせた。