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北大陸の者  作者: るるる
18/18

馬は東部の町中をゆっくりと移動していた。道の煉瓦ははがれ、歩道はところどころで崩れている。押し寄せるような切り立った建物の間を、上からゴミや水が降ってこないか警戒しながら、進んでいく。東部には大通りがない。あるのは外壁沿いの広い通りか、曲がりくねった町の通りかどちらかだった。方々に小さな丸い広場があって、その中央に井戸があった。しかし、水が出なくなって久しいらしく、井戸の手ポンプの上に、馬草が積まれていたり、壊れた樽が投げ捨てられていたりしていた。水は、中央区の近くで売っているのが日常になっていたらしい。その日常を彩る人々も、今は影が見えない。


中央区へ逃げた人や、勢いで出かけた人は戻っていなかった上、外壁の外の兵を見て、地階のかつての水路の中に逃げ込んでしまっていた。

「そうですね。私が呼んだようなものかもしれない」

汚れた煉瓦の壁を見上げながら、アーヘルゼッヘはつぶやいた。


自分が北の館を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。と思ったのだ。テンネは、こんなことは考えなかったはずなのだ。たぶん、大祭で水の種の根っこをのばして水を引き、チウとして戻ってきて穏やかに、あの厳しい皇帝のもとで、帝都を見守っていたはずだ。

「つまり、おまえが呼んだわけではないのだな」

とトローネは言った。言ったとたん馬が止まった。


アーヘルゼッヘが顔を上げると、目の前に厚い石の建物があった。見上げると、鐘楼が見え、その脇に物見の窓がついている。帝都最東端にある、街壁を守る巨大な門の塔だった。塔の中に門があり、脇は兵たちが固めていた。周辺は、思った以上に大勢の兵がいた。伝令以外の騎馬兵が来て驚いたらしい。塔から、隊長が飛び出してきて、騎乗のトローネを見ると驚いたように敬礼をした。


トローネは胸に手をあてて棒を飲んだように立つ隊長に、額に手を当てることで答えて、

「楽にしろ」

と命じることで、呪縛を解いた。


 アーヘルゼッヘはその隙に、トローネの後ろから滑り降りた。そして、振り返る騎乗のトローネを見上げると、

「ここまでです。付いてこないでください。すぐ終わりますから」

と言って、きょろきょろと周囲を見回した。門の塔への入口へ走りだした。別に出ていくことはなかった。すぐそこで、全てが終わる。


アーヘルゼッヘは、追いかけてきたトローネの腕をすり抜け、塔の脇から門の中へ入り込み、石で組まれた簡素な階段を駆け上がった。暗い壁の間から駆けあがると、空に出た。手すりもない、街壁の上だ。鐘楼が脇にそびえ、見張りの兵士が真剣な顔で海の方を見つめている。アーヘルゼッヘが、登りきって街壁を歩きながら振り返ると、東部の建物が見えた。


その向こうに、遠く、朝霞の中にぽっかりと宮殿の丘が浮いている。宮殿の緑の美しさは、これほど離れていてもよく見えた。なのに、ここには水がない。人々が何を思ってあの緑を見つづけただろうと思うと、胸のあたりが痛くなった。草原の水を止め、穀倉地帯を後退させた人がいた。帝都への水がないからだと言って。そうして、帝都への穀物価格を上昇させた。


この東部で、麦を買う資金も、麦を育てる畑もない人々が、その話を聞きいったい何を思っただろう、そう思うと、アーヘルゼッヘはさらに胸が苦しくなった。アーヘルゼッヘは、帝都を見続けていた。背後には海辺へ続く平原があり、ぎっしりと兵士が隙間なく押し寄せている。崖の淵では、空を背にして白いテントの屋根が見え、トップのポールに華やかな布が翻っていた。その前で、遠く壁を見上げる兵士は、こわばった顔でアーヘルゼッヘを見上げていた。その前に立つ弓兵が、かまえたままで動かない。


「何をやっているんですか!」

後から駆けあがってきたトローネが、アーヘルゼッヘの腕をつかんだ。が、その腕をするりとかわした。アーヘルゼッヘは、トローネへ、

「下がっていてください。ここは危険です」

「何を言っているんです。危険なのはあなたでしょう! いくら北の方の姿をしているとは言え、ここは彼らにとっては敵の地です。いつ敵が、あなたに弓を引くか分からない!」

トローネはアーヘルゼッヘの腕をつかんだ。アーヘルゼッヘは振り払おうとして失敗した。

「いいんです。ここにはそのために来たのですから」

そう言うと、トローネは顔色を変えて、今度は何も言わずアーヘルゼッヘを引きずりだした。駆け昇ってきた剣士たちが、盾を掲げて二人を囲んだ。アーヘルゼッヘは足を張って動きを止めた。

「見ていてください。大丈夫ですから。お願いです。必要なことなんです」

とアーヘルゼッヘが口早に言うと、トローネは真剣な顔で、

「あなたは自分がだれか分かっていない。誰であろうが、人間があなたを殺めたとたん、人間は、北の方に滅ぼされるんです」

「そうしたいと思っている者がいることを知っています。しかし、決してそうはならない。大丈夫なんです。ですから」

「つまり、私に、あなたがここで射殺されるのを傍観しろと言うのですか!」

「だから、大丈夫なのです。私は決して死んだりしない」

トローネはアーヘルゼッヘの腕を離した。そうして言った。


「あの大戦で、どれほど多くの若者が、そう言って飛び出して言ったか。私は、将を辞める時に誓ったのです。二度と、ああ云った若者が出ない世界にしようと。あなたが、北の者であろうが、南の人間であろうが、私の目の前で死ぬとわかって飛び出させるわけにはいかない」

「私は若くはありません。わかっているはずです。私は北の者なのです。あなたがたが滅ぼしたくて憎悪をたぎらせていた者なんです!」

トローネは口の中で何かを汚く罵った。自分に罵ったのか、アーヘルゼッヘに罵ったのか分からなかった。しかし、言ったことは簡潔だった。

「ばかも休み休み言え」

と思うと、

「持ち上げろ。運びおろすぞ」

とトローネが言った。すると、兵たちが、盾を捨て、アーヘルゼッヘを体で隠して、手を掴み胴を掴んで持ち上げた。が、中の一人が、アーヘルゼッヘの腰を掴んで顔色を変え、脇から抱き上げようとした兵士が、思わず手を放す。


「何をしているんだ!」

と言うトローネの叱責に、兵士が思わず見返して、

「も、申し訳ありません。女性だとは気が付かなくて」

と慌てて手を差し出そうとした。と言うと、他の兵士が固まった。トローネも、えっと言うようにアーヘルゼッヘの顔を見た。


アーヘルゼッヘはその隙を逃がさなかった。彼らの力が抜けた一瞬に、体の力を全部抜いて、床にどっと滑り落ちた。そこから、彼らが動く半呼吸ほどの合間を縫って、横へはねた。そして、彼らが驚くほど近くに立って顔を向け、敵陣に背を向けて、まるで塀の内側に大軍がいるかのように片手をあげて、

「敵は昼寝の最中だ! 者ども構えぇ。弓隊前へっ!」

と大声で怒鳴った。


兵士たちの記憶の一部を真似してのことだった。目の前の彼らは戸惑っていた。しかし、平原で緊張しながら構えていた彼らの動きは速かった。アーヘルゼッヘが片腕を上げるとともに弓弦に矢がつがえられ、アーヘルゼッヘの声が終わらないうちに、幾筋もの矢が弧を描いた。アーヘルゼッヘは両手を広げた。トローネや兵士の前に立って壁になった。


兵士の一人がアーヘルゼッヘの首を掴んでひっくり返した。が、その前に、弧を描いた矢は深々と、アーヘルゼッヘの首を貫いていた。アーヘルゼッヘはこれでどうだと目を見開いた。横倒しに倒れながら、敵兵の中のテンネを探した。見ると、テントの脇で真っ青になって見上げている姿を見つけた。アーヘルゼッヘは彼を見つけて満足した。つまり、アーヘルゼッヘが死ぬことだけは、彼の計算にはなかったのだ。


ごほっと口から血がこぼれ出た。床に落ちる寸前に、兵士が一緒に転がりながら、アーヘルゼッヘを抱え込む。トローネが何か恐ろしい顔で怒鳴っていた。

「何度嘘をつくのか! これが北のやり方か。呆れたものだ」

と怒っていた。しかし、アーヘルゼッヘが満足そうな顔をしていると、

「バカ者が!」

とさらに怒鳴った。


アーヘルゼッヘの脇に、穏やかな気配が広がっていた。街壁の上に降り注いだ矢は、いつの間にか止んでいた。アーヘルゼッヘを抱えた兵士が、床に伏せた姿のまま、固まっていた。アーヘルゼッヘを怒鳴りつけていたトローネが、口の唾を飛ばした姿で固まっていた。空は青く澄んでいた。合戦の音も聞こえてこなければ、兵士たちのあわただしい足音も消えていた。時が止まっているようだった。アーヘルゼッヘの脇には、穏やかな顔のチウが立っていた。兵士に抱えられたアーヘルゼッヘを見下ろしていた。


テンネでもない、夢の中のチウでもない。あの、大祭のある町であった、片足を引きずっているチウだった。あれが本当に実態のあるチウであったとすれば、だが。

「いつ気が付いた? 私が帝都に眠り続けている方だったと」

アーヘルゼッヘは笑った。不思議なことに、時が止まっているせいか、喉の穴が気にならない。痛みがないからかもしれない、と思いながら、

「大陸の地図を見た時から。数千万年後に、人間がこの世界を席巻するとわかった時から。あなたが帝都に眠り続けて、見守る方の弟なのだと気が付きました」

「テンネはうまくやっていた」

とつぶやいた。そのつぶやきを聞いて、アーヘルゼッヘは気が付いた。

「テンネの方が弟ですか」

とつぶやいて、チウは苦笑した。

「この億を超える年月で、数年の違いが何になるのか」

そう言いながら、しゃがみこんだ。


兵士の腕の中にいる、アーヘルゼッヘの喉に手をあてて、チウはじっと動きを止める。血止めをする。が、アーヘルゼッヘは手を払った。チウの遥か先に、呆然とした顔のまま佇むテンネの姿が見える。テントの脇で、青ざめた顔のまま。彼の時も止められている。チウの力は、弟テンネの力をもしのぐらしい。


「なんて悲しいんでしょう。彼は、あなたの復活を望んでいた」

「私は、人間を造った時から、眠りにつくのを望んでいた」

「なら、水晶の洞窟で眠りについたらよかったのに。そうしたら、きっと彼も、水晶の洞窟へ降りて行くだけで、あなたに会えた」

「まだ、あの洞窟はできていなかったのだよ。私が眠りについた時には」

そう言って、今度はアーヘルゼッヘの手を押さえながら血を止めた。アーヘルゼッヘがうめくのもかまわず、強引に矢尻を抜いた。痛かった。時を止めた時に、痛みを止めていたのかと思ったが、どうやら自由にできるらしい。


「ならば、なぜ、きちんと話して、説得してあげなかったのです。彼は、あなたの分身のような、あなたにそっくりな弟は、ずっと、人間を憎みながら、あなたを起こすためだけに生き続けていた。大戦を起こし、水を止め、人々を苦しめて、贄をあなたの上に振り積もらせて、いたたまれないようにしてみせた。それでも起きないあなたに業を煮やして、テンネは大陸を動かしはじめた。北の者の危機を煽って、大戦の必要性を訴える為に。それでもあなたは動かなかった。そうしたら、今度は、北の子供の命を使った。」

アーヘルゼッヘはじっとチウを見上げて言った。空間が滲むようで透けて見える。チウはいる。でも、ここにはいない。意識が実態としてそこに現れ、微笑んでいる。あの、大樹の街であった時と同じように、チウはいるけど、ここにいない。アーヘルゼッヘは静かに続けた。

「私が、このまま、皇帝の旗印として、諸島の人々の前に立てば、北の者達は不安になった。不安になれば人を襲って、都を襲い、あなたを起こす事ができるだろう、と再度願った。大戦でさえも起きなかったあなたが、起きるはずなんか無いのに」

アーヘルゼッヘはゆっくりを身を起こした。

「それでもテンネには、充分だった。彼がしたかったのは、人間をあおることじゃなかった。彼がしたかったのは、北の者達を炊きつけることだったんだから。どこまでもあなたを追い詰めてくれる力を持った者達を動かす事だったのだから」

「子供一人が、砦でここに立ったからと言って、どうして、北の大人たちが人間を敵にしようと思うのかい?」

疑問と言うよりも、試しているようだった。


アーヘルゼッヘはイライラした。そう言えば、北の主も同じようなところがあった。子供には質問という形で、答えを云わせる方法をとる。まるで、この状態をいい勉強の機会だとくらいしかとらえていない。


「北の我らが、子供を作れなくなっているからですよ。私が北大陸で最後の子供なんです。この百年子供はいない。数億年という単位で生きるのだから、数千年後には子供が生まれてくるかも知れない。でも、それまでに、私が、人間に忠義の誓いを立てたらどうします? 私たちの心の枷は重い。巨大な力とともにあるために、自分が他人とした約束は死に物狂いで守ろうとする。自分を安心させるために。巨大な力は暴走することは決してないと自分で自分を納得させるために。そうしたら、北に怯えた人間を守る為に、北大陸を襲いだしたって不思議じゃない。理があれば動く。それが我らなのだから」

「確かに嫌だね。子供を敵に回して戦うのは、みんな嫌がりそうな話だね」

「そうではなくて。永遠に、自分の住みかを守る者を無くしてしまうと言うことですよ。年老いたものから水晶の洞窟へくぐって行く。いつしか自分達も眠りにつくかもしれないが、その場所を、きっと子らが守ってくれる。そんな思いが、私が人間の側につくことで吹き飛ぶんです。事実がどうであったとしても関係ない。不安は不安を呼ぶんです。私達はそう言う生き物だから」

「それで、テンネは大陸を動かした。大戦を起こし、平和になって、結果が無かったからと言って、今度はおまえを皇帝のしもべに仕立て上げ、北のみんなにお披露目をしようとした、と言う事なのかね」

アーヘルゼッヘはうなずいた。


これで、このチウは年上らしく誉めるのだろうかと考えた。こんなやり取りをしたくて痛い思いをしたのではない。アーヘルゼッヘはこの狂った糸を解きほぐしたくてここへ来たのだ。


「あなたを起こしたいがためです。ただそれだけのために、テンネは狂っていったんです」

チウは何も言わずに立ち上がった。薄れた姿は、今もなお、あの神殿の下で眠っているのだと分かる。意識は起きているのだから、夢遊状態と言うのだろうか? アーヘルゼッヘは兵士の固まっている腕の中から抜け出した。首の血はべとっと腕に張り付いた。しかし、傷は消えていた。チウは、遠くでおびえた顔のままの弟を見守っていた。そして、言った。

「私がもっともしたかったことは、弟に自分の時の流れを感じて、己自信を生きてもらうことだったのだがね」

「そう言ってあげれば」

「もちろん、そう言いつづけたさ。いい加減、私でも長いと感じる年月を」

そう言って、アーヘルゼッヘの胸を見た。血だらけだった。チウは手を伸ばすと拭うような仕草をした。血は消えていた。


「私のもっとも幼い血族よ。そう血を無駄にするものではない」

「それでも、あなたは起きない」

「もちろんだ。私はあそこで眠ると決めた。誰に邪魔させるつもりもない」

「でも起きた」

アーヘルゼッヘは意地の悪い声を出した。アーヘルゼッヘの血では起きない。そんなアーヘルゼッヘの前で、チウは遠くを眺めてつぶやいた。

「あれの、あそこまでの心の悲鳴を聞いて、寝ていられるものではない。あんなにはっきりと私に助けを求めてきた事もない」

そう言って、アーヘルゼッヘを見下ろすと、

「一族のもっとも幼い子供と言うのは、全身で愛を感じて育つらしい。おかげで、その愛情の使いどころも知っている。面倒くさいものだな」

と言った。

もっとも小さな一族の一人を殺されそうになって、チウに、兄であるチウに助けを求めた。チウはアーヘルゼッヘの血程度では起きないくせに、弟の叫びの声には飛び起きた。

「弟の偏愛を嫌って眠りについたへそ曲がりの年長者に、はた迷惑だと知らしめるのは、きっと一族に生まれた私の使命でしょう」

と皮肉を言った。すると、

「なら、その使命、はっきりと果たすがいい」

チウはぶぜんとした声で言う。


「私は起こされて機嫌が悪い。この結末を拭ってやるような気にはなれない。おまえは成鳥にあった。私という成鳥にな。よくぞ真っすぐ、あの大樹の町にやって来れたものだ。北の主の育て方か」

そう言って、アーヘルゼッヘがちょっと得意そうな顔をしたのを見ると、チウは口の端を上げて、

「おかげで、おまえには、南の大陸に深い縁ができた。この結末は、自分でしっかり締めくくるがよい。じっくり見させてもらおうぞ」

と言った。そして、チウは軽く欠伸をした。寝足りない、というような顔をして、意地悪そうな顔をした。


その時だった。轟音とも言えそうな時の声が全身を打った。はっと顔を上げると、テンネが大声で前へ出ようとしていた。力を使えばすぐなのに、長い年月人間の中にいたせいか、すっかり忘れているようだった。


そのテンネの動きを誤解して、将兵たちが兵士へ指示を繰り出した。帝都の街壁には、押し寄せた諸島の兵士が群がって、きらびやかな色に変わり、街壁の上にいた兵士たちは慌てたように弓を打つ。下から、兵士が駆けあがり、仕掛けた石籠を下へ落とし、壁の内では、弓の補給に走り回る。また、駆けあがってきた兵たちが、下から梯子をかけて登る敵へ、棒を繰り出し防戦する。


アーヘルゼッヘは呆然とした顔のまま、血の気がさっと落ちた。自分が始めた戦争だった。人と北との大戦を止めるために、帝都で眠る北の者を起こそうとして、逆に人々の間に騒乱を引き起こしていた。


彼らは攻めてくるはずがなかったのだ。ここに、帝都の大軍を見て、テンネの指示で引き上げるはずだったのだ。見たかったのは、その中にいる、アーヘルゼッヘの姿だったからだ。人間側についたアーヘルゼッヘを北の者達に見せたかっただけだ。次の大乱を生むために。そう危機感を眠るチウに持たせるために。


アーヘルゼッヘは慌てた。前に出て、諸島の兵士を止めようとした。と、後ろからトローネの兵士が羽交い絞めにしてアーヘルゼッヘを止めにかかった。しかし、そんな力技に負けているわけにはいかなかい。


これでは、テンネの思い通りになってしまう。自分が戦闘の中心にいて人間に手を貸せば、これを見ている北の誰かが、噂を流す。幼子は、人の主をもったらしい、と言うかもしれない。そうすれば、数千万年後の恐怖をが生まれ、本当に、人類滅亡のとろこまで追い込もうと思う者もでるかもしれない。仲間の間の愛情は絶対だった。


アーヘルゼッヘは顔色を真っ青から真っ赤に変えて、羽交い絞めにした兵たちを、頭で殴って払い落して、壁の淵の際へ立った。恐ろしい数の弓が飛ぶ。が、今度はどれも当たらなかった。空気の層を作ったせいでよけていく。それを見て、トローネ達は少しは安心したらしい。それどころか、自分達も参戦しようと、兵たちの間に指示を出しに飛び出して行った。


アーヘルゼッヘは、際に立って両手を上げた。兵達は目の前のことで手いっぱいで気づかなかった。しかし、テントの傍で震える声を上げていたテンネの目には留まったらしい。元気に、街壁の上に立って両手を上げる、その姿に、遠目で小さいと言うのに、大きな姿を見たように、四肢が緩んだ。そして、その場でどっと後ろへ腰をおろした。几帳に座っていたらしい。アーヘルゼッヘは、壁の上で声を上げた。

「兵を引かれよ! 今、すぐに」

声は、兵隊たちの時の声にかき消された。しかし、

「兄上の伝言を聞きたかったら兵を引かせよ!」

というアーヘルゼッヘの声に、テンネはぱっと反応した。


将兵へ声をかける。何を言ったのか分からないが、将兵が慌てたように指示を出しだした。テントから、周囲へ向かって混乱の渦が広がって行く。門の近くで団子になっていた兵が、まるで潮が引くように引いて行く。最後まで門に取りついていた兵が、仲間が下がって行くと知って、慌てて背中を見せて駆けもどって行く。それは、まるで、運動会で子供が慌てて仲間の中に戻って行くような姿に見えた。


アーヘルゼッヘは、帝都の兵が外へ出ないかはらはらしながら見守っていた。しかし、門の中には兵士がたくさんいるわけでもなく、打って出られるほどの準備をしているわけでもなかった。おかげで、平原の兵士が退却し、崖から下りて、船で海へ出て行く時まで、誰も街壁から外へ出て戦おうとはしなかった。


 アーヘルゼッヘは、門の上で、矢じりや折れた旗や鉄鍋が転がっている平原を眺めていた。床に座り込み、砦の上で、足をぶらっと外に出して座るころには、日はいつの間にか傾いて、正面に真っ赤な夕日が沈もうとしていた。

「あれはなんだったのですか?」

トローネがいつの間にかやってきて、となりに立った。アーヘルゼッヘは簡潔に言った。

「兄弟げんかです」

「つまり?」

「強情を張り続ける二人の兄弟が、人を使って言い合いをしていただけです」

「北の方が向こうにいた、と言うことですか」

アーヘルゼッヘは顔をあげた。トローネは、夕日に染まる海を見ている。海上には白い帆がいくつも連なり去って行く。


「あなたとなら、兄弟と言うより、兄妹喧嘩になるのではありませんか?」

と言われ、アーヘルゼッヘは笑った。そう言えば、自分は彼らの一番小さい妹みたいなものだ、と気が付いたのだ。アーヘルゼッヘは、

「私は仲介役ですよ。人間を巻きこんでこんな事をして良い訳がない。約定は絶対です」

と最後の部分を言い添えた。それから、

「けが人は? 大丈夫でしたか」

と言って、慌てて立ちあがった。自分なら大けがも治せるはずだと気が付いたのだ。しかし、トローネは手を振って、

「あなたが一番のけが人ですよ。もし、私が見たのが本当だったのなら」

と言って、アーヘルゼッヘの首を見た。アーヘルゼッヘは首に手を当てた。が、手に乾いた血がばりばりと付いているだけで、首も喉も、服の胸にも血は全く残ってはいなかった。


「私は末っ子なので、大事にされているから」

とどうしようもないことを言った。トローネは、変な顔をして、

「でしょうとも。あなたくらい無邪気なら、誰だって大事にされた人だとわかりますよ」

と言ってため息をついた。そして、

「それで、ここへ来た意味を教えていただけるのでしょうかね?」

と今更ながらに聞いた。アーヘルゼッヘは困惑し、

「兄弟げんかを止めに来たのです」

と言った。


言ってみたが実際は違うのだ、と気が付いた。自分が人間へ忠誠をつくし、北の脅威にならないと立証するために来たのだ。それが、今では、人間側についたのだと立証してしまっている。アーヘルゼッヘはうめき声をあげたくなった。チウは確かに言っていた。あと始末は自分で何とかするように、と言ったのは、このことだったに違いない。アーヘルゼッヘは、自分が生き延びるとは思ってはいなかったのだ。と言うよりも、チウが起きてここに立てば全てが解決するはずだと思っていたのだ。まさか、ずっと眠っていていて、精神だけ起きて、そのまま眠りに帰ってしまうとは思ってもいなかったのだ。北の者だ。そう簡単に意志を曲げるはずがないではないか!


喧嘩になってもしょうがないんじゃないだろうか、とアーヘルゼッヘは考えた。そして、それから、後で必ずテンネがやってくるはずだ、と言うことにも気が付いた。テンネはきっと聞きたいはずだ。兄がなんと言っていたのか。アーヘルゼッヘは、「うっとうしいと言っていた」と答えることしかできないぞ、と嫌な事実に気が付いた。


それから、そっと胸を押さえた。北へは、主に話しに行かなければならない、と思う。北のみんなに、自分の立場は北にある、と伝えなければと考える。混乱や戦いを避ける為にも伝えなければ。そう思うと、懐かしいような気持がしてくる。主に会える。理由ができた。そう思うと、じんわりと暖かい気持ちが広がって行く。


そんなアーヘルゼッヘのそばで辛抱強く立ち尽くしている、壮年の男がいた。実際にはアーヘルゼッヘよりもずっと若い。自分の半分以下の年ではないだろうか、と思いながら、アーヘルゼッヘは見上げた。本当のところを伝えるべきだろうか、と。今、まさに、北の者はもしかしたら総力を挙げて、戦をしなければ、と思い始めたかもしれない、と言うべきなのだろうか。と思いながら。しかし、トローネは、そんなアーヘルゼッヘに、おごそかに祝いの言葉を述べだしていた。


「初陣おめでとうございます。あなたが、バテレスト家の主として、この帝都最大の危機を潜り抜けたことは、帝国じゅうに広がるでしょう。これで、あなたの地位は安泰です」

と言ってから、にっと笑う。

「もしも、主をやりたくないのなら、誰かに主役を命じてしまえばいいだけですぞ。それこそが、絶対の権力者の醍醐味です」

と言っていた。


気がつくと、離れたところで憮然とした顔の、紫の衣装の男がいた。バテレスト家の男だった。そして、その脇に、あの、宮殿の謁見の間で見た、若い兵士の姿も見つけた。どちらが主従という様子でもなかった。それよりも、どちらがより先に声をかけられるか、固唾を飲んでアーヘルゼッヘを見守っているように見えた。つまり、誰に主を命じるか、決めれば決めたで騒動が起こる。

「チウがいれば」

とつぶやくと、トローネが、

「そう言えば、あなたはチウ殿に似ているかもしれません。何を考えているか分からない。ひょうひょうとした方でしたから」

と懐かしそうに言うのだった。同じ家名を持つからかもしれない、とトローネはのんきなことを言っている。


それにしてもチウは、なぜ、唯々諾々と皇帝に殺されたのかと、チウに対して猛烈と腹が立ってきた。影を作って生きているように見せているなら、そのままであれば良かったものを。チウと言う存在で、テンネを止めれば良かったのだ。アーヘルゼッヘが二人を諌めるように自殺という形で止めに入ったのは、いい方法じゃなかったかも知れない。しかし、今の状況のどれをとってみても、アーヘルゼッヘが招いたものは一つもない。すべては、あのチウ、テンネ兄弟のせいではないか。起きろ、嫌だ、と寝起きの闘争を、世界中に千年にもわたって繰り広げるなど、迷惑以外の何者でもない。これが年長者のする事か、と言いたくはるほどだ。

アーヘルゼッヘは、どうしようもないほど腹が立ってきた。その腹立ちは、割り切れなさと相まって、叫びだしたくなるほどだった。そんな中、涼やかで軽やかな声が聞こえた。


「アーヘルゼッヘ様。やはりあなたが、わたくしどもを助けてくださったのですね。つい先ほどです。帝都の下町で、水も出る場所が出はじめたと聞きました。きっと何かをなさったのでしょう? やはりあなたが我らが神ですわ!」

と街壁を上ってきた声は、美しい白い衣とともに飛び出して来て、多くの信者を背後に連れて、

「どうしても神をお助けしたいと思い、駆けつてたのです」

とはにかみながら片膝をついた。


姫巫女にかしずかれたアーヘルゼッヘは途方に暮れていた。水は大祭の時の大樹のおかげだ。水を引いているのは眠っているチウのおかげで、彼のせいとも言えなくもない。が、このかしずいている十四歳の少女の思い込みは、もしかしたら、自分のせいかもしれないぞ。と思いつつ、いったい、自分はなにをやったんだっけと考え込んだ。



 皇帝が老齢のため死去し、その後、皇帝の書庫をめぐって、大陸を巻き込む動乱がはじまる。その時、書庫を死守して、名実ともに大陸の主となってしまうアーヘルゼッヘだったのだが、今は、ただただ、襲い来る責任と人々の思いに押されて、腰を抜かしているだけだった。また、年老いた嫌われ者の皇帝が、嫌な権威を振りかざしながらも、今しばらくは、平和の淵を漂うのだった。



 これは、人間の住む三大大陸の一つ、中津大陸を統べる神の話である。名をアーヘルゼッヘと言い、神々住む世界では幼く、また、その幼さを武器に好き放題しはじめる、驚異の神と語り継がれることになるのだが、それは後の話となる。


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