戦
大きな扉の前だった。庭園から、回廊を歩いてきた。建物の淵にある、階段状の回廊で、踊り場ごとに建物へ続く扉があって、どの扉も開かれていた。上の階には、貴婦人達がさざめいていて、トローネがアーヘルゼッヘを連れて通ると、ざわめきがさらに大きくなった。
途中の階では、それぞれの待ち合わせの部屋があるのか、従者が茶器や煙管の道具を持って、忙しなく行き来していた。扉のしまっている場所は、裏方用の部屋や貯蔵庫か、手入れをしていない使われない広間があるらしい。「見晴らしの良い部屋にばかり人が集まるのですよ」と言うのが、トローネの説明だった。
そのトローネが立ち止まったのは、足の下に、大通りへ続く巨大な門が見下ろせる踊り場だった。丘の中腹からずいぶん下へやってきていた。その分人の出入りは様々な階級に溢れていて、扉からは、レースのないシャツに凝った生地だが実用的なベストを着た者が、足早に出て行く。
踊り場にあるベンチには、唾のない帽子を目深にかぶった細身の男が恰幅の良い派手なベルトの男と両手を振って話している。トローネを見ると会釈をするが、腰を上げて挨拶をするわけでもなく、すぐに話に戻って行く。ただ、銀の髪の若者が気になるのか、アーヘルゼッヘにちらちらと視線を向ける。
アーヘルゼッヘが見ていると、彼らは視線を落とし、声を落して、今度は何かをささやき始める。そんな人間達が、踊り場や、その周囲にある植え込みの中のベンチやテーブルの傍に大勢いた。回廊の周囲には、部屋からあふれた人間達が、思い思いの打ち合わせのために集っているようだった。このあたりは、給仕の係がいるらしく、黒いお仕着せを来た男達が、彼らの周りで茶器や菓子や軽食を配っては、テーブルの上を片づけて回っていた。
アーヘルゼッヘはトローネに促され、そんな階の扉へと入って行った。中は雑踏同然で、外とあまり変わりがない。天井の低い広大な広場で、柱の向こうに空と町が見渡せた。木でできた簡素で丈夫なテーブルが何十もあり、その周囲に人々が集まっては、立ちながらそれぞれ大声で話し合う。中には黒いボードを引っ張ってきて、人々に見せ白石で書きなぐりながら説明している者もいる。
それぞれ、麦の値段の話だったり、造船用の材木の入手ルートの変更の話だったり、かと思えば、役人の汚職を糾明するための小さな裁判のような事をしていたり、それぞれの場所に担当者がいて、一つさばいては、記録係に記録させ、記録させては伝令に紙を持たせて走らせている。
役所と、商工会議所と、裁判所と、議会が一度に集まっているようにも見えた。ここから出た指示や記録が、中央官庁の建物や、南部の商人の町に持ち込まれ、具体的な商売になり、取り締まりや手続きへと動き出す。が、一見すると、帝国中の苦情係が一堂に集まっている場所にしか見えない。
トローネは、そんな中を、それぞれのテーブルを縫うように、アーヘルゼッヘを連れて歩き、奥の、空の近くの静かな席へと向かった。歩くたびに、人々の声は低くなり、アーヘルゼッヘが通り抜けると、話し合いを中断し、何事かとひそひそ声で話だす。
アーヘルゼッヘが連れてこられた場所は、ひじ掛けのある椅子や、クッションのある椅子に、重い生地と華やかな刺繍と多くの飾りを身につけた、一目で他とは違うとわかる人々が腰かけていた。布を頭に巻きつけている、地方の王のような男がいる。派手な帯を体に巻いているのだが、上着には無駄な飾りが一切なく、顔は皺深く目が涼やかな剣を腰に差した男がいる。ひと眼で神官だとわかる白いローブの華やかなバンクルを巻いた男が、椅子の中で体をよじり、アーヘルゼッヘの顔を見上げた。
彼らの中央には縁に彫刻のある重厚なテーブルがあり、書類が散らばり、たばこの燃えカスが落ち、パンでも持って来させていたのかパンくずののった美しいレリーフの皿があった。また、彼らの後ろはテラスになっていて、そちらで息をついていたのかグラス手にした、長いマントにまぶしいほど金糸を使ったズボンを履いた男達が、黙ってこちらを眺めていた。
トローネは、アーヘルゼッヘへ、中へ衝立の中に入るようにと手招きすると、彼らに向かって一言言った。
「バテレスト家の主であられる」
アーヘルゼッヘの後ろで、ささやきが起こった。固唾を飲んで見守っていた人々が、こちらの噂をしているらしい。布を頭に巻いた男が一言言った。
「それは、初耳でございます。この若者は、私の兄か何かでしょうか?」
この言葉に、テラスの男達から失笑が漏れた。が、トローネは表情を変えず静かな声で、
「皇帝陛下が、つい先ほど、この者に、バテレスト家の主として命名なされたのですよ」
「あの皇帝に、我家の主を勝手に決める権利はない!」
と布を巻いた男が言って、片手を振った。
さっさと出て失せろ、と手だけでアーヘルゼッヘに伝えてきた。剣を腰につるした男は、ひじ掛けのない椅子で背筋を伸ばして、細みの彫刻の美しい背もたれに軽く背を触れ、
「トローネ殿は、こんな若者のために呼び出されたのですか」
とあきれたように言った。トローネは、再び低い声で、
「この方が、バテレスト家の主です。今後お忘れなきように願いたい」
という。すると、布を巻いた男がテーブルを蹴った。重い椅子が後ろへ下がった。顔が真っ赤になっていた。
「トローネ殿! 言っている意味がお分かりか?! 私に。この、チウがいなくなった後に、バテレスト家をまとめている私に向かって、その男を主にしろと言っているんですぞ!」
大声だった。広大な広間はしんと静まり返っていた。おかげで、扉の外の回廊にまで声が漏れた。庭では人々が騒ぎだし、扉の傍に集まりだした。トローネは厳しい顔でうなずいて、
「銀の髪の方です。皇帝の寵愛を一身に受けておられます」
「染めてみたのだろう。美しい顔だ。陛下好きの顔をしている。その色に染めるのは冒険だっただろうが大成功だな。陛下のお気に入りか」
そう言ったのは、テラスでグラスを掲げていた口髭の男だった。滑稽そうに笑っていた。
「私は寵愛を受けていません」
アーヘルゼッヘが答えると、真っ赤な顔のバテレスト家の男が、
「ならば、とっとと宮殿を出て家へ帰れ!」
と大声をあげた。アーヘルゼッヘは冷静に、
「バテレスト家の主も拝命していません」
「トローネ殿は嘘を言っていると言っているのかね?」
と不思議そうに聞いたのは、白いローブを着た神官だった。神官は、アーヘルゼッヘの返事を待たず、いたくまじめな顔で、
「あなたが、パソン姫巫女がおっしゃられた、我らの神ではないのかね?」
とまるで、神とは友人か何かのことを指すのだろうか、とでも考えそうな口ぶりで聞いた。アーヘルゼッヘはあわてて言った。
「私は神でもありません。単なる北の者です」
と言った。あたりの空気が一気に冷めた。背後の様子は振り返ってみるのも怖いほどの冷気を感じた。トローネは、穏やかに、
「ご覧の通りです。陛下も、この者を北の方だと言っています。見た目通り、北の方に見えるので。この方を擁して、今度の戦の要にすえよというお言葉です」
と言いさした。
そこで、やっと空気が、冷気が引いた。アーヘルゼッヘの心にやっと心の声が聞こえ始めた。聞こえないくらい緊張していたらしい。彼らの心は、北大陸の者達への憎悪と嫌悪で染まっていた。そこに、北の者がいる、と言うだけで、暗い戦いの悲劇を思い出していく。トローネは、あたりに聞こえるように声を大きく響くように変えて、
「バテレスト家の新しい主は、銀の髪の主です。姫巫女が、神とたたえ、帝国に弓引く島民に対して断固とした力を示す、北の力を全身であらわしたものなのです」
と言った。彼らは、単なる戦の道具として、皇帝が言い出したのかと思ったようだ。テラスの髭の男が、
「まっとうな事を考えるものだ」
と不思議そうに言った。トローネは、うなずいて、
「もちろんです。我らが皇帝陛下ですから」
と心にもないことを言って、
「それでは軍議を再開いたしましょう」
と穏やかに言葉をついだ。
そこから、声が低く静かになって周囲の人々の耳には入らなくなる。広間の中ほどで、麦の値段の上限の掛け合いに来ていた男達が、戦争の話をしはじめる。これで、値が上がるかもしれないと言っている。また、値が戻る前に売るべきだと言う話や、輸送の航路がいつから元に戻るのか、誰に聞くのが確かか、不安をあらわに話し始めた。
誰も、アーヘルゼッヘをバテレスト家の主だとは認めなかったのだと思う。アーヘルゼッヘはほっとした。トローネがうまく立ち回ってくれたからだ。が、しかし、アーヘルゼッヘの正面に座る、バテレスト家の代表は、そうは思っていないようだった。視線が厳しく、アーヘルゼッヘを見るたびに舌打ちしている。アーヘルゼッヘは、簡素な椅子を一つ出されて、テーブルから離れた場所に腰かけた。
軍議は簡単なものだった。帝都守備隊を中心に、各王国や領主の駐留兵を集め、正面から敵軍を追い払う、というものだった。後ろに海があって、船でいつでも逃げだせる敵だから、大軍で脅して逃げ帰えらせればよい、と言うのが彼らの意見だった。何も戦うことはない、と言う意見に、アーヘルゼッヘも大賛成だった。
その大軍の中に、銀の髪の北の方がいれば、脅しの役くらいには立つだろう、という意見があり、アーヘルゼッヘも参加することになる。皇帝の庭で話していた通りになった。彼らも北の方を歓迎しているようだった。とはいえ、彼らが喜んだのは、アーヘルゼッヘという北の方を真似する若者が現れたということではなかった。彼らは、皇帝がこんな事をしてまで、敵軍を追い散らしたいと言う意思表明をした、ということを喜んでいたのだった。
これで、各国の代表たちに兵を出せと強気で交渉できるようになった、と言って喜んでいた。そして、商人達に敵兵へ物資を回すなと止めれるようになったのだった。止めなければ流れていたかもしれない、と言うのがこの帝都の危ういところだが、ともあれ、彼らは兵をあげる準備に取り掛かって行った。アーヘルゼッヘは、彼らに、
「あちらにはテンネがいます」
と伝えた。誰もがいまさら何を、という顔をした。アーヘルゼッヘはさらに、
「テンネはこちらの全てが見れます」
と伝えた。北の者だとは言えないが、能力を言って警告をしなければ、何か危うい気がしたのだ。神官が、
「あのテンネ殿なら、帝都の動きは手に取るようにわかるでしょう」
とうなずいた。
「もしも、テンネが本当にこちらを責める気になれば、正面からくるとわかり戦えなくなるのではないでしょうか?」
と彼らに聞いた。すると、剣の男がうなずいて、
「あなたが帝都のことをよくわかっていないと言うことがわかりましたよ」
と言った。
「海からは絶壁で守られていて、崖近くの家々では、侵入を阻む準備をはじめているでしょう。そして、草原からの侵入は、地下から来るなら焼けた鉄が流されて彼らは中には入れなくなり、地上から来れば遠くから矢で射落とされて近づけません」
と言うと、神官が、苦い顔で、
「正面からしか方法がないから、東部の人間を操って、騒動を起こさせたのです。そのくらい、この地は万全に守られているのです」
と言った。
アーヘルゼッヘは不安だった。彼らはテンネの能力をよく知らない。もちろん、アーヘルゼッヘもよく知らない。成人として数千万年以上も生きている者達の知恵も能力も心の動きも、アーヘルゼッヘには計り知れないものがあった。それが、不安をあおっていた。約定は守られるから大丈夫、と思うと、少し不安が遠のいた。人間を傷つけることができないのだから戦争には手を貸さないはず、と思うとさらに、不安が小さくなった。
しかし、なぜ、今ここで戦争なのか、と思うと不安は無性に大きくなった。弟を帝都の地下から救いだすためなのだろうか。あれほど迷っていたのに。帝都を瓦礫の山にするために、戦を起こすのではないだろうか。また、弟を帝都の下で安らいで眠っていられるようにするためだろうか。平穏な都にするためならば、戦いの間に宮殿の主が変わっているのではないだろうか。
アーヘルゼッヘは、それならそれで構わない、と思っている自分が嫌だった。人間の命に、好き嫌いを思っている自分が、まるで北の者でなくなってしまったかのような気持ちになって嫌だった。また、トローネは、正義と秩序が大きな組織には必要なのです、と言っていた。その為に、好きでもないことを受け入れて、安定した社会のために闘っている、と言っている。反乱では、その多くが壊れることになるだろう。人の社会がどう壊れるのか、アーヘルゼッヘには想像もつかなかった。おかげで、どこか恐いと感じる。
生まれて初めて戦争に係わることになったアーヘルゼッヘは、彼らとともに戦の準備を始めた。バテレスト家が嫌ったせいで、トローネが宮殿の中に部屋を用意し、鎧や服を用意した。アーヘルゼッヘは久しぶりに体を拭って、清潔な服を着て、柔らかいベットでぐっすりと眠ることができた。
鎧や剣が、部屋の中央に運び込まれるその瞬間まで、アーヘルゼッヘは暖かい夢を見ていた。北の館で、飛び起きると、朝の雑事のために飛び出していく。小さな窓の外には渓谷や深い朝霧が見え、飛び出す廊下はひんやりとして、冬が近いと教えてくれる。
アーヘルゼッヘは、今日の遠見の訓練にわくわくしながら、北の主の執務の部屋の掃除を始める。岩壁をくりぬいて、美しい折布で壁を飾り、窓辺には彫り込まれた美しい手すりがあって、こじんまりとしているが居心地のいい部屋だった。アーヘルゼッヘが、デスクの上の地図を見て、世界を眺めていると、背後から声がかかった。
「アーヘルゼッヘか?!」
という驚きの声に、アーヘルゼッヘはあわてて手にしたモップを握りなおして、デスクから飛び離れた。が、モップの柄は手の中から消えていた。目の前に立つ、北の主は驚いた顔から心配そうな顔になり、
「何かあったのか?」
と聞いてきた。アーヘルゼッヘは首をかしげた。掃除中に地図を見ていたら、何があるのだろうと考え込んだ。北の主はデスクを見て、地図に近寄り、
「これか? これが見たかったのか? 持って行きなさい。何かあったらいつでも来なさい」
そう言って、地図を掴んでアーヘルゼッヘに差し出した。アーヘルゼッヘは意味も分からず地図をつかんだ。と思ったところで目が覚めた。
体を起こすと、広い宮殿の一室だった。窓から朝日が差し込んでいる。なつかしい北の主の声を思い出し、アーヘルゼッヘは目じりを拭った。窓の外は朝もやで、北の館と少し似ていた。しかし、大平原が見える窓は、地平線から太陽が昇り始めていた。アーヘルゼッヘはベットから滑り降りて、窓辺へ行こうとした。と、その時、ベットの美しい掛布はの上で、大きな地図が広がっているのを見た。アーヘルゼッヘが夢で見た地図だった。
アーヘルゼッヘは地図に手をのばして触れた。皮の感触がする。蝋の匂いが鼻を刺す、本物の地図だった。アーヘルゼッヘは胸がぎゅっと傷んだ。北の主は、アーヘルゼッヘへ言っていた。「何かあったらいつでも来なさい」そう言っていた。あれは夢ではなかったのだ、と思うと、胸の痛みが激しくなって、はらはらと涙が落ちた。
主は自分の無事を願っていてくれたのだ。逆らって出ていた自分を、テンネが見せた幻のように、本当に心配してくれていたのだ。アーヘルゼッヘは、もしかしたら、テンネが見せた幻は、本当は幻でなかったのかもしれない。あの時の話はすべて本当にあったのかもしれない、と思った。そして、地図をぐっと掴んだ。うれしさが襲ってきた。そして、恐怖が渦巻いた。南の大陸の主になった、とチウは言った。北の主も同じようなことを言っていた。そして、手元に地図がある。戦争が起ころうとしているこの瞬間に、自分は地図を掴んでこの地に戻ってきたのである。
アーヘルゼッヘは、理由や意味が分からなかった。それが不安で、ベットに上って地図を眺めた。大陸の地図だった。南大陸が三つ並んで、その上に北大陸が乗っている。四方に諸島が散っていて、何の変哲もない地図だった。この中央が自分の大陸なのか、と思うと変な気がした。全然実感がわかなかった。なんだか、その小ささに笑えてきた。もちろん、地図だから小さく見えただけで、実際は、人間が端から端へ移動するのに数か月もかかる大きさだった。
アーヘルゼッヘは地図を逆さにしてみた。北大陸が南の大陸群を支えているから、逆じゃないかと思ったのだ。すると、地図が全く別物に代わって行った。まるで、南の大陸群が北大陸をつかみとろうとするかのように伸びているのが見えた。大陸が伸びているだなんて、まさかね、と思いながら地図を見た。南の大陸の節々に、年代が刻まれている。一つに数千万年の筋だ。それが、徐々に下へ延びていた。
アーヘルゼッヘは地図を見て立ちあがった。ベットから飛び降りて、部屋の中を歩き始めた。大陸は一つの大陸につながろうとしている。あと数千万年か、数億年か先に、人間の大陸も北の者の大陸も区別なく一つになってしまう。アーヘルゼッヘはそんな先のことを考える者はいないと思いつつ、テンネは何を考えているのだろうと、再び不安が湧き上がりだした。テンネは、これを知っている。間違い無く知っているとアーヘルゼッヘは感じていた。
人間の動揺した心に、北の者はあっという間に飲み込まれていく。怒りや憎悪は、無視できないほど大きな力だと感じてしまう。人間は、北の者以上に力があって脅威である。と、アーヘルゼッヘは感じている。何と言っても数が違う。一人ひとりの執着も物事へこだわりも北の者よりずっと大きい。
中二階から突き落とされても、そんな人間が皇帝でいても、自分達の生活のために黙って怒りを飲んで暮らしていける。そんなパワーは北の者には全くない。そんな力に溢れた人間が北大陸を襲ったら、いったい、どれほどの者が持ちこたえられるだろうか。とアーヘルゼッヘは考えて、考えだしたらぞっとした。
北の者は大戦をした。容赦なく人間を敵とみなして戦った。そんなことをしなくても、力の差は歴然としていた。おびえる必要もなかったはずだ。なのに、戦争は起こり、そして、チウは人間の側について戦ったのだ。
大神殿で、チウは聞いた。いいや、あれはテンネだったか。
「どちらにつくことにしたか決めたのか」
と言っていた。北か南か、どちらにつくか聞いていたのだ。
アーヘルゼッヘは部屋の中央の丸テーブルに服を見つけた。寝着の代わりの縫い目の少ない長いシャツを脱ぎ棄てて、ブラウスを着てベストをかぶって、体の横の紐を器用に留めた。下ばきに足を突っ込んではくと、皮でできた重い腰巻を付けて、膨らんだズボンを履いて腰で巻いた。戦支度の槍よけだったが、アーヘルゼッヘはよく分からなかった。
それよりも、とにかく服を着なければと言う勢いで、ベストの上には上着を着て、体にぴたりと合わせた胸周りの厚い皮を着込んで、肩で留めるマントをつけた。足は靴下をはいて重い鉄のついたブーツに足を突っ込んで、踵を中に収めようとがつがつとベットの柱を足の先で軽く蹴る。とその間に、寝室の音に気が付いたのか、宮殿の使用人が駆け込んで来た。
「御目覚めでしたか。朝の手水をお持ちします」
と慌てて出ていく。が、その後についてアーヘルゼッヘも飛び出すと、使用人は振り返って、
「お持ちしますから、どうぞ、お部屋でお待ちください」
と慌てていった。
「いいから。トローネ殿に、私は出て行ったと伝えてください」
と言って、アーヘルゼッヘは暗い建物の廊下を外へ、石段のある回廊へと駆けだした。使用人は話を聞いて驚いたらしく、廊下の影の管に飛びつき口早にささやいた。使用人達の伝令室につながっているらしく、そこでも、アーヘルゼッヘの動きを聞いて驚いたらしく、別の管に向かって、係りを呼んでささやいた。
おかげで、アーヘルゼッヘが丘のふもとへ駆け下りて、門をどうやって開けるのだろうと巨大な石の門を見上げているうちに、昨夜の服装のままのトローネが、剣を差した男達と飛び出してきた。トローネが問う前に、アーヘルゼッヘは口早に言った。
「戦争をしてはいけない。だめなんです」
「それは、誰もが知っている。しかし、攻めてきたのでは仕方があるまい」
と言った。何をいまさらという顔だ。アーヘルゼッヘはじれったくなり、
「そうじゃない。これは戦争じゃないんです。戦ってはいけない。誰も、帝都には入ってきません。彼らは、外にいるだけです。入りたくても入れないんです」
「どういうことです?」
と聞くと、アーヘルゼッヘは首を左右に振って、
「馬を。東部へ行く足をください。そうしたら、答えます」
と言った。
走った方が早かったかも知れない、と思ったのだが、彼らがあわただしく馬を引き出してくれた。アーヘルゼッヘはそれを見て、じっと待った。飛んだ方が早かったかもしれないと思ったのだが、自分が近づいていると知られたくない。力を使えば丸わかりになる。滅多なことでは使えない。
アーヘルゼッヘが馬を待つうちに、いつしか兵が集まっていた。そして、バテレスト家の者も、帝都にいる一族の多くだろうか、同じような顔に、さまざまな思い思いの衣装を着て、剣や槍を手にしていた。中にはひときわ目立つ男がいた。紫の上着に、濃い濃紺の縁取りを付けて、黄色の帯を腰に巻きつけている。先日の頭に布を巻いていた男で、今日は美しい黒髪を背後に結って、憤懣やるかたなしと言った顔で騎乗していた。
先を越されてたまるか、と思っているのか、それとも、朝早く起こされたことに腹を立てているのか。アーヘルゼッヘには彼らの心を感じるような余裕はさらさらなかった。そんなことをする必要も感じていなかった。彼らは彼らの好きにする、としか思わなかった。
巨大な石門は動かなかった、脇の通用門が手早く開けられた。石の門を開けるには、何十人もの人間が、開閉の滑車に取りつかなければならないらしい。アーヘルゼッヘは通用門を騎乗したまま通り抜け、その足で、まっすぐ中央通りを走り抜けた。
両側には鬱蒼とした森が広がっていた。通りの傍に、人の三倍ほどの高さの鉄柵があり、通りの両脇には、凱旋の時に民を入れるためか低い柵の歩道があった。今は人っ子一人いない。宮殿に荷を下ろす者達の姿も見えない。宮殿の道を守る兵士の姿も見当たらない。
アーヘルゼッヘは、森の間の大通りを駆け抜けて、中央区との境の鉄の門へ行きついた。いきり立つ馬を輪乗りで押さえ、あとから追ってきたトローネ達が、口早に門兵に開けると言うのを聞いた。力を使って東部を見たいと思う自分と闘った。
鉄の門が左右に開かれ、アーヘルゼッヘが馬で先へ飛び出すと、トローネが素早く脇へ付けてきた。中央区は静かなもので、官庁街の窓には、普通の人家のように服が干されていた。東部から来た人々が、いまだに、そこに寝泊まりしているらしい。朝早くから目が覚めたのか、子供達が、回廊の淵の石段で、石踏みをして遊んでいた。走り抜ける馬蹄を聞いて顔をあげ、駆け抜ける銀の髪を見つけると、両手を振り上げ歓声を上げていた。銀の髪の横にも後ろにも、まるで、従うように騎馬が追う。その様子が格好良かったらしく、興奮してしゃべっていた。
アーヘルゼッヘと馬を並べたトローネは、
「理由を聞かせてもらいましょうか!」
と言った。呼吸も乱れていなかった。とその時、白い服が大通りの中央に飛び出してきた。アーヘルゼッヘは、旅で馬に慣れたばかりだ。慌てて手綱を引いたせいで馬が暴れて、のけぞった。慌てて手綱を緩めたが、今度は馬が首を左右に振って、そこから石畳に落とされた。悲鳴が上がり、あとから来た騎馬の男達が、顔色を変えて馬を駆って左右へ飛んだ。アーヘルゼッヘは埃が上がる石畳の上でゆっくり体を起こしてたちあがる。節々が痛かった。が、起きながら馬を探した。と、目の前に小柄な白い服が飛び込んできた。
神官服を着たパソンで、
「申し訳ございません。わたくしが飛び出したばっかりに」
と言ったきり、真っ青になったまま、アーヘルゼッヘの体を上から下まで手をのばして触っている。どこか骨が折れていないか必死になって探している。アーヘルゼッヘはその手をよけて、
「大丈夫です。お元気そうですね」
と言って笑った。すると、パソンが泣き笑いの顔になった。
「な、何も連絡がなく、神殿から姿を消されてどのくらいになると御思いですか!」
「申し訳ありません」
「申し訳ありませんで済むならば、我らは告解などいたしません」
アーヘルゼッヘは泣きだしたパソンに頭を下げた。脇から、ゼ大臣補佐が顔を出した。
「ずっと、神々の言葉として、穏やかにあれと人々を説いて回られていたのですよ」
とアーヘルゼッヘへ言った。あなたの言葉を伝えていたのだ、という。アーヘルゼッヘは何とも言えない気持ちになった。私は神ではないのです、と言いたくなったが、口を閉じた。ゼ大臣補佐の目は、余計なことは言わないでくれと言っていた。そのくらい、パソンの昨日はつらかったのかもしれない。
「チウ従兄上が亡くなられてから、帝都は収まりがつかなくなりつつあるのです」
パソンの本当の辛さはそこにあったのかもしれない。アーヘルゼッヘはうなずいた。テンネとチウは、彼らの中では全くの別人だった。アーヘルゼッヘの中でも別人になりつつあった。
「なぜ、陛下はチウ従兄上の言葉をお聞きになって下さらなかったのでしょうか。水の大切さを説き、陛下へ上水を分けてくださるように懇願したことがそれほど辛かったのでしょうか。陛下への忠誠の影りであるなど、どうして、そんな風に思えることができたのでしょう」
アーヘルゼッヘは、ふいごを作ったと言う作り話をしたチウのことを思った。みなに水を分けれるように、北の力が動いたと知らせずに、納得させようとしたのかもしれない。が、ふいごを漕ぐ人間がいないのだ。水を分けさせる方便だと思ったのかもしれない。パソンは小声でつづけて話す。ここ数時間の思いがあふれてきていたようだ。
「陛下は、みなが陛下への怒りや不満を抱えてしまうとわかっているのに、なぜ、あんな酷いことをなさったのでしょう。わたくしは誰にも答えることができません」
なのに、ここで怒りを鎮めてくれと説いて回らなければならないのだ。ゼ大臣補佐が敬意をこめてパソンを見ていた。これまで微塵もそんな不安をみせなかったのかもしれない。アーヘルゼッヘは、パソンの両手をしっかりと持ち上げた。
「争いにはなりません。平和が大切なのです」
「北の方なのに、人間を心配してくださるのですね」
アーヘルゼッヘは答えなかった。すべての混乱は、北のせいである、と言えなかった。言えばよかったのかもしれない。しかし、気丈に巫女としてふるまっている、一人前の女性のように立ち居振る舞いに神経をつかっている、まっすぐな瞳の十四歳の少女に向かって、自分たちのせいなのです。北は卑怯者なのです、と言うことができなかった。
アーヘルゼッヘは手を放し、一歩下がった。馬を探そうと後ろを見ると、トローネが騎乗したままよって来た。腕を差し出し、アーヘルゼッヘへ、
「貴殿はこちらが良いだろう」
と言って、自分の馬に引き揚げた。あの馬術では、到底、この先、生きられないとでも思ったのかもしれない。それとも、馬があの馬術では気の毒だ、と思ったのかもしれない。
離れた場所で、手綱を掴まれ、なだめられている馬は確かに気の毒に見えた。アーヘルゼッヘは渋い顔をした。あの旅でそこそこ乗れるようになっていると思っていたのに、誇りが俄かに傷ついた。しかし、腕を上げると擦れた肘が突っ張ったように痛んだ。
トローネの後ろで鞍にまたがると、敗れた膝の下にかたい革の覆いが見えた。着ていなかったら、膝の骨を折っていたかもしれない、と思うとトローネの申し出はありがたかった。
パソンが下がって、馬から距離をとると、騎乗していた全ての兵が、閲兵式でもあるかのように姿勢を正して胸に手を置き敬礼した。馬の首がぴんと上がって緊張する。男達を見上げるパソンは片手をあげて、額にふれて天の力を彼らに与えると言った仕草で手を差し伸べた。男達は真剣な顔で姫巫女を見た。出陣の前の儀式のようだ。
単に、アーヘルゼッヘにくっついて飛び出してきただけだと言うのに、恐ろしい何かに向かった行くような興奮を感じていた。いつの間にか、官庁街に寝泊まりしている東部の者や、本当の官庁の仕事をしている人々が現れて、彼らを見送る。彼らも、これから戦いに行く兵士を見送るような真剣な瞳で見送っていた。
アーヘルゼッヘ達は、静かに馬の首を東部へ向けて歩みを進め、彼らの背を向けるや否や、早足から駆け足へと歩みを変えて疾走した。
「それで、北の方。理由を教えていただけまいか?」
とアーヘルゼッヘの前でトローネが言った。
馬は疾走し、鞍の上でがくがく揺れる。自分で乗るより、乗せられる方がつらかった。だから、というわけではないのだが、アーヘルゼッヘは首を左右に黙って振った。答えるつもりはなかった。気配で分かったのかもしれない。見えていないのに、トローネは、
「北の方が約束をたがえるのか? 行きながら話すと言っていたのにか?」
と言った。苛立ちと、疑惑で、声が陰っていた。
馬は、東部区域と中央区の境に差し掛かっていた。境の門は、バリケードのように、壊れた荷車や巨大なテーブルで、半分折れた板の門を埋めている。脇の通用門は無事らしく、そこから人の出入りがある。荷物を背負って、人が中央区へ移動している。兵士もそれを手伝うように、手をひいたり、荷物を持ってやったりしていた。
馬が来ると、人々の通行を止めて脇へ寄った。兵士は敬礼をして通してくれる。よく来る伝令を、そうやって通すらしい。慣れた様子だった。門に集まった人々が、騎乗したまま通り抜けるアーヘルゼッヘ達を黙ったまま見上げていた。その目は厳しく、守ってくれるのだろうかと問いかけているようだった。
「戦争はしてはならない」
アーヘルゼッヘはつぶやいた。トローネは今度は問い返さなかった。アーヘルゼッヘはつぶやきを声にして、
「戦争に、なるはずがない」
とはっきり言った。トローネが耐えられなくなったらしく、
「どうしてだ?」
と聞いた。
「攻めてくる気がないからです。彼らは戦争をしに来たのではない。北の者が呼んで、そこにいるように、と言ったからそこに来たのです」
「つまり、おまえが呼んだのか?」
訳が分からないと言う声だった。