皇帝
アーヘルゼッヘは、すぐに老人の居場所を見つけた。丘の中腹にある庭園の中だった。そこは、巨大な東屋のように見えた。四方の柱が、四角い石の天井を支え、天井からはつる草が花を咲かせて垂れ下がる。その下には満々たる湯が満ちている。
湯からは白い湯気が上がり、花々や果物が浮かんでいて、甘い香りを放っていた。その湯の中央に、四肢を広げて老人は浮いていた。美しい女性達が衣を脱いで、老人をつつくように支えながら、互いに湯をかけあったり、花を投げて遊んでいる。
それが、目もくらむ光を受けてひっくり返ったり、互いに抱きついて悲鳴を上げ、何がなんだか分からなくなった。と思ったら、アーヘルゼッヘが老人の真上に立っていた。アーヘルゼッヘは、瞬きする必要もなく、気がついたら、湯のすぐ上に老人を見下ろしながら立っていた。
「やはり北の者であったか」
老人は、光の渦も目の前に突然現れた銀髪の若者を見ても、動じなかった。筋ばかり目立つ四肢をゆるく動かして、膨れた腹を湯からぽかりと浮かしながら、アーヘルゼッヘを見上げて言った。四方の女性が悲鳴を飲んで、逃げればいいのか、老人を助ければいいのか分からないのか、果物や仲間の腕を掴んで震えていた。
「防戦の準備はしないのか?」
アーヘルゼッヘは浮かぶ老人に訪ねた。老人は四肢を動かしけだるげに瞼を閉じた。
「誰かがやる」
「あなたの帝国ではないのか? あなたが束ねているのではないのか?」
「それなら、こんなところで浮いてはおらぬよ」
そう言って、目を開けた。まっすぐにアーヘルゼッヘを見上げながら、
「権力は欲しくないか? 金なら腐るほどある。わしの手足となって動いてみぬか? この世の栄華を極めたいと思わぬか?」
そう言って、にやっと笑った口からは歯が抜け落ちた歯列が見えた。老人の心の腕がおっかなびっくりと言った様子で伸びてくる。
「わしは皇帝である。この世に並ぶ者とていない、権力者である。わしに従い、わしの力となってみぬか?」
そう言いながら、老人の眼は白濁していく。その老人の心に湧き上がってきた夢は、若い自分が議会を従え、杓杖を振るって帝国に君臨する姿だった。
「何でもやろう。わしの言うことを何でも聞くなら、わしが家名を認めてやろう。爵位が欲しいか? 商権が必要か? 何が欲しいか言うてみよ」
言いながら、夢想の中で夢が徐々に変わりだす。大臣が老人の言葉を聞かなくなり、家臣が関心を買おうと美女を集めて賑やかになる。古い家臣や爵位の者が、儀式が終わるのをじっと待って頭を下げ続けるのを見つめ、終わると同時に、宮殿の下の商人たちの大広間へ忙しそうに去って行く。老人はじっと見送ることになる。夢想か現実かは分からなかった。
「あなたにそんな権威はない」
「忘れたか? 従者の命はわしのものだ」
「いたずらに権力にしがみついているだけの老人だ」
「いたずらだと?! わしがいたずらにしがみついていると申すのか! ここに据えたのは、わしではない。彼らだ。わしが素晴らしい、わしの力が必要だと、さんざん褒め称えて回った彼らが、わしをここへ連れ込んだのだ!」
そう言って、腕をまわして、バランスを崩し、お湯の中に沈み込んだ。必死にもがいて、
「おまえに何が分かる? 若い時に何もかも取り上げられて、わしに残されたのはこの庭と、この風呂と小さな建物のみじゃ。わしにできることと言えば、言われたとおりに権力をやるだけ。わしにやれる権力が欲しくて集まってくる。だからわしはくれてやる。だからやつらは、わしを拝んで、大事にし、わしは世界に君臨するのじゃ!」
湯の中に沈みながら、しわがれ声で必死に叫ぶ。アーヘルゼッヘは空中で半歩下がった。女性が慌てて近寄って老人の腕をつかむ。しかし、細い骨と皮だけの老人の腕は跳ね上げ、女性達の腕を払った。そして、正面に立つ、銀の髪の若者に、
「おまえへ良いものをくれてやろう。めったに貰えぬものゆえ、大事に致すといい。わしの素晴らしい思い付きじゃ」
そう言って、口をゆがめて歯茎をむき出しにした。老人はおぼれながら、かっと眼を見開くと、
「誰ぞ! この若者はわしの臣下じゃ。わし付きの、わし付きの。どこかの爵位があったじゃろう」
とうめく。女性の一人が何かをささやくと、
「そうじゃ。この間、首にした、バテレスト家の主の地位があいていた。主を申請してこないのは、わしに決めてほしいということじゃ。みなのもの、この者は、バテレスト家の主である! 主にせよ! わしの命令である」
と怒鳴り、女性の手でようやく息ができるほど上半身が湯から上へ引き上げられた。
老人はまだ何かを叫び続け、東屋の周囲にいた侍従達があわただしく出入りしだす。こっけいな姿だった。侍従は老人の声に耳を傾け、そばの近習に小声で命じる。すると、近習の一人が庭から建物へ駈け出して行く。老人は、やっとのことで浮き上がり、四肢を広げてバランスをとり一息ついた。そして言った。
「銀の髪の若者よ。恨みとねたみを買うがよい。北の者であろうが、人間であろうが、さしてかわるまい。バテレスト家は代々の名家じゃ。その主にどこの馬の骨が分からぬ者が立つのじゃ。みなが、バテレスト家を軽く見るようになろう。わしの寵愛のなさを知って、みなが手のひらを返すであろう。おかげで、おまえはバテレスト家の者はもちろん、関係者中から嫌われる」
ひっひっひと老人は笑いつづける。アーヘルゼッヘは後ろへ下がった。湯の上から、湯船の淵へと足を置き、水の上の主に言った。
「私はあなたの臣下じゃない。何を言っても戯言でしかないのだよ」
哀れな老人を見つめ、老人が空気を吐くようにして笑うのを見た。その間に、建物の影から息せき切ってここまで上がって来たのか、厚く重厚なローブをまとった、厚みのある思考が流れ落ちる男が姿を現した。
皇帝と言う地位の飾りを置くために、こんな男がこんな場所まで駆けてくるのか、と男を眺めた。男は、アーヘルゼッヘには一顧だにせず、息を整えながら歩み寄ると、濡れるのもかまわずに片膝をついた。老人は、視線を向けるために手足で湯をかいてみせる。その間、あたりはしんと静まりかえる。
アーヘルゼッヘは、東部区域の外にいる兵士たちのことを考えた。帝都を知り尽くしているはずのテンネが助言する兵が、今すぐにもなだれ込んでくる。東部は大混乱になり、東部の民で破られている門扉は直されていたとしてもすぐに崩される事だろう。
帝都中が混乱の渦になる。中から呼応する者も出てくるだろう。この宮殿からも出るかもしれない。この老人の帝位は短い。しかし、その皇帝を中心にして大臣達が仕えている。ここはそう言う場所なのだ。そう思って、踵を返した。町に下って、パソンを探し、人々を避難させる場所を探さなければならない。
テンネが、帝都を押さえたら、本当に弟を起こそうとするかもしれない。人間が戦で壊した街ならば、壊してもいいと思うようになるかもしれない。そうすれば、逃げ伸びた人々がさらに大きな被害にあう。テンネを止めるべきなのだろうか、と一瞬思った。しかし、戦っているのはテンネではない。彼がささやき野望を育てたセノ卿であり、彼らが組んだのは、諸島の者だ。人との戦に北の者が出てくることはできないはずだ。アーヘルゼッヘが出れないように。
アーヘルゼッヘが歩き出すと、背後で、老人がやっと声を出した。思った方へ頭が向いたらしい。アーヘルゼッヘは振り向かなかった。
「トローネか」
と言った老人の声は、思ったよりもはっきりしていた。
「はっ。ただ今ここへ」
「今は、総務大臣であったかな」
「いえ。昨年からは領主の長を頂戴いたしております」
「そうか、それならばちょうど良い。それ、そこの若者を、バテレスト家の主にすえよ」
と言った。
トローネと呼ばれた男は沈黙した。アーヘルゼッヘは好奇心が湧き上がる。いったいどうやって、この老人のたわごとを、聞いたふりをしながら聞けないと言う風にごまかすのだろうと思ったのだ。老人は言葉をつづけた。
「北の者が宮殿に出入りし、皇帝を脅かすなどと言うことがあるわけがない。この者は、ここまで来て、北の者のふりをしながら、わしに地位をねだってまいった。かわいいではないか。この必死さは、わしへの忠誠心のなせる業じゃ。この者は、ここまでくるほどの知恵がある。また、わしがこれほど無防備でいる場所をわざわざ探せる賢さがある。バテレスト家にはこれほどの知恵者はおるまい。主が死んで何かと揺れているであろう。この賢い者を主として、立て直すがよい」
「しかし。これは、バテレスト家の血筋を引いているわけではなく」
「なれば、わしの書庫の家名録からバテレスト家を消しておこう。古い家とは申せ、動乱のもとになっては困る。戻って二十線を引いておこう。別に誰が困ると言うわけでもあるまい。おまえ達は、これまでと同じようにバテレスト家を盛り立てていくのだろうからのう」
そう言って水音がした。アーヘルゼッヘが振り返ると、老人は水を叩いて笑っていた。トローネは、顔をしかめ、そして、驚いたことに、
「わかりました。あの者が、今後、バテレスト家の主にでございます」
と言ったのだった。
アーヘルゼッヘは動きを止めた。トローネはさらに言う。
「後日、早々に家名目録への追加をいたし、領主議会にはもちろん、帝国議会や帝都広報への手配もいたします」
「そうか。それはよかった。あれはわしの大事な家臣じゃ。かわいくてかわいくてしかたがない。わが寵愛を一身に受けて地位をやったほどの者じゃ。大事にいたせよ」
と言った。トローネの中に黒い物が湧き上がった。老人に向けて下げた顔もまなざしも全く変わらなかったのだが、黒い物は噴き出して、アーヘルゼッヘへ直撃した。
ぶつかった時に、不正への憎悪や、風呂場にまでとり入りに来る者への嫌悪が、アーヘルゼッヘ容赦なく叩きつけられていた。そして、アーヘルゼッヘをちらりと見た。その銀の髪に整った顔を見て、嫌悪はむき出しになった。見ると、湯舟の周りにひざをついて使える若者たちはどれもが美しく整った容姿をしていた。顔だけで来た者か、と言うさげすみに、銀の髪を見た瞬間は、こっけいな姿をしていると言った思いまで加わった。
「私は人間ではない」
アーヘルゼッヘが固い声で言うと、
「ならば、北の方は何の許可もなく宮殿の奥庭に参られたと言うことですかな」
とトローネは皮肉に言った。北の方だとは信じていない口ぶりだった。老人は、喉の奥で苦しそうに笑っている。こぼれる声が歪んだ呼吸音にしか聞こえない。アーヘルゼッヘは、
「東部の縁に敵陣が来ている。なのに、皇帝が動こうとしないので話に来ただけだ」
と言うと、トローネは、
「ちょうど良かった。バテレスト家は将軍をも動かす軍議の家だ。下へ行って、軍議に混じっていただこうか」
と言って、苦い笑い顔をした。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「人間の戦いに参加することはできない」
「人間が何をばかなことを言っているんだ! ここで権力をもらったら、あとは一緒に湯船につかっていれば良いとでも思っているのか?! 何もできないならつっ立っていろ。皇帝の権威がそこにあるのだとみなに知らしめるには絶好の機会だ」
そう言って、今度は深々と皇帝に頭を下げて、後ろに下がりながら立ちあがった。アーヘルゼッヘが動こうとしないのを見て取ると、そばの兵士に声をかけた。兵士は駆け寄ってきてアーヘルゼッヘへ会釈する。手をのばして腕をつかもうとしないのは、地位を与えられたからか、それとも、先ほど宙へ現れたのを見ていたからか分からかなった。ただ、おびえていたことだけは確かだった。
「どうぞ。これ以上、陛下の傍にいらっしゃるのはどうかと存じます」
つまり、トローネが心配したのは、素性のわからない人間が、皇帝の傍にいる、と言うことらしかった。アーヘルゼッヘは歩き出した。庭園の奥へ。彼の言う軍議に行く気は全くなかった。
バテレスト家と言うのが、チウの家だったと言うのも嫌だった。テンネの後釜になったような気しかしない。だいたい、北の者が人間の臣下になると言うことがあり得なかった。植えこみの陰に隠れ、そこから、町のパソン達の方へ飛ぼうとした。そんなアーヘルゼッヘへ、老人がしわがれ声を張り上げた。
「北の者がわが宮殿へ侵入したやもしれぬ。北の大地へ使者を出せ。約定を反古にした者がいるとな。反古の代償は、北の大地であったはずじゃ。どこがいただけるのか問いただせ!」
アーヘルゼッヘは振り返った。
「たわごとだ!」
老人はアーヘルゼッヘを無視し、
「トローネ。この場に人間しかおらぬ、と言うのは錯覚であるぞ。わしに従わぬものがこの場所にいられるはずがない」
「しかし、いくら北の方の容姿をマネしているからと言って」
「おまえは先ほどの光を見ていなかったのか? あの恐怖の光を! あの者が出した光ぞ!」
トローネは黙ったまま、アーヘルゼッヘを見た。先ほどの侮蔑や嫌悪と違った意味に怒りが湧き上がっていた。
「陛下。あの者を臣下とし、バテレスト家の主とするのですか?」
声には今までになかった感情があった。怒りや憎悪と言った激情だった。老人は、湯の中で両手を漕いで立ち上がった。胸の下あたりの深さだった。老人は、うなずいて、
「すべてが見える北の者達に知らしめるのじゃ。約定は守られている。わしらは、これを反古とは思うておらぬ。その証拠に、大事な家名を一つ奴らにくれてやった。人間としか思うておらぬと伝えるのじゃ。その力を得て、東部の敵を蹴散らすがよい」
トローネはかっと眼を見開くと、老人にぐっと力をこめて頭を下げた。
アーヘルゼッヘには、トローネの心の動きが伝わってきた。今、この混乱に乗じて、皇帝をすげ換えようとする動きが出ていたようだ。トローネはそれを阻む側にいた。しかし、はばみたいと思っていたかは分からなかった。トローネは、今、この瞬間、北の者を取り込むことで、自分の地位を守りぬこうとしている老人に、敬意にも似た憎悪を向けた。
老人にはその憎悪が見えていたかもしれない。しかし、水を掻いて岸に歩み寄る姿には、そんな気配はまるでなかった。それどころか、水から出した体の重さに足がふらつき、慌てて手を差し伸べる美女達の腕の中に落ちた顔は、どろんとして濁っていた。
トローネは、そんな老人へ再び会釈をすると、アーヘルゼッヘへ視線を向けた。
「バテレスト殿。帝都の民を守るために、そのお力をお分けください」
何の感情もこもらない声で、アーヘルゼッヘへ言った。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「私は家臣ではありません。ましてや、バテレストでもありません。北の者としてここに居ても、なんら人を害すわけではありません。約定を気にする北の者はいないでしょう」
もしかしたら、チウのように何人も人間の様子を見に、ここに来た者がいたかもしれない。しかし、約定は守られている。人間を傷つける者がいないからだ。チウにように死を迎えるような目にあったとしても、約定は守られているのである。
「見える目がある者で、それを疑うものはいません」
「しかし、人間は見えないのですよ。あなたが北の方であり、その力を存分に見せつけたとなれば、ここに北の方がいるのは世界中で知られることになるでしょう」
「もともと、ここでは北の力が染み出していたのではありませんか? ここを見れないようにブロックをしていた者がいたほどです」
「なれば、今、ここでブロックする者がいて、あなたが何をしているのか見えていなかったらどうでしょう」
そう言って、トローネは口を閉じた。そして、口を閉じたまま、アーヘルゼッヘへ問いかけた。「もし、この瞬間、皇帝が殺されたとして、誰があなたのせいじゃないと思うでしょうか? 人間はあなたのせいだと思うかもしれません。そう思うなら、うれしいと思う者がいるかもしれない」
アーヘルゼッヘは動揺した。老人の周りに立つ女性をじっくりと見つめた。花びらが肌に絡まっているだけで何一つ身に付けてはいない姿だ。武器はない。周囲で水際で片膝をつく少年達も、昼食のテーブルで給仕の支度をするために立ちつくし待ち続けている若者達も、殺気はない。しかし、今この瞬間気が変わったら、素手で首を絞めたってあっという間に折れてしまう。老人はそのくらい細く弱い。トローネは声を出して言った。
「あなたは、陛下の寵愛を受けておられる。疑う者はだれもいまい」
だからこそ、老人は無事でいられるのだ。老人の寵愛を一身に受けている者が北の者だとわかっているから、誰も怖くて手が出せないのだ。その北の者が、ただちに消えたら。その瞬間に誰かが本当に、老人に手をかけるかも知れない。
アーヘルゼッヘがそう思うほど、中二階から若者を突き落とさせた出来事は強烈だった。アーヘルゼッヘへささやく人は、ほとんどが老人を殺したくて仕方がないと言うようだった。ここにはおかしな空気で満ちていた。老人は着物を肩にかけながら水気を拭わせていた。トローネは、東屋から離れ、アーヘルゼッヘへ向かって歩きながら、
「来ていただけますかな?」
と聞いた。今度は感情がこもっていた。怒りでも憎悪でもない、どう動くのだろうと言う好奇心に満ちていたのだ。
「私は力が使えません。人間との戦いなら余計に無理です」
「なら、兵士としてご参加ください。あなたが軍馬にまたがるだけで、周囲に指揮は上がるでしょう」
「私に剣で持って人を殺せとおっしゃるのですか」
「北との戦は避けなければなりません。命を賭してでもあなたの命は守りましょう」
トローネはそう言ってから、
「来ていただけますかな?」
と再び聞いた。アーヘルゼッヘは、
「向こうにはテンネがいます。こちらを知り尽くした男です」
「存じています。我らが帝都の大神官であった男ですから」
トローネはなつかしそうな瞳をしていた。そして、
「チウ閣下が生きておられれば、きっとテンネを止めたでしょう」
と言う。二人は同一人物だった。なのに、別人だと信じている。それが不思議だった。アーヘルゼッヘはさらに言った。
「人間を知り尽くしているかもしれません」
それほど長く生きているから。
「ええ。あの方ほど人間を知り、人間を信じていた人はおられません」
「信じている?」
「ええ。神殿での胸の悪くなるような犠牲を見て、きっと人々は立ち上がるはずだと信じていたはずです。東部での暴動を聞いて、喝采を送っていたかもしれない」
「しかし動乱が起これば、人々が傷つくだけです」
「傷つかずに、じわじわと命がなくなるのを待つよりは、ましだと思う者達がいるのですよ」
「なら! あなたがた、帝都の中枢にいる人間がなんとかすべきではありませんか! まるで、自分が何もできない人間であるかのよういいうのは卑怯だ!」
「できることはやりましょう。できる限りの力で。しかし、できないこともある」
「帝都の水は潤っています。ふいごで水をくみ上げなくても、徐々に、徐々に水量が増えるでしょう」
帝都の地中深くに眠る方が、人々のために水を呼んでいる。眠りながら、いまだに水を呼び続けている。砂漠で流れ始めた水は、自然の力以上に大きな力で東に向かって流れだしていた。
「最大の危機こそが、最大のチャンス」
トローネは厳しい顔で言った。
「その話は、しばらくは他言しないでいただきたい」
そう言って、
「それで、来ていただけるのでしょうか? 人間ごときのことは関係ないとぱっと消え失せてしまわれるのでしょうか?」
それが最良の判断だ、とアーヘルゼッヘは思った。人間の生死にかかわってはいけない。約定に障りそうなことはするんじゃない、と心の声は言っていた。しかし、
「参りましょう」
とアーヘルゼッヘは言った。
トローネはうなずいて、先に立って歩き出した。老人は、着せかけられた着物をだらんと垂らしながら、テーブルの椅子に腰かけてクッションに埋もれていた。手には甘い香りのパンを握ってちぎって、寄り添う女性の口に運ぶ。あーんと自分の歯茎の口を開いて見せて、女性達を笑わせている。アーヘルゼッヘとトローネのことは興味がなくなっているようだった。
アーヘルゼッヘが消えたとたん、周囲の者に殺されるかもしれない、と思った自分は馬鹿だった、と思いながら、アーヘルゼッヘはトローネの後に従った。皇帝の後ろに立って、そんなアーヘルゼッヘの姿をうかがうように見ている者もいた。しかし、何も起こらなかった。
皇帝の持っている書庫と言うのは絶大な力を持つらしい。トローネが語って聞かせてくれたことには、その書庫の目録に書かれたことが議会で正式なものとして通されるらしい。皇帝と切り離して、新しい目録を作ってしまってはどうでしょう、アーヘルゼッヘはたずねた。権威と専横は別でしょう、と言いながら。
すると、トローネは苦い顔で答えた。すぐに権力闘争に発展しますと。一つ新しい目録をつくれば、次から次へと新しい内容が付け加えられ出して、どこの誰に何の権限があるのか分からなくなるらしい。時には新目録をねつ造しだすこともあり、それを取り締まる役所ができても、取り締まるそばから新しい権限が造られて、ねつ造の、別の取り締まりの役所ができてしまったこともあると言うくらいだ、と言う。そうして、結局、民の生活が圧迫され、最終的に正しいものに戻そうとなった時に、行きつく先が、皇帝が持っている書庫の記録になるのだそうだ。
好き勝手に皇帝が書き加えても削除しても無効だそうだ。議会や大臣、それぞれの権限者や役職者のサインがあって初めて効力を持つのだそうだ。しかし、それでも、数十年も前に勝手に皇帝が付け加えていたせいで、新しい権力をもったものもいれば、逆に失脚していった者もいる。
新目録への切り替えのせいで動乱が起き、表の役所の記録が消えて、それを正せる記録がどこにもなくなったせいで、皇帝のごり押しが通るのだ。その記録が必要になると知っているから、皇帝は大事にルールを守って保存している。しかし、何を勝手に付け加えているのかは、皇帝以外は誰も知らない。動乱があって以来、新目録への挑戦する者はいなくなり、逆に、皇帝の機嫌しだいで数年後、または、数十年後の自分たちの未来がねじ負けられるかもしれないと言う恐怖が生まれた。
内乱がおこり表の記録が焼け、皇帝に伺いを立てに行くことになれば、これまで皇帝が勝手に造り変えつづけた目録が有効になる。だから、内乱は危険なんだと、まことしやかに言いだす者もいると言う。皇帝は常に内乱の機会をうかがっているとも言われるほどだ。
「くだらない人間の組織だと思わないでいただきたい。巨大な組織であればあるほど、正義と秩序が必要になるものです」
トローネは、正義と言う部分に力を入れて、アーヘルゼッヘへ話し続けた。
「バテレスト家は古い家系です。大戦では、大陸をまとめるために家人が大陸中へ散って行き、帝都には僅かばかりしか残っていません。が、逆に、大陸中に影響力があるほどに力が付いた家系です。すべてが対等であり、主がいないことが、彼らの誇りでもありました。ですから、これからあなたが立つ立場は、うらやましいものではありません」
「私は人ではありません。ですから、特に影響もないと」
「言ったではありませんか。記録に載ることになったのです。今後、全ての人間があなたに、バテレスト家の主としての判断を仰ぎに来ますぞ。大陸中に影響力がある家計です。どこにいても、あなたの機嫌を取るために、あらゆる人々が動き出すでしょう」
「それでも、私には判断する権限もなければ、力もないし、知識もない。単なるインクの墨の羅列にすぎないのです」
「ならば、それをみなさんに納得させることですな」
そう言って、トローネは立ち止まった。