地下
チウはバテレスト家の人間だった。アーヘルゼッヘは剣の先を見つめた。黒い緞帳が下りている。その奥に使用人の為の廊下が見える。アーヘルゼッヘは剣の先を見て歩きだした。兵士がほっとしたのが分かった。歩きだすと、柱の陰から掃除をしていた人々がそっと覗いているのが見えた。見上げると、中二階にはいつの間にか人だかりで、美しく着飾った女性たちの間に、先ほどの老人が、重い厚みのある長いマントを引きづって、付き人達に支えられながら立っているのが見えた。アーヘルゼッヘと眼が合うと、白く混濁した眼が返った。両側の男達が何か老人にささやいた。すると、片手を面倒くさそうに動かした。
男達の一人が、後ろを向いて、青年従者の一人に言った。
「飛び降りろ」
青年従者は青ざめた。すると、反対側の男が、
「何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ! バテレスト家の手を煩わせる暗殺者がいる。飛び降りてやつを殺せ!」
と怒鳴った。従者は真っ青になったまま動けない。
「誰か、ハインを突き落とせ! 何をぐずぐずしている。陛下の命令だぞ!」
信じられない命令のさ中。命令を出した老人は、白濁した眼で、緞帳の下に消えようとしたアーヘルゼッヘ達を見つめていた。中二階の廊下で、手足をばたつかせた青年が持ち上げられた。アーヘルゼッヘがまさかと思っていると、青年は手すりの上へ持ち上げられて、そのまま、大勢の人々の手で、恐怖の叫びの顔のまま、突き落とされた。
アーヘルゼッヘは信じられなかった。人間が、あの高さから、この高い床に落ちたらどう考えたって無事ではない。なのに、落として、捕まえさせよ、と命令している。実行させようと、寄ってたかって付き落している。アーヘルゼッヘは緞帳の下で固まって、ゆっくりとコマ落としように人が落ちるのを眺めていた。どうしても、この状況が信じられなかったのだ。
脇にいた兵士が、剣を捨てて駆け出していた。兵士の動きもゆっくりに見えた。投げ出した剣が、ゆっくりと床へ落ちて行くのが見えた。アーヘルゼッヘは中二階の老人を見上げた。老人は白濁した眼だと言うのに、まっすぐにアーヘルゼッヘを見下ろしていた。その目は、さぐるようだった。人間かどうか確かめている目だった。確かめたいがためだけに、自分の従者を突き落とした男が、好奇心に満ちた目で眺めているのだった。
アーヘルゼッヘは手を伸ばした。片手を老人の襟にかけた。掴もうとするとわざとなのか偶然なのか、老人はよろめいて隣の女性の腕の中に倒れこんだ。足がもつれたようだった。アーヘルゼッヘのもう片方は、剣を拾って投げていた。そんな長い手ではない。手の延長線上の空の手とでも言うのだろうか。緞帳の下に立ったまま、アーヘルゼッヘは途中で兵士が投げ落とした剣を拾って投げた。
剣の刃は、落ちてきた従者の上着に突き刺さり、後ろの柱にピンのように音を立てて突き立った。従者は落下が止まった反動で柱に頭があたって目を向いた。また、刃が上着の裾をびりっと破って、そこからゆっくり、人の頭くらいの高さから、再びがたっと下へ落ちた。ちょうど、兵士が駆けつけて両手を伸ばしていたところへ、上へ重なるように落下していた。
はたから見ると、兵士が一か八かで剣を投げたように見えた。皇帝がしゃがみこんだのは足が弱いからのようにも見えた。実際に、アーヘルゼッヘが動いたのが見えたのは、皇帝と、剣を投げなかったと知っている兵士と、落下してまるで永遠の時を落ち続けているように感じていた従者だけだった。
従者が無事で、ほとんどの人がほっとしていた。ほっとしていなかったのは、皇帝とその側近の二人で、その一方が惜しいように、
「そう簡単に、北の者が帝都へ来ることはありません、閣下」
とささやいているのが聞こえた。思ったよりも、広間は音が響くらしい。男はさらに、
「本物の能力者であれば、人間を落下させたりはしないでしょう。命の重さは、我らが感じる以上に大切に感じるそうです。長命ですのに」
と最後の方は、潔くない北の者への嘲笑、というような空気があった。
老人は白濁した眼でぼんやりと宙を見ているだけだった。豊満な胸の女性が、側近から引き放すように老人を抱え込むと、ねっとりした声で何かねだりごとを始めるのだった。老人はされるがままに引っ張られ、中二階の回廊を、まるで何事もなかったかのように戻って行った。
側近の一人はそこから静かに離れていった。
アーヘルゼッヘは側近の一人が、そばにいた皇帝の近衛の一人を招き寄せ指示を出し始めているのを見た。柱の傍で兵士は落ちた従者の手足を見ている。骨が折れていないか、ねんざはないか確かめている。頭を押さえている手をどけて見つめていたが、無言で壁を流れる滝へ近寄り、胸のスカーフを引き抜いて水にさらして戻ってきた。
従者は青ざめたまま、唇が震え続けてしゃべれない。ついさっきまで仲間だと思っていた人間達に、よってたかって落とされたのだ。兵士は従者の腕をそっと掴んで撫でつけた。腕がびくんと跳ねあがり、目が大きく見開いて、肩ががくがく動き出す。痙攣だった。兵士が痛ましい顔で、若者の額を濡れたスカーフで拭い、脇にしゃがんで肩を寄せる。従者は動きが治まってはいたが、視線は宙を見たままだった。アーヘルゼッヘは踵を返した。
側近の指示を受けた近衛が、近くの兵士に鋭い声をかけて階段を駆け下りてくる。アーヘルゼッヘは緞帳の下をくぐりぬけ暗い廊下へ踏み込んだ。謁見の間の柱の脇で、兵士が歯を食いしばって中二階を睨んでいた。従者の脇で肩を支える。彼の視界にアーヘルゼッヘはいなかった。近衛の声が聞えると、するどい反発の声が上がった。
アーヘルゼッヘが聞いていたのはそこまでだった。暗闇を暗闇のまま、廊下の壁のあたりよりもなお暗い輪郭と、四方にこだまする足音で廊下を感じて、駆けだしていた。
アーヘルゼッヘは、わからなかった。彼らが何におびえて、あの老人の指示に従っているのか、どうしてもわからなかった。いやなら断れるはずだった。全員がいやだと言えば、あの老人の力ではきっと何もできないだろう。従者を引き上げた時の、側近達の心のうちは空だった。腕を動かし所定の位置まで重さを運んで、落としただけで、怒りもなければ恐れもない。あるものと言えば、面倒くさい仕事を終わらせたい一心で動き回った、というものだった。
なのに、仲間が落ちたとたん、恐怖にのどがせり上がり、動きがとまった。それなら、はじめから断っていればいいものを、彼らは自分たちがやったことの恐ろしさではなく、自分たちの皇帝の恐ろしさとして反芻していた。
皇帝の心は単純だった。アーヘルゼッヘでなくても分かったかもしれない。もしかしたら、アーヘルゼッヘが北も者だと思って、心の内で語りつづけていたかもしれない。そのくらいはっきりしていた。
「北の方なら、この者を助けてみよ。さすれば、広大な領地と民と権力をくれてやろう。世界を動かす力をやろう。北の方だと証明してみせるがいい」
と心の声を大にして語っていた。その奥には、北の力に対する欲と、北大陸との有利な駆け引きに対する期待と、北の者だって権力欲で動くだろうと言う周囲にいるお追従を言っている人間達と変わらないと言う嘲笑とが渦巻いていた。
別に力を使ってもよかったのだ。とアーヘルゼッヘは思った。殺めるわけでも戦うわけでもない。人を助けるために力を使うだけだ。北の主がそれで引け目を思うこともなければ、停戦の約定での駆け引きになるわけでもなかった。なのに、アーヘルゼッヘはできなかった。人間がそんなことをするはずがない、という思いの裏で、老人の皺だらけの手が自分に絡みつこうとしているのが見えて、動けなくなっていたのだ。
アーヘルゼッヘは立ち止まって、思い切りよく額を壁に打ち付けた。目の奥で火花が飛びそうな痛さだった。あの従者の頭には生暖かい血が滴っていた。あの従者は、落ちる前に中二階に押し戻されていたらあんな顔にはならなかった。あんな風に、一歩先の未来も信じられなくなって動けなくなるようなことはなかったはずだ。
アーヘルゼッヘは目を見開いた。暗い視線の先で、宴会の間がはっきり見えた。暗殺者の逃亡を許したと言う説明で、兵士と従者が近衛達に囲まれていた。その後から別の兵士が出てくる。二人の兵士が緞帳にある入口に立ち、槍を交差させて立ちつくす。残りの二人が剣を抜くと、ゆっくりと余裕のある顔で廊下に踏み込んできた。壁のランプに火を灯し、待ち伏せを警戒してか、削った岩と床しかない殺風景の岩の廊下の、上や下に明かりを向けて、歩いてくる。
アーヘルゼッヘは目をとじた。丘の中、四方へ広がる空間を肌で感じた。地上にあるのと同じように、何層にもなった洞窟の部屋がある。天井から明かりを入れた屋敷もあれば、廊下の明かりだけが頼りで、四角い入口がある扉さえない使用人部屋まであった。会議用の大広間は地上近くに、厨房は細い天窓のある中腹に、宮殿の本当の入口は、丘のふもとにあった。
正面に延びるまっすぐな道から丘の岩肌に取り付けられた巨大な門を抜けると、広大なドームがあった。そこが、全ての入口であり、そして、全てのたまり場となっていた。
東部区域の人々はそこに集まっていた。窮状を訴えることはやめていた。それどころか、東部を囲んだ敵兵の話を聞かされて、飛び出していこうとするのを強引に押しとどめられていた。森をくぐった兵士たちはいつの間にか姿を隠し、心の目で探しても見当たらなかった。
森から街へ逃げたのか、もとの兵士の姿に戻ったのか、アーヘルゼッヘには分からなかった。滝を作る人間達はいなかった。丘の中はもちろん、地中深くを見つめてみたが、ふいごを漕ぐ民の姿は見当たらなかった。細い川が見つかっただけだった。
地中を流れる澄み切った透明の流れは、丘のふもとで四方へ流れて散っていた。豊な流れで、渇水を抱えているようには見えなかった。細い川は平原の下を通り、丘へ来る。平原に来る前は、大陸の下を、何層もの大地の層の下をくぐりながら、砂漠の下をかいくぐってくる。大山脈から流れてくる。水は脈々と流れ、大山脈から大陸中に、それこそ、四方へ散っている。丘に来ている水は、その流れの一筋にすぎない。
アーヘルゼッヘが、砂漠の中で見た町は巨木を祭る町だった。遠く、この帝都から見つめると、大樹の根が、地中の層を突き破り、水の層への道を作って、町に水が噴き出していた。あの小さな町の外れの森に、今は大きな池ができ始めていた。木が生長し、水の層に根を突き刺して、大陸の層に穴をあけ、町に水を吹き上がらせていた。それが、巨木になって、二層目の水脈の水が湧き出し始めたらしい。
アーヘルゼッヘは、ここまで来てやっと、水の種の意味を知った。木の根こそが水の種だったのだ。その昔、あの砂漠に奇跡の大樹が芽吹いて、根で水をくみ出すと、森ができた。町で水が使われて、森でも水が使われて、果樹園でも水が使われて、そのうち水が枯渇しだす。まずはじめに影響を受けたのが、この帝都。あの町も、もう数百年で砂漠に返るはずだった。帝都の渇水は、あの町の繁栄の為にあった。そして、人の幸せを喜ぶ心が、大樹の値を地下へ伸ばして、大地に次の大穴をあけて、大陸の層を突き破って水脈に行きついて、水が湧き出し、人々が潤いだした。
アーヘルゼッヘは水の流れが豊かになった町の空気を味わった。そして、そこから流れる、細い面のように広がって砂漠の下をうねりくる水の流れを肌で感じた。
「水の種」
大地を割った巨木の根っこが、水の層を膨らませ、帝都へ続く水の層を豊にしだす。
「結局、あの大祭で巨木ができた時に、全ては解決していたのか」
アーヘルゼッヘはつぶやいた。アーヘルゼッヘは貯蔵庫に立っていた。廊下は、樽が四方に積み上げられた小さな倉庫に続いていた。行き止まりで、醗酵した果物の香りが充満していた。
「すべてとは、どの全てです?」
と言う声に振りかえると、チウがそこに立っていた。
丘の中をくまなく探している時には、姿が見えなかった。そのチウが、さも当たり前のように樽の脇に立ちつくしていた。白いローブに美しいビーズの刺繍の細い帯を付けている。肩には幅広の白地に金糸の花の刺繍の布を掛け、足には美しい布の靴を履いている。匂いがきつすぎるらしい。アーヘルゼッヘへ近寄ろうと、樽に半歩近寄って顔をしかめて、半歩下がった。動きが滑らかで、杖が必要なようには見えない。それどころか、初めて町であったときと違って肌が若く、髪がつややかで滑らかだった。その姿は、服装はもちろん、顔立ちも、まるでチウと違っていた。
「チウ。あなたは誰です?」
チウは考え込みながら、まじめに答えた。
「私は陛下の命令で贄になってしまいました。ですから、生きてはいないのですよ」
と言った。もちろん、アーヘルゼッヘの目の前に立っているのは、血肉のある体であり、生きている。
「ふいごを作って滝の水を流していると聞きました」
「どこにふいごがありますか? もう見て知っているのでしょう」
と樽の向こうの岩壁を見ながら言った。
その岩の向こうに平原があり砂漠があって町がある。チウは、アーヘルゼッヘへ視線を戻すと、ほほ笑んだ。温かい笑みだった。しかし、町で見た時のように、ほっとすることもなければ、穏やかな気持ちになることもなかった。目の前にいるのは、チウだった。しかし、アーヘルゼッヘの目にはもう一人の男、人々を岩の上へ突き落し続けた、テンネの姿にも見えた。
その心の動きが見えたらしい、温かい表情のチウから、冷たいおもざしのテンネの顔に悠然と変化する。まるで、アーヘルゼッヘの心を移しているかのように顔が変わった。テンネは言った。
「やっと視線があって来ましたな。で、どうでした? あなたの大人の判断は」
「判断、とは」
と思わず真面目に聴き返していた。テンネはため息をついて分かりの悪い子供に見せるように首を左右に振った。
「わざわざ、後宮にまで連れて来て、あの皇帝の様子を見せて差し上げたのですよ。これが、われわれ北の者と約定をした人間の姿です」
「平和を望む強い心が、年とともに姿を変えて…」
「十年前からああですよ。もともと、あの親もああだった。そして、その親も似たようなものだった。代々続いたあの家系が、我らの一人を陥れたせいで、あの大戦ははじまったのです」
「人間に北の者を捕まえる力などない」
と固い声で言うと、
「いっしょに見たではありませんか。神殿の地下で。私の弟がいたでしょ? 親にすがる子のように近づいて、思い通りにならないならば、何もかも、弟のせいだと言いだしたのです。人間を生み育てたおまえが悪い、と言いながら。この平原で、大量の人間を餓死させようとしたのですよ。あの人間は、乾いた大地で、海に出て漁をするにも、水がなくて木が見当たらず、絶壁での漁が難しく、食料もなく、それこそ自分の意にそまない人間達を、ここから出れないように、囲い初めて、時を待った」
アーヘルゼッヘは喉が渇いて来た。老人のどんよりした眼が、二つ四つと増えてアーヘルゼッヘを囲んでいるような錯覚を感じた。
「はるか昔、弟は、人間の為に水を引いてやったのです。それだけです。人間は、再び期待していたのかもしれません。強引に水を引く河を作ったりはできないし、ですから、弟は大地の間に身を横たえて、隙間を作って願ったのですよ。今少し、自分のために水を運んでくれまいか、と。大地は己を褥にする弟に同調して、水を僅かに割いたのです。おかげで地下水脈が生まれ、井戸が掘られて町ができた」
テンネともチウともつかない顔で、年老いた幹のような表情を見せてつぶやく。
「人間なぞすべて消えてしまえばいい。そう思ったのは随分昔だったかもしれない。消そうとしはじめ猛烈な反発にあい、北の者も反発をした。あの北の主は烈火の如くたけり狂った。弟は心を閉じてあの帝都から出なくなる。出ればいい。出れば人間の都が一つ消えてしまう。それが何だ? それくらい、弟が起きて話すようになる事に比べたら、なんてことないと思うのに。弟は耐えられないと言うのだよ。それをいいことに、人間は、弟に命じるために、神殿を積み上げて、人の命を贄にして、思うままの力を手に入れようとした」
アーヘルゼッヘに向けた顔は乾いていた。
「あんな姿を誰にも見せたくはなかった」
そう呟いた。そして、
「あんな姿になっても人間を大事に思う弟の気持ちには逆らえなかった」
彼が、自分が始めた大戦なのに、自分の力で人間を救いつづけることになる。そんな話をつぶやいた。皮肉さに笑ってしまうと言いながら、目はどこか宙を見つめていた。そして、彼は再び言った。
「成人したものの眼で見て、あの皇帝はどうだ? おまえも守りたいと思うだろうか?」
とアーヘルゼッヘへ問いかけた。
守りたくない、と言った瞬間、帝都がどうなるか想像するまでもなかった。大地を割って、弟をひっぱりだして、そのまま、どこかへ消えるだろう。水が消えてがれきの街になろうが、大地が割れて建物が崩壊しようが、きっとチウにはどちらでも関係ないに違いない。アーヘルゼッヘはそんな空を感じた。
「あなたを慕っている姫巫女がいた」
アーヘルゼッヘが言うと、チウは暖かい目になった。そして言った。
「あの子はずっと弟のためにいてくれた。温かい言葉も、温かい心も、信じる強さも、何もかもが、あの弟が望んだ人間の姿であった。もちろん、私も救われた」
「なら、彼女が悲しむようなことは…」
と言った瞬間、恐ろしいような視線を向けた。
「焼身自殺を迫ったのは皇帝である。この帝都がある限り、何度でも同じようなことが起こるだろう。パソンは弟の花嫁だ。弟を起こして共に連れて参ればいい」
「しかし、砂漠の町のアゼル殿は」
「そうだな。アゼルがいた。あの二人がともにいるのもいい」
「あなたは単なる北の者だ。人間の求める神じゃない」
「そうだ。私は神じゃない。神は弟であり、パソンが神だと崇めだしたのは、おまえ自身だ」
「私も違う。私も単なる北の者だ。そして、帝都に眠るあなたの弟も単なる北の者なんだ」
「単なる? 人間を作った弟が単なる北の者だと言うのか? 同列か?」
「そうだ。世界を作ったあなたが単なる北の者なら、世界中の生きとし生ける者は単なる者だ。あなただって、心はどうしようもできないって知っている。だから、千年もこうやって弟が眠る大地に立ちつくして、弟が目覚めるのを待っているんだ」
「しかし、おまえが生まれたろう? 南の大地を守護する者が」
「ならば、南の大地で眠る者を守護するものでもあるはずだ。眠りたいなら眠ればいい。それが北の者のやり方じゃないか」
「そうさ。北の大地のやり方だ」
そう言って、チウは床をじっと見つめた。視線の先には、あの、弟の姿があった。アーヘルゼッヘは樽の傍から離れた。
「水晶宮で眠る者を強引に起こしても、彼らは再び眠りにつく場所を探すだけだ。きっとあなたの弟も同じだろう」
「試してみないで何を言う」
とチウは床を見つめながらつぶやいた。しかし、自分で起こす勇気がない。弟が大事にしていた全てを壊してまで起こして、弟が、すぐさま目をつぶり、この先二度と眼を覚ます気がなくなってしまうのではないかと、恐れている。
「引っ張り出してみてはどうです? 代わりに岩を入れて。水は流れ出したのだから、隙間を作ることもない」
チウは顔をあげた。顔はゆがんでいた。アーヘルゼッヘは気が付いた。毎日、自分のために人間が贄にされた。あれを見つづけて、無意識に大地の底にもぐった者が、果たして起きて正気でいられるかどうか。アーヘルゼッヘには分からなかった。そして、きっとチウも分からないのだろう。
「この世界はおまえの者だ。おまえが生まれた時に、私は中津大陸の主が生まれたと感じた。おまえがこのままにせよと言うなら、私は従うしかない。己の作った世界だが、一番己の思った通りにならない。まるで、人間の世界は自分の世界の写しのようだ」
そう言って、チウは半歩下がった。
「テンネは、北の者ではない。北の血をひくものだ。もちろん、そんな者は存在しないが、この都ではそうなっている。そして、野望に燃えて、帝国を覆そうと闘っている。人間の知恵と力で」
そう言って、後ろを見た。
長い時が流れたような気がしていた。しかし、廊下をランプをもった兵士たちが下りてくるわずかな時間しか経っていなかった。兵士たちの声が聞こえてくる。のんびりした声は、敵と戦ったことがないのではないかと思えた。兵士の一人が言う。
「どうして、こんな場所に逃げ込んだんだ?」
「北の方だから、外へ消える時間が欲しかったんじゃないのか? ほら、呪文を唱えたりとか」
「それは、インチキ呪術者の話だろう。そんなことをしなくても消えれるって話だ」
「なら、単に道に迷っただけなんじゃないのか?」
「北の方なのにか? 四方を見れる目を持つって話だ」
「どこにでも洞窟があるから、つながっているように見えたんじゃないのか?」
声はどんどん近くなる。
チウは軽く会釈をした。
「しばらくは敵味方だろう。おまえは帝国を維持する側につくらしい。北の力は使うなよ。約定は約定だ。力ある者が破ると、周囲の恐怖や驚きを生んで世界の均衡が壊れる。幼いころから習っているだろう? 嘘を言ってはならない。レヘルゾンは嘘をつけませんって」
「しかし、私は嘘がつける」
「成人したからさ。自分の判断で、嘘をつける時とそうでない時を判断できるようになった。だから、もう、レヘルゾンであると言う思い込みはいらないんだ」
「しかし、私は今もレヘルゾンだ」
「それは嘘だ。レヘルゾンとは、レヘルゾンになる為に努力する者であって、なるものじゃない。そんな役職や仕事は存在しないのだからな。主への忠誠心で自分の判断を後回しにする北の成人なんか想像できない」
アーヘルゼッヘは何とも言えない気分でチウを見た。
嘘をつける北の者は、どうしようもないかもしれない、と感じていた。自分が信望している北の主でさえ嘘をついたと言っているのだ。
「嘘も方便。そのうち慣れる。子育ては、われわれにとって厳戒体制下の非常事態だ。三人のうちの一人が成人してくれて助かるよ。あと、二人が成人するまで、レヘルゾンのことは公表するな。子供に、巨大な力や嘘があっても一利なしだからな」
と言って、さらに離れた。
アーヘルゼッヘは、気が付いた。島民を集め、今の体制に戦いを挑んでいるのはテンネだった。そしてテンネ側に回って闘っているのが、セノ卿だった。彼らとこれから敵対しようとしている。テンネは人間に刃を向けることができない。力を使うこともできない。しかし、画策することも罠を張ることも包囲網を敷くことも、簡単にできる。それこそ、知恵と知識と謀略と根気と、人間が持つのと同じ力を使って、力の限り戦えば。つまり、同じ力でアーヘルゼッヘも戦うことができるのだ。
アーヘルゼッヘが、チウの横をすり抜けた。と同時にチウの姿は消えていた。移動は自由なのだろうか、と思いながら、アーヘルゼッヘは降りてきた兵士に向かって片手をあげた。何をするつもりもなかった。しかし、真っ暗闇からランプの明かりで白く浮き上がった背の高いものが、突然彼らに向かって動いたのだ。彼らは剣をとろうと下がりながら、階段の狭さのせいで、お互いにぶつかった。アーヘルゼッヘは彼らの手のランプの中にガラスを砕いて手を突っ込んで芯をつまんだ。
真の闇ができあがり、洞窟の宮殿に慣れているはずの彼らがパニックになり、一時周囲が分からなくなる。そのすきに、脇をすり抜け階段を駆け上がった。
謁見の間の入口にたたずんでいた兵士は、ぶつけ合っていた槍を跳ね上げて人が通り抜けたのを感じた。しかし、人影を見る前に、槍の反動が大きすぎて壁に背中を強くぶつけた。目を見開いて周囲を見た時には、中二階に浮かび上がるようにして飛び上った青年の後姿が見えただけだった。もちろん、青年でなく女性だったのだが。
兵士は、驚いて立ち上がって、中二階に駆け上がろうと階段へ向かった。すると、廊下の奥からか細いうめき声が聞こえてきてた。ランプを消され、暗さに方向を忘れた二人が、額をぶつけあった時の声だったのだが。兵士はあわてて奥へ入って行った。戻ってよかったのだろう。アーヘルゼッヘは中二階に立つや、あの、年老いた皇帝を探した。心の目を使って、四方へ手足を触手を伸ばすような、感覚を爆発させて老人を探した。
と、その瞬間、アーヘルゼッヘの体は白く淡く輝きだし、次の瞬間、光が爆発した。獏風ともいえる、光の波が広間に溢れ膨れ上がり、建物の窓という窓から染み出してたわんだかと思ったら、宮殿から四方へ、丘から街へ、大通りから東部の町や南の館や北の建物へと広がった。
波打ち際で、テンネが立ち止まって頭上を見上げた。諸島国家と言うより、巨大海洋国家でもある、今回の将兵とともに、打ち合わせをしながら浜辺を歩いていたのだが、岩の手前で足を止め、振り返って帝都のある方向の崖を見つめた。
将兵はテンネの動きを見て、何事かと言うように顔を上げると、目もくらむような白い光が崖から四方へ広がって、目に痛みのような透明な気配が突き抜けた。無言で帝都の方向をにらみ上げる。テンネは低い声で言った。
「急いだ方がよさそうですな」
「ええ。兵の様子が心配です。これが、我らの敵だとすると、まるで、北大陸との戦じゃないか」
と最後の部分は震えるような声だった。テンネを従え、崖下の坂へ歩きだした。テンネは、と言うと、少し離れたところを歩きながら、
「北大陸なら、まだましなのですがね。北の主はおひとよしでしたから」
とつぶやいたのだが、幸いなことに将兵には聞こえなかった。