宮殿
門は破られ、官庁街に、中央の大通りに人々があふれ始める。方々に、警邏ではなく、兵士が出てきた。剣を見せ、槍で押して、馬で廻って押し返している。しかし、民を門へ押し戻すような力はない。官庁街の建物に入らないようにふさぐぐらいしかできない。
「誰が先導しているのだろう」
アーヘルゼッヘはつぶやきながら、群衆を見下ろした。
すぐそこに神殿へ続く門がある。門柱が高くそびえるようにあるだけで、扉はない。その向こうに南門があり、門の内側には、家具や荷車が引っぱり出されて積み上げられる。中にいる商人達が、門を破られないようにと固めはじめた。
次から次へときらびやかな服の男達が積み上げられた荷車や家具を飛び越えていく。剣を手に、軽やかに、商人の抱える私兵らしい。さらに向こう、遠く、東の通りの鉄門はしっかりと閉められていた。このに、さらに内門があるのだが、今まさに、衛兵らしい男達が数人で閉め始めていた。
群衆は、神殿の前を素通りした。群衆の先頭には、布のよれた帽子をかぶったほっそりした男がいた。肩をいからせた大男の横で、両手をこまめに動かしながら話ながらついて行く。
「セノ卿だ」
アーヘルゼッヘがつぶやくと、ゼ大臣補佐が怒りのうめき声をあげた。アーヘルゼッヘが振り返ると、
「あの船は偽物ですわい。この群衆をあおるために作った、単なる雇われ商船ですわい」
とアーヘルゼッヘへ口早に説明し、その口で、大声をあげて、
「誰ぞ! 群衆を止めるぞ。後ろから少しずつ切り離せ。建物の中にでも少しずつひっぱりこんでしまえ。法務局の判事部屋でも構わん。中の方が安全だからとささやいて、片っぱしから中へ入れよ!」
ゼ大臣補佐の家人が飛び出していく。神殿の白いローブを着た者達も、同じように飛び出して行く。
いつの間にか、アーヘルゼッヘの後ろに控えていたソンが、
「先頭集団はいかがいたしましょうか?」
と聞くと、
「後ろが来なくなってから、馬で追いたてればよい。おまえさんは、姫巫女と北の方をお守りいたせよ」
そう言って、ソンがうなずくのを待たずに、石段を一段一段飛びながら降り出した。アーヘルゼッヘが後を追う。すると、気が付き、ぱっと後ろを振り返り、
「そこでお待ちになれれよ」
と命じた。アーヘルゼッヘが首を横に振ると、
「神が一方の見方をしたという事実は避けていただきたい」
と言った。アーヘルゼッヘが眉間にしわを寄せて怪訝な顔になると、イライラしたように、
「北から来た神であられましょう。姫巫女が、あなたの言葉を王宮へ伝えよ、とおっしゃられたのを聞かれなかったのか? あなたは、あの瞬間から我らが神になられたのよ」
と言ってから、息を吸った。そして、
「もしかしたら、その前から神であられたのかもしれないが。今は、人間のことは人間にまかせて、静観していただきたい」
と言って、動こうとするアーヘルゼッヘを両手を向けて押しとどめ、
「あの声は、わたしの芯に響いていますぞ。『人を救うために、人を殺すのか。それが正義か』というあの言葉。あれは終世忘れられない言葉になる。痛い事をおっしゃる神だ」
そう言って、神だと持ち上げているくせに、
「参られるなよ。北の方が騒動に関わったとなれば、やっと終わった終戦の協定が、全てふいになって消えてしまう。北は戦は二度としないとおっしゃるが。人間はそうはいかないんのですわい。噂だけで、南の人の大陸で、大騒乱が勃発しましょう。内乱か、悪ければ大戦ですわい!」
と言ったかと思うと、周囲に向かってどなりながら駆け下りていく。
大声を上げながら。
「南も東も守備は堅い。しかし、東の壁は薄っぺらな紙のようなものだ! 乗り越えられるし、荷車の体当たりで穴が開くぞ。その先はだだっ広い森があるだけだ。森を超えたら宮殿になる。彼らもそれを知っているはずだ。この人数で森に入られたら、宮殿を守るにも守れなくなる。それ、上に白い服を着ろ。ローブだローブ。神殿の者の方が、耳を傾けやすいだろう。何を剣を振っている。そんなものは捨ててしまえ」
声はどんどん小さく遠く離れていった。
見ていると、本当に後ろから、少しずつ建物に吸い込まれるように人が消え、群衆は小さく穏やかになって行く。後ろから追い立てる者がいないと、どこか不安になるらしい。徐々に立ち止まっては周囲を見回し、いつもとは違った見上げるような回廊や、大きな窓の建物に戸惑ったような顔を見せる。
「参ります。彼らになら、穏やかな声が届きます」
そう言って、パソンは神殿の者を促して、石段を降りはじめた。アーヘルゼッヘも、と足を踏み出すと、パソンはきっぱりした声で、
「申し訳ございません。先ほどの奇跡を見ていないものには、その髪は、やはり」
と言った。フードをかぶってと言おうとしたが、パソンはきっぱり首を左右に振った。戦の恐怖の真っただ中に、戦の生々しい記憶になった北の方が来るなんて、収まるものも収まりません。と、心の声が聞こえてきそうな身振りを見せた。
アーヘルゼッヘは、静かになったドームの下で、じっと帝都を見下ろしていた。年長の神殿の者達が椅子や飲み物を持って現れたのだが、アーヘルゼッヘが恐ろしいのか、そばに近寄ってこなかった。離れた場所へ席を作って、どうぞとでも言うように祈りの姿を見せると、アーヘルゼッヘの視界の外へ逃げるように出て行った。
水平線に浮かぶ帆船は、帆を立てて白い水しぶきを上げている。あれが、偽装ならかなりの仲間がいるのだろう。と、アーヘルゼッヘは考え込んだ。中央の広場で、そして、この神殿の中で、多くの人が殺されていた。人がたくさん殺されていると言う東部での噂は本当だった。
雨を呼ぶために、と言う話だったが、聞いたものには不気味な噂になっただろう。噂では、チウ閣下も殺されていた。アーヘルゼッヘはそう思ってはいなかったが、もしかしたら、殺されるような場面があって、どこでチウは襲われたのだろう、と考え込んだ。
バテレスト家の人間として姿を現し、大陸中を駆け巡り、バテレスト家の者として今も人々に慕われている。彼は何年そうやって人間の中で生き続けていたのだろう。ともあれ、それほどの人間をどんな理由で襲ったのだろう。いいや、襲えと命令できたのだろう。外部の者に襲わせたのか、それとも、正当な理由を作って襲わせたのか。
だいたい、何でやすやすとそんな襲撃を受けてたのか。アーヘルゼッヘは考え込んだ。チウは、もう、人間に溶け込む限界に来ていたのだろうか。年をごまかし、従兄と言う立場に立ち、姫巫女であるパソンを助けて、平和な大陸を作り上げた。そして、その後をアーヘルゼッヘへ譲ったらしい。そんな感覚は全くないが、譲られたらしい。
だから、姿を消したのだろうか? 初めからそのつもりで、あの大祭のあった町から消えたのだろうか? 消えた時、アーヘルゼッヘへ任せたと言ったのは大陸を任せた、といことだったのだろうか? それなら何で、水の種を探してくれた言ったのだろう。
アーヘルゼッヘは海を行く船を見た。目を凝らすと、町の向こうの崖下に、海岸線が目の前に浮かぶように現れる。湾の中には、次々と帆が並ぶ。船からボートが下ろされて、男達がすし詰めになって岸辺に運ばれていく。剣を膝に、立ち上がって弓を構えて。町を睥睨しているのは船の砲門であり、崖の上の砲台は、傾いてその脇には旗を振っている水夫がいる。
水のない帝都は弱い。あの神殿の兵士は言っていた。大事なのは、宮殿と役人と姫巫女だ、と。宮殿の住人や帝王ではなく、帝都を機能させて、帝国を組織化している人間と、まとめあげている信仰が重要だ、と言っていた。つまり、組織を乗っ取ることができ、姫巫女を抑えられたら、誰だって帝国を乗っ取ることができるのだ。
そんな単純なことだろうか、と思ったのだが、そんな単純な考え方をする人間ならいるかもしれない、と考えた。
兵士たちは次から次へと陸地へあがっていた。湾を囲む港町を素通りして、崖の上へ坂道を走って上がる。水夫もいれば水兵もいる。もちろん、馬に乗れる兵士もいた。船から降ろした立派な馬に、騎乗しながら崖を上がった男もいた。崖の上には、白いローブの男がいる。
いつの間に、あんな場所に行ったのか、アーヘルゼッヘには分からなかった。テンネ、と呼ばれた男だった。テンネは、崖を馬で登って来た、固い布地の帽子を被ったきらびやかな縁取りのある上着の男に、柔和な動きで丁寧に挨拶をしていた。中央の神殿から見下ろせる街は、今、やっと人々が落ち着きを取り戻しだし、人々は、大通りの真ん中にぽつりと立つパソンの姿を見つめ始めていた。
パソンが歌い始めたのが見えた。そんな中、崖の上のテンネがゆっくり振りかえったのが見えた。そして、ゆっくり視線を上げて、アーヘルゼッヘと視線を合わせた。見えないはずの場所を、見えない目で見つめているアーヘルゼッヘへ、テンネははっきりと視線を合わせ、ゆったりと口の端を動かして、
「地下神殿で迷子になったおちびの少女が大きくなったな」
と言って笑った。
テンネの正面にいた騎乗の男には何も見えなかったのだろう。きょろきょろしてから、どうしたんだと声をかけている。テンネは首を横に振って、何でもないというように男に断わる。断ってから、再びアーヘルゼッヘへ視線を合わせた。
「アーヘルゼッヘ。北の主のお気に入りになったのだな。こんなところへやってきて、やっと我らの仲間入りかい?」
と、今度は、声にならない声だった。親しみが感じられた。懐かしい空気があった。テンネは笑って、
「さて、おちびさん。おまえはどちらの側で参戦することになるのかね? 敵側だとわびしいねぇ」
と愉快そうに笑って見せた。
アーヘルゼッヘは背筋で産毛が逆立った。男の視線はそんなアーヘルゼッヘを悠々と睥睨している。アーヘルゼッヘは、ばたんと視線を閉じた。心の窓を閉め切った。テンネは北の者だった。つまり、と思うと逆立った毛は痛いほどになる。
チウが捕まったのはテンネだった。北の者が北の力を使っている。のならば、チウは本当に無事だろうか? 自分が見た、チウと北の主とのやりとりは本当に二人のやり取りだったと言えるのだろうか? 自分が北の主を見間違えるとは思えなかった。しかし、北を追い出された者に、本当にあんな言葉をかけるだろうかと不安になった。
あの言葉は、まさしく、アーヘルゼッヘが聞きたかった言葉だ。成人もできた、北の主も穏やかな声で話しかけてくれた。そして、自分には責任があると言ってくれる人までできた。しかし、北の者なら、そんなアーヘルゼッヘの心も望みも一眼で読み取れるに違いない。あそこにいたのは、北の主でもなければ、チウでもない。自分とテンネだけだったのだ。
アーヘルゼッヘは、目を見開いた。崖近くにいたテンネの姿が消えていた。見えなくなっただけかもしれないし、どこかに移動したのかもしれない。動静が分からないのは変わらない。視線を転じて西の壁に目を向けた。道沿いにそびえていた薄い塀は太い丸太で突き崩されていた。森の中へ、がれきを乗り越え、中の兵士ともみ合いながら、一人、また一人と、森の奥へと走り出す。敵から逃げている人間の動きではなかった。すばしっこく、また、兵士の槍を押し返す力や、脇をすり抜ける度胸は、一般の人間のものではなかった。
背後の港では、船を下りた兵士たちが、東部の街壁のすぐ下に来て、布陣を始める。縦横に並んだ兵士の後ろに、どんと陣取った華やかな布をたなびかせるテントが、さらなる兵士を予感させる。森を走り抜けた兵士は、奥の屋敷を顧みず、その脇にある石段を駆け上がる。丘の上には宮殿がある。
宮殿へ続く回廊が、屋根のある石づくりの石段が上へと続く。ところどころに見晴らし台があって、東屋がある。石段はうねってまっすぐではないが、それでも、駆けて行くといずれは宮殿へ行きつくはずだ。
中央部の大通りでは、東部区域の外から情報が入ったのか、人々が通りから姿を消した。宮殿へ続く、巨大な石門からは、次から次へと偵察の兵が騎馬を駆って飛び出していく。門の内側では、赤や黄色の上着を着た兵士達が、徐々に集まり隊列を組みだした。南の商家は、崖の上で石籠や油の用意をしはじめて、海からの侵入に備えだした。
十年の大戦は伊達ではない。しかし、今、まさに、石段をのぼりつめ、東部の窮状を訴えに駆け込んだ人々は、大声で騒ぎながら大臣を呼び、議長へ訴え、神々への恩寵が必要だと叫んでまわりはじめる。上れるすべての石段から、宮殿の裏に出て嘆き悲しみ、宮殿の厩舎に出ては見回りの兵や、見上げるような宮殿の窓に向かって声を上げる。
アーヘルゼッヘは身じろいだ。宮殿の奥、花壇の脇に駆け上がってきた若者が、日だまりのベンチに座る女性を見つけた。女性を見守る年老いた男を見ると、若者はほっとしたように胸に片手を当てた。そして、彼らが気がつく前に、空気のように歩み寄り、袖を振った。手にはナイフが飛び出して、誰かが気がつく直前に、刃を老人に突き刺した。
アーヘルゼッヘは、老人の脇に立ちつくしていた。老人を脇から抱えて、体を自分の下に組み敷いていた。屋根だけの鏡石の廊下から、兵士が飛び出し、アーヘルゼッヘをたたき落とした。飛び出してきた若者は、その場で消えた。アーヘルゼッヘの耳の中には、
「北との約定で、人間を刺し殺すことはできないってことを忘れていたのかい?」
という、笑いを含んだ声が残った。今更だったが、若者にばけたテンネだった。
年老いた男はこの帝都の主である皇帝であり、皇帝の庭にやすやすと入れるのは、宮殿にいるのが当たり前のテンネであり、石段を駆け上がり警備の者の前を堂々と通れるのは、やはり、顔を知られたテンネくらいしかいなかった。そう気が付いたアーヘルゼッヘが動き始めて、宙を抜けて、皇帝を抱えるようにして守りぬいた。はずだったのに、暗殺者として捕らえられ、押し倒された。
「誰だ! 海岸に押し寄せた諸島のものか!」
近衛の声に、アーヘルゼッヘは唇をかむ。
「どこの暗殺者だ!」
「私じゃない」
と言い返したのだが、聞こえないのか、
「内部のものか? 東部か? 狂ったのか?!」
とたたみかける。アーヘルゼッヘは歯噛みめしめる。剣の下で、テンネにいっぱい食わされた、と声なくうめく。皇帝は、側近達が抱え上げ、離れながら歩きだす。最後に、回廊の角を曲がる時に、皇帝がちらりとこちらを振り返える。アーヘルゼッヘは、大声で、
「テンネです。テンネが、帝都の転覆をたくらんでいるのです!」
といった。
しかし、皇帝は、側近に危険ですからとせかされると、唯々諾々と従った。立ち止まって、意味を問いただすことはない。庭にいた女性達も女性兵士に囲まれ奥へとせかされ、姿を消した。剣と棒で押さえられたアーヘルゼッヘが残された。
「北の者か?」
という半信半疑の声がかかった。こんなにたやすく捕まるとは思えない、と言う響きがあった。
「北の者です」
とアーヘルゼッヘは顔をあげて言った。
「髪を染めているのか」
という男の言葉に、
「生まれつきの銀髪です」
と言い、
「私に敵意はありません。北の者が自分から約定をほごにすることはあり得ません」
とつぶやいた。男は、まったく聞いていなかった。それどころか、
「まったく、面倒な事をしてくれる。おまえは狂っているだけだ。北の者だと思いたくてそんな恰好をしているだけだ。犯罪者だが、狂っているなら仕方がない。バッソン家への預かりにしてやろう」
とまるで、気のない声で言った。
アーヘルゼッヘが顔を上げると、腕を掴んで立ち上がらせた。そして、耳元で誰にも聞こえないように、
「どうせなら、しくじらずにいてほしかった。北の方がやったと言えば、大戦だ。誰も公にはしたがらない。狂った人間の仕業だろうとしか言わないだろう。あんたなら、殺されることもないんだからな。北の方を殺して、さらに大きな大戦をしたいと思う人間はいないさ」
腕を掴んで歩かせながら、
「バッソン家に入る前に逃げてくれよ。でなければ、バッソン家に迷惑がかかる。門を出たあたりでぱっと消えてくれれば、誰も何もいわない。今度は誰もいない時にこっそりやってきて、こっそりとやってくれ」
と言って、近くの兵士に、
「連れて行ってくれ。狂人だ。力はない」
と言って引き渡した。
アーヘルゼッヘは言われるがままのしゃちほこばった兵士に引き渡されて、腕を引かれて歩きだした。アーヘルゼッヘは信じられなかった。自分たちの主を、まるで物か何かのように語り、じゃまだから捨ててくれとでも言うような口ぶりで、殺してくれとささやいてくる。その気持ちが本当に分からなかった。
ただ、わかったことは、アーヘルゼッヘを混乱させようと作為的に言ったことではない、と言うことだけだった。心から、面倒くさい感じ、心から、こんな老人のために働くのかと嘆いていた。
美しい宮殿だった。アーヘルゼッヘが顔を上げると、白亜の石が森の中に積み重なっていた。なだらかの丘の上に、青空を背に、白い三重の層の平たい建物が積み上がる。回廊だけの層もあれば、荘厳な広間が奥へ広がっている層もある。壁は極端に少なく、本当に美しい白い石の床が積み上げられているように見えた。その、空が垣間見える、白い層の間を、軽やかな生地やレースの上着や、きらびやかな刺繍の上着をなびかせて、けだるげに漂い、淵近くにあるベンチのような台座に横ずわり座り、扇子を手に笑いさざめいている人々がいる。
遠くを眺めながら、顔を突き合わせてささやきあう男女は、外で起こった騒乱も、海から攻めてきた敵兵も、まるで、別世界のような顔をしている。庭近くの回廊を行く、アーヘルゼッヘを建物の上から見つけると、遠目に眺めてはレースを振ったり扇子を傾けて合図を送る。それは、暗殺者を見る目と言うよりも、屋敷に紛れ込んだ蝶を見るようなまなざしだった。
実際、旅で疲れた銀の上着や、洞窟でついた土があっても、アーヘルゼッヘは美しかった。それは、造形美の粋を極めた自然の妙技のなせるもので、アーヘルゼッヘの気分とはまるで関係ないものだった。もし、よく見知った者が見ていれば、戸惑いと疲れと、言い知れない奇妙なけだるい空気のせいで、青ざめて口の端についた深い皺を見つけた事だろう。しかし、それさえも、憂いを含んだ美しさになっているのだが、見知った者からすれば、どうしたのと声をかけたくなるような、鬱鬱とした顔だった。
白亜の層は、森の中から、あちこちへ顔を出す。いくつもの建物が、空中に渡された回廊でつながっている。回廊を行きかう金や赤の衣装が、これまた幻想的だった。屋敷街の、巨大で立派な煉瓦の建物が、武骨に思えるほどだった。東部地区で渇水におびえて、救いのチウや姫巫女の生死一つで絶望する。そんな人々がいる同じ都の人間達には見えなかった。水を呼ぼうと毎日のように神殿で人を付き落す儀式をしている、そんな都で暮らしているようには見えない。
「こんなに水があるではないか」
アーヘルゼッヘはつぶやいた。木々に含まれた水はもちろん、回廊の両側にこんもり茂る植え込みも、日当りのいい草原のように刈った芝生も、どこもかしこも水と土の香りがする。
「汲みあげているからさ」
と共に歩いていた兵士がつぶやいた。
いつの間にかアーヘルゼッヘの腕を放して、脇をぶらぶら歩くだけになっていた兵士の言葉だった。兵士はさらに、視線を飛ばす。庭先では水がしぶきになって飛ばされている。付き出たホースの先が割れて、大地のすぐ上でくるくる回って、勢いよく水をまき散らしている。水の力で回している。
「あれをするために、地下で何十人もの民がふいごを踏んでいるのさ。帝都の奇跡を人々に知らしめるためと言う話だ」
「人々がここに来るのですか?」
「まさか。ここは宮殿の皇帝の庭先だ。皇帝のご婦人方が、退屈しのぎに歩きまわるくらいさ」
アーヘルゼッヘは沈黙した。兵士も沈黙し、黙って先へ立って歩き出した。
外回廊が終わり、内回廊に切り替わる。白亜の石から鈍い黒光りする美しい敷石へと変わり、石の壁と巨大な柱が支える建物の中に入って行く。外回廊は巨大な建物の中二階の回廊に変わって行った。見降ろすと、謁見用のスペースがある大広間が見えた。奥へ向かってまっすぐ絨毯が敷かれ、左右に石を切り出したような造りつけのベンチが見えた。椅子を磨き、周囲の床を掃き清めている人々の姿が見える。
天井近くの壁が、庭の光を取り込んで、淡い光が床で跳ね返る。この景色は、どこかで見たことがある、とアーヘルゼッヘは思った。そして、中二階の手すりを掴んで下を見た。奥には黒光りのする石段があった。丸く中央へだんだんと高くなっていく石段で、アーヘルゼッヘは見たことがあった。後ろで兵士が、
「暗殺者なんだから、まっすぐ歩け」
とよく分からない言葉でせかしていた。
アーヘルゼッヘは手すりを掴んで、兵士が、
「ほら。もうすぐ内門で、そこを出たら自由になる。消えたいなら、もうちょっと中に入って、柱の陰に隠れてから消えてほしい。と言うよりも、私が内門で別の者に渡すまでは消えないでいただきたい。おい。ちょっと!」
という声を聞いた。
アーヘルゼッヘは、兵士のたわごとのような言葉を背に、手すりをらくに乗り越えた。兵士の息をのむ声が聞こえた。高さはゆうに普通の建物の三階分はあったと思う。だから、下に立つと暗い洞窟に立っているように見える。そして、黒い敷石の石段に立つと、まるで、祭壇の前に立っているように見えてくるのだ。
それは、アーヘルゼッヘが夢で見た、チウの立っていた場所だった。アーヘルゼッヘは、ゆっくりと空中で体をたわめて、固い床へ足を付いた。柱の脇でベンチを磨いていた男が、物音に顔をあげ、アーヘルゼッヘを見て驚いていた。しかし、飛び降りたとは思わなかったのだろう。汚れて疲れた服装をしていたと言うのに、まるで貴族か何かにあったかのように丁寧に会釈をし、邪魔にならないようにと後ろへ下がった。
兵士が何か声を上げて覗き込んでいた。アーヘルゼッヘが無事だとわかると、警告するような声を出して、駆けだした。兵士の声に合わせて、にわかに周囲が騒がしくなる。掃除をしていた男や、彼の仲間たちは、まきこまれては大変だとでも言うように掃除道具を抱えると、兵士が広間の扉を音を立てて押しあけたのを確かめて、柱の陰へ引っ込んだ。
アーヘルゼッヘは、兵士の視線の前で、石段へ向かって大股で歩いた。神聖な場所なのか、謁見の間に入れたくなかったのか、兵士は大変慌てていた。アーヘルゼッヘが全く力を見せていなかったせいもあって、本当にただの髪を染めた人間だと思っていたのかもしれない。
兵士は、アーヘルゼッヘ以上に大股で歩いて、アーヘルゼッヘの腕を掴もうと手を伸ばした。石段のすぐ下で、アーヘルゼッヘは立ち止まり、兵士の手の指を腕に感じた。と、その時だった。左を見た。チウが指差した方向だった。石の壁を水が流れ落ちていた。建物の中に造られた人工的な滝だった。見まわすと、石段の後ろと左右は、黒光りする石をさらに光らせるような滝になっていた。足元には川があり、見ると、左右の柱の脇を通って、奥の地中の、回廊の下へ消えていく。
「水がなかったのではなかったのか? 民が渇水におびえ、姫巫女が水の神に祈るために、焼身しようとしたのではなかったのか?」
とつぶやいた。
兵士の指は、アーヘルゼッヘの腕に触れたところで止まってしまった。アーヘルゼッヘが振り返ると、兵士は剣の鞘に手をおきなおした。いじくりまわしている、と言うような指の使い方をしはじめる。アーヘルゼッヘと眼が合うと、
「遠い昔、水は、皇家のために流れだした。皇家が水を愛でるために流れている。愛でるのをやめてしまえば、水は止まってしまうだろう」
と、まるで、そう言えば何かに許されるのだとでも言うような声で言った。そしてさらに、
「この水は、ここで汲み上げられたのち、町へ流れていく。その為にふいごの力で汲み上げて、そのための民がここにいる。だから、これは必要なんだ」
と言って、唇をかみしめた。
「そのふいごはどこにあるのです?」
「地下に」
と言って兵士は、もう、これまでだ、と言うように顔をあげ、
「お戻りになってくださいよ。あなたの国に。あなたの大陸に。あなたは関係ない人だ。北の方だ。そうじゃないと言うなら、いっそ、剣で追い出してから、そう言ってくださいよ」
と言って再び視線を落とした。人間だと言いきるには、アーヘルゼッヘの造形は美しすぎたようだった。北の者だと、見下したように言いながらも、北の方だと丁重に扱っていた。
「この水のことを、どのくらいの人々が知っているのですか?」
「知らないのはあなたくらいだ」
とぼんやりした声でつぶやいた。アーヘルゼッヘはしっかりした声で聞いた。
「ふいごを作ったのは誰?」
「チウ閣下」
と返事が返った。アーヘルゼッヘは信じられなかった。
「どうして? こんな事をするために、チウは帝都に戻ったのか? ひと月もかけてこれを作る為に?」
「都で暴動を起こすためじゃないかな。チウ閣下は民に人気があったから。力を付けて、都を人々のために開放したいと思っていたのかもしれない」
「チウはどこです」
兵士は口を閉じた。ぼんやりした無気力に落ちそうだった顔が急に引き締まった。
「どこにいるんです?」
「あなたは暗殺者だ。ここを離れて、出ていってもらおう」
そう言って、今度はしっかりと剣の鞘を握った。右手で押さえ、左足を引いた姿は、先ほどの遠慮深い姿とはかけ離れていた。
「チウが、ふいごを皇帝のために作ったから、だから、神殿で贄にされたのですか?」
とアーヘルゼッヘは聞いた。兵士は顔色を変えた。
「何をばかげたことを」
という。しかし、アーヘルゼッヘがさらに、
「では、チウはどこです? このふいごを作って、どこへ行かれたのですか?」
兵士は、ゆっくりと剣を鞘から抜いた。抜き身を見せつけて脅そうとしているらしい。切りつけてくるような気配はない。
「さあ、歩いてください。私はゆっくり歩きすぎた。いくら、私がバテレスト家の者だとしても、これ以上の自分勝手は、詮議の的になってしまう」
と言って、剣の先を回廊へ向けて差し示した。