聖域
「さあ、まいりましょう」
とアーヘルゼッヘが言って歩き出すと、彼らは無言でうなずいた。アーヘルゼッヘが歩き出すとそのまま後に従った。静かな行列になった。アーヘルゼッヘは彼らの緊張を感じた。
北の者の力を改めて感じて萎縮しそうな人間たちを見て、アーヘルゼッヘは無言になった。人を見て安心した自分と、自分を見て恐怖を感じた人間と、いったい何が違うのだろうと不安になった。何か大事なものを見落としているような気がした。
洞窟は緩い坂道になっていた。斜めの壁と壁の間をうねうねと上へ続く道がある。天井は見えないほど高く、暗く見上げても分からないのだが、足もとには人が通った跡がある。降り積もった砂礫の間に岩がむき出しの場所があり一筋の道になっていた。水を汲みに降りるのか、宗教的儀式のために降りてくるのか、アーヘルゼッヘには分からなかった。神殿の住人でもある姫巫女も知らない場所で宗教儀式と言うのはあまり考えられないのだが、漁師が知っているくらいだから、儀式用の水を汲む場所だったのかもしれない。
永遠とも続く通路を上って行くと、突然、ぽっかり空いた場所に出た。頭上はるか上に天井がある。丸いドーム型だ。上の方には欄干があり、その向こうには柱があって、柱の間に空が見える。真っ青な空だ。明るかった。巨大だった。欄干がレースのように見えるほど高く大きい。洞窟の上を取り払って、天井を付けたように見えた。
アーヘルゼッヘは一歩中に踏み出した。とたんに降るような祈りの声が響きだす。驚いて一歩下がると音が消えた。顔を出すと祈りの声が振動になって頬触れる。大音量で聞こえだす。響き方が場所によって違うらしい。欄干の向こう、見えない柱のたもとに人々がいて祈りの声を上げているようだった。
岩や崩れかけた大地の割れ目があって、人がいるような場所には見えない。中央に、大地から突き出た岩があってその岩の頂上に鎖がかけてあった。降るような声の中、アーヘルゼッヘは突き出た岩へ近づいた。すると後ろからパソンの声が聞こえた。
「なりません。そちらに行ってはいけません!」
細いのに不思議とよく聞こえてくる。押し殺したような必至な声だった。振り返ると、全員、洞窟の入口に立ち止まってアーヘルゼッヘを見つめていた。
「お戻りください!」
パソンの言葉に、彼らの聖地を荒らしたらしいと思った。慌てて戻ろうとしたのだが、降る声がさらに大きく響きだし、アーヘルゼッヘは驚いて立ち止まってしまった。
そこに、上から人が降ってきた。まるで、真上から飛び降りたような勢いで落ちてきて、中央の岩の先へ叩きつけられ跳ね上がって脇へ落ちた。アーヘルゼッヘは固まったまま動けなかった。岩の向こうへ人形のように跳ね上がって消えた。あたりに漂い始めた血の匂いにアーヘルゼッヘは吐き気を覚えた。と、同時に岩の向こうへ駈け出した。
無残な若者の姿があった。よじれた四肢に崩れた頭を見て、アーヘルゼッヘはフードをとってマントを脱いだ。長い銀の髪が背中に流れ、整った色白の面に、怒りに光が滲むような銀の目がかっと見開いていた。
若者は、職人のような簡素な生地の服を着ていた。空を鷲掴みにするように固まった指は、太く厚い皮で覆われよく使い込んだ指をしていた。つかむと冷たく、引っ張ると軽く崩れた。アーヘルゼッヘはマントを被せて、マントの膨らみを見下ろした。そして、後ろへ向かって声を上げた。
「パソン殿。姫巫女殿。あなたの神への祈りはこれなのですか」
しんと静まり返った洞窟で、アーヘルゼッヘの声が響いた。天井近くにいた人々にも聞こえたらしい。頭上から声を上がり、ざわめきとともに欄干に人影が差しはじめた。
「パソン殿。人を救いたいと言いながら、人を殺しているのが、あなたの聖なる御技なのですか」
「雨が降らないからです」
と静かな声で答えたのは、ゼ大臣補佐だった。入口に立ち止まっていた人々は立ちつくしたままだった。パソンは立ったまま何か言おうと口を開けているのだが、声が出せない。
「雨が降らなければ何をしてもいいと言うのですか」
ゼ大臣補佐が粛々と答えを返す。
「その者は、自分の身を捧げるために来たのです」
「雨のために死にたいなどと、人が思うものですか」
アーヘルゼッヘが声を張り上げると、頭上から、
「自分の身一つで雨が降るならと、ここへ来たのです」
と声が降ってきた。欄干に立つ一人の男が見下ろしながら話していた。
「こんなことで雨が降るはずがない」
と言うアーヘルゼッヘの言葉に、欄干の小さな影が揺れた。笑っているようにも見えた。が、男は穏やかな声で、
「姫巫女が身を焼くくらいなら、自分たちの身をささげたいと思うのが心情です。姫が都に入られる前に雨を降らして差し上げたかった」
「嘘です!」
と叫んだのはパソンだった。
「わたくしの身代りになれると思っている信者がいるとは思えません!」
「おお、やはり姫巫女もそこに居られましたか。お早いお帰りで、我ら一同喜びの言葉もありません」
頭上から降ってくる言葉に温かさも喜びも混じってはいなかった。パソンはゆっくりと入口から歩み出し、岩の脇へと歩みよる。そして、マントの傍に跪き布をはがした。消えた顔に目を凝らし、
「ゼ大臣補佐。誰かわかりますか」
と聞いた。パソンと共に近づいてきたゼ大臣補佐は覗き込みながら顔をしかめた。
「これでは無理です」
「そうですか」
そう呟いて、パソンは立った。そして上へ向かって声を上げた。
「そこにいる者を捕らえなさい! 我らが神の名を使い、あたら神の子らの命を弄んだ罪人ですぞ!」
上にいる人物が笑いながら言い返した。
「神の大事な子らだからこそ、神は我らの思いをお聞き届けくださるのですよ。大事な子らをこれ以上なくしたくないのなら、どうぞ我らのために雨を降らせたまえ」
と最後の部分は祈りの文句のような言い方だった。
「テンネ殿!」
「姫巫女殿。バテレスト家の権力を維持をしたい気持ちもわかりますが、もう、無駄ですよ」
「それは、あなたの方でしょう!」
「いいえ。チウ閣下は地下へ入られてから身じろぎ一つしておられません。祈りで何とかなるのなら、この一ヵ月の間に地下から水が吹きあげているころでしょう」
「チウ従兄上には、お考えがあって」
「地下水を吹き上げさせる工夫をなさるという触れ込みでございましたな。だからこそ、あなたが帝都を離れ遠くの祭りに行けるのだ、と説いておられたと思いますが。里帰りでしょうかな? 楽しめましたかな? あなたが焼身する前に、せめて懐かしい人々との別れをと思われただけではありませんか」
「チウ従兄上が、嘘をおっしゃることはあり得ません」
「ありえない? それこそ、あなたが帝都を逃げ出すことの方があり得ませんな。そう説得するのに、我らがどれほど苦労したかおわかりになられない」
「わたくしは、水の種を探していたのです」
「見つかったのですかな?」
「いいえ」
「ほぉ。その間、帝都での混乱をすっかり忘れて寛がれておられた?」
「すっかり忘れてなどおりません」
「思い出してはいたけれども、バテレスト家の力を使って帰るほどのこともない、と思われた」
「それほど、簡単に使える力ではありません! 自由になるのでしたら、今頃水がわき出している事でしょう」
「そうなんです。それで、我らも、力がないなりに考えて、みなにふれて回ったのですよ」
「巫女姫が戻られるうように、チウ閣下が地下からお顔を出されるように、我らにもできることがある。神に祈り、神に我らの大事なものをささげて、我らの声を届けることだ、と」
アーヘルゼッヘは周囲を見た。
くすんだ土の跡が見える。何人が身をささげたのだろうかと思い、思ったとたん、さまざまな人々の思いが飛び込んできた。恐怖や恍惚、絶望や悲鳴。アーヘルゼッヘは身をすくませた。彼らの背後で、ささやきかける声が聞こえる。
「…子供を助けたいのなら、身を捧げるしか道はない。おまえの自由のために、親が犠牲になってもいいのか? 苦しみからの解放がそこにある。神のもとでの永遠の幸せのためだ、泣いてはならない。後悔しては、身をささげた者を辱めるだけだ。祈りの声を上げよう。神々にすがろう。神に我らの声を届けて、我らの気持ちを伝えよう」
アーヘルゼッヘは降ってくる男の声と、幻想のように漂う男の声が重なるのを聞いた。
「姫巫女。拙く力のないただの人間のしていることに、お怒りはごもっともなれど、我らは一生懸命だったのですよ。神への祈りが通じたおかげで、こうして姫巫女が無事ここへお戻りになられたのですから」
天井に鈴なりになっていた人々の周りから湧き上がるような緊張が見えた。男が一言言うたびに、緊張が揺れ、ほっとしたように緩み、時には恐怖を感じているのか縮こまる。そんな中、一人の若者がささやいた。
「本当に、姫巫女がお戻りになられてよかった」
ほっとしたささやきだった。なのに、ドームの中で大きく響いた。アーヘルゼッヘの頬に産毛がたった。声に宿っていたのは、喜びではなく、安堵だった。自分達がやった、人を付き落すという事が、正しかったと安堵したのだ。声には、無言の同意が宿っていった。ドームの縁で人を殺したことへの喜びが湧き上がった。アーヘルゼッヘは、とっさに叫んだ。
「人殺しが嬉しいか!」
無言の喜びが霧消した。変わって怒りが渦巻き始める。力ない自分達に、他にどんな方法があったのだ、と言う思いが膨らみ、叫びのように大きくなって、力がない自分たちを責めるアーヘルゼッヘへ憎悪と嫌悪が襲い掛かる。アーヘルゼッヘが声を大きくして言った。
「命が消えるときの恐怖はどうだった! 神と祈りでごまかして、記憶に残っていないと言うのか。水を使う人間が一人でも少なければいい、という計算で殺したのではないのか?! いけにえをささげている間だけ、水がない恐怖から逃げられると思いやっただけではないのか? 自分たちの恐怖をごまかすために、生贄を探しに街に出て、説いて回ったのでははないのか!」
欄干を掴む人々は凍ったように動きを止めた。自分たちを暴く言葉に、言い知れない恐怖が湧き上がっているように見えた。
「それが正義か?! 姫巫女が帰って来たから自分達が正しいのか! 姫巫女が出かけて行ったから自分達が正しいのか! 姫巫女が出て行ったのが神の見技であったなら、呼び戻そうとした者達は神に逆らうものではないのか! そのために、人を殺め続けていたのか?!」
アーヘルゼッヘの言葉に答えるように、何か悲鳴のような声が上がった。うめき声だったのかもしれない。欄干の影が一つ揺らいだ。と思ったら、ぽとりと虫が落ちるように影が下へ落下した。ひとつ落ちると、二つ目がゆらりと揺れて、同じように下へ落ちた。パソンの悲鳴がドーム中に響き渡った。アーヘルゼッヘの中で巨大な怒りがわき上がった。人は弱い。と教わった。事実だけで死んでしまうとも教わった。しかし、これではあまりに卑怯だ。そう思ったとたん、アーヘルゼッヘの中で何かが破裂した。大きな音がうねりとなって、大地から全身へ湧き上がって、一気に外へ噴き出した。まっ白い光の球がドームを満たし、帝都へ広がり大陸中へと広がった。
チウが傍に立っていた。手を差し出してアーヘルゼッヘの片手をつかんだ。握手だったように思う。笑っていた。チウの向こうに北の主が立っていた。苦い顔をしてアーヘルゼッヘを眺めている。
「おまえは北大陸のものだった。私はそう思っていたし、これからもそう思うだろう」
北の主の言葉に、チウが返した。
「悪いが、これは生まれた時から、中津大陸のものだったのさ。北の養い親としては会うのは許されるだろうが、口を出すのは遠慮しろ」
「遠慮しろ、とはよく言えたものよ。空の主が、北に口を出すのは今に始まったことではあるまいに、私にだけ遠慮しろとは口はばったい」
「しかたあるまい。小さなおまえが生まれる前から、世界は私のものなのだから」
二人の間に沈黙が落ちた。
アーヘルゼッヘは二人を眺めながら、そこに光に輝く大地を感じていた。北の主の大地があった。自分の立つ大地があった。そして、その上に上空に駆け巡る大気のようなチウがいた。ふと気がつくと、ドームの下に立っていた。しんとして人気がない。
「そこにいるのは我が弟だ」
とチウの声が聞こえた。アーヘルゼッヘが見下ろすと、帝都の下に横たわり眠り続ける青年の姿が見えた。
「人に命を与えてから数万年、そこで眠りつづけている。彼が愛した人間を私は守りたいと思う」
そう言ったとたん、周囲の人々が現れた。欄干から今まさに落ちようとする若者の姿が見えた。アーヘルゼッヘの言葉に耐えきれなくて身を乗り出した者だ。まだ幼く子供のようなあどけなさが見えた。二人目は、泣き叫びそうな顔をしている女性だった。この顔と同じような顔の子供が岩に向かって落ちていったのを覚えていた。
アーヘルゼッヘは手をのばして彼らを掬いあげていた。大きな空の手を伸ばし、彼らをそっと欄干の上へ戻す。ドームが小さく感じるくらいに大きな気配になっていた。地中深くで眠りつづける青年は静かな顔をしていた。
「ああ見えても、わたしの弟だ。すべてが見える」
そう言って、チウはため息をついた。
「北の主は大地の主だが、中津大陸の主は人間の主になる。我が弟は、人間を作り、命を与えて喜びに浸っていた。その後、人の力の限界に悲しみを見出し、嘆きを感じ、後悔を抱えて、今はただ、人間に望みを託して眠りつづけている。目を覚まさない。いつかは覚ますだろうが、まだその時ではないのだろう」
チウが隣に立っていた。足元の血ぬられた大地を見つめている。
「人間は愚かだ。このような事をしなくても、見える者にはすべてが見えているというのに、いくら言っても気づかない」
「なら、あなたが立ち上がって、祈りなどしないで、水を引いていればよかったではありませんか」
アーヘルゼッヘの声は震えていた。
周囲に立つ人々は霞のように見えた。チウの存在が強烈過ぎて、全てがかすんで見える。アーヘルゼッヘが力を出すと、周囲の存在が驚くほど薄れて見えてしまうのと同じだった。その薄れさすほどの存在感に、人々が恐怖するのだが、本人は気付いていない。アーヘルゼッヘはチウに向かって、
「あなたが帝都にいて、水を湧きあがらせる工夫をするというから、パソンは町に残って祭りを迎えたのでしょう。こんな力があったのなら、人間がしていたすべてが茶番になる。すべてが無駄死にで、すべてが意味のないものになってしまう」
「アーヘルゼッヘ。それは違う」
「何が違うというのです」
「私にだって限界がある」
嘘だと否定する視線に向かって、
「海の水をすべて空にすることができるかね? 人間を生かすために、力をどこまで使えたかい?」
「見ていたのですか」
「見えてしまうのだよ」
そう言って、チウは片手をあげた。
荘厳な神殿が背後に広がって見えた。過去の情景だとわかる。同じように高いドームの下で、突き出た岩の場所に立って、指さす方に輝く岩壁が見える。大地で眠るチウの弟が息を吐くと淡く輝き、息を吸うと鈍く光る。不思議な岩だ。人々が光の岩を見て祈り、その正面の床を磨いて広場を作り、洞窟を広げようとして天井がくずれおちた。
神の傍に近づきすぎたせいで怒りに触れたと恐れた人々は、洞窟の上に天井を作り、欄干を張り巡らせて祈りの場所を作って行く。チウの弟はただ人々を感じて眠りつづけるだけだ。なのに、人は神に祈り神に願い、彼らの心のありどころとしながら、彼らのパワーで帝都を作り上げていく。小気味いいほどのパワーの裏には、容赦ないほどの生き残りをかけた闘争もあった。
アーヘルゼッヘは彼らの歴史を、洞窟に立ちながら眺めていた。北との戦いがはじまり、祈りの回数は増え、この場でいけにえを捧げるようになり始める。大地に眠る青年の顔はみじんも変わっていなかった。しかし、そこにチウが登場する。バテレスト家の若者として、片足を引きずりながら、大陸中を奔走していく。気がつくと、岩の壁の光がすっかり消えていた。
「より深くに沈みこんでしまったのさ」
チウの声に見下ろすと、帝都の下の青年が、深みに降りて行ったのか小さくなっていた。
「人の愚かさは十分知っていたとしても、自分に毎月注がれる命の叫びは耐えられなくなったらしい。徐々に下へさがりはじめ、それとともに、地形が変わった」
と言うと、息でやわらかく上下していた大地が固く動きのないものへと変わって行くのが見えた。帝都の下で縦横に張り巡らされていた水脈が、呼吸とともに波打って水をながす。その水脈が、青年が下へ下ることで止まりだす。
「さあ、ここはおまえの大陸だ。主としてしたいことをなせ」
アーヘルゼッヘははっとした。チウは、空気中に溶け込もうとしていた。
「おまえは成人したかった。成鳥を探していたはずだ。その役目を私がやった。初めて握手をした時に、おまえを大人として扱ったからだ。おまえはとっくに成人している」
「だから力が戻っていたんだ」
とつぶやくと、チウが首を左右に振った。
「消えることなどありえない。北の主という制約が消えて、使い勝手が分からなくなっていただけだ。力を使う目的がなければ、出す方法も分からなくなる。おまえはまだまだ十分じゃないだろう。しかし、この大陸はおまえを主として迎え入れた。だから、きっと十分なはず」
消えそうなチウは、本当に空気になって消え去った。その間際、
「幼子よ。成人になりたかったのだろう? 責任を果たせよ」
と声がして、静かになった。
アーヘルゼッヘは呆然としていた。怒りに爆発していたはずの自分の気持ちがどこに行ったのかさっぱり分からなくなっていた。それどころか、落ちたはずなのに、欄干の上に戻っていた二人が、柱の脇にしゃがみこんで猛烈な勢いで話し始めていた。
「ここに神がおいでです! 私は見ました!」
と言う声だった。また、宙を動いた彼らを見ていた人々も、同じように感じたらしい。
「神が我らを助けてくださる。これでもう大丈夫だ」
その声に、アーヘルゼッヘは、我に返った。アーヘルゼッヘは声を上げた。
「ここに人を落としてはダメだ! 生贄なんか神にはいらない。土がさらに固くなる」
と訳が分からない言葉だった。なのに、パソンが振り返り、
「それでは何が必要ですか?」
と聞いたのだ。アーヘルゼッヘは言葉を飲んだ。
「何が必要かおっしゃってください」
「水を引くことです。と言うよりも、水脈を脈打たせて、水を送ることです」
と言うと、パソンは深くうなずいた。そして、言った。
「みなさん。聞かれましたか? 我らが神は、帝都に水を引けと仰せです。贄はいらぬと仰せです。みなさん、聞こえていますか!」
ざわめきに向かって、パソンがさらに声を上げた。
「ここにおわす我らが神が、仰せです! 水を帝都に引くように、王宮へ使者をお出しなさい。水脈を波打たせよと仰せです」
いや、それはできないのではないか、とアーヘルゼッヘは思った。もちろん、見降ろしていた人々も同じように思ったのでないだろうか。しかし、パソンが、きっぱりとした声で、
「神の声です。贄ではなく、知恵を出せと仰せです!」
と言うと、人々は欄干からはっと顔をあげた。何かが彼らの心に触れたらしい。彼らは、周囲を見回した。あのテンネと言う男を探していたらしい。しかし、テンネはいつの間にか消えていた。パソンが、上へ向かって、
「上へ上がります。階段をおろしてください」
と言うと、それが合図であったかのように、全ての人々が動き始めた。アーヘルゼッヘの目の前で落ちた若者は、まっさきに大事に抱えられて引き揚げられていった。白いローブに華麗な組みひもを巻いた若者や女性が、桶を持って次々に洞窟へ降りて行く。アーヘルゼッヘ達の来た水際へ行き清める水を汲んでくる。
アーヘルゼッヘは、パソン達と共に、つり下ろされた立派な木の階段を昇った。ドームは盛り上がった岩の上にあった。ドームを支える柱は一本一本が、人が一人横になれそうなほど太かった。アーヘルゼッヘは柱の脇に立って眼下の街を見下ろした。朝日が遠い水平線を割り、まっ白い光を放って昇ろうとしていた。白く靄がかった街では、建物が光を受けて、だんだんと白く輝き始める。目を凝らすと、靄の下に人影が見えた。
よく見ると人々が建物の間を埋めている。真っ黒い影のような群衆になって、こちらへ押し寄せていた。目を見張って遠くを見た。水平線に白い帆が見えた。ぽつんぽつんと連なっている。一筋の線を作って、陸地に向かって進んでいる。中央と東の街との城門で騒ぎが上がった。人々の怒りと恐怖と焦燥が、棒を振り上げ、荷車をぶつけ、次から次へと門の上へと人を上らせて行った。
歓声が上がった。と思ったら、悲鳴と怒声があがり、ついで、門が揺れた。遠目には砦のように見える、テラスと弩弓の歩哨の窓がある大きな石の建物が、本当に揺れたように見えた。そして、一筋の煙が昇り、門から火の手が上がりはじめた。
「門が破られました。東の民がなだれ込んでまいります! 中へ。今ならまだ宮殿へ逃げ込めます」
丘をぐるりと囲んでいる長い石段を、白いローブの若者が息せき切って駆けあがってくる。手には剣を、肩には弓を、手には矢づつを握りしめ、神殿の戦闘要員か、はたまた戦士が信者になったのか分からなかったのだが、慣れた様子で矢づつを背中にひっかけて、パソンを見ると、
「姫巫女様、あちらへ! どうぞ、あちらからお抜けください」
パソンが首を横に振る。
「今は、いつもの聞き分けの良い、東の民ではありません。違うんです。誰の言葉も聞こえない。外から来る敵におびえて誰の言葉も耳に入ってこないんです!」
ゼ大臣補佐がついと前で出て、若者の前に立つ。低く平板な声で、
「あの水平線の船が敵だとなぜ分かる? どうして分かった?」
「それは、警邏達が東部から引き上げていったからです。東の民は、上層部が逃げだした、と叫んでいます」
「警邏達を捕まえろ。なぜ引き揚げたのか確認しなさい」
「しかし、まずはここから引き上げなければ」
「大丈夫です。わたくしが彼らを説き伏せます」
「しかし、姫巫女様!」
「わたくしが彼らをおいてどこかに参ると思っているのですか! あなたも神殿に住まう一人でありましょう。わたくしをなんて御思いか!」
若者は唇を噛んだ。後ろをさっと振り返り、遠く見える城門の火の手をにらんだ。
「あの東部の混乱のせいで、敵は悠々と人々の後を追って攻めてきます。彼らが先陣のようなものです。我らが民を説き伏せている間に、敵の民がのうのうとすぐ隣まで来ることでしょう」
「ならば、敵の民も説き伏せるまで」
「何を夢のような事をおっしゃっているのですか! 帝都の要は宮殿と役所と姫巫女ではあられませぬか。あなたに代えはいないのです」
ゼ大臣補佐が手をあげて、若者に向かって再び言った。
「敵が何者か、警邏を捕まえて聞き出して来なさい。大丈夫。ここから外へ逃げる方法はいくらでもある」
若者の不安そうな顔に、
「我らがどうやってここへ来たのか分からぬか? 誰も知らぬ道を通って来たから、ここにいるのだ。心配はいらぬ。敵が何か分からなければ、どこへ行っても逃げ道はないやもしれぬ。さあ、行け!」
若者は「はっ」と声を出す気持ちをさっと切り換えた。と、パソンへ深く視線を落として礼を見せ、背をひるがえして二飛びほどで、文字通り飛ぶように石段を降りて行った。