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北大陸の者  作者: るるる
12/18

目の前に立つパソンからは、アーヘルゼッヘが放った光の破片が見える。まるで、光の粒がこぼれおちるようにはらはらと、大地に向かって散って行く。少しでも、アーヘルゼッヘの光を押えて、周囲の恐怖を鎮めようとしたのだろう。これが人間の力だとすれば、あの光だって人間の力だといえないのではないだろうか、と疑問に思う。しかし、

「それでは、人間と北の者との差がなくなってしまう」

交配が可能なほど、近いとは思えない。種が異なる意味や理由がなくなってしまう。と思ったのだが、パソンが、

「人が北の方に近づいてるのかもしれません。神々を信じるわれわれの力は、北の方が思っているよりもずっと柔軟性があって、変化に富んでいるのかもしれませんわ」

と言って、パソンは胸を張って見せた。


 確かに、ゼ大臣補佐の何もかも読みつくしたような姿からは、北の者以上の力があるような気がしてならない。しかし、それは、北の者の力がないからこそもちえた力なのではないだろうか? もっと北の者では計り知れない力があるだけで、同じ力であるはずがない、と思うのだが。しかし、パソンが、

「従兄上さまがおいでなら、急がなければなりません。どの場所だったか、わかりますか?」

と問われると、

「石段のある暗い場所でした」

と答えるしかなかった。パソンは驚いた顔をしたが、すぐにも笑った。


「神殿です。チウ従兄上は生きています。ゼ大臣補佐! どの屋敷に上がるか分かっていますか?」

「セルトンネ家の桟橋に付けようと思っております」

「そこから、神殿へは距離がありすぎます」

「しかし、海上からの声を拾えるものは、あの家くらいしかありませんが」

「海の家から入りましょう」

「しかし、これから満潮になるので無理でしょう」

「しかし、地下神殿への最良の近道は、そこか、草原の道しかないのですわ!」

と言った。そして、その場に静寂が落ちた。みなセノ卿のことを考えていた。アーヘルゼッヘ達を追ってくる者はいなかった。そして、セノ卿もその一家も草原で消えたのだ。


「戻りましょう。地上から行けば」

とアーヘルゼッヘが踵を返そうとした。ゼ大臣補佐は、

「無駄でしょう。今頃は、全ての入口を閉じられていましょう」

「そんな全ての入口が分かるほど、地下水路に詳しいのですか?!」

「地下水路には詳しくなくても、地下神殿の入口に続く道なら、誰でもが知っています。外部からの侵入者を防ぐために、警備に当たらせているからです」

パソンは泣きそうな顔をしていた。が、両手を握って顔をあげると、厳しい顔へ切り替わる。

「神殿へ直接入りましょう。セルトンネ家から中央区へ入ります」

「しかし、中央区と商人地区の間に門が」

「わたくしの名前を出せば、門を開かずにはいられないはず」

「しかし、それでは向こうに準備をさせることになります」

「従兄上に手を出してはまずいと言う警告にもなるでしょう!」

とパソンが言うと、海に向かって歩き始めた。


アーヘルゼッヘは海を見た。海を見ながらできるだろうかと指をあげた。潮が満ちる。海から上がる洞窟がある。洞窟が潮で埋まる。水を下に押えれば、反発して脇へ噴き出す。水が別の場所で引き上げられれば、水かさは下がり、洞窟に道ができる。アーヘルゼッヘは水を見て指をそっと上へはじいた。大洋の中央で、月の白い影の真ん中で白い筋が一本上がった。


水をあげることはたやすい。流れを変えることは難しくても、空の場所を空けてあげれば、水は否でも吸い上がる。アーヘルゼッヘは手を差し出してそっと掴んだ。空気を掴んで引っ張った。すると、月の下で海が小さな山になり、静かに落ちた。

「何をしてるんだ?」

震える声に顔を向けると、漁師だった。夫人を抱えたまま扉を杖に立ちあがり、目を皿のようにして海を見る。


「潮の満ち引きを換えれば、洞窟に入れます」

「そんなことができるのか?」

「わかりません。水を動かすくらいのことしかできないかもしれない」

漁師はかっと眼を見開いて、

「それなら、通れる場所があります」

そう言って、夫人をその場に置いて、海に向かって歩き出した。

「大臣様。神殿への道は、浦の崖下にあります」

「水の道は一つだったはずじゃ」

「ええ。たるを逆さにして空気を吸っても、途中までしか行きつけない通路です。ですが、時折、潮の引きが激しい時に、その先へ出られることがあります」

神殿への侵入がそんなに簡単にできるのか、と一瞬、苦い思いがしたようだった。が、漁師は気付かず、さらに、

「台風や竜巻の時には、中に入れる場合がある、と言う言い伝えです」

「言い伝えで行くわけにはいかないのじゃ」

熱心さに打たれながらゼ大臣補佐が言うと、

「いいえ。向こうから流れてくるものがございます。香の残りかすや、献花などです」

「それも、人が通れる場所だと決まったわけではあるまい」

「しかし、子供の頃の、あれの爺様の友人が、確かに行ったと言うたのを聞いたんです。嘘をつかない奴だったから、本当にあるはずだ、と爺様が言ったんです」

ゼ大臣補佐は首を縦に振らなかった。

「なら、私が行って、見てきましょう。それで、行けなかったら、商家から行かれたらいいんです」

と言う。と、アーヘルゼッヘが、

「見てみればいいんです」

と今更ながらな事を云った。自分は力の使い方を知らない、と思いつつ目をつぶる。が、どこを見たらいいのかさっぱり分からない。

「すいません、地図は?」

と言うと、漁師は、片手を顔の前で軽く振った。

「そんなしゃれたもんはありゃしませんぜ。海の顔は口伝で伝わるもんなんです。行きましょう」

「あんた」

と言うか細い声に、漁師は顔をあげた。夫人は扉にしがみついたままだった。

「まってな。お客さんを送って帰ってくるから」

「でも」

「船だけだして戻りを待つなんざ、俺にはできねぇよ」

と言うと、夫人は何も言わなかった。変わりに、中に入って慌てて、上着を手にして近づいてきた。

「夜の海は冷えるから」

「ああ。だな」

と言いながら、上着を着せかけてもらう。漁師は夫人の手を大事そうに何度もたたいた。アーヘルゼッヘへは近寄らなかったし、視線を上げたりはしなかったが、夫を守ってください、という祈りの声だけは痛いほど聞こえてきた。



馬は全部が残された。売り払ったらいい、と言われたのだが、こんな立派な馬を売りに行ったら泥棒と間違われて捕まってしまいます。と断られ、事が終わったら取りに来る、と言う話になった。平底の船にパソンが乗って、勧められるままにアーヘルゼッヘがゼ大臣補佐と乗ると、男達は無言でぐっと海に押しだした。船はゆらっと揺れて海に浮かび、男達が海から次々に乗り込むと、漁師が艫に立ってこぎ出した。


別の船も、船が得意の者がいるのだろう。一人が艫に立ったまま海に出ると、あちらは、海に入ると乗り込むのを待たないで、飛び乗らせながらこぎ始めた。


魚の磯臭い匂いがした。小舟のせいか波が大きく、上下に揺れる。アーヘルゼッヘは船べりを掴み正面を見た。すぐ目の前では、同じようにパソンやソンが船べりに掴まっている。船底に渡した板に腰かけて。すぐ脇のゼ大臣補佐は蒼白な顔で目をつぶっている。波に酔い始めているようだ。


黙って腰かけている彼らの顔はみな厳しくて、行く先を深く案じているようだ。視線をあげると、湾の影の向こうに明るい夜空が見えた。群青色の空に星が瞬いていた。銀の月が海原を明るく照らしている。凪いだ美しい海だ。なのに、アーヘルゼッヘのすぐ脇で、波が岩に砕けて轟音が上げる。岩に砕けた波は、山のように膨らんで、風に運ばれ小船の上へ降り注ぐ。船は大洋へこぎ出して、崖下からうねりのある海原へと波間にもまれて進んでいく。


船が小さすぎるような気がした。波が高く先が見えなくなると不安になって、波に乗ってせり上がると落ちる恐怖に体が縮んだ。後ろで力強く竿を漕ぐ漁師がいなければ、アーヘルゼッヘは船べりにつかまり続けていなかったかも知れない。方法はいくらでもあったのだ。先が分からなければ、見える岩へ次々と飛び移って行けばいいだけのことだった。一人で行って、場所を見つけて戻ってくれば、一人づつでも連れて飛べばよかったのだ。先が分からないなら、漁師と一緒に飛んでもよかった。


力が戻って来たのなら、何だってできたのだ。そう思いながら、船の下を力強く押し上げる水の力に不安を感じた。大地よりもなお厚く、岩よりも重く、山よりも大きな力がここにある。小さな船に乗っているせいかもしれなかったが、恐ろしいほど大きな力が船底にあるような気がしたのだ。


これを押し下げる力が本当ん自分にあるだろうか、と思うと不安はさらに大きくなった。空間を作ってそこへ水を押し上げれば、と思ったけれど、下の水は広大な大洋の一部であって、池の水とはわけが違う。広大な水面を下げられるほど、大量に水をひきあげられるだろうか。そんなことをして、この海は傷つかないだろうか、と思ったところで、アーヘルゼッヘは総身に鳥肌が立った。大地をねじれば大地の報いを受ける。と言う言葉は北では当たり前の言葉だ。海をねじれば海の報いを受ける。と言うのだって、同じことだ。


北から来た者が、こんな子供のころから叩き込まれている、単純な法則を忘れてどうするのだろう、と言うような事を忘れていた。



吸い上げた水を戻せば、海はそのまま元に戻る、と言う単純なものではない。水は戻る時にパワーを使う。上から岩を落とせば、水しぶきが上がって周囲を水浸しにする。それと同じで、水を落とせば、しぶきの水が岩をのみこみ岸辺を襲う、かもしれない。


アーヘルゼッヘは必至になって、頭の中で計算しだした。小さな洞窟の水位を一時的に下げるだけでも、膨大な水を動かさなければならない。でも、人のいる場所に水がなければいいだけなら、洞窟の中で移動しながら、一部の水位だけ下げ続ければ良いはずだ。船の下の水をどかすだけなら、動く水の力も小さくなるはずだから、と思ったところで、呼吸をどうするか、と考え始めた。


水をどければ空気が流れ込んでくるはずだ。しかし、この三艘分の人間の呼吸分があるだろうか? 流れ込むのは、自分達が吸った空気しかない。水を押し下げ通った後に水が再び背後で膜になってしまうから、新しい空気の入る隙間がない。それとも、その隙間だけを作りながら水を押し下げていけばいいのだろうか。そんな微調整を海相手にできるのだろうか? どうやったらいいだろう、と思いながら、アーヘルゼッヘは顔をあげた。


いつの間にか、船は大海原から、突き出た岬の下に向かって進路を変えていた。湾と潮の関係か、波は低く船べりを打つ程度になっていた。岬の下に崖が見える。岩に打ちつける波の様子は、先ほど見ていた岩と全く違いがない。ように、アーヘルゼッヘは感じた。しかし、漁師は違っていた。


「崖の下に、中腹に木があります。あの下の大岩の横に穴があるんです」


確かに、奇跡のように、崖に張り付くように突き出た木があった。よじれた、風を右から受けていたのか左にのたうったような木で、その下に子供がよじ登りたがりそうな大岩があった。もちろん、そこに降りれる方法があれば、の話だが。近づいて行くと、岩を打つ波が一部で渦を作っている。渦の向こうに時折暗い穴が見えるのだが、すぐに波に飲みこまれて消えていく。


「あそこです」

と言われた時には、アーヘルゼッヘは唸り声を抑えるのがやっとだった。あそこに洞穴があると言われて、はいそうですか、と思える人間はこの男ぐらいだ。と思った。単に底なしの穴があいているんです、と言われた方がよほどらしく見える。


「では、トレト家の下の船着き場へ参りましょう。あれでは、とても無理ですわ」

と涼やかな声を上げたのはパソンだった。ソンが、長い旅のおかげで慣れてきたせいか、気軽に反対の声を上げた。


「しかし、姫巫女。あそこからは入れれば、地下神殿へ一気にいけるのです」

「無理ですわ。わたくし、行けといわれても嫌です」

と言ったのは、自分の命の危機を感じてと言うより、ここにいる人間達の命の重さを考えて、と言うような雰囲気だった。このパソンに、か細い声で答えたのは、波によって打ちのめされている船酔い中のゼ大臣補佐だった。


「チウ閣下はご無事だという話です。姫巫女はこのまま船着き場へお向かいください。この老人はこのまま洞窟へ参りたいと思います。ひと眼でも早くご無事の姿を拝見したい」


「だめです。ご覧になって。そんな船に顔を伏せているから、あれが見えないのですわ。あれのどこが洞窟ですの! 波しぶきしか見えません」

アーヘルゼッヘはじっと波を睨んで、

「洞窟があります。海中に没しているだけの話です。もっと水位が低く、波が穏やかなら、相当奥まで行けるでしょう」

と言ってから、さらに目を閉じ、心の目を見開いた。漁師がうなずいていたのだが、心の目は見えるものに夢中になって、周囲は見えない。


 細く蛇行する洞穴は、穴と言うより割れ目に近い。岬の岩と大陸の岩との間に裂け目ができて、水が中まで浸食している。ところによっては頭上高くまで割れていて、波が当たる気配もない。

「行けます。これなら十分に空気がある」

とアーヘルゼッヘはつぶやいて、さらに先に目を進めていく。行く先が分かれば、何も船で行く必要もない。神殿が見えれば、そこに直接船を運んでしまえばいい。もし、ちゃんと力が戻っているなら、それだってできるだろう。とアーヘルゼッヘは蛇行する洞窟の中から、一気に大陸の奥へと視線を向けた。とその時、

「灯りだ! ランプじゃないか?」

と声がした。目を開けると、漁師は腰を落として大きな布を船底から引っ張り出しているところだった。


「これをかぶってください。遠目には暗くて見えないはずでさぁ」

言われてアーヘルゼッヘはマントを深くかぶりなおした。夜目に銀の髪は、見てくれと言っているようなものだ。また、パソンも慌てて暗い色の布をかぶった。ひどいにおいがしたようだ。一瞬、躊躇し、それを恥ずかしがっているのが見えた。


パソンの白い顔も布の下に隠れ、竿を抱えた漁師がしゃがみこみながら船に波が当たる音を消そうとでも言うように、ゆっくりと船の向きを変えた。アーヘルゼッヘは低く漁師へ行った。


「行ってください。洞窟へ。波を抑えます。入ってしまえばわからないはずです」

そう言いながら、意識を崖の上へ向ける。ランプを持ってぶらぶらしているのは、町の男のようだった。腰には布を下げているだけで、剣はない。緩めた上着の下から生成りのシャツが見え、ランプをかざして歩いているだけだ。


「探しものらしい」

とアーヘルゼッヘはつぶやいた。つぶやいたところで、はっと意識を上へ向けた。男は、船を探している。海の上を眺めながらランプを振っている。

「男は船を呼んでいるのか」

と考え込んでつぶやくと、ゼ大臣補佐が、

「何ですと!」

と息を吸いながらしわがれた声をあげた。

「どんな男か見えますか?」

「年のころは二十四、五歳。色白の町の男のようです。あまり用心しているように見えないので、危険はないのではありませんか」


「帝都の東部は、テンネに抑えられているのです。彼らの手の者なら、用心する必要もない。用心してくれていたら盗賊であり、密輸船であって、帝都が自分で対処できる。あの男を足止めできないでしょうか? せめてランプをつぶすとか」

とゼ大臣補佐が言った。アーヘルゼッヘは反射的に風を起こして、ランプを飛ばした。が、できたのはそこまでだった。

「北の方!」

と言う漁師の声に、アーヘルゼッヘは意識を船に戻して目を見開いた。絶壁を上に、砕ける波が目の前にあって、渦巻く水が吸い込まれていく穴が見える。こんなになるまで声を上げずに待っていられたなんて、漁師と言い、パソン達と言い度胸がよすぎる。


もっと危機感を持ってくれなければ、と勝手なことを考えた。自分だったら、こんなに自分を信じたりはできない、と心の中で叫びながら、軽く息を吸った。荒れ狂う海は、アーヘルゼッヘの中でうねる波に代わって、うねる波の間に自分をそっとすべり込ませて両腕を開いた。ぐっと手のひらで周囲を押す。すると、

「穴が! 洞窟が見えるぞぉ!」

押し殺したようなソンの声だった。櫂のきしみ音がした。


「海原で、船で下って行くことがあるたぁ思いませんでしたよ」

漁師がそんなことを呟きながら、櫂を漕いだ。アーヘルゼッヘは音を聞くだけで、何もできなかった。目は、重さとしか言いようのない水の塊を見据え、自分が入り込んだ空間に三艘が入るのをひたすら待った。心の中の見えない両手を広げるだけ広げて、手のひらを周囲に向けて押し当てる。

「まるで水の球に入ったようだわ」

パソンの静かな声が聞こえた。

「暗いな」

というソンの言葉を受けて、アーヘルゼッヘは、

「明るい」

とつぶやき返した。


 あたりはぽぉっと明かりがともったように明るくなった。アーヘルゼッヘは、水の中に光を見つけて、これは月の明かだろうか、と思っていたのだが、それが水球に映し出されたようだった。

「不思議だわ。音がしない。海なのに」

パソンの言葉に、

「こんな静かで安全な海はありません」

と漁師が答える。


 のけぞるように崖を見上げる。壁と壁の間でぴちゃぴちゃと水が船にあたっている。斜めの岩は、水の中で船底へ消えていく。漁師はまるで毎日通っているかのように漕いで行く。他の二艘もうまいもので遅れがない。

「あれは、何を呼んでいたのだでしょう」

とゼ大臣補佐が考え込むようにつぶやいた。波が消えて顔色が蒼白から青ざめた色へと少しはましに戻ってきている。安心したのだろう。アーヘルゼッヘに言わせると、今、この時ほど危険な瞬間はないのに、と言いそうだが、水に溶けて水を背中で押すような気持になっているアーヘルゼッヘに人間と会話するような余裕はなかった。


ゼ大臣補佐は続けた。

「私兵か、剣や大砲か。どこかに潜ませた兵士たちの為の兵糧か」

「ゼ大臣補佐。チウ従兄上がいらっしゃりさえすれば、従兄上が自由に動けさえすれば、全てが上手くいきますわ」

とパソンが言った。ゼ大臣補佐は顔をあげて難しい顔をするだけだった。パソンはさらに、

「従兄上は何かを発見なさったのですわ。でなければ、わざわざアーヘルゼッヘ殿を呼んで、指示したりはなさいませんわ」

「何を指示しておられたのだろう」

「ですから、そこに水が湧いていたのかもしれませんわ」

パソンは言いきった。しかし、心なしか言葉が浮いている。

「なぜ、北の方に夢を見せることができたのでしょう」

とゼ大臣補佐が言うと、パソンはさらに、

「それが、バチレスト家の力ですわ」

と言う。ゼ大臣補佐は、

「バチレスト家の力ですか」

と問い返すように言うと、今度はパソンが黙ってしまった。


そんな力があるはずがない。あるとすれば、死の間際の強い思いが北の方の力に触れただけではないか、という無言の問いだった。アーヘルゼッヘは悲しみとともに、ゼ大臣補佐の心の声を聞いた。あれが、人の見る夢だったのか、それとも、最後の叫びだったのか、アーヘルゼッヘにも分からない。わかれるほど人間のことを知らない。もし分かっていたら、このつぶされそうな悲しみに目をつぶろうとしている少女に何かいってあげられたのに、と思いながら目をつぶった。


 ひたひたと自分に沁み入る海に、徐々に自分が消えていきそうな感じになる。このまま、海に溶けて何もかも忘れてしまってもいいかもしれない、と思うほど、大きなうねりは心地よかった。アーヘルゼッヘは、水晶の中で眠る人々はこんな気持ちかもしれない、と思いながら、自分もあの中の一人になりたいのかもしれない、と思った時だった、

「岩棚です! 上がれます」

という声が上がった。


ソンの興奮した声だ。彼は、ずっと怖かったらしい。アーヘルゼッヘが海に溶け込む夢を見ている真っ最中に、固いふちだらけの岩がぱっとはじけたような気配を感じた。ソンがほっとした瞬間だった。おかげで、アーヘルゼッヘは幻の和やかさから、重い水のうねりへと意識を戻した。あのまま溶けていたら、この見えない両手をはずし人間を水の底に沈めてしまうところだった。アーヘルゼッヘは、ひやりとした。心地よい気持ちの向こうに、彼らの死があったのかもしれないと思うと、自分の心が怖かった。


アーヘルゼッヘは海と自分の間に線を引きながら、しっかりと押し返し、同時に、心の迷いも押し返しながら、彼らと一緒に船を下りた。そして、船を見て、立ち止まった。みな同じことを考えたらしい。岩棚に上がった人々は、それぞれ手分けして船を両手で引き上げて、そこから上へ紐をかけてひっぱりだした。

「待ってください。時間がかかる上に、無駄です!」

「三艘もの船を無駄にはできない」

「それでも。そんな時間はないんじゃないんですかい?!」

「おまえの生活がかかっているだろう」

「後で買えばいいんです」

「そんな余裕があるのか!」

「どっちにしろ、ここから戻れないなら、このまま置いて行くしかないじゃないですか」

「陸に運んでいけばいい」

「いつです? どうやってです!」

アーヘルゼッヘは、彼らに向かって手を挙げた。岩棚は避け目になっていて、上へ上へと続いている。自然の作った坂道だった。

「あそこまで。そこまで運べば、後でここに戻りましょう」

全員が視線を上げた。人の背の二倍ほどの場所だった。しかし、それなら今すぐにでもできる。衛兵はそれならたやすい、というように、船にひもを掛け、船の下には布を敷いて引っ張り出した。家人も同じようにした。旅の供は力仕事が得意らしく、船を漕ぐのと同じくらいやすやすと運び出した。


「その代り、帰りも船を漕がなければなりませんが」

とアーヘルゼッヘは言った。この洞窟を抜けるのは、漁師でも気が張っていたようだ。うっすらと額に汗が滲んでいた。気配にすら見せなかったのがすごい、と思っていたら、漁師は、

「そんなこたぁたやすいです。漁師に船をこぐなという方が難しいですから」

と答え、静かに、穏やかな声で、

「ありがてぇ」

と言って、頭を下げた。


アーヘルゼッヘは首を左右に振った。漁師は急いで船を運ぶのを手伝いだして、パソンはくたびれきっているゼ大臣補佐を抱えるようにして、船の後を追った。アーヘルゼッヘは水をそっとひとつかみ手放した。すると大きな水音を立てて水嵩が上がった。彼らの後を追いながら、二つかみの水を手放した。すると波が足元までどっと上がって、跳ねかえる。少しずつ、水を手放すように放していく。水は天井に上がっていたものが、徐々に下へ降り出して、床や自然の坂を埋め尽くし始める。


 気がつくと、船の脇でつま先まで来る水を見下ろしていた。

「すごいですわ」

とパソンがつぶやき、誰かが神への感謝を呟いた。すると素早く、パソンが、

「それは、アーヘルゼッヘ殿への感謝ですわ。もちろん、神が引き合わせてくださったのですけれど」

と言った。神への感謝を呟いた男は顔を赤らめながら、アーヘルゼッヘへ向かってもごもごと感謝の言葉をつぶやいた。すると、そばにいた男達が同じように、つぶやいて、パソンが腰をかがめて、

「神とアーヘルゼッヘ殿への感謝を」

と言って、額に手を添えて小声で謝辞を呟いた。男たちはもちろん、ゼ大臣補佐までさらに深く腰をかがめて感謝のしるしに額に手の項を押しあてた。


アーヘルゼッヘは初めて海を手放した。そこで、やっとここに戻って彼らを見た。どどーんという音とともに世界が戻る。ひんやりとした洞窟の冷気が頬を撫でる。頭上から滴る水滴に、ぬめりのある両側の壁。先細く上へあがる石段がみえる。自然が造った緩やかな段が、狭間の中へ消えていく。アーヘルゼッヘはそこでやっと彼らを見た。


人がいる、と言うことにほっとして緊張が溶けていく。人の気配が心地よい。そう感じて、アーヘルゼッヘは苦笑した。心を閉じなければと思うほど恐怖を感じた人間達が、今はとても頼もしい。自分の心の変化に戸惑いながら、引き揚げた船の周りに立つ彼らを見た。


彼らも同じように海の音を聞いて、目を見張っていた。彼らの視線は足もとの水にあった。凪いでいた洞窟の中の水たまりが、唐突に堰を切ったかのように動き出していた。アーヘルゼッヘの意識が海から人へ戻ったとたんに、自然の力が動き出す。海の水は、渦を巻いて引いては上げての繰り返しを始めていた。大きな波がうねりとなって足もとへ来る。どどーんとどこか岩の間でぶつかった音が響いてくると、穴から水が噴き出した。


見る間に強い力で水が引く。大きな渦が暗い穴に消えていく。水たまりではなく、そこに海があった。水際に立てば足をすくわれ引き込まれそうな波がある。水に入れば、吹き上がる波に、岩にたたきつけられ、あっという間に命を落としてしまうだろう。自分達は、ここを通って来たのだ、と思ったとたん、彼らは本当に畏怖を感じた。しぶきを浴びて微笑んでいるアーヘルゼッヘに言い知れないような恐怖とともに敬意と、怖いような力を感じた。



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