海辺
アーヘルゼッヘは彼らを見た。暗殺者が出て、命を脅かされた直後だと言うのに、驚くほど落ち着いている。それに比べて、パソンは几帳に腰かけたまま身じろぎしない。と思っていると、視線が上がった。アーヘルゼッヘを見ると、少しずつだが生気が戻る。
「従兄さまが亡くなったと言うのです。嘘だと詰めると、嘘ではないと言い返して泣き出してしまい、わたくし何と慰めていいのか分からなくて、手を差し伸べたのです」
「それを待っていたのでしょう」
セノ卿が言うと、ゼ大臣補佐は、
「よく訓練されておる」
と言い足した。しかし、アーヘルゼッヘは信じられなかった。アーヘルゼッヘはこの場を見ていたわけではない。この場の空気を通して感じていたのだ。
「信じられない。そんな若者には見えなかった」
と言った。言ったとたん、セノ卿が表情を消した。目の中の感情が消えると、人間は冷酷な雰囲気になる。しかし、アーヘルゼッヘには用心して恐怖を消した気配にしか見えなかった。おかげで、セノ卿が、
「ご覧になっていたのですか」
と聞いた時に、
「灯りがともったのでつい、見てしまいました」
と正直に答えた。その答え方は、いつでも剣が抜ける雰囲気の男の前だと言うのに、驚くほど寛いで見えた。
「力はなくなられたのではありませんか?」
「それが、ついさきほどから戻ったようです」
「信じられませんね」
と鼻で息を吐きながら、まるで、突き放すように言った。アーヘルゼッヘには、力が戻ったと言うことが信じられないのか、それとも、力がなくなったと言っていたのが信じられなかったのか、どちらのことを言っているのか分からなかった。しかし、パソンは違った。
「まあ、セノ卿。この方は北の方です。嘘をお付きにはなれないのですよ。何を失礼な事をおっしゃっているのです」
とはっきりした声でたしなめた。
震えは収まっているようだった。目の前の拭いとられた血の跡は見れないらしい。アーヘルゼッヘは首を左右に振って、
「いいえ。私がレヘルゾンでなくなったのは確かです。ですから、嘘も言えるだろうと思います。体質として嘘が言えないと言うことは、もうないのです」
と正直に答えると、
「お聞きになりまして? 嘘をつく方は、自分が嘘つきだとは言いませんわ」
「つまり、嘘つきじゃないのに、自分は嘘つきであると嘘を言っていると言うことでしょうか」
セノ卿の言葉は、本当にこの不毛の問答の答えがどうしても必要だ、と言う雰囲気だった。パソンも、
「もちろん、そう言う嘘もつけるようになった、と正直におっしゃっているのですわ」
と真面目に返した。そして、
「つまり、力が戻られた、と言うことですわ。わたくしどもの力がなくても十分大陸を自由に横断し、お探しの方を探せるようになられた、と言うことです」
とまとめた。セノ卿もアーヘルゼッヘへ顔を向け、
「我らが姫巫女はこう仰せであられる。貴殿には、朝が来る前に出立していただきたい」
と言う。理由を問おうとして、ゼ大臣補佐が親切にも教えてくれた。
「暗殺者に追われるような状況で、北の方を守りながら動く気にはなれませんのじゃ。もし、あなたさまに何かあれば、我らだけの問題ではなくなりますのでな。できれば、今すぐにでも、安全な場所へ旅立っていただきたいのですわ」
「しかし、もう、帝都は安全なのですよね?」
「つねに、帝都はこういった危険をはらんでいるのです」
「しかし、帝都へどうぞと言うくらいには安全だったはずです」
「それは我らの妄想だったと判明しました」
「しかし」
セノ卿が腰の剣を鞘ごと抜いて、アーヘルゼッヘの前に突き出した。ゼ大臣補佐とパソンの間に、まるで、衝立でも立てるかのように突き出した。そして言った。
「我らに断わりなく聞き耳を立てておられた。あなたは北の方だとわかるだけで、何者なのか誰も知らない。人を探していると言うが、北の方の力があって、なお、現地に来なくては見つからない相手など、この世にいるのだろうか、と言う疑問がある。さらに、チウ閣下がいなくなられたのはあなたが町へ来てからだ。姫巫女が火難から逃れておいでになられたせいで、我らはあなたが我らのためにここにおられると思いがちだが、それは違う」
「違うと言っても、別に…」
「なぜ! ここに閣下がおられぬのだ。ここに来るまでは、力がないと我らにすがり、今、この瞬間、暗殺者が来る直前まで力がないと言いつづけ、暗殺者が失敗した後、全てを見ていました、私には力がありますとのこのことやってきた。あなたが本当の北の方だと言われるなら、ここでの話を、離れた天幕で聞けたのだと言うのなら、なぜ、ここにのこのこやってくるのだ!」
「暗殺者の仲間ではないからです」
「ならばなぜ、暗殺者が襲いかかるまでほおっておかれた? 姫巫女の命を狙って飛びかかる輩を、なぜ、あなたは、平気で姫巫女の近くに近づけさせた? 姫巫女の力になるために同道している方が、なぜ、姫巫女のそばに暗殺者を近づけさせたのだ? あなたが北の方だと名乗るのは勝手だ。そう言っていれば、庇護が得られると思い込んでいるのも勝手だ。実際、姫巫女が名乗り出たせいで、ゼ大臣補佐が代わりに庇護を約束してくれたくらいだ。良い手だったと感心している。しかし、それもこれも、ここまでだ。すべてを知る力があって、我らのために傍にいる、と言うなれば、もっとうまく立ち回るべきだったな。それとも、もっと上手に立ち回っていたとでも思っていたのか? 暗殺者を見て驚いた顔をしたのは、姫巫女が生きているのを見て驚いたのを隠すためだったのではないのか?!」
「セノ卿、八あたりはおやめなさい!」
と声を荒げたのはパソンだった。
「あなたも、あの大樹をご覧になったでしょう!」
「両手で樹に触れたのを見ただけです」
「触れただけで、大樹にしたのですよ!」
「それは、神々がなさったことです」
「なぜ、そう言いきれます」
「あなたがあそこにおられた。だから奇跡が起こったのです」
とセノ卿は言った。真剣だった。姫巫女を褒め称えているような顔ではなかった。しかし、心から、悔しがりながらも信じている顔だった。
「あなたは、希代の姫巫女です。噂は事実だったと言うわけです。これで、大地が潤いだせば、本当に、我らはあなたの神のためならなんだったいたします」
「わたくしの力ではありません。わたくしだからこそ知っています」
パソンが、アーヘルゼッヘを見上げた。アーヘルゼッヘはここでも首を左右に振るしかなかった。
「私の力でもありません。あれは、大樹の力です。単に、大地に喜び天に声を届けようとした大樹が、うっかり大きく育ってしまっただけのことです」
パソンがぷっと吹き出した。そして、目の中に笑いを含んでつぶやいた。
「セノ卿。あなたにこの方のような事ができて? 今この瞬間、力の証明がなければ、暗殺者の仲間として葬り去られようとている真っ最中に、力がないと言い出すなんて」
アーヘルゼッヘは、目の前の剣の鞘を見た。これは、そんな意味があったとは分からなかった。それを見て、セノ卿は鼻で笑った。
「ご覧の通り、気づかなかっただけのようです」
「では、わたくしが気づいた力は嘘だと言うの? おまえは、わたくしを希代の姫巫女と言いながら、わたくしがおびえるほどの力を感じていると言うのに、それは信じないと言うの? 都合がよすぎるわ!」
セノ卿はパソンを見て考え込んだようだった。ほんの瞬くほどの瞬間だったが、何か心が動いたようだ。アーヘルゼッヘへ視線を戻し、
「なぜ、姫巫女がここに来られた時に、あなたはここへおいでにならなかったのですか?」
と聞いた。
「それは、わたくしを守るような義務などないからです」
とパソンがきりっとした声で言った。しかし、アーヘルゼッヘは首を左右に振って、それを否定した。
「暗殺者だと知っていたら来ていました。そんな人間には見えなかっただけです。あの男は、東部の惨状を憂い、変えたいと熱望し、今日、この瞬間に賭けて馬を駆ってきた、情熱の塊に見えたのです」
しんと静まり返ってしまった。アーヘルゼッヘが彼らを見ると、セノ卿は苦い顔をしている。ゼ大臣補佐は首に巻いたリボンに指を入れて緩めている。パソンが代わりにつぶやいた。
「それは、まさしくその通りだったのですわ。わたくしや神殿のものがいなくなれば、東部は自由になるのですから」
「それは、テンネがそう噂をまき散らせているからです」
そうセノ卿が答えた。
「いいえ。わたくし達神殿の人間達を養うために、彼らには重税を課せられています。どの地域よりも厳しい税です」
「代わりに、荷揚げの仕事や、関税の仕事、海からくる全ての荷の仲介の仕事の専売権を与えています」
「大商人達は、東部の税を嫌って、自分たちの敷地の崖下に桟橋を組んで滑車で荷揚げをしています。東部では、値の張らない荷物の仕事ばかりで、彼らにうまみはありません」
「それは、大商人やそれに群がる利権者達が悪いのであって、神殿のせいではありません」
「神殿が裁きの制度を放棄しているから、取り締まるべき者を取り締まれずにいるのです」
「それさえも違います。裁きの制度が放棄されたのは、もう何百年も前のことです」
「それは、戦争がおこり、人々の意識を宮殿へ集中させるためだからです。しかし、戦争は終わったのです。人々が我慢をし、大商人が利ざやを稼ぐのを見つめながら、乾きに亡くなる必要はなくなっているのです」
「まだ、戦争が終わって十年にしかなりません」
「もう、十年もたったのです。庭を駆け回っていた幼子も、市井に入りいわれのない我慢と差別にさらされるようになったのです。わたくしは、庭を駆け回っていた幼子です。彼らの気持ちがわかります。戦争は終わったのです。彼らを抑える、神殿の役目はなくなったのです。今の神殿の役目は、彼らのために水を引き、彼らのために命をささえることなのです」
「それをしている姫巫女を暗殺しようと言うのは説明になりません」
「なります。わたくしがいなければ、神の声があるとわかる者はいなくなります。神がいると証明ができない者達に、神の代理として統治させたくはない、と言えばきっと人の心も動くでしょう」
「次に生まれる姫巫女が、同じように神の声をお聞きになるはずです」
「ざれごとを。生まれながらにして何もかもできるのであれば、わたくしはあの町で何もせずして姫巫女になっていました」
吐き捨てるように言った言葉に、セノ卿は口を閉じた。深い会釈は幼すぎると言われながらも姫巫女の地位を引き継いだパソンに対する敬意であった。アーヘルゼッヘも同じように敬意を感じた。しかし、浮かんだ言葉をそのままに口にした。
「彼が話していた言葉に嘘はなかったのです。チウ閣下が生きているかどうか不安に思い、明日のパソン殿の帰還に胸躍らせていたのです。暴動かどうかはわかりませんが、帝都は確かに人々が扉を開けて、たいまつを灯らせて、外へ走りだしていたのです。一か所に集まりだした後、馬に気づいて目を転ずると、あの若者がここへやって来たのです」
「なら、私は正直な若者を手にかけたんだとおっしゃりたいのか」
とセノ卿が厳しい声で聞いた。言った瞬間、顔色を変えた。
「ゼ大臣補佐。帝都へ参ります。じっとしていては、彼らが危ない」
と言って、鞘を腰に納めて大股で出ていこうとした。アーヘルゼッヘはあわてて止めた。
「動乱は止んでいます。東部はもちろん、帝都中静かなものです」
「粛清を恐れ地下へ逃げたのかもしれない」
言いながら、セノ卿はアーヘルゼッヘの顔を見た。アーヘルゼッヘは首を左右にゆっくり振る。
「地下の様子まではわかりません」
「今、見てくださらぬか?」
と言う言葉に、アーヘルゼッヘは躊躇した。が、すぐにうなずき、絨毯に胡坐で座った。目を閉じる。
と、悲鳴が上がった。ぱっと眼を見開くと目の前に白刃が見え、のけぞると鼻の紙一重のところを刃がなでた。セノ卿の剣だった。返す刃で、アーヘルゼッヘの首を狙った。が、飛びのくついでに絨毯を掴み片手で強く引っ張った。とたんに、セノ卿の足が緩んだ。パソンが立ち上がりかけていたのだが、同じように足が弛んでセノ卿の腰に当たった。セノ卿がパソンを掴んでその喉に刃を当てた。が、その直前に刃もろともに後ろへ飛ばされていた。
ゼ大臣補佐が、腰を落として両手で突き出すようにして、セノ卿を突き飛ばしていたのだった。
「密偵をしていると、組んでいる相手の気質も分かるようになるものじゃ。疑う質が抜けぬせいで、同朋まで疑って、と何度も何度も否定をしていたのだが」
倒れたセノ卿の手から剣を取り上げた。軽く束に触れただけのように見えた。が、天井近くを飛んで、入口の天幕の脇にしなを打って突き刺さる。
「もっと早く気付いておれば、亡くさずともよかったものを」
とゼ大臣補佐は、倒れて身動きとれないセノ卿を見下ろしながら、つぶやいた。
不思議なことに、剣を突き付けられているわけでもなければ、構えて脅されているわけでもないのに、セノ卿は動かなかった。動く隙がなかったようだ。ゼ大臣補佐の投げた剣のたわみが音を奏で、外から一斉に歩哨達が飛び込んできた。先ほどは血の海を見ても眉ひとつ動かさなかった男達が、入口近くにしゃがみこんで動けずにいるセノ卿を見ると動揺していた。
その動揺をいさめようとゼ大臣補佐がわずかに家人に意識を向けた。その瞬間。セノ卿は天幕の端をまくり上げて外へ転がり出た。そこから、慌てて後を追う家人をしり目に近くの樹に縛られていた馬の手綱を一つはずし手に取ると、残った馬の手綱を切って馬の尻を鞘でたたいて暴れて逃げだすのと同時に、馬と共に街道を抜け、草原乗中へ走り去った。
ゼ大臣補佐が、天幕から出てあたりを眺めた。馬を慌てて捕まえて、セノ卿を追いかけようとしている家人に向かって、
「やめよ。地下水路を使われれば、どうせ分からなくなる。帝都に行けば否でもあえよう」
「しかし、やつは、アムをやったのではありませんか!」
「アムは、その身を賭して、セノの本性を暴いたのじゃ。時間を無駄にするやつがあるか!」
と声を上げると、そばに立っているアーヘルゼッヘにくるりと向き合った。
「帝都が静まり返っていると言うのは本当でございますか?」
アーヘルゼッヘは一瞬不安になった。自分の見た帝都は本当だろうか、と言う思いと、自分に力が戻ったと勘違いしているだけではないか、と言う思いが湧き上がってきたからだ。が、しかし、風が背後から髪を逆巻きにするように吹き上がった。
振り向くと闇夜に暗く帝都が浮かび上がって見えた。静まり返った細く暗い通りを、きらびやかな赤地に黒と紺の筋の上着の男達が足音を殺して走り抜ける。音を聞いてはびくりとしたように立ち止まり、気配を殺し、再び先へ走りだす。
「本当です。静まり返った町中を、赤地に黒と紺の筋の入った上着を着ている男達が、周囲を気にして走っています」
「赤に黒と紺の筋」
とゼ大臣補佐がつぶやくと、セノ卿の追跡から戻ってきていた若者が、
「トレト家の者じゃないですか。アムの家の者達です」
と最後の部分は、アーヘルゼッヘへの説明だった。
「どうやって、騒ぎを収めたのかが分からぬな」
と言って、アーヘルゼッヘを見た。もしや、その部分を見ているのでは、と言う問いかけだった。アーヘルゼッヘが目を伏せて左右に首を振ると、
「何、あなたのおかげで、我らは彼らの上をいける」
と笑った。そして、
「帝都へ行くぞ。中央へ入る」
と言った。周囲の男達が驚いた顔をする。
「しかし、この時刻では」
「海を回ればよい。崖下の桟橋から個人宅に入るなら、文句を言えるものは誰もいまい」
「夜の海にでるのですか」
二の足を踏むような声だ。風がなくても、夜の海は距離が測れず、行き難い。それを、崖の陰で岸も見えない暗がりを岸壁までつけようというのだから。海の町に住む男たちらしく、危険を感じたようだった。しかし、ゼ大臣補佐は、
「この場は、セノ卿に知られているぞ。しかも、彼が動向を外へ漏らしていたと我らが気づいたと気づかれている。テンネの動きが出る前に帝都に戻らねば、誰も戻れなくなる」
と最後の部分は苦い声だった。もう、戻れなくなった者が一人出ている。自分が目の前にいながら、止め損ねた、と言う思いがあった。
アーヘルゼッヘは不思議な気持ちで、ゼ大臣補佐の悔いの気持ちを感じていた。あの血の海を見ている時にはかけらもなかった動揺が、目の前からいなくなって初めて湧き上がってくる。アーヘルゼッヘは人間の心が読めると思っていた。しかし、本当の心と言うのは、人間は心の奥底に持ってなかなか表に出さない物なのかもしれない、と思った。
ゼ大臣補佐の後悔は、アーヘルゼッヘをやるせない気持ちにさせる。懐からナイフを出し、姫巫女の陰でセノ卿へ備えた瞬間をゼ大臣補佐は見ていた。姫巫女が、アムのナイフに気づき、気づいたせいでセノ卿も反応し、全てが一瞬のうちに終わってしまっていた。
ゼ大臣補佐は、天幕が片づけられ、まかないとしてついてきた雇われ者達に、ここまでで十分だと帰りの路銀を渡し、荷物を与え、街道を戻るように促しながら、何度も何度もその瞬間を心の中で繰り返していた。
そう言えば、とアーヘルゼッヘは思う。あの若者は、この広場に来て、歩哨に立つ家人の顔を見るだけでゼ大臣補佐の天幕が分かったのだ。歩哨雰囲気から探ったのではなかった。顔を知っていたからこそ、顔を探ったのだ。みな、仲の良い仲間だったのかもしれない。そして、セノ卿のことは前々から知っていたのかもしれない。だから、仲間が倒れていても、彼らは表情を動かさずに仲間の死体を運んだのだ。
あれは、ゼ大臣補佐と同じように心が動かないほど驚いていたからではないだろうか。もしかしたら、幕の外で全てを聞いていたのかもしれない。外にいた自分を悔やんでいたのかもしれない。
広場はすっかり片づけられて、荷物を積んだ荷車は、ゼ大臣補佐の家の者達に見送られながら、街道を戻って行った。もう数時間もすれば夜が明ける。少し早い出立になる。帝都を見れずに帰るので、彼らはがっかりしているかもしれない。それとも、不安を感じて帝都に行かずに済む自分たちの幸運を喜んでいるのかもしれない。
アーヘルゼッヘは、心の蓋をしっかり握った。隣に立つ、ゼ大臣補佐の後悔をこれ以上覗いていたくはなかった。あまりに痛々しく、そして、あまりにぶしつけな事をしているような気がして、心の蓋はいつしか固い塊になった。ゼ大臣補佐は、隣に人の心を読みつくす者が立っていると言うのに、素知らぬ顔で辛さも悲しさもそのままに、アーヘルゼッヘと分け合わせながら、全ての指示をし続けていたのだった。
その思いが、アーヘルゼッヘには重かった。固い重しの下に隠れて、やっと息を吐きだした。すると、ゼ大臣補佐が笑った。まるで全てを見透かされているようで、人間にこそ秘めた力があるのではないかと疑ってしまいたくなるほどだった。
セノ卿の家人達はいつの間にか消えていた。セノ卿が逃げだす時に四方へ散って逃げたらしい。僅かばかりの残った人々が騎乗すると、広場はがらんとしてまるで初めから誰もいなかったように見えた。燃えカスは土の下に埋め、天幕を張った柱の穴は埋められて、石を転がし草を戻して、探しに来た人々が、すぐには、ここを起点に移動したとは分からないような処置だった。
「知っててみればすぐにわかることなのですがな。追いにくいようにと。まあ、気休めみたいなものですわ」
ゼ大臣補佐はそう言った。
セノ卿とゼ大臣補佐はともに長く旅を続けていたらしい。あの若造ではすぐに見破られてしまいますがの。その部下が優秀なものばかりであるとは限りませぬからな、とどこか懐かしそうに語っていた。
騎乗したアーヘルゼッヘ達は、街道を途中でそれた。道のない草原を行く。よく知っている者がいるらしく、草に見えない隠れた岩や、枯れた溝を上手に避けて行く。どこまでも同じ景色が広がっているのではないかとアーヘルゼッヘが思い始めたころだった。唐突に、草原が、平面から斜面に変わりはじめて、潮騒が耳に付きだした。かと思うと、眼前に夜空と海が広がっていた。
海の上に群青色の空がどこまでも広がっている。丸いまっ白い大きな月が、海に顔を鎮めかけ、海上に航跡のような白い光を投げかけていた。草原が途切れた。むき出しの土に代わった。蹄の音が耳をつく。馬の荒い息使いと、鐙のがちゃがちゃ言う音がやけに大きく聞こえてくる。
崖に沿うように道が生まれ、一人二人と馬を下りると、岩を背に手綱を引いて歩きだす。アーヘルゼッヘも馬を下りた。パソンだけが騎乗のまま、馬の世話に飛んできた若い男がパソンの手綱を手に取った。誰ひとり声を上げず、足もとの石が転がる音を聞きつつ、崖を下る。
「下の漁師に話をつけてございます」
どこからともなく現れた痩せた男が、アーヘルゼッヘの前を行くゼ大臣補佐の正面へ駆け上がってきてささやいた。広場を片づけている間に先行した者らしい。
「親族が東部に嫁いでいます。まず、大事ないかと」
とささやくと、ゼ大臣補佐がすかさず答える。
「船がいたむやもしれぬ。心付けは手厚くいたせ」
「はっ。喜ぶかと」
と頭を下げると、下げた姿勢のまま、崖の向こうへ姿を消した。
アーヘルゼッヘ達が崖の最後の勾配を下りると、茂みの間から古ぼけた石積みの小屋が見えた。馬を進めていくと、かやぶき屋根の全貌が見えてくる。小さな小屋だ。屋根に煙突があるだけで部屋の中は一杯ではないかと思う。窓は板戸で、押し上げられてつっかえ棒で止まっていた。明かりがない。真っ暗だ。馬を引いて回りこむと、扉があいていて、肩にショールを巻いた女が立っていた。
不安そうな面持ちで海を見ている。見ると、海辺に平底の船が三艘も岸に引き揚げられていて、ゼ大臣補佐の家人が見て回っていた。海辺の家は、この家だけで、小さな入江は、この家の庭のようにも見えた。見上げると絶壁で、空が青く切り取られて見える。
「申し訳ありません。船は必ず返します」
パソンがいつの間にか馬を下り、女性の前へ進み出ると、その手をとった掲げながらささやいた。女性はパソンを見て、目を見開いて、自分の手を慌てて隠そうと身じろいだ。しかし、パソンは強く手を握りしめたまま、
「礼を申します。本当にありがとうございます」
とさらに力強くささやいた。
「め、めっそうもございません」
と女性は言うと、手を振りほどこうとして、半泣きになる。
「姫巫女さま。手が汚れますだ。はなしてくだせえ」
「何を言っているのです」
と驚いたような声だった。
「そんな綺麗な手で、おらの手を握ったら汚れます」
「綺麗な手ではありませんか。温かくふくよかで。わたくしは好きですわ」
と何のてらいもなく満足そうに自分の手の中の手を握りしめて言うと、女性はほおを赤らめたようだった。
よく見ると、まだ、二十代はじめのように見える。日に焼けて塩焼けした真っ赤な頬の女性で、つるりとした白い絹ようのな頬のパソンに気おくれしているのが見て取れた。パソンがほほ笑むと、女性は見とれたようになり、はっとした顔をして中に逃げ込もうとした。心の声が、恥ずかしい、と言っているのが嫌でも聞こえた。きれいな顔に見とれ、それに比べて自分はと思うと居てもたってもいられなくなる。
「パソン殿、ゼ大臣補佐が呼んでいるのではありませんか?」
とアーヘルゼッヘはやるせなくて声をかけた。目がきらきらとした女性だった。アーヘルゼッヘにはない、生の美しさがあった。女性は、ほっとした顔で、顔をあげてアーヘルゼッヘへ感謝の視線を向けて見せた。が、その瞬間、顔が凍った。家人の一人が気がついて、慌てて掛けて来たのだが、間に合わなかった。
女性は、細く息を吸い込んで、湾中に響き渡るような悲鳴を上げた。細く甲高い悲鳴は尾を引いて、女性はそのまま声を出し続けながら卒倒した。駆けてきた家人が両手を伸ばして女性をしっかり抱きとめた。アーヘルゼッヘは震える手で自分のフードを引き上げた。それと同時に、心の耳を全開にした。湾中に恐怖のうねりが広がっていた。
崖下の小道の男は歯をくいしばるようにして道の上を見上げている。船を押しだした男達は、足が絡まるほどの動きに変わる。海辺から怒りと後悔に真っ赤に膨れ上がりそうな気配をもった男が砂利を蹴って大股で近づいてきて、アーヘルゼッヘを者も言わずに殴った。誰かが間に入る間がなかった。アーヘルゼッヘはフードの下で頬を抑えて突っ立ったまま、つぶやいた。
「御妻女に失礼をいたしました」
「何をした!」
底から湧き上がるような声に、
「何も」
「何もしなくて、これが悲鳴を上げるこたぁなかぁ!」
「本当に何も」
と言って、アーヘルゼッヘは、フードの端を静かに持ち上げた。暗がりの中、銀色の瞳が輝いていた。銀の髪が光を放って顔を白く取り巻いていた。男は唾をのんで、妻に両手を伸ばして自分で抱えた。しゃがみこみ、抱えながら、尻込みした。家の扉に背をぶつけると、
「行ってくれ。行ってくだせぇ」
と言いなおした。都会の出だったのかもしれない。ゼ大臣補佐家に知りあいがいたのかもしれない。しかし、今は、漁師で十分だ。こんな者には係わりあいにはなりたくない、と言う、心の声があたりに響き渡りそうなほどの大きさでアーヘルゼッヘへ迫っていた。パソンが、やっと正気になったと言うように、慌てて言った。
「こちらは、やさしい北の方で」
と言いかける。すると、男は、この時初めて、姫巫女がいると気が付いたらしい。男は目を見開いて、それから、首を左右に振った。それから、
「姫巫女様。お願いです。行ってください。そして、チウ閣下の敵をとってきてください」
「従兄上さまが亡くなったと決まったわけではありません」
「なら、亡骸を確かめて、我らの恨みを晴らしてください」
と言った。そして、深く息を吸うと、
「あの方がおったおかげで、我らは北の蛮人から身を守れたのです。あの方がおられるからこそ、我らは人間としての威厳を保つことができたのです。何があっても、あの方を貶めるものを許さないでいてください」
とパソンを見上げながら言うのだった。アーヘルゼッヘへ聞かせていた。
アーヘルゼッヘはフードを深くかぶりなおした。耳をさらに大きく広げた。目の前の男が息を飲んだ。女性が目を覚ました。アーヘルゼッヘへ目を向けると、両手でもがいて男の腕にしがみついた。アーヘルゼッヘは心の耳を海に広げ潮騒を聞いた。岩場で休む鳥の喉を鳴らす声を聞き、崖の上に一気に飛んで、あたりをそよぐ風の音に耳を澄ました。
「誰も気づいていはいないようです。動きはありません」
と言った瞬間、目に強烈な光を感じた。かっと見開いてそちらを見た。巨大な石造建築の石段にチウが仁王立ちしていた。
こちらを見て、石段から左を指示していた。アーヘルゼッヘが左を見るとぱっと明かりが落ちた。この心の目が、光がないくらいで見えなくなることなどないのに、一瞬にして闇になった。驚いて目を見開くと、あたりは静まり返っていた。
星明かりが煌煌と感じられるくらい明るかった。見ると、夫婦が扉の前でうずくまり頭を抱えて震えていた。その脇で、扉にしがみつくようしてしゃがみこんでいるゼ大臣補佐の家人がいた。見まわすと、船に手をかけながら海の中で尻もちついている男たちや、馬を水際まで引っ張ってきて馬ともども人形のように動きを止めてしまっている者もいた。
まるで、錆びた歯車のようにゆっくりと動き出したのはゼ大臣補佐だった。浜辺からゆっくりと振り返ってアーヘルゼッヘへ向かってくる。一歩足をあげて、二歩足をあげる。そうしなければ、別の方へ足が動いてしまうのだ、とでも言いたいような、手を足に添えながらの動きだった。
「北の方ですから」
と言ったのは、青ざめてはいたが、他の人間たちよりずっとリラックスした様子のパソンだった。ゼ大臣補佐は無言でうなずいた。うなずきながら、ぎくしゃくした自分の動きに舌打ちをした。それでも辛抱強く体を動かし、アーヘルゼッヘの前に立つと、
「何をなさったのですか?」
としわがれ声で聞いた。急に何十歳も老けこんだかのような声だった。
「あたりを見回してみたのです」
アーヘルゼッヘは答えた。ゼ大臣補佐は周囲に見せているほど年をとっていなかったのだ、と妙な事を考えた。ゼ大臣補佐の顔を見ながら、
「婦人の声で追手が近くまできているかどうか探ったのです」
「それで、いかがでしたか?」
「誰も。追ってはおろか、海には船もなく、驚いている鳥もおりませんでした」
「そうですか。見てくださったのですか」
「ええ」
「それだけですか? あなたは真昼のように発光していた。ここは昼よりの明るい光に包まれていたのですが、北の方が遠見をなさる時に、そこまで力を使われるとは思えません」
もしかしたら、戦場で何度か見たのかもしれない。アーヘルゼッヘは首を左右に振って否定した。
「私は使っていません。チウ殿です」
「やっぱり生きておられるのですか?!」
とゼ大臣補佐が初めて子供のような声を上げた。パソンが目を見開いて、信じたい、でも信じていいのかが怖すぎる、と言う恐怖を響きを伝えてきた。
アーヘルゼッヘは、そこで初めて、誰もチウが生きていると思っていなかったのだと気が付いた。だから、力が戻ったと言っても、チウが生きているか見てほしいと言わなかったのだ、と思った。もしかしたら、死を確かめる情報があったのかもしれない。アーヘルゼッヘは不安になった。
「あれが残像でなければ、生きています」
「残像?」
「生前強く念じていたことはその場に残るので」
「でも、あなたに伝えるために力を使ったのですよね? それは、生きているからこそではありませんか?!」
パソンがアーヘルゼッヘの腕を握った。爪を立て、腕に食い込むほどの強さだった。アーヘルゼッヘは静かに、悲しみの波が襲ってくることを身構えながら、
「チウ殿は人間です。あれが人の力だとは思えません。北の者の力です。誰かがメッセージを伝えるために手助けをしたのだと思います」
「そんな方は帝都にはいません」
とパソンは悲しむどころか歓喜の気配を投げてきた。
「しかし!」
「神のお力があったのかもしれません。チウ従兄上が、神のお力を引き出されたのです」
「そんな。神の力は、そもそもが大自然が持つ人々との共鳴作用にすぎない。だからこそ祈りが通じることもあれば、恐れが現実になることもあるのです。あのような、光を放ち、われわれの意識を引っ張る力はないのです」
「あなたに神の何がおわかりですか! チウ従兄上はわたくしの血縁です。神の力を使えてどこがおかしいのです!」
と言い放たれると、アーヘルゼッヘは口ごもるしかなくなった。




