草原
一般に帝国と呼ばれるものは、この世界には三つあった。大陸は四つ。北に一つと、人間の住む南の大陸が三つである。そのうち、二つの大陸に帝国があった。三大陸の中央に位置する中津大陸に一つ、西に位置する花大陸に二つである。
東の大陸は無法の地とも呼ばれていたが、全く別のシステムで暮らす土地で、パソン達にとっては無法の地としか言いようがなかったようだ。パソン達の住む大陸は最大の大陸である中津大陸だった。
帝国は、最大の大陸を収める最大の帝国だった。帝国は、一般に中津国と呼ばれていたが、書類にはパ帝国と書かれることが多かった。パ帝国の帝都は、西大陸からの玄関口とも呼ばれるバソナ湾を見下ろす小高い丘の上にあった。
そこから、内陸に大穀倉地帯とも呼ばれる大平原が広がり、かつては、西の大陸との交易が今ほど頻繁に行われていなかった時代には、この大平原こそが帝国の倉庫であり、帝国の宝庫とも呼ばれていた。
「今では見る影もありません」
そう呟いたのはパソンだった。
あれから馬に乗って二週間。砂漠から山岳地帯へ移動した。そこから渓谷を流れる急流を船で下って、岩礁の険しい海に出た。さらにそれから、風が見合う最寄りの半島へ二週かかって、川下りを入れれば三週間だ。
やっと付いた半島で、バソナ湾への風を待つと半年待たなければならないと言われ、再び、陸に戻って馬と馬車とで移動して、かれこれ四週間が過ぎようとしていた。アーヘルゼッヘがかつては一瞬にして渡った距離を、今は、馬と船で二ヵ月以上の旅をしている。なのに、いまだに、帝都の影も形も見えない。あたり一面、大草原だ。地平線まで広がっている。
「草が生い茂っていますが」
「茂っているのは、なで草と呼ばれるどこにでも生える雑草です。穀倉地帯と言わしめた、穀類を生やす土壌ではなくなっているのです」
「水がなくなってしまったからですか?」
「もちろんです」
「川が干上がったのですね」
と言って、アーヘルゼッヘは馬上から河を探した。
一行は、ゼ大臣補佐やセノ卿のお付き、家人に護衛の者と、また、その旅の荷を運んだり、露営の食事の準備をしたりする雇われ人と、アゼル隊長がパソンの為につけた町の警護兵のソン達とで、パソンとアーヘルゼッヘは、総勢百名ほどの一団だった。
アーヘルゼッヘは馬車を嫌がり騎乗していた。慣れない馬は、はじめは身体の節々まで痛み、山に行くまで乗ったあと二度と乗りたくないと思ったものだが、土煙りの中、石をはじく轍音を腰の下で延々と聞きつづけるよりずっと良いと考えを改めたのだった。
クッションの良い馬車で、舗装された帝都であれば、馬車は快適だと言うのだが、アーヘルゼッヘには全く信じられないことだった。歩くよりはずっと良くて、荷馬車よりもさらに良いのだが、人間の旅に慣れていないアーヘルゼッヘには、どうしても、快適な馬車というのを想像できない。
アーヘルゼッヘは慣れてきた馬の項に手をおいて、あたりを左右に見渡した。前にはゼ大臣補佐達の乗る馬車とそれを守る護衛達の一団が見え、後ろはソン警備兵達がいて、その後に家財道具を一切合切ひっさげているような荷車の一段が追っている。細い道には土埃が上がり、太陽はじりじりと大地を焼き、行きかう人は全くいない。
アーヘルゼッヘは草原に目を向けた。あれだけたくさん草があれば、川がどこかに見えるだろう、と思ったのだが、
「土の下ですわ。地下水路を引いています。帝都へ引く大水路から、枝分かれさせて草原へ引いたものです。ところどころお饅頭のように石が積まれていますでしょう? あそこが、かつての井戸の跡です。あそこから水を汲んで大地へ撒いて穀物を育てていたと聞いています」
草で覆われ、ところどころレンガがむき出しになっている、子供がかがんでいるような小さな塚が、等間隔に、大地の端まで連なっていた。ところどころ崩れている。
「井戸の掃除や整備に、人がもぐっていた時期があったそうですが、資料庫での記録の話になりつつありますわ」
ため息をついてパソンは帽子の庇をあげた。白いフリルのドレスの上に、馬の背まで覆う白く大きなマントを着ている。帽子にフードをひっかけて、まるで真冬の大地を行くように見えるのだが、時折降るスコールよけだ。
すぐ乾くのだから、濡れた方がよほど気持ちがいいと思うのだが、服が肌に張り付く姿を人に見られるくらいなら、馬に乗らず馬車に乗り、一生出てこない方がまし、なのだそうだ。腕であっても嫌だと言う。
ともあれ、その暑苦しい姿で、この一ヵ月、横座りで鞍に乗り、クッションの助けを借りながらだが、姿勢を全く崩さず、疲れた顔一つしないで、もくもくと揺られているのだから。すごいとしか言いようがなかった。
特に、すぐに疲れが顔にでてしまうアーヘルゼッヘにとっては、尊敬としか言いようがない気持ちが湧き上がってくるのだった。もちろん、尊敬すべき事ばかりの姫巫女だったのだが、精神的にではなくて、体力的にもすごい少女なのだとわかると、尊敬とともに、自分のひどさを思って落ち込んでしまう。
人間はすごいぞ、と言われていた、レヘルゾンの頃の話を思い出す。あの頃は、何の力もないのに、胸を張って生きていけるからすごいのだ、と思っていたのだが、もっと別の意味ですごいのだ、と思うようになっていた。
「そんな昔から水が干上がっていたのですか」
アーヘルゼッヘが草原を見ながら言った。すると、パソンは苦い顔で振り向いて、
「帝都に水を引くために、草原への止水をしたのですわ。渇水を心配して、と言う話ですけど、西大陸との貿易で、荷受人や職産業の人手が必要になり、農村から人々を動かそうとした、アセスト家の盲策です」
と厳しい調子で言った。さらに、
「こんな大地を怒らせるような事をするから、帝都の川まで消えたのですわ」
水を止めてしばらくして、帝都に湧き出ていた清水が消えて行ったそうだ。
その辺りから、神の怒りではと言う話が生まれ始めたらしい。渇水は、清水の分まで水をくみ上げなければならなくなったからだ、とパソンは言う。
「かつては、農家が村を作り、この通りは帝都と半島を結ぶ重要な穀物街道の一つだったのです。宿場町も賑やかに、半島から季節の物が届くのは、まずは、草原の村人から、と言うのが常識だったのに」
それも、史書となりつつあるらしい。
おかげで、何の変哲もない石ころだらけの通りで露営をしなければならない、と言うのがパソンの最大の文句だった。それは、露営がいやだと言うのではない。旅を共にして気心知れた者達に囲まれて過ごすのは、見知らぬ宿屋や町の人々にじろじろ見られるよりはずっと落ち着く。姫巫女と言う身分上、町や近隣の身分のある人々の挨拶は宿命とも言える大変難儀な行事だった。
「でも、わたくしが宿に泊まらない限り、誰も休めないのです」
とパソンは穏やかな声で、天幕の下の厚い絨毯の上で、クッションに持たれて、熱いお茶のカップを手につぶやいた。
明日には帝都へ入ると言う日だった。どこから汲んで来たのか、盥にはお湯がそそがれ、パソンが一番に、そして、二番にはアーヘルゼッヘが湯を使い、旅の汗を流していた。隣の天幕にはゼ大臣補佐が、セノ卿とともに泊っている。時折聞こえる笑い声は、一日の仕事を終えて寛いでいる賄いの者や家人たちだろう。薪を囲んで夜警を兼ねて休む。こんな休んでも休めていないような辛い旅だと言うのに、まったく疲れたような顔を見せない。パソンと同じだ。
そんな彼らが、明日は帝都と言うことではしゃいでいるようだった。いつも聞こえる笛の音に低い歌声が混じりだす。足踏みの音も聞こえ、誰かが枝で大地を叩いているのか乾いてしなった音もする。彼らが野営を嫌っているようには思えない。アーヘルゼッヘも、北の者特有の銀の髪に長身を見て、避ける者やおびえる者の顔を見ないですむせいで、野営はとてもありがたかった。しかし、パソンは違うらしい。
「みなを労って早く帝都で休めるようにしたかったのです。それを、夕暮に帝都に入るのは危険だなどとおっしゃるから」
と小声で愚痴ていた。パソンには珍しいことだった。パソンが続けて語る。
「そんなことはないのですよ。いくら水不安で治安が悪くなりつつあると言ったって、わたくしが馬車で帝都を行くのを止めようとする人々はいません。ましてや襲ってくるような人々など決していないのですよ」
「明るい場所で、堂々と帝都に入りたいのではありませんか。長い旅でしたから」
とアーヘルゼッヘは言った。そのくらい、大変な旅立った、と思ったのだ。が、パソンは、
「わたくしには長旅でしたけれど、ゼ大臣補佐やセノ卿がこれを長旅だと思うかどうか」
と再び深いため息をつく。
「眠れないのでしたら、外を歩きますか?」
「いいえ。眠れないと言うわけではありません。大丈夫です。このお茶にはちゃんと疲れを取る葉も入っていますもの」
と言ってカップを覗き込んだ。しかし、再び深いため息をつく。そのくらい、ここで足止めを食らったことが胸にかかるらしい。
アーヘルゼッヘは、ゼ大臣補佐とセノ卿が、必至にパソンを押し止めていた様子を思い出す。信徒が待っているから、少しでも早く戻らなければならないのです、と話していたが、アーヘルゼッヘの目には、チウを心配して少しでも早く戻りたがっているようにしか見えない。
しかし、出迎えの準備なしには、向こうも気まずい思いをするだけです、と言われると、パソンは何も言えなくなった。神殿を不思議な力で抜け出した姫巫女が、大陸の中心で行われた大祭で、大樹が町の巨大樹になるのを見届けた、と言う話はいつの間にか帝都にも伝わっているらしい。
我らが巫女姫がいたからだ、と言う帝都の人々の帝都自慢と、だからこそ姫巫女が戻ってくれば水問題も解決すると言う根拠のない、しかし、強烈な期待がないまぜになって、一種異様な様子になっているらしい。
アーヘルゼッヘは、ため息をつく巫女姫を見て、そっと自分のため息をかみ殺した。水をうまく噴き上げる装置を、チウが本当に造り上げているといいのに、と人ごとながら思う。そうでなければ、現実は変わらないのに、期待ばかりが膨らんで、結局、パソンは再び火の神に身をささげたいとでも言いだすかも知れない。
アーヘルゼッヘは心の耳を澄ました。外の鍋をたたく音や人々の歌う声の向こうに、何か聞こえないかと耳を傾けた。力さえ戻れば、少しはそれらしい何かができる、とアーヘルゼッヘは思う。本当にできるかと言われれば、大地のバランスを崩してまで得る水は、その後の被害を思えばあまりうまみがない。もしやれるなら、やりたくないと思うだろう。やれない今だからこそ、やりたいと思うのだ、と思うとおかしな気持になってくる。
「でも、外を見て回るのも素敵ですわね」
とパソンが言った。静かになったアーヘルゼッヘが、実は外に行きたがっていたのだ、と勘違いをしたらしい。
カップを目線まで持ち上げて、まるで小さなカップに隠れるようにアーヘルゼッヘを覗き見る。不機嫌になったと思って心配しているようだ。アーヘルゼッヘは微笑を浮かべた。すると、パソンの頬が上気する。どう見てもどこから見ても美しい造作のアーヘルゼッヘは、心からほほ笑むと、周囲にいる老若男女の区別なく頬が上気するのだが、たいていの者は自分の頬には気付かない。もちろん、パソンも気づいていない。
しかし、旅の仲間は、何度もこの様子を見ていたせいで、ゼ大臣補佐やセノ卿はもちろん、賄い婦や荷夫達まで、パソンが北の方に恋をしていると思い込んでいた。アーヘルゼッヘにとっては、パソンの無邪気で子供らしい表情が見れて、いつもの大人以上に冷静な巫女の顔以外の顔が見れてほっとできる一瞬だったのだが、周囲には分からない。この和やかな二人の雰囲気は、周囲にいらぬ噂を呼んだ。
アーヘルゼッヘはまだ、心の耳を開いていた。おかげで、焦点の定まらない目でパソンを見たらしい。うるんだ瞳のアーヘルゼッヘはどこか異世界の住人のようなムードがある。美しいだけではなく、怖いような空気が生まれた。アーヘルゼッヘは、ぼんやりとテントの周囲の音を拾って、そこから外へ、草原の上へと己の耳の世界を広げた。
草を揺らす風の音が乾いた街道を吹き抜ける笛のような音と重なる。これは、外の薪の宴の音だろうか、と思いながら顔を正面に向ける。目の前に不安に目を大きく見開いた少女の顔があった。その向こうに白い石柱が見えた。洞窟の中のようで、上空の丸い穴から差し込む明かりだけが頼りで、石柱の陰に石段が見えた。
ここがパソンの祈りの場だ、と何の説明もなくアーヘルゼッヘは感じた。心の声に耳を傾けていると言うより、どこかを覗き見をしているような気がして後ろめたくなった。慌てて眼をしばたたいて、目の前の立体として存在する少女に焦点を合わせようとした。と、その時、大地が大きく揺らいだ。アーヘルゼッヘは片手をついて周囲を見た。
大地は大きく揺らぎ、遠くから濃紺の影が波のように押し寄せてきた。野原の地平線から濃紺の幕が広がり、大地を覆うように近づいてきて、アーヘルゼッヘ達の前ではじけて砕けた。大きな揺れは、アーヘルゼッヘを大地に転がし、濃紺の波はすぐそこでたゆたっている。まるで、行先を迷っているように見えた。
「行くな」
とアーヘルゼッヘはつぶやいていた。激しいうねりの濃紺に、体を横倒しにしながら手を伸ばし、
「行くな。ここにいなさい」
と言って、さらに伸ばした。手の先で波に触れた。全身がしびれ、まるで、荒れ狂う波にのまれたように激しく倒され、目の前で波がはじけ、中から真っ白な光が生まれて、スパークした。
気がつくと、アーヘルゼッヘは片膝をついたまま、正面で真っ青な顔で中腰になっているパソンを見つめていた。外のざわめきは静まり返り、声を殺しているのが分かる。アーヘルゼッヘは、唐突に、テントの周りの人々の顔が見えた。おき火になり掛けている薪や、その周囲で立ち上がりかけている人々の様子や、彼らの周囲の五本ほどの木、その向こうに野原が見え、彼らの息づく声が聞こえた。
人々の気配はもちろん、夜空も、湿った夜露の香りも、草原を渡る緑の風も、また、そこに息づく小さな獣たちの気配も、思いも、何もかもが体に流れ込んできていた。世界は恐ろしいほど広く、大陸は驚くほどの思いと気配で満ちていた。そして、目の前に中腰で構えた少女の恐れが、アーヘルゼッヘの胸を鷲づかみにした。
「パソン殿…」
と言うと、パソンは思わず身を引いて、引いた直後に顔をこわばらせた。おびえた自分が信じられないようだった。
「あまりに綺麗な色で輝かれるものですから。わたくし、わたくし、美しすぎて恐れ多いと思ってしまって。ですから」
怖いのではない、と伝えようとしていた。
アーヘルゼッヘは自分が光を放ったのだとわかった。しかし、それは自分の光ではなく、やってきた何かだったのだ、と言いたかった。実際言おうとしたのだが、大きな音が大地から全身に振動となって伝わって、アーヘルゼッヘは動けなくなる。
目を見開いてテントの幕の向こうを見透かすと、すぐそこに帝都が見えた。夜だと言うのに煌煌と光がともる、高い塔の群れが、草原の向こうに、すぐ下に海を背にして広がっている。海へ競り出た半島に巨大都市が広がっている。その都市の根元から、視界がぶれそうなほどの揺れを感じる。
巨大な音は、揺れの陰でゆっくりと巨石が石組を組みかえようとしているのかきしみながら崩れるような音にもきこえた。アーヘルゼッヘは振動とともに、目を見開き、音と音の間に響く、五月雨のような馬蹄の音を聞いた。巨石群の灯火の間から小さな黒い影が生まれ集まり、一か所に集まり始める。
視線を戻すと、ドレスを調えた少女が蒼白ながらも気丈に顎をあげ背筋を伸ばして、アーヘルゼッヘの前で立ち上がっていた。
「大祭の前に光られた時以上に強烈な光でした。まるで、太陽が落ちてきたような明るさで、神々の光だとわかっていても、神々しすぎて怖くなってしまうほどでしたわ」
とはっきりした声で言った。
少女の全身から震えが湧き上がっているのが見えた。もちろん、人間の目には微笑さえ浮かべて立つ大らかな巫女姫の姿が見えただろう。しかし、アーヘルゼッヘの視線の前には、おびえを一切自分に許さず、気丈さだけで立っているようにしか見えない。
「少し外で頭を冷やしてまいりますわ。夜空を見上げるのも素敵ですもの」
と、先ほどの無邪気さが消し飛んだ顔で、笑って見せた。一時たりともここにはいられない、と言う心の恐怖の声が、アーヘルゼッヘの肌にしみこんでくる。アーヘルゼッヘは黙ったまま、片膝をついた姿勢で、威嚇しないように低く中腰のまま、部屋の端へと膝をにじってよけた。普段だったら、パソンも自分のおびえを悟られたと気づいただろう。しかし、今のパソンにそんな余裕はないようだった。
と、その時再び、大地に響く馬蹄を聞いた。今度は、パソンにも聞こえたらしい。顔をあげ、先ほどよりもずっとはっきりした表情で顔を出口へ向けた。外はにわかにざわめきはじめ、となりのテントがさらに明るくなった。ほんの数秒だっただろうか。数十分だったかもしれない。パソンは立ちつくして入口を見つめ、アーヘルゼッヘは中腰になったまま、となりのテントの様子を眺めた。
街道を、帝都から馬を飛ばしてきた男は、馬を飛び降りると手綱をそばにいる者に投げるように渡して、衛兵の顔をすばやく見た。ゼ大臣補佐のテントがどちらか衛兵の顔で判断したのだろう。誰に断わるでもなく、ずかずかとテントに近づくと幕を跳ね上げて中に入った。
そこで、ランプに灯りがたされ、隣のテントがにわかにぼぉっと光りだす。アーヘルゼッヘは明るくなった隣を、テントの布越しに眺めた。几帳に腰かけ、台座に地図を広げていた。ゼ大臣補佐とセノ卿は、帝都が近づいていたと言うのに、全くくつろいだ様子はなかった。
ゼ大臣補佐は、手もとのランプを天上へつるさせ、入ると同時に片膝をついた使いの男にねぎらいの言葉をかけた。男は、敷かれた美しい絨毯をにらむと、さっと顔をあげ、
「やられました。暴動です。帝都の東部から、火の手があがりました」
「はやまったことを!」
と言うゼ大臣補佐の唸るような声に、いつものひ弱な姿からは信じられないほど冷静な、
「テンネの動静はどうなっている? 宮殿に動きはあるのか?」
とセノ卿の声音が続いた。
「申し訳ありません。動静を探る前に飛び出してまいりました。変化がありしだい次の者がまいるかと存じます」
と男ははっきりした声で告げた。セノ卿は短くうなずく。そうだろうと初めから分かっていた様だ。ゼ大臣は膝を片手で音高く叩き、首を左右に振った。それだけで、悔しさがにじみ出るような動きだ。男は自分が迫られたかのように顔をしかめ、同じく悔しそうな顔をした。
「先週までは、チウ閣下が外へお出ましになり、何くれとなく皆の言葉を聞いてくださっていたのです。おかげで、誰も不安はあっても不満はない、安心する方法をお互いに見つけることができたのです。それが」
と言って言葉を切った。ゼ大臣補佐のテントでは、家人がグラスにいれた水を素早く差出し、男に一息つきさせた。が、男は、目で軽く一礼して飲み干すと、すぐに、
「チウ閣下のお姿が、七日前からぷつりと見えなくなったのです。誰も気にするほどのことではなかったのですが、不思議と、これからずっと来なくなる、と言う噂が広がりだし、二日前に、身罷られたと言う話になったのです」
「テンネの出した噂だろう」
ゼ大臣補佐のしわがれ声が返った。
「しかし、宮殿の締め付けがさらに酷くなりだしたと言う噂に、アジェンタ広場では毎日のように死刑囚がさらされ出したと言われ、ついに昨日は、チウ閣下の首までさらされた、と噂になったのです」
「それも、テンネの噂だ。チウ閣下に手を出せるものはおらぬ」
「ええそうです。私もそうだと思います。しかし、都の東部に住む者は、西地区にも中央区にも移動ができません。中央区から来た者は、アンジェンタ広場では確かに人がさらされていると言いますし、我らは、中央へはおろか、外苑部への移動も禁じられたのです。金持ちは、帝都から逃げ出し始めたと言う噂も広がって、塔をねぐらにしている男が、確かに人が荷物を押して移動しているのが見えたと言う始末です。信じるなと言っても、それを信じさせる方が難しい」
と悔しそうに下に唾を飛ばす。セノ卿が怖い声で聞いた。
「姫巫女のパソン様のお戻りを言わなかったのか」
「もちろん、噂はもちろん、公示もしました。昨夜はそれで、町に穏やかさが戻ったくらいです。東部地区の地方神殿では、門戸を開いて祭りの準備が始まって、疑うものも出ないほどです」
「ならば、なぜ!」
「つい数時前、姫巫女がチウ閣下の骸をご覧になり命を絶たれたと言う噂が流れたのです」
「真実ではない」
「しかし、もっともありそうな話です」
「姫巫女が、神以外に身を捧げる場所などないはずだ」
「そんな説明が誰に通じましょう? この帝都で、唯一心を許せる、姫巫女を守り続けている方がお亡くなりになられたのです」
「閣下は生きておいでじゃ!」
短いがびりっとあたりが震えるようにな一括だった。ゼ大臣補佐の一喝に、男ははっと居住まいを立だした。そして、目がしらからほろほろと涙を落し、
「もちろんです。ですが、我らにどうやってそれを信じさせてくださるのでしょう? 昨夜夜半近くにやってきた中央区の役人が、チウ閣下の首を見たと言う話をするのです。チウ閣下を嫌って言う話ではありません。笑って言うわけでもない。青ざめて、さすがにこれでは、帝国はまずいのではないかと話だすのです」
「それさえも、テンネの策じゃ」
男は目線を下げて先を続けた。
「それでも、明日になれば姫巫女のご尊顔を拝せるはずだと、手の者達を東部区域に走らせました。それだけは、わたし達にとって、本当に知っている事実ですから。説得の力のこれならばと思っていたのです。ですが、それも、宮殿で喪鐘が鳴り始めては、私どもではどうしようも、抑えようがありません」
「誤って鳴らした者がいるのだろう。テンネに言わせればな」
とセノ卿が覚めた声で言った。男は顔を片手でぬぐった。そして、真剣な顔でセノ卿を見上げ、
「閣下も姫巫女も生きておいででございますか?」
と聞いた。ゼ大臣補佐は再び厳しい目で男を見たが、次の瞬間驚くほどやさしい声で、
「隣のテントで休まれておられる。お起こしさせよう」
「いえ。そんな、恐れ多い」
と言いながらも、男の声は震えていた。
アーヘルゼッヘは頬に冷たい夜気を感じた。見ると、パソンのいた場所にはカップが置かれているだけで誰もいなかった。外で番をしている少年が、入口の幕が静かに下ろしているところだった。気がつくと、となりの天幕にパソンが飛び込んでいる場面が見えた。アーヘルゼッヘはゆったりと袖を払って、クッションを背に腰をおろした。
パソンの顔色は真っ青だった。パソンの飛び込む姿に、帝都の男が目を見開いて感動に唇を震わせていたのだが、パソンは帝都の男の襟首に飛びつくように両手を伸ばして、
「従兄上さまは、本当に生死が分からないのですか」
と絞り出すような声で聞いていた。
アーヘルゼッヘは全ての景色を追い出すように目を閉じた。パソンを、ゼ大臣補佐が丁寧だが断固とした動きで男から引き剥がしている。セノ卿が思ったよりもずっと優しい動きで自分の几帳をパソンに進め、支えるように床に片膝をつく。パソンはぐらつく自分を許さないとでも言うような形相でドレスを払って腰かけると、正面の男に、ねぎらいの言葉を、謝罪の言葉とともにかけ始めていた。
アーヘルゼッヘは男の気配の流れを追った。テントから街道へ、そして、暗い石だらけの道を明かりのない高い塔の一群へ。帝都は北に宮殿が広がっていた。中央には巨大な機能美のある建物群が見えた。南には華やかな屋敷の群れが、西には荘厳な森に囲まれた屋敷の群れが広がっていて、東に二重の門をはさんで高層だが狭い通りの密集した町が広がっていた。その東の街区の向こうに黒い海が広がっている。帆船の帆を畳んだマストがぽつりぽつりと海上に見える。崖下の入江には倉庫群が広がり、海に突き出た桟橋は、艀が幾艘ももやっている。今は静かだ。
アーヘルゼッヘは、首をかしげた。静かすぎるほど静かだった。つい先ほどの人々の動きは空気を水にするような、押し寄せる湯水のような重さがあった。それが、まったく消えている。東部と言われる町の通りには人っ子一人見られない。暗がりには野良犬一匹見当たらない。
アーヘルゼッヘは腰を上げた。隣のテントを見ると、相変わらず明々としていた。男の気配がない。アーヘルゼッヘは入口の幕を押し上げ、入口で控えていた少年が慌てて脇へまとめているのを見下ろして目で礼を告げて外へ出た。
天井の星は降るように美しかった。広場の火は落とされて、うずくまっている人々の姿が見えた。隣のテントの前では、剣を持つセノ卿の家人が歩哨に立って、眠たげな眼を宙に向けていた。アーヘルゼッヘが近寄ると、慌てて眼を瞬いて起立した。そして、中に向かって、
「アーヘルゼッヘ殿がおこしです」
と正面を向いたまま低い声で告げた。あたりには響かない、しかし、中にはよく通る、不思議な声の出し方をする青年だった。
「お通ししなさい」
と答えたのはゼ大臣補佐だった。アーヘルゼッヘは彼の言葉とともに押し上げられた天幕の入口から、中を見て眼を見開いた。帝都から来た青年が、肩から胸へ剣をあてられ息絶えていた。パソンが座ったまま青ざめて眼を見開いている。その脇で、セノ卿が、剣を拭って鞘に収めていた。冷静な顔をしている。
「何があったんでしょうか」
アーヘルゼッヘは思わず言葉が漏れた。つい先ほど、あれほど危急を告げに来た者を、彼を囲んで和気あいあいと言えば言いすぎだが、それでも、仲間通しの空気があった。それが、ほんのわずかの間、帝都を見に心を飛ばしている間に、何が変わったと言うのだろうか。
「暗殺者が飛び込んでまいっただけです」
セノ卿はそう言うと、入口に立つ者に、
「これを外へ。匂いがかなわん。今日は我らは外で寝る」
と告げた。言われて初めて、むせるような血の匂いに気が付いた。
「この男は、帝都のことを話に馬を飛ばして来たのでしょう?」
アーヘルゼッヘの確信を込めた問いに、
「そう言って、ここへ姫巫女の様子を探りに来たのです」
「しかし、帝都では」
「何も起こっていないはずです」
セノ卿は、そう言ってからアーヘルゼッヘをまっすぐ見た。剣を鞘ごと腰にさしなおしているが、かまえた気配はそのままだった。
「なぜご存じなのでしょう? それほど大きな声で話していたとは思えません」
「そうじゃ。なぜ、ご存じなのか? この天幕は、音が漏れぬように布に工夫がされておる」
とゼ大臣補佐も用心した声を出した。アーヘルゼッヘが後ろを向くと、天幕の入口は幕が下ろされ歩哨の男は見えなくなっていた。気がつくと、すぐそこで血ぬられていた若者も消えていた。慣れた手順だとでも言えそうな、素早さだった。




