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北大陸の者  作者: るるる
1/18

アーヘルゼッヘ

 誰か! 私を見て! お願い、気づいて! 私はここにいる!

町のど真ん中で私は叫びだしそうになっていた。広場で、噴水の脇に立ち、行きかう人を眺めながら、まるで一人井戸の中にいるような気がした。明るい陽の差す、誰も気づかない透明な井戸の中で、身動き一つできず朽ち果てていくような、不安な気持ちだ。南大陸の端にある帝都から内陸へ馬車で七日。旅の途中の私は、小さな町で、異様な存在になりつつあった。


目の前を、大きな野菜かごを下げた女が通り過ぎる。私の影さえ不気味だというように歩道から馬車道へ降りて迂回していく。サスペンダーに革靴の少年が、凧を片手にかけてきて、すぐそこで棒をのんだように立ち尽くす。マントの存在に驚いて立ち止まり、私を見上げて恐怖に変わる。通りの向こうのビルの入口で、連れの婦人が少年を呼ぶ。はじけるように駆けて行く。


「北の方がお珍しい」


そんな私に、つまり、アーヘルゼッヘに、穏やかに声をかけた人間がいた。噴水の脇に腰かけた、白髪の老人だった。アーヘルゼッヘがここに立つ前から腰かけていて、その後も身じろぎ一つしなかった。その老人が、日差しに目を細め、アーヘルゼッヘを見上げている。


老人は、黒い上等な生地に包まれた長い足を投げ出して、鷲の握りの杖をつく。ピンと背の伸びた姿で、足の間に杖をつき、両手を軽く乗せ、顎を引いて見上げている。顎近くに結んだタイに、真珠のタイピンがよく似合う。癖のある短い白髪が額に落ち、日に焼けた顔に、上品そうな口元が印象的だ。まなざしは、目を細めているせいか、笑っているように見えた。町の人の恐怖がうそのような穏やかさだ。恐れもなければ警戒心も見当たらない。この町に立って初めて見た穏やかさだ。おかげで、せっかくの友好的な笑顔を見ながら、警戒した。


アーヘルゼッヘと視線が合うと、老人は言った。

「北の方。漆黒のマントに銀のふち飾りは、あなた方の正装ですが、それを知る者は少ないのですよ」

北の者をよく知っているような口ぶりだった。


アーヘルゼッヘは、マントの下に、紗の織物に銀と朱の幾何学模様の上着を着ている。七分丈の黒のパンツに、長い脚は銀のタイツで包み、濃緑色のショートブーツには銀の留め金が大きく飾られている。旅には不向きな服装だが、おかしい服装ではないはずだ。老人はさらに、

「宮廷へおいでになれば、きっと歓迎されたでしょう」

と言う。


アーヘルゼッヘは、老人の顔をまじまじと見た。陰りのないまっすぐな目で見上げている。面白がっているような色が浮かぶ。が、それ以上の表情が見当たらない。なのに、老人は、この姿が、宮廷服だと一目で見抜いているわけだ。正確には宮廷服ではないのだが、老人の真意を知ろうとその目の中に理由を捜した。


「そうそう警戒しなさるな。お綺麗な顔が台無しだ」

と言って笑った。アーヘルゼッヘは、

「洗って来たからだ」

と答えた。老人は笑った。破顔した。妙に若々しく見えた。

「何がおかしい。服を気をつけて顔を気をつけなければ、見ている方が見苦しく、周りに迷惑をかけるだけだ」


「そうですか。確かにそうかもしれませんが。お綺麗と言う意味は、汚れがないという意味ではないのですよ。構造が美しいと申し上げたのです。見目麗しい顔に、見とれる者もおりましょう」

男の言葉に、アーヘルゼッヘは警戒を解いた。


この顔を美しいと言っているなら、本当の北の者には、あったことがないのだろう、と思ったのだ。自分以上に美しい者は大勢いる。美しい者たちばかりだ。確かに、アーヘルゼッヘの顔は、眉は弧を描き、鼻筋が通り、面長なほっそりした顔が、生き人形のように見せる。


しかし、美しさの基準が目の光と口元の凛々しさにある北のアーヘルゼッヘにとっては、この顔は平凡な顔にしか見えない。ただ、少しだけだがうぬぼれがある。誰だって良さがあるように、自分にも、目の光がある、と思っていた。時々だが、切れ長な目からあふれる銀の光は、みなに褒められことがある。


だから、きれい見えるかも知れないと、いい気分になりながら半分くらい本当かも知れないと期待した。おかげで、饒舌になる。


「貴殿も、凛々しい口元をしている。その口を開くだけで、僚友も恋人も思いのままになるのではありませんか」


と軽口をたたいた。言ったとたん、男の口に目が言った。本当に、引き締まった意志の強そうな口元だった。この意思の強さで紡がれた言葉なら、逆らえない者が大勢いそうだと感じた。それは、北の者達にとって抗えないほどの魅力だった。思わずアーヘルゼッヘは見とれていた。


しかし、当の男は、目の中に笑いを作って首を左右に振っていた。何かの諦めのような仕草だった。それを見て、目の力が弱い、とアーヘルゼッヘはがっかりした。種族の違う人間に期待してもしょうがないのだが、美しい口元を見たせいで、それに見合った眼がほしかった。


穏やかな目は、よく見ると霞がかかったようで、気持が陰っているような色がある。さらによく見れば、気持を抑えた深い色をたたえた眼だとわかるのだが、アーヘルゼッヘにはそこまで見抜く力はなかった。人間に初めてあったせいかもしれない。人間だと思い、美しい目はありえないと思い油断していたせいかもしれない。おかげで、

「あなたがもっと若ければ、北の者も虜にできたかもしれない」

と相手を慰めるようなことを言った。そこには北の者の高慢さがあった。


そして、今は年をとっているからだめだと告げる失礼さもあった。男は笑った。気持ち良さそうに、背を伸ばして、空を見た。北の方を虜にするという例えに笑ったのか、若かったら美しいと言う率直さを笑ったのか、もっと別の意味があって笑ったのか分からない。しかし、気持がすっかりそれたようで、すぐに、

「それで。北の方が何しにここへおいでになったのでしょうな?」

と話題を変えた。




北に大陸が一つ。南に三つ。南の大陸の間には諸島が広がっていた。人間は南に住み、帝国や王国の割拠と言う形で三大陸を支配していた。


北には、北の方と呼ばれる種族がいた。支配と言う考えを持たない、人間とは違う系統の生き物だった。長寿で長身、情熱的だが感情に乏しく、高慢だが切り替えが早い。己の相反した感情に翻弄されるように生きる生き物だった。


そんな気ままな性質を補うかのように、彼らには特殊な能力があった。自然を操る力とも、自然に溶け込む力とも言われていた。人間にはない力だった。おかげで、人間は彼らを恐れ敬い、長い年月をかけて、さまざまな信仰や信念を生み出した。


人間は彼らの力にとらわれて、彼らは己の生に夢中になる。おかげで互いに軋轢が生まれ、火が付いて、北と南に分かれての大戦争が勃発した。それが、千年前の話である。


その戦争が、十年前に終結した。人間が全面的に白旗を上げて、北の者達が統制のとれた動きで引き上げて、終りに至った。人間が諦めたのも珍しければ、支配と無縁の北の者が統制のとれた動きで南から引き上げていったのも珍しい現象だった。


アーヘルゼッヘは戦争の終わりのころに生を受けた。百年も生きていない、まだ、生まれて間もない幼子だった。しかし、百年で生が終わる人間達にとっては、もはや立派な成人にしか見えない。実際、若者ではあるが子供ではない。もちろん、幼子だと言ってやゆるのは、大戦の前から悠々と生きている北の長寿の者達ばかりだ。それは、人間の理解の範疇を超えていた。



町は砂漠の中央にあった。町の外は岩と低木ばかりの乾いた大地が広がっている。そこは、東大陸の中央に位置していた。遥かかなたに大山脈の山並みが稜線となってふち飾りの様に見えるが、それ以外は何もない。小石をよけ年に数回の雨の為の側溝が浅く掘られた、帝国の道が、長く山脈に向かって延びているだけの、空漠とした場所だった。


「人を探しています」

アーヘルゼッヘは、男を見ながら答えた。すると、

「あなたが? 人探しにわざわざここまで足を運んで? 探しに来た?」

と言って驚いた。わざとらしい驚きに、アーヘルゼッヘは嫌な気分になった。


「何がおっしゃりたい?」

「耳を澄ませば、世界中の音が聞こえると言うあなたがたが、わざわざ、ここまでいらしたと?」


「噂に尾ひれがついています。そんなに耳がよければうるさくて眠れないでしょう」

とアーヘルゼッヘは静かに答えた。


実際、眠れない人もいて、彼らは大地の底の音の消えた暗闇で長い眠りについている。人好き好きだから、とアーヘルゼッヘは暗い気持ちで考えた。地底へ続く階段を降りると、幾層もの空間が広がっている。


子供の頃、静けさにひかれて下って行った先で、視界いっぱいに横たわる人々を見つけた。死のない北の者の行きつく先を見たような気がした。その時、アーヘルゼッヘは、恐怖に胸が締め付けられた。その心の声を、階上で聞いた大人が慌てて連れに来るまで、アーヘルゼッヘは夢も見ずに眠る人々の心に耳を澄ませつづけていた。


音のない、夢もない、無になる瞬間に、同化していた。階上の、空の見える世界に戻ってからも、アーヘルゼッヘはしばらく耳をすませられなくなってしまうほど、何もないのは恐ろしかった。あれを望む者がいるとは、本当に、人好き好きだ、とアーヘルゼッヘは思っていた。


男は、

「しかし、人探しくらいはできましょう?」

「できる者もいるでしょう」

「あなたはできない、とおっしゃる?」

「ええ、もちろん」

「なら、できる人に頼んだらよいのではありませんか? わざわざ北の方が、こんな場所に足を運ばれることもない」

アーヘルゼッヘは、眉をしかめた。


大戦は、人間と北の者との間に大きな溝を作った。しかし、戦争のおかげで、人間達は北の者に詳しくなった。敵を知り己を知れば百戦危うからず、と言う文言が人間にはある。そのせいではないが、北の者達も、人間には詳しくなった。無関心ではいられない期間があったおかげだ。


「軍の方ですか」

とアーヘルゼッヘは聞いた。情報を集めるのは、商人と政治家と軍人だ、と言う話を聞いていたからだ。北の者について、男は大変詳しそうだ。

「こちらに駐屯して、町を守っておられる?」

と聞くと、男は顎をさすって自分の顔を、彫刻家ができの悪い作品をなでるような仕草でなでた。


「それほど、きな臭い顔をしていましたか」

と老紳士は苦笑した。すると、ずいぶん若く見えた。人間の年齢は、アーヘルゼッヘには分からない。人間は、あまりに早く年をとり、消えていく。だから、目の前の人間も、老人ではなく、白髪の人物かもしれないと思えてきた。壮年の男か、と思った。すると、

「軍人の守る町ですか」

と呟いて、アーヘルゼッヘは周囲を見回した。


石畳の広場の周囲をぐるりと煉瓦造りの背の高い建物が囲っている。細い小道の奥には、ところどころ緑が見える。大きな町で、建物の向こうに鬱蒼とした森が広がっている。水の香りが風に吹かれて流れていく。乾いた風の間に、まるで縞模様のようだ。砂漠にあるオアシスだった。


人間にとっては重要な拠点かもしれない。と、アーヘルゼッヘは考えた。歩きか、馬か、馬車しか、移動手段がない。海や川があれば、船を浮かべることもできるが、基本は地道に大地を行くしかない。それが人間の性だと言う。ここは、山脈へ続く道、大陸中央部と沿岸の帝国部とを結ぶ要所かもしれない、と地図を頭の中に思い浮かべた。


そんなアーヘルゼッヘに、

「人間を守るのが私の仕事ですが、退役していますよ。軍人じゃない」

と男は言う。そして、

「それよりあなたです。まだ質問に答えていませんよ。なぜ、ここにいるのです? もしや迷子? それとも、社会見学ですか?」


アーヘルゼッヘは気の抜けた顔をした。銀の正装の者が、人間の町に現れる理由は、社会見物が普通なのだろうか、と思ってしまった。そんなことがあるはずがないのに、そう思えるほど、男は当たり前のような顔をしていた。


「いえ。そうじゃなく」

「では、家出?」

と言った。アーヘルゼッヘの顔を覗き込む姿は、真剣そのものだ。それが却ってうそくさい。しかし、アーヘルゼッヘは警戒した。人探しはうそじゃない。しかし、確かに、北の館を飛び出して来たわけだ。この格好は、そんなあからさまにわかるのだろうか、と不安になった。


「家を出たつもりはありません」

「宮廷を飛び出してきた…?」

と、すかさず切り返す。この切り返しで、アーヘルゼッヘの頭が冷えた。飛び出したのには理由があった。おびえて人間の町で立ちつくすために飛び出してきたわけじゃない。

「宮廷を飛び出したわけではありません」

と言った。飛び出したのは、北の館だ。


人間の言うような宮廷は、北大陸には存在しない。だから、嘘を言っているわけではない。男は北の者に詳しい。しかし、それほど詳しいわけではないのかもしれない、とアーヘルゼッヘは思った。安心したような、がっかりしたような不思議な気分になった。


人間など相手にしない。相手にしてもすぐに消えてしまうからだが、覗き込むようにして見上げる目には力があった。アーヘルゼッヘ達が好む強い光があった。おかげで、すぐ最近まで闘っていた相手で、さらに、こちらを警戒して尋問している相手だと言うのに、つい、うっかり見とれてしまった。男は、その隙を狙ったかのように、

「それで、我らが町に、何用でしょう?」

と再び聞いた。アーヘルゼッヘがつい、

「訪ね人を探しています」

と告白した。


「お訪ね者を?」

「犯罪者ではありません。ただ、希少な方で」

「北の方ですか」

「ええ。そうです」

「この町には、いませんよ」

「知っています」


男が片眉をあげた。それでは、なぜここに来たんだ、と言う顔だった。アーヘルゼッヘは、これだから人間は、と少しばかり思った。力を知らない者を相手にすると、イライラするものなのだ、と僅かばかり高慢に思った。しかし、声は丁寧に、

「ここに来て、私は見まわしました。なのに、北の者は見つかりません」

「音がないということですか」

「ええ、そうです。音がない、と言うことです」

と言いながら、アーヘルゼッヘは考え込んだ。希少な方だった。気配を隠すのは一流だと言う。ここにいるという噂も、噂にしか過ぎず、だから、いないだろうと思ったのだが。もしも、人間に溶け困るほど気配を巧みに隠していたら、と不安になった。


「背の高い、人間らしくない人間はいませんか?」

とアーヘルゼッヘが窺うように問うと、男は首を左右に振った。

「北の方は珍しいんですよ」

と言った。恐怖に遠巻きにする人々がいる。確かに、北の者に慣れているようには見えない。


「噂は? この近くに、北の方が現れた、と言う噂は聞いたことはありませんか?」

「この近く? ありませんな」

「本当に?」

「人間が現れても噂になりますよ。なにせ、砂漠の真ん中です」

と男が言うと、アーヘルゼッヘは力を抜いてうなずいた。

「そうですよね。やっぱり、いないのですよね」

そのつぶやきに、男は軽くうなずいた。そして、そこで立ち上がる。杖は飾り物らしい。寄りかかる様子もなく、ステッキのように石畳にトンと付く。アーヘルゼッヘと同じくらいの長身で、ピンとした背が軍人らしさを表している。しかし、どこか優雅すぎるような気がした。


「それで、これからどうなさいます?」

「あなたに言う必要がありますか?」


とアーヘルゼッヘが尋ね返した。実際は、どうすればいいのか思いつかないだけだった。すると男は杖の手をあげ、ぐるりと杖で周囲を指示した。


「これほど、町がざわめいていて、ほおっておけるものでもないのですよ」

「これほど?」

あたりは遠巻きに見ている人々だけだ。声高に話している者さえいない。

「ええ。ご覧なさい。ほら」

と男が杖を通りに向けると、徐行していた馬車が止まった。


噴水の前を通りかかった四台が四台とも、黒い塗が剥げかかった箱馬車だった。御者が庇の下でマントで体をしっかりくるんでうずくまるようにして座っている。四台は、パレードのようにぴたりと止まり、男たちが飛び出した。小さな唾の帽子をかぶった、銀の鎖を腰につけ、肩には階級章と紋章の飾りをつけた、警棒を手にした男たちだ。


「これが、罠…」

とアーヘルゼッヘがつぶやいた。人間はいともたやすく心の緩みを突いてくる、と言う話をすばやく思い出した。


「いいえ。これほど町がざわめいていれば、警邏隊が出張ってくるのは当たり前です」

「どこがざわめいているんです?!」

と声を荒げた。がらんとした噴水広場に二人が立っているだけだ。

「普段」

と男はおごそかに話し出した。


「ここは、人であふれているんです。雑踏で、人にぶつからずには通れないほど賑やかな広場です。なのに今は、人っ子一人いないんです。つまり。いつもはここにいる人々がいったいどこに行っているとお思いか? 家で騒ぐか、市場で盛り上がるか。あなたも良い耳をお持ちでしょう。北の方を探した耳で、人々の心の声に耳を澄ましてみればいい」

と最後の部分は突き放したような言い方だった。

「そんなばかげたことはしない」

とつぶやいた。気配を探るだけで十分だった。耳まで使いたくはない。


馬車から飛び出した、つばのある制帽をまっすぐ被った男達が、一瞬きれいに立ち止まる。


一番前の馬車の御者が、その瞬間に降り立った。マントをはじいて中の金の鎖をあらわにする。と、制帽の男たちが噴水の周囲へ散った。警邏隊の指揮者だった。馬車の脇で、腕を組んむ。茶の絹のベストの上にビロードの襟の上着を着ている。警邏隊の隊長と言うより、地方豪族や育ちのいい役人に見えた。しかし、人間をよく知らないアーヘルゼッヘにはよく分からない。顎を上げて立つ姿が傲慢そうに見えただけだ。男が腕をあげると、制帽達が、噴水を囲むように動きを止めた。


そんな中、杖の男は、相変わらず、立ったまま、杖を軽く浮かせて、アーヘルゼッヘへ問いかけた。


「ばかげたことですか? 人間の心に耳を澄ますことが?」

「悪意に満ちた人間の心に耳を澄ましても、我々が壊れるだけです」

と返す。恐怖に満ちた町の人々のまなざしは、アーヘルゼッヘには恐ろしすぎた。心の声に耳を澄ませば、彼らの恐怖が凶器になって襲ってくる。無の闇で眠る人々は、大戦の中、世界に溢れる人間の怨嗟の声を聞きすぎて、発狂から逃れるために、地下へもぐって行ったという。


男は悲しい顔をした。アーヘルゼッヘの恐怖を感じてはいないようだ。それどころか、苦々しく感じたらしい。舌打ちを打ちたいような顔をしている、とアーヘルゼッヘは思った。その途端、周囲を慌てて見回した。


広場を見下ろす建物に人々が満ち溢れている。窓から顔を出してはいないが、こちらに耳をすませている。号令一下、アーヘルゼッヘへ恐怖の武器をたたきつけようと狙っている。と、男が、杖をさっと振り上げた。アーヘルゼッヘは、喉の奥で息をすった。すると男は、大声で、

「不法侵入者だ! とらえよ!」

と警邏達に命じた。広場を見下ろす人々からは、固唾をのんだような気配が降ってくるだけだった。期待や珍しい事件に好奇心丸出しの高揚した空気が、頭上を流れているだけだった。アーヘルゼッヘは気が抜けたように男を見た。


制帽達が、棒を手に駆け出してくる。二人ほど銃を構えているのだが、仲間に当たらないように威嚇のためか、上へ向けて構えている。

「罠?」

と言う疑問に満ちた問いかけに、

「人間の群れが憎悪に満ちていて厭だと言うなら、とっとと北へお帰りなさい。ここはあなたの来るところではない」

と穏やかな声が返った。命じた時の意志の力は全くない。やさしいともいえる声音だった。制帽のために一歩下がった。下がりながら、

「この時期、不安要素は、私もありがたくない。さあ、転移をすれば、逃げれるでしょう。さあ、行かれよ!」

と声を張った。最後の部分は、アーヘルゼッヘが思わず転移したくなるような、不思議な語調だった。


しかし、アーヘルゼッヘは男を睨んだまま、立ち尽くしていた。北の館を飛び出した時に転移を使った。そうやって、月夜の間に三度の転移で場所を変え、日のある場所に現れたのだ。追っ手はいない。まだ、いない、と言うのが正しいのかもしれないが、日のある場所で見つからないのは奇跡と言える。今動いたら、まる見えだった。


太陽は、光を大地にたたきつけ、アーヘルゼッヘの姿を反射させ、空へ映す。空に姿を探す者がいれば、否でも見つかってしまうだろう。アーヘルゼッヘは耀すぎるのだと言う。さらに、力を使えば影はゆがむ。歪みは、北の者の存在となり、空をかけて北の館へ伝わっていく。そうやって、北の主は、世界の動きを見ているのだから。アーヘルゼッヘはここにいます。今の今、南の大陸で力を使っているんです。と知らせることになってしまう。


 男は怪訝そうな顔をしていた。アーヘルゼッヘは、制帽の男たちが棒を振りかざすのを眺めていた。振り下ろされてよける。しかし逃げ切れなくて額に当たる。男の顔が驚愕で歪む。その間、腕をたたかれ、肩を押された。重さにしゃがむと背中をたたかれ、そこでやっと男が正気付いたような顔になり、

「止めろ! 捕縛だ。たたくな! 無抵抗だぞ」

と叫んでいた。叫びながら、二歩で近寄って、飛びつくように隣にしゃがむ。怒った声で、

「なぜ逃げないんだ。人間につかまるレヘルゾンなんて聞いたことがないぞ」

と叱りつけるように言った。


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