――白面公主――
以前書いた自作声劇台本を、小説に直しました。
じっくりと気長に取り組んでいこうと考えています。
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【冒険奇憚・天昇伝】
一の段~白面公主~
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東方の島国。
とある山奥に天高くそびえる城があった。
荒涼と広がる荒れ野で岩山に建つその城は、堅固な守りに大きな城門を構え、何人からの侵略をも許さぬ高い城壁と深い堀を持ち、天守閣に備わる一対の不気味な鯱が鋭く弧を描きながら夜空に尾びれを突き刺さしている。
月を背にした城影は、柱の合間に洩れる月光を双眸と思わせる。
虚空に鋭い二本の角を滾らせて慟哭する、鬼の如くに見えたと云う。
何時しか人々は口を揃えて其の城を、鬼哭城と呼ぶようになった。
――囁き漏れる、人々の声――
「聞いたか? 殿は遂に母君を水牢にて攻め殺されたらしいぞ」
「何と恐ろしい。父上に次いで実の御母堂まで……」
「それどころか、ご自分の母君の遺体を『丁度良い』と仰って、なんと蜀台にされたそうだ」
「母君を蝋燭立てに?!」
「父君に毒を盛って三日三晩苦しめて、挙句、その髑髏で杯を作られたとか」
「妾、小姓ことごとく、全身に刺青を施し、飽きたら皮を剥いで飾られていらっしゃる」
「恐ろしや……」
「あな恐ろしや……」
「くわばら、くわばら……」
「我が主君であられる光悦様は、御自ら《白面公主》と名乗られる程にお美しいお方」
「お美しいが恐ろしいお方」
「ご自分の美しさを脅かす何人も許されぬ」
「父君母君、奥方までをも許されぬ」
「天上天下、生きとし生けるもので、一番美しくなければお心安らぐ事の無いお方」
「それそれ、今宵もあの様に……」
「憤ってあらっしゃる……」
―鬼哭城天守閣―
暗闇が四方を取り囲むその中で背の高い松明が薪能の舞台のように黒板の床を照らしている。
くべられた薪がパチパチと音を立てる中、揺らぐ炎で漆黒の壁もぼんやりと見えている。
其処には、無数の墨を入れられた人の皮が張りめぐらされ、その全てを合わせて、壮大な伴天連曼荼羅が描かれている。
「たれかある! ええい、誰もおらぬのかっ!」
闇を裂き、静寂を破って中央に佇む男が響き渡れとばかりに声を上げる。
「阿侘羅が控えておりまする」
人影が音もなく闇より進み出で、すっと跪く。
それは、クレ染め濃紺の忍び装束に身を包んだ、年の頃、二十代を終えるのではと見て取れる若い男。
忍びにしては珍しく顔を晒し、晒されたその顔には薄墨の様な痣がある。
痣は大きく其の額から左半分を薄紫に染めている。
十人並み以上の整った顔立ちが、より一層、其の奇異な風貌を際立たせている。
「阿侘羅か……うふふ、相も変わらず……醜いのぉ……」
薄暗い天守閣に響く声は、何処か甘えた風の有る猫撫で声で優しげに語るも、怖気が走るほど厭らしい。
件の鬼哭城の主、光悦である。
三十路も半ばとは思えぬほどの艶やかな青白い肌。
色濃く影を落とす睫毛。
まさに柳眉の如くすんなりとした眉。
通る鼻筋に薄く形の良い唇。
其の双眸は常に水面に煌く月光の如くに揺らめいた、潤んだ光を浮かべている。
――美しい――
確かに、此の世の者とは思えぬ程に美しい。足元の忍びを見て、ニンマリと微笑んでいる。
だがしかし、揺れる瞳を細め薄っすらと微笑む様は、幽鬼の如く邪悪な気にまみれている。
「恐れ入りまする」
「良い良い、愛い奴じゃ。余の命を守り、顔を隠さぬとは殊勝である」
嬉しそうに目を細め艶然と微笑んでみせる。
美々しい微笑は何処までも淫らな翳りを含んでいる。
光悦の背後には、金銀紅玉散りばめた豪奢な装飾を施された大きな鏡が置いてある。
其の鏡面には、勝るとも劣らぬほどに豪奢な、金糸銀糸で彩られた大内掛けを女性のように纏う光悦の姿が映って見える。
此の鏡こそ、其の名も天下に轟く秘宝中の秘宝、【破天魔鏡】である。
「苦しゅうない、阿侘羅。面を上げて、其の醜い顔をもっと余に見せぃ」
「ははっ」
と、云われるままに顔を上げる其の姿に、ウットリと見惚れるように甘く囁きながら、大きな蛇が海練を上げて絡みつく如く視線で舐り回す。
身の毛もよだつ程に悍ましい主の仕草であっても、阿侘羅と呼ばれ嘲られる其の若者は微動だにしない。
「なんという愛らしい痣じゃ……それを見ていると心が癒される…見事よのぉ……真、汝は余にふさわしい……ほんにそなたは忍びの鏡よ……忠義者じゃのぉ……ふふふふふ」
「もったいなきお言葉」
言葉とは裏腹に、阿侘羅が応える其の声は空虚に闇に溶けてゆく。
すると、其の反応に詰まらぬとばかりに光悦の方が眉尻をぴくりとあげた。
「ふふん……那微意はどこじゃ」
気まぐれに飽きたとばかり呟く声に、嗄れた此れもまた、不気味に響く声が応える。
じんわりと暗闇の中から滲み出るように姿を現したのは、鄙びた猿の様な小柄な老人。
膿んで腐臭を放つ、顔一面の出来物を隠さんが為、常日頃、顔中を白く塗りたくっている。
数え切れぬほどの皺の間に白塗りの粉が、膿みと脂汗でめり込んでいる、不様で醜悪な小老人である。
「居りますぞ。那微意はいつも殿のお傍に居りますぞ」
「ククク……お前も変わらず醜いのぉ……其れほどまでにお前らが醜いので、余の美しさが益々際立ってしまうではないか……困った奴らじゃ……」
変わらず見難い其の老人の姿に。
そうして其れを何とか隠そうと、少しでもと、美しさに憧れる其の無様さに。
ウフフフと擽られたように燥ぐ主と裏腹に、阿侘羅は静かに顔を伏せ、床を見つめている。
一瞬、満面に笑みを讃えていた光悦の顔が、氷面の様に冷たく変わり、ボソリと冷たく呟いた。
「阿侘羅。俯くでない、顔を上げておけ」
「仰せのままに」
命ぜられ、まるで操り人形の様に顔を上げる阿侘羅、だがやはり同じく心を顔に表すこと無く、じっと虚空を見つめるだけであった。
其の姿に若干の苛つきが光悦が白磁の面を曇らすのを見て取るやいなや、隙かさず那微意が甘言甚だしく口を開く、いつも通りといえばいつも通りの展開。
「おうおう、我らが美の権化、白面公主様には、今宵もご機嫌麗しゅうて…何よりでございますなぁ……ひゃっひゃっひゃ」
醜い小老人あからさまに機嫌を取られようとも、当然のごとく受け入れ視線を向けると、幼少の頃より使える其の爺に甘え声を出して尋ねる。
「那微意よ、のぅ那微意よぉ。余も変わらずに、天上天下、生きとし生ける者の内、最も美しいかぇ?」
「もちろんでございまするっ、其の美しき事、まるで月光。煌めく銀の雫の様でございまする」
「それは……そなただけが思うておるのやも、知れぬなぁ?」
「いえいえ、それではいつもの様に、この那微意が南蛮渡来のデウスの魔鏡で占って進ぜましょう」
言うが早いか、醜い小老人は枯れ木のような指を胸の前で組み合わせると、眉間に皺を寄せ、しきりに指を組み替えて印を結びながら、魔鏡に向かって不気味な呪文を唱え始める。
「エロヒーム イッシーム。エロヒーム イッシーム。燃え盛る紅蓮の神よ、御身の炎を持ってして我に真実を与えたまえ……! 天上天下生きとし生ける者の内で最も美しいのは誰であるか!」
那微意の叫びに応える如く、鏡の内に紅蓮の炎が立ち昇って映しだされた。
巨大な鏡が、煉獄の炎の姿を映し出していながら、その一方で辺り一面には凍りつくような冷気を送り出す。
すると、今まで無表情であった阿侘羅が、瞬間、天井を見つめる其の顔を、不快そうに眉根を寄せて曇らせる。
「ふふ、ふふふ」
白面公主は、さながら恋人の便りを心待ちにする乙女の様に頬を染め、目を細めて微笑んでいる。
一瞬、もう一度燃え上がったかと思うと鏡の中の炎はぐるんと円を描き、掻き消えた。
鏡面から一つの人影が浮かび上がってくる。
「どれどれ……浮かんできよったわい……殿、やはり変わらず……ぬおっ、こ、これはっ……!」
大切な主にとって、嬉しい知らせを告げるはずの那微意が驚愕の声を上げる。
「こ、これは……なんといぅ、なんといぅことじゃ……!!」
那微意は驚き、醜い顔の…常は虚ろに闇のように澱んだ目を大きく見開き、魔鏡を指差している。
腰を抜かし、枯れ木宛らの指先を、わなわなと震わせながら。
「ん…如何いたした、何事じゃ……?」
腰を抜かした醜い老人を尻目に自身も鏡を覗く光悦の白面が、暫くじっと見つめていたかと思うと……キリキリと眦を吊り上げてゆく。
「な、なんじゃ…これは……! どういう事であるか!」
じっと顔を上げながら其の儘に、横目で鏡を見やる阿侘羅。
闇夜に強い忍びの目で瞬時に魔鏡に映し出された人物の顔を確認すると、心の中で舌打ちをする。
『ちいっ、しまった……』
――暗い天守閣に三つの影――
三人の男達が其の目で見た、禍々しい魔鏡に映った人影こそ、荷葉。
この鬼哭城の主、白面公主光悦の一人息子である。
鏡の前に仁王立ちの光悦が握りしめた其の拳から、ぽとりと紅い雫が床に落ちる。
聞こえてくるギリギリと貝を潰すような歯ぎしりの音。
腰を抜かした老人も、闇に溶け込む忍びも主が誇る美貌の顔が魔神のごとくに歪んでいることを確信していた。
張り詰めた空気の中で常日頃の生臭い声色とは打って変わった絞り出すほどに重苦しく闇を引きずりながら光悦が声を出した。
「ぐぬぅ……お~の~れ~……」
主の其の声に其の纏う怒りに小刻みに震える少老人に、空間も引き裂けよと怒鳴りつける。
「那微意ぃ! こ、此処に…映るは我が子っ……荷葉ではないか!!!」
「ひぃぃぃぃっ…さ、さようで……ござ、ござりまする……!」
尻をついたまま後ろに飛び下がり、平身低頭、頭よ床に埋まってしまえというほどに額を床に押し付ける那微意。
「こ、これは……! よもや、生きとし生けるもので一番美しいのが……」
驚き上ずる光悦の声を遮るように、魔境から重々しく声が響く……。
「……荷葉様は其の名の如く、水底の泥土のような御幼少期を終え、今まさに御年二十歳をお迎えになります……」
「泥土だとぉ? おのれ…おのれおのれ、この、腐れ鏡めがっ! 慈悲深く美しい余の加護を得て、栄華を極めた此の城での生活を泥土とほざいたな!」
憤り、鏡に向かって拳を振り上げる光悦に必死に抱きつき、諌める那微意。
「殿、お早まりなさるるな、魔鏡の言う事でございます! ええい、何をして居る阿侘羅! 殿を御諌めいたさぬか!」
叫ばれ、那微意の縋る光悦を、後ろから羽交い絞めにし、阿侘羅が諌める。
「殿、御免っ」
前からは腐臭漂う小老人に縋り付かれ、後ろからはむくつけき忍びに羽交い絞めにされ、光悦の怒りは益々燃え上がった。
声を荒げて、纏わり着く那微意を力任せに蹴り飛ばす。
「でぇぇい! こうしてくれるわ!」
「ぎゃっ!」
小柄な老人は、面白いほどにころころと部屋の隅へと転がってゆく。
其の滑稽な様に、多少溜飲が下がったのか、凍り付く程冷たい声。
「ふんっ。いい気味じゃ腐れ猿が……阿侘羅。離さぬか、不忠者め。薄汚い手で気安く余に触れるでない」
「ははっ」
主君の昂りが、哀れな老人を蹴る事で治まりかけたのを阿侘羅は鋭く感じ、戒めていた腕を解いた。
阿侘羅は知っている。
闇にまぎれて数十名の忍びが光悦を守っているのを。
阿侘羅が其の腕に少しでも力を加えようものなら、即座に彼の首は床へと転がる事になる。
「ご無礼仕りました」
仰々しく内掛けを大きく足で払い、阿侘羅へと振り向くと光悦は、何時も通りの薄気味の悪い猫撫で声で舐るように阿侘羅へ囁く。
「のう、阿侘羅……?」
「はっ」
「阿侘羅はどう思う? 余があの荷葉めに、凌がれると信じられるか?」
「その様な事、決して有り得ませぬ」
しれっと答えているものの騒騒と波打つ胸の内を悟られまいと顔を伏せ傅く阿侘羅。
「あいたたた……。百年生きた老体にになんという御無体をなさる……」
しきりに腰をさすりながら那微意も又、凄まじい勢いで考えを巡らす。
「ふん。良い気味じゃ。余の衣にひと垂れなりとも不浄な膿みをつけおったら其の首、床に転げ落ちたにのぉ……? ホホホホホ」
「くわばらくわばら…。ですが殿、魔鏡は真実のみを映すもの、ご油断めさるるな」
其の言葉に応えるが如く再び魔境より声が響く。
「……努々疑う事なかれ、暁の御子の鏡を崇め奉れ……」
「エロヒムイッシム、エロヒムイッシム……ありがたやありがたや……」
那微意は魔鏡に向かい、呪文を唱えながら手を擦り合わせている。
其の姿を眺めていた光悦は、今度は幼子の様に、哀れめかしくヘナヘナとしゃがみ込む。
「ならぬ、そんな事が有ってはならぬ…。三千大千世界の全ての生きとし生けるもので一番美しいのは余でなければ……」
ぶつぶつと呟く光悦にここぞとばかりに駆け寄り赤子を癒やすように芝居じみた慰みを始める那微意。
「おいたわしや、光悦様……貴方様が此の世に生を受けた其の時に、魔鏡が貴方の美しさと栄華を白面公主となられる事を約束したのです。それ以来、傅いて参ったこの那微意めが、きっと御守りいたしまするぞ」
拗ねたように口先を尖らせてチラリと那微意に視線を流し小さく呟く。
「如何いたすと申すのじゃ…?」
見慣れた三文芝居に阿侘羅は怖気が走る。
「なぁに事は簡単、いつもの様に……」
「いつもの様に……?」
「白面公主に仇なすモノは……」
はっと明るく声を上げる光悦に阿侘羅は戦慄する。
「余の美しさに仇なすモノは……滅してしまえば良いのであるか」
「其の通りでござりまするな」
「ふ、ふふふ……そうか…そうであったな。ふははははっ…! 阿侘羅!」
「ははっ」
「今すぐ荷葉を化野に放逐せよ」
「はっ」
命を受け、俯いて応えた阿侘羅の唇が、きつく噛み締められ血を流した事に誰一人気づく者は、居なかった。
『菖蒲様…』
――二十年前。鬼哭城菖蒲の部屋――
その昔、光悦の若かりし頃。
麗人と評判の隣国の姫を、どうしてもと望んで娶った。
菖蒲というその姫は、はじめ不躾な隣国からの申し出に嫌悪を示すものの、送られた光悦の絵姿に乙女心をかき乱され、恋慕の情を燃え上がらせる。
仕舞いには自ら望んで嫁ぐほどに。
だが、嫁いでみると、光悦の高慢、傲慢、甚だしく。
輿入れ当日からのそっけない態度。
本当に己を妻にと望まれたのかと疑うほど、冷たい仕打ちに夜な夜な枕を濡らす始末。
輿入れ前より光悦には、小姓、愛妾数知れず。
中でも、整った顔立ちに見難い痣を染み込ませた若い忍びを殊の外寵愛し、片時も傍から離さずに居るという。
そんな毎日の中で、嵐の夜、たった一度だけ、光悦が寝所を尋ねたことが在った。
雷鳴轟く深夜、稲光を背に立つ光悦の凄まじいまでの美しさに、菖蒲は気を失う。
そうして、身体に走った激痛に目を覚ますと、初めて間近に見下ろす夫の顔。
轟く雷鳴と稲光に照らし出される其の眼は大きく見開かれて冷たく自分を見下ろしていた。
美しい黒曜の瞳が雷光に黄金に光る様は正に人外。
遠方より恋に夢見て嫁いだ憐れな姫、菖蒲。
名実ともに契りを交わし、夫となった其の男の、煌めきながらも凍りつく其の禍々しい視線に再び気を失っってしまった……。
――十月十日の後――
菖蒲は、玉のように美しい男子を、此の世に産みだしたのである。
白面公主、光悦の一人息子。
荷葉の誕生である。
その後、産後の肥立ちが悪く、床に臥せって日々を過ごす菖蒲の傍らには、赤子の小さな布団が並べられている。
大きな城の小さな部屋。
母と子だけの其の部屋で、菖蒲は小さく呟く。
「阿侘羅、いますね」
「ははっ」
「光悦様のご寵愛を一身に受けるそなたであるのに……嫁いでから今まで影となり、日向となってわたくしと荷葉を助けてくれた事…感謝しております」
「菖蒲様……もったいないお言葉です」
「いいえ……一年前……求婚に贈られたあの方の絵姿を始めて見た時、その美しさにわたくしの心は躍りました。望まれて遠国より嫁しながら、夫である光悦様のお情けは、遂にそなたから離れる事は無かった……良いのです…それは詮無き事」
「光悦様のお心は、菖蒲様だけのものでございます」
「うふふ……。嘘が下手ね、阿侘羅」
「…」
「本当に良いのです。わたくしは一目見たときにあの方の魔性の美貌の虜となったのですから。たった一夜のお情けであっても、こうして荷葉を授かりました。今はただ、此の子の行く末が案じられてなりません」
「命に代えても御守り致します」
「光悦様は、恐ろしいお方です。恐ろしくて哀しいお方……義父君に毒を盛るなどと……」
「菖蒲様! 滅多な事を申されてはなりません」
「…阿侘羅…義母上様も薄々感ずいておられます。あの方は、きっと何時かは私も……」
「その様な事っ」
「無いとは言い切れないでしょう? 那微意はわたくしを嫌っております。それも良い…。ですがこの子は、荷葉だけはっ……」
「菖蒲様」
「阿侘羅、荷葉をそなたに託しても良いですか」
「…」
「荷葉が成人したあかつきには、わたしの故郷へ逃がしてやっておくれ。両親は、もう亡くなってしまっているけれど。わたくしの姉が、まだ国を護っているはず」
「二言はございません。命に代えましても」
「ありがとう……ありがとう、阿侘羅」
白い指を震わせながら拝むように手を合わせると、菖蒲は白い頬に泪を伝わせた。
――あれから二十年――
遂にこの日が来てしまった。
阿侘羅は、菖蒲の横顔を思い浮かべて再び心に誓う。
『菖蒲様…あの日の誓い。忘れては居りませぬ。荷葉様はきっと、某がお救い仕る……』
――化野――
人外魔境の荒れ野の先に、鬱蒼と木々の生える一角が有る。
茂る草花を掻き分けて進むと静かな細い川が見え、辿ってゆくと麗しい湖となり、その先に見事な瀑布があった。
荘厳な瀑布をその身に受ける滝壺は淵となっている。
水面に浮かぶ睡蓮が、日を浴びて神々しくも有る。
滝は分岐瀑でありながら二段の段瀑を成し、その姿はその淵の主の如く清浄で涼やかな乙女の美しさを見せている。
滝の内より可憐な少女の声が、人に聞こえぬ声で告げる。
「真菰様の御成りである」
瀑布の飛沫が二つに割れ、その奥より薄っすらと白い姿が現れ出でる。
凛と響く鈴のように美しい声が何処からとも無く聞こえてくる
「皆の者、大儀である」
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