三百三十七話
「やーっとコツが掴めてきたよ。膝の力を抜いて、波の動きに足の動きを任せるんだ」
「む、難しいですね……」
隣でリュエが、ゆらゆらと波に揺られながらボードの上に立つ。
その上達ぶりに、なぜ自分は上手くいかないのかと、ちょっとだけやきもちをやいてしまいます。
とはいえ、彼女の言う通り身体の力を抜いていると、確かに立っていられる時間も伸びてきました。
ゆらゆらと、膝か波にあわせて柔らかく動く。なんとなく彼女の言っている言葉の意味を身体が理解した、という事なのでしょうか?
「リュ、リュエ、こうですか? ちゃんと立てていますか?」
「上手上手! もう少し肩の力を抜いて、軽く脇を開いて……波の動きを今度は背筋でも受けるようにして……」
波の動きが自分と同化していくイメージでしょうか? 膝から太もも、腹筋、そして背筋に徐々にその動きが伝わってくる。まるで無心にでもなったかのように、ただ波に逆らわないように、心を落ち着かせ――
「おー……レイス上手! すごく安定しているよ」
「や、やりました……きゃっ」
その時、少しだけ大きな波に揺さぶられ、私は頭から海へと落ちてしまいました。
一瞬の混乱、鼻に入る水に驚き、すぐさま海底の場所を確認し、立ち上がる。
「大丈夫かい!? 大きな波が突然きたみたいだけれど」
「だ、大丈夫です……まだ練習が必要みたいですね」
一度休憩しようとリュエが提案してくれたおかげで、私も一度乱れた髪を整えつつ、普段とは違う運動をした所為で疲れていた足を休めるべく、近くのテラスへと向かいました。
見れば、あちらこちらでオープンテラスを開いているお店があり、どこも大変にぎわっているように見えます。
この盛況ぶり、もしも高波の原因を解決してしまったら、全てなくなってしまうのでしょうか? ちょっと考えさせられてしまいます。
「なんだか不思議な気分だねー……みんなエルフではあるけれど、まったく別な種族なんだって思うと。髪は真っ白なのに、肌が褐色で……でもみんな楽しそうで」
「種族に囚われていない、自由な気風を感じますね……隠れ里では見かけませんでしたが」
今思えば、あの隠れ里にいた方達、とりわけ獣人に属する方達は、今この街にいる方達よりも、より自分達のルーツ、動物に近い容姿をしていたように思う。
犬歯や瞳、尾や体毛。そういったわずかな差が、外での生活に支障を与えていたのでしょうか。
……今、リュエが言ったように、ここにはダークエルフだけでなく、多くの獣人の姿も見える。私には、里にいた人達となんら違わない、ただの特徴にしか見えないのに。
「もし、国が変わったら。みんな仲良くなれるのかな?」
「……時間はかかると思います。でも、きっと……」
普段、特にカイさんの前では見せない、悲しそうな表情。
思うところがあるのでしょう。浅からぬ因縁のあるこの大陸、そして多くの種族に。
人種や容姿が異なる人間が混在するこの場所で、彼女が何を思うのか。
……同じ言葉を話し、同じものに喜び、同じものを食べ日々を過ごす人間なのに。
不思議です、本当に……。
冷たい果物のジュースを飲みながら、ぼんやりと川と海で遊ぶ人達を眺めているうちに、いつの間にか日が傾きはじめていた事に気が付く。
本格的な波乗りに参加する人間はそこまで多い訳ではないらしく、先程まで浅瀬で遊んでいた子供や、小さなボートに乗っていた方達がいそいそと岸へと上がり始める。
それと対照的に、私達が先程購入したボードを担いだ方達が、次々に波打ち際へと移動しはじめました。
「あ、そろそろ行こうかレイス」
「そうですね。ちょっとまだ不安ですけれど……このジャケットは水に浮かぶみたいですし、大丈夫ですよね?」
「ふふ、いざという時は私が水を凍らせて助けてあげるから安心しておくれ」
「そ、それはそれで恐いのですが」
波打ち際に移動し、さぁ海に入るぞ、というその時でした。
何やらざわめきとは違う、明らかに困惑混じりの話声が聞こえてきました。
「なぁ……アレって止めた方良いんじゃないか?」
「お、俺は無理だって……なんだよあの連中、どっから来たんだよ」
男性がそそくさと、逃げるように人混みから離れていく。
なにやらその人混みの奥でトラブルが起きているらしく、時折怒声のような声も聞こえています。
「なんだろう、喧嘩かな? これだけ人が多いと仕方ないかもしれないけれど」
「そう、なんでしょうか?」
次の瞬間、それが間違いだと思い知る。
幾度となく聞いてきた、女性が身の危険に瀕した時に上げる悲鳴が私に届く。
きっと、それは身体に染みついた私の役目、義務、使命なのでしょう。
気が付けば私は人混みをかき分け、その悲鳴が聞こえた場所へと向かっていました。
「あのなぁ? そんな恰好しといてそんな態度ないだろうがよ? ここの連中みんなそうだ、俺らから見りゃ今すぐ犯してくださいって言ってるようなもんなんだよ」
「やだ……! 放して、放してよ! 誰か助けて! 人を呼んで!」
「人なら周りに沢山いるだろうが。そんで誰も助けない。そういうもんなんだよ。みんなも見たいってことだろ? なあ!? 今から見せてやるよ!」
その場所で私が見たのは、水着を奪われ胸を隠した女性でした。
どう見ても乱暴を受けているその様相。そして、襲っている男性のあまりにも身勝手な物言いに、強い怒りを覚えました。
私が嫌いな人種。女をただ、欲望を満たす為だけの道具と見る、独善的で獣欲を隠そうともしない、品性を失った獣のごとき男。
自分の着ていた上着を脱ぎ、すぐさま騒ぎの中心、女性の前へと躍り出る。
「これを着てください。さぁ、立って、早く」
「っ! ありがとうございます!」
女性がすぐさま人混みに紛れ逃げていく。
そして対峙した男の姿をようやく視界に収めた私は、逆上した様子も見せず、ただニヤニヤと浮かべる笑みに、小さくない怒りを覚えたのでした。
「拒絶されて尚、執拗に迫る。自分に女性を振り向かせる魅力がなかったのにも関わらず、欲望をぶつける。なかなかいませんよ、貴方ほど情けなくみっともない男性は」
「言うねぇ? だが、アンタなら許そう。さっきのメスより遥かに上物だ。その胸も、尻も、全部が極上だ。アンタは逃がさねぇ、すぐにでもここでおっぱじめたくなる」
「生憎、私も貴方には微塵も男性としての魅力を感じません。これで失礼したいと思いますが、もしも付きまとうようであれば……そうですね、男の尊厳を失ってもらいましょうか」
男性的、と言えば聞こえはいいのかもしれない。
目の前の男は、その身体つきも、身体的特徴も、そして風貌までもが野性味溢れる、荒々しい姿をしていました。
品性を持っていたら、もしかしたら女性がほうっておかないかもしれない。そう思う程度には男らしい容姿をしていました。
今自分に向けられている視線が酷く気持ち悪く不快です。
この街には自警団のような存在がいないのでしょうか?
このままでは、私が自ら私刑を行わなければいけない、そんな結末が脳裏を過る。
「よく吠えた。良い女だ、屈服させたくなる。そのケツにぶち込んで、泣いて謝らせたくなる。たまらねぇ、おいちょっと後ろ向いてみろよ」
背後へと振り返る。その要望に応える訳でも、逃げる為でもなく、珍しく頭に昇った血の赴くまま、その怒りをぶつける為に。
上段回し蹴り。カイさん曰く、もっとも意表を突く技。
「っ!?」
「良い足だ。鍛え抜かれた、そして美しい足。むしゃぶりたくなるぜ」
けれども、それが完全に掴まれ、そして――足を撫で上げるゴツゴツした手の感覚に、完全に私の中の理性が消える。
「触るな! 私に触れて良いのはお前じゃない!」
発動した闇魔術が相手の下腹部に当たり、瞬間的に相手の力が抜け、その隙に足を引き戻す。
けれども、本当に一瞬で再び私の足、今度は蹴り上げたわけでもない、軸足ごと持ち上げられ、逆さ吊りにされてしまった。
そんな馬鹿なと、自分の態勢を理解しつつも、相手の力量を見誤ったことに後悔の念が生まれる。
「へへ、ちょっと持ち上げさせてもらうぜ、良い水着着てるじゃねぇか、もう少しで見えそうだ」
無言で氷のナイフを生み出し、太ももに深く突き刺そうと振り下ろす。
けれども、それは皮を割くだけに留まり、想定外の事態に内心焦りが生まれる。
打開策を考えなければいけない。それも早急に。
そんな焦燥に駆られていた時でした。私の目の前、男の身体から真紅の華が咲いたのは。
「ガアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!」
振り落とされ、すぐさま距離を取り男の姿を見る。
そこには、身体からまるで花の様に四方八方へと真紅の氷が突き出た姿で、苦悶の声を上げのたうち回っている大男がいました。
これは……まさか血液を凍らせた……?
「楽に死ねると思うな、私の家族に手を出して無事でいられると考えない事だね」
「リュエ……」
まるでカイさんのような、地の底から聞こえてくるような声を上げるリュエ。
両手に剣と杖を構え、今も上空に無数の氷の剣を配置しているその姿は、カイさんが魔族の姿をしている時と比べても遜色のない、とても、とてつもなく、恐ろしい迫力を備えていました。
言葉を話す事も出来ないのか、男は棘に包まれたまま、のたうち転がりながら逃げようとする。
けれどもその瞬間、道を塞ぐように氷の剣が飛来する。
「リュエ、周囲の人間が巻き込まれてしまいます……落ち着いてください」
「分かった。レイス、大丈夫? 変な事されてない?」
「はい……だから、もう少しだけ怒りを抑えてください」
あまりにも怒りに染まった彼女を宥めていたその時でした。
一瞬の隙を突いて、男が海へと転がり落ちていきました。
海水で氷を溶かすつもりなのでしょうか……あれで即死もせず、まだ生きて動ける、それどころか周囲の様子を探っていたなんて……なんという生命力ですか。
「逃がすものか!」
「待ってください! 他の人まで凍ってしまいます」
「くっ!」
悔しそうに海を睨みつけていたその時でした。大きな地響きと共に、海が、水が、波が迫ってきてしまいました。
波乗りを楽しんでいた方達が一斉に上流へと流され、歓声が辺りを包む。
そして……つまり先程の男は、あの状態で高波に飲まれていってしまった……という事ですか。
「リュエが手を下さなくても、この街そのものに裁かれた、という事でしょうか」
「……ふぅ。直接手を下そうと思っていたけど、これで良しとしようかな」
武器を収めた彼女は、周囲に向かい『お騒がせしました』と頭を下げ、私も慌ててそれに倣う。
……本当に頭に血が上っていたみたいです、私自身。
彼女がこんなにも激情に駆られたのも、元を正せば私が先走った行動をしたから。
今度は彼女に向かい、頭を下げる。
「ごめんなさい、リュエ。私が一人で動いた所為です」
「うん。心配した。気持ちは分かるけれど、ああいう目に合う事もあるんだ。私もレイスも強い。だからこういうリスクを忘れがちなんだ。今日、改めてそれを認識したよね」
「……はい。悔しい物ですね、これは。凄く、凄く悔しい思いを、思い出しました」
かつて、私に敗北感をこれでもかと味あわせた男、アーカムを思い出す。
今日、私は慢心していた。自分ならば、困っている人間を救える。もう、弱かった私ではないのだと、自分の力を過信して行動してしまった。
……猛省です。本当に、心の底から猛省です。もう、こんな思いはしたくありません。
「……それにしても、さっきのヤツ気になるね。ほぼ即死の魔法を使ったのに逃げられた。人間相手に逃げられたのは初めてだよ」
「そ、そんな魔法なのですか……」
「心臓を破壊するつもりだったのに、身体の表面までしか届かなかったよ」
……リュエ、それはさすがにやり過ぎです。
夕暮れに染まる海を眺めながら、バンガローへの帰路に就く。
今日は波に乗れませんでしたが、この風景を見る事が出来たのなら、それはそれでよかった。そんな事を考えながら、先程の事を思い出す。
どうやら、この街には自警団がおらず、基本的に外部から訪れている『自由騎士』という人間に依頼するという形式をとっているそうだ。
つまり私達『冒険者』みたいな存在なのでしょうね、この大陸の。
海辺での一件を聞きつけてやってきたその自由騎士に、事の顛末を報告したところ、『最近同じような事件が多く、婦女暴行の被害者も多い』という話でした。
ただ、そんな状況で警備を疎かにしているはずもなく、実は今日もしっかりと警備の人間がいたという話でした。
ですが――あの騒ぎの起きた場所から少し離れた場所で、警備の人間が瀕死の状態で海に浮かんでいたという報告が入ったのです。
……警備の人間も歯牙にかけない実力者。これは大きな問題です。正義を脅かす程の力を持つ存在は、周囲にさらなる悪を芽吹かせますから……。
そういった意味では、今日のリュエの行動は大きな抑止力になったのではないでしょうか。
「あ、ダリアだ。何か買い物してるみたい」
バンガローまで残り僅かというところで、海辺のお土産屋さんで買い物をしているダリアさんを見つけたリュエ。
どうやら海産物を取り扱っているようですが……まさかまたお酒のおつまみでも買い漁っているのでしょうか?
彼女はよく、夜にこっそり自分のアイテムボックスから取り出したおつまみを食べながら、お酒を一人で飲んでいるのですが……健康に悪いと思うのです、毎日だとさすがに。
私もお店で働いていた時代には、毎日飲んでいましたが……娘達にお客様を任せるようになってからは、三日に一度くらいまで頻度を落としたものです。
「ダリアー、何買ってるのー? 美味しい物かい?」
「ん、なんだ二人とも早かったな。川上りは諦めたのか?」
「ええ、そうなんです。じつは――」
大事そうに包み紙を抱えた彼女に、先程川で起きた事件のあらましを伝える。
するとリュエが、私が危うい目にあった事を興奮した様子で語り始めました。
すると――
「……何事もなかったからいいものの……その話、カイヴォンには黙っとくと良い。下手したら今から川を丸ごと崩壊させかねん」
「たしかに……川底全部吹き飛ばして死体を見つけるまで怒りそう」
「うむ。という訳で二人はこれからも気を付けるように。レイスは確かに強いが、この大陸には俺やシュンに次いで強いヤツが何人かいる。ヴィオも勿論強いが、それより上も数人いるんだ」
「では、もしかしたら先程の男は……」
「ふぅむ、どんなヤツだった?」
私が覚えているのは、身体が大きな男という事のみ。髪の色は夕焼けの所為で赤っぽく見えていましたが、茶色なのか赤なのか、それとも金なのかしらはっきりしません。
それを伝えると、少しだけ考え込んだ後に『エルダインの人間かもしれないな』と彼女は言いました。
「ま、次に会う事があればその時こそ本当の終わりだ。気にするのは止めて休日を堪能すると良い。折角最高の宿を取ったんだ。カイヴォンなんかもう完全にだらけきっているぞ」
「なんだか珍しいねぇ。そんなにこの街が気に入ったんだ」
「んむ。前の世界にいた頃から、こういう場所、ああいう宿に憧れていたんだよ。あんなことがなけりゃ旅行にだって――」
「あんなことってどんなことだい?」
「っ……いや、ちょっとな。旅行の予定がつぶれただけだ」
そこまで言いかけて口を噤むダリアさん。
その様子に少しだけ胸がもやもやとしてしまいます。
カイさんがあまり語らない前の世界でのこと。それを彼女は深く知っているのでしょう。
……気にはなります。ですが、人の過去を詮索するのは――良い女である条件から外れてしまいますから。
私は、そうあり続けたい。かつて多くの人が、私を飾る為に手を尽くしたと言います。
ならば、私はそれに相応しい人であろう。そう、誓ったのですから。
「ところで、何を買ったんですか? またおつまみですか?」
「そう、そうなんだよ! ちょっと珍しいものが手に入ってな! カイヴォンに自慢するんだ」
「むむ、私にも一口おくれよ? いろんなものを食べてみたいんだ私は」
「ふふ、私も気になりますね。では戻りましょうか、バンガローに」
不思議と、自分の事を考えさせられる一日でした。
では戻りましょう、カイさんが思わずだらけ切ってしまう、そんな彼の理想の宿へ。
「カイくんただいま――って……」
「……あ、おかえりー」
「あの、何をしているんですか?」
「海底を眺めているんだ。凄いぞ、全く飽きないんだこれ……風が涼しくて、波の音も聞こえる。もうこのまま眠ってしまいたい」
バンガローに戻ると、カイさんが透明な床にうつ伏せに寝転がったまま、まるで今にも眠りそうな声でぼんやりと答える。
本当に珍しいですね……ちょっといつもより子供っぽいというかなんというか。
「私も見る! カイくん横にずれておくれ」
「ほいほい。ほら、今丁度ヒトデが横断中だ」
「……お前戻ってからずっとそうしているが、なにかやることはないのか?」
「明日な明日……お、エビだエビ」
先程の事もあり、私も今日は少しだけ彼の傍にいたいからと、海底を眺めるという言い訳の元、彼の背中に手を回しながら隣に寝そべる。
すると、お昼に私達が見ていた時よりも幾分暗くなった海底に、宿の照明が差しこみ、幻想的な様子が広がっていました。
大きな海老が、何かを探すように歩き回り、時折小さな魚の群れが横切る。
まるで、私自身が海の中に入り込んでしまったかのような没入感に、確かに時間を忘れ、いつまでもこうしていたいという気持ちが理解できました。
「素敵ですね、カイさん」
そっと、彼の背中に回した腕を這わせる。確かめるように。そして自分が触れ、そして触れて良いのはこの人だけなのだと再確認するように。
「……レイス、なにかあったのかい?」
「いいえ、特には。ただ、幸せだなと再確認しただけです」
「それは良かった。俺も、夢が叶って幸せだよ。それも大切な人が二人もいるんだ。幸せ過ぎて罰があたってしまいそうさ」
少しだけ、トロンとした瞳で優し気に彼が微笑む。それは、本当に珍しい表情でした。
……まだ、知らない顔がある。それがなんだか嬉しくて、つい、強く身体を触る。
……まだ、先があるんですね。貴方の内面には。そして――私が歩むべき道には。
……まだまだ、強くなろう。彼が安心して私を愛せるように――
「いやぁ堪能した……って、レイスさんどこ触ってるんですかね?」
「あ、申し訳ありませんつい。なんだか程よく硬くて触り心地がよかったもので」
「む、カイくんのお尻はそんなに触り心地がいいのかい? どれどれ?」
「やめなされ。さて、二人とも戻ってきたし、今日の晩御飯どうしようか?」
ようやく魔性の海から魂を解放された俺は、戻ってきていた三人にその話題を振る。
先程どこかに出かけていたダリアも戻ってきているのだし、どこかに食べに行くのもアリだとは思うのだが、ロケーション的に海鮮バーベキューとしゃれ込みたいという思いもある。
すると、なにやら手に荷物を持ったダリアがその中身を取り出しながら――
「カイヴォン、コイツでパスタ作ってくれよ! カラスミだぜこれ? たぶんそうだ」
「“ボッタルガ”じゃないか! 売っていたのか? 高かったんじゃないのか?」
「ん? カラスミじゃないのか? 結構お手頃価格だったんだが……」
「ボラじゃなくて、魚卵の塩漬け全般の呼び名だ。ここの気候的に地中海に似ているし、あってもおかしくはないが……お手頃価格で手に入るのか、それ」
ダリアが取り出したのは、オレンジがかったべっこう色の塊だった。
それだけでなく、黄色味の強い物や、やや褐色の物まで。
恐らく魚種が違うであろうその魚卵の塩漬け達の姿に、こちらもつい唾を飲む。
「ボッタルガ……かなり上質ですね。色艶と良い処理の仕方と良い……ここが産地だったのですね」
「レイスのお店でも提供していたのかい?」
「はい。最高級のオードブルとして提供していましたが……ダリアさん、おいくらでしたか?」
「ん? この塊三つで三〇〇〇ルクスだな。一つ一律一〇〇〇だったよ」
その瞬間、レイスの表情が凍り付き、そして何か使命感に似たような表情に移り変わったのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
……きっと後で大量にストックするつもりですね? いつかお土産として持っていくのだろう。
「むーん……そんな塊がそんなに美味しいのかい? カチカチだし、なんだか不気味だよ」
「リュエ助、こいつはワインに最高に合うんだぞ。大根……ラディッシュなんかと一緒に食べると良い」
懐疑的なリュエ。なるほど、これは是が非でも食べさせてあげなければ。
そうして、今晩の食事はどうなるか、あっという間に決まりましたとさ。
バンガローには火を使えるようにとテラスに場所が用意されており、そこにキャンプ道具一式を設置する。
とはいえ、パスタやカラスミを使ったおつまみはすぐに出来てしまうので、今はお腹がすくまで少しだけこの場所から釣りを楽しんでいるのだが。
今回は珍しく、レイスと一緒にダリアが釣りをしていた。
日本にいた頃、時折俺と一緒に釣りに出かけていた事を思い出し、なんだか懐かしい気持ちになる。
いやぁ……実は俺よりダリアの釣果が良いなんて事も多々あったんだよなぁ。
そして俺は何をしているのかというと……引き続き海底を眺めているのだった。
とはいえ、これは先程までとは違い、食材探しもかねていたりする。
先程見たロブスターに似たエビ、折角なので新鮮なうちに調理してやろうと思った訳だ。
「ダリア、レイス。釣れたら海に沈めたカゴにいれておいてね」
「おうよ。まぁ見てろって、俺の腕はなまっちゃいないって事を証明してやる」
「ふふ、負けませんよ。シーバスでしたっけ……あれを狙ってルアーを投げたんです」
「ははは、期待しているよ。こっちもエビを見つけるからなー」
そうして再び海底を見つめていると、ふと気が付いた。先程までダリアとレイスの後ろで応援していたリュエの姿がどこにもない事に。
一体どこに行ったのだろうと辺りを見回していたその時。ふいに海底を何かが横切ったような気がした。
まさかエイあたりでも迷い込んできたのだろうかと、再び海底を見つめる。
だがその瞬間――
「うわあ!!!!!!!!」
大きな影が現れ、透明床を覆い隠す。驚き仰け反りながらも、その正体へと向かう。
コツコツと床を叩いてくるその正体は――
「リュエ……驚かせないでくれ……どうやってそこに入ったんだ?」
『下から普通に入れたよー。満ち潮になるとここの隙間消えちゃうから、今のうちにって』
背泳ぎでぷかぷかと漂うリュエさんでした。危ないので早く戻ってきてください。
「ただいま。お昼はもっと水が低かったんだけど、今はギリギリだったよ」
「満潮時には海中に床が入り込むのかな。そうしたら、もっとはっきり海底を見られるはずだよ」
「おお、それは楽しみだね。じゃあ引き続きエビ探し頑張っておくれ」
「リュエの所為で逃げちゃったかもしれないけどね?」
「えー、もともといなかったよー?」
なんだと……餌でも仕込んでおくべきか。でも俺が持っているのは海老団子、同族だからなぁ……。
諦めてなるものかとダメ元で団子を放り込み、再び海底をのぞき込んでいると、今度はダリアが声をあげる。
「うお! カイヴォンなんか釣れた! これ、これなんて魚だ!?」
ダリアが抱えるようにして持ってきたのは、特徴的なフォルムの銀色の魚。
シイラと呼ばれる、シーバス同様ルアーフィッシングで人気の魚だ。
なお、レイスがとても悔しそうな表情をダリアに向けていますが……さすがに年期が違うんだ、頑張ってくれレイス。負けるなレイス。
「シイラだな。基本加熱して食べるが……どれ、まだ生きているならすぐに捌いてやる」
「シイラか、名前は知ってるな。どれ、早速料理してくれ」
こいつ、鮮度が良いと刺身でもイケるのだ。早速出してある野外キッチンに置き、捌き始める。
「このくらい大きいと捌くのも楽で良いな」
「ほー、相変わらず手早いな」
頭を殴って気絶させ、鱗を取り内蔵を取り出す。
三枚におろそうと思ったが、今回は二枚で十分だろう。残りはアイテムボックスへ。
そうして、あっという間に切り身となったシイラに、レモンと醤油を軽くふりかけてやる。
「ほい。もともとさっぱりした身だけど、さらにあっさりとさせてみたぞ」
「ほー……見た目はカンパチみたいだな。口の中で簡単にほぐれる」
いつの間にかワインを取り出したリュエもそれをつまみ、美味しそうにワインを煽る。
すると、こちらをチラチラと見ながら必死に竿を動かしているレイスが、悔しそうな声で――
「わ、私の分も残しておいてくださいね……今、別なお魚を釣りますから……それと交換です」
「わはは。釣れなくても分けるから安心したまえレイス君。どれ、じゃあ俺ももう一つ釣ってやろうではないか」
ダリア、あまり煽るんじゃありません。彼女は中々負けず嫌いなところがあるんです。
だが無情にもなんら当たりはなかったのか、平穏無事にラインを巻き終えてルアーを回収してしまっていた。
すると今度は、やけになったのかルアーをバンガローの下、先程リュエが潜り込んだ場所にむかって器用に投げ込んだレイス。
が、やはり建物の柱や足、土台にルアーがひっかかってしまったのだろう。
ビンッと糸が張ってしまい、一向に巻き取れなくなってしまったのだった。
「……わ、悪かったレイス。お詫びに俺が外してくるから、すこし糸を緩めてくれ」
「わかりました……なにかいるかもしれないと思ったのですが……」
服の下に着こんでいたのか、ウェットスーツのような水着姿になったダリアが海に飛び込む。
糸を辿り建物の下へと、小さな身体を生かして潜り込んで行ったのだが――
「レイス! 糸巻け! なんかいる! 魚、でかいのがかかってる!」
そんな叫びが建物の下から響いてきたのだった。
もしや、先程俺が投げ込んだ海老団子に誘われてきたのだろうかと、透明床から様子を探る。
日が沈み、暗い水の中は良く見えないのだが、リュエが急いで光魔法でそこを照らす。
すると、まるで『ぬーん』という擬音が聞こえてきそうな、のっぺりとした表情の大きな魚が、口にルアーをひっかけたまま、建物の柱と柱の間に挟まっていたのだった。
「うわ! 気持ち悪い! カイくんこれなんていう魚だい?」
「これは……たぶんだけどアカマンボウ……かな? シイラもそうなんだけど、本来温かい海にいるんだ。けれど今はリュエが沖に氷の壁を作っただろ? それで温かい岸の方に逃げて来たのかもしれないな」
「あー……お魚に悪い事しちゃったかな……」
「いや、お陰で美味しいごはんにありつけるんだ、お手柄だよ」
「ええ……これ食べるのかい? のっぺりとしてて、平べったくて、模様も気味が悪いよ」
確かに一般的な魚とはちょいと毛色の違う姿をしていますがね、この魚にはある秘密があるのですよ。
さぁ、頑張れレイス。この魚を釣り上げたら、君にとってこのうえないお楽しみが待っているぞ。