三百十九話
鶏肉と言っても、この世界においての鶏肉はむしろ『鳥肉』だ。
どんな種類の鳥の肉なのか、どの部位なのかを見極めるのは困難であり、そして調理法も何が一番その食材に合うのか見極めるのも難しい――というのがレイスの弁だ。
まぁ、俺もレイスもアイテムボックスに収納することで食材の詳細を知ることが出来るので、他の人間よりかはその難易度が下がってくれるのだが。
「カイさん、これはたしか以前使った事がある食材ですよ」
「む、どうやらそのようだね」
『悲壮鳥フォレス』
『その外見から捕食され続け絶滅の危機に瀕している希少な魔物』
『元々は豊穣を司る神の使いとして崇められていたが、ある時誤って暖炉に飛び込んでしまい、以来特別な日に振る舞われるようになってしまった』
まるで七面鳥のような、まるまるとした丸鶏である。本当の意味で丸鶏である。
今回は照り焼きなのでささっと解体していきましょう。
「内蔵の鮮度も全部そのままっていうのは嬉しいなぁ」
「鶏の解体まで出来るんですね、カイさん。私はいつもお肉屋さんでお願いしていました」
「まぁ俺も滅多に解体はしないけどね」
半分に切断し、足を外し、更にモモ肉を骨から外していく。
鶏っていいよね、骨からもいい出汁が出るし、骨の一部は軟骨として美味しく頂ける。
そして内蔵も砂肝、ハツ、レバーと食べられる部位も多いし、尾の付け根はぼんじりにもなる。
ううむ、そう考えると随分とお買い得なんじゃないか、丸鶏って。
「カイくーん、魚、この間里で燻製にしなかった分の魚でいいよね?」
「それでOKだよ。あと、炭は少し多めに火を起こしておいてくれないかい?」
「了解了解」
リュエはリュエで、手早く魚の内蔵を取り出し、丁寧に鱗をとっているところだった。
レイスや里長のように料理が得意な人間を間近で見ているから感覚にズレが生じているのかもしれないが、リュエだって長い間一人で暮らしてきた関係か、食材の取扱そのものは十分に行えるのだ。
ただそれが最終的に塩焼きかスープで煮た物になってしまうだけで。
まぁ今回は彼女の得意料理である魚の塩焼きなので、安心して任せられるというわけだ。
……たぶん俺よりも経験豊富だと思いますし。
「なんで三人共そんな手際良いんだよ。俺だけ見てるだけってのはなかなか居づらいぞ」
「じゃあ計量カップで調味料はかっておいてくれよ。ほら、酒とみりんと醤油、そこにメモがあるからその通りにな。まだ混ぜ合わせないように」
「よし、任された」
そうこうしているうちに鶏の解体完了。今回はモモ肉以外再収納だ。
さて、じゃあ今度は肉の厚さが均等になるように切り開いていきましょう。
元がまるまる太った鶏だからか、その厚さは相当なもの。今回は三羽分だが、二羽でもよかったくらいだ。
そして切り開いた鶏肉を、分量外の醤油を使い、表面を軽く洗うようにしてハケで隅々まで塗っていき、一◯分放置した後に水で洗い流す。
一種の臭み取りだが、この肉の鮮度なら必要なかったかもしれないな。
「完全に日が落ちたけど、結構明るいな」
「そりゃこんだけ星も出ている上に、辺りで俺達みたいに野営している人間ばかりだしな」
「へー! この大陸でこんな風に夜空を眺める事なんてなかったけれど、結界の関係か少しぼやけて、なんだか不思議な光り方をしているね」
「本当ですね、なんだか先程のランプのように幻想的です」
手を止め、空を見上げる。確かにまるで曇りガラスを通したようなぼやけた淡い輝きが、どこか幻想的だ。
……ふむ、以前見上げた時はこんなんじゃなかったような。
「共和国側は結界が厚いんだよ。封印の起点を多く配置している関係で」
「お前まで俺の思考を読むな」
「けけけ。ほら、調味料計り終えたぞ。これが照り焼きになるんだな」
「ここに砂糖を加えたらな。まぁそれは最後の最後だ」
「お砂糖を使うのかい? やっぱりちょっと想像出来ないなぁ私は」
そうこうしているうちにリュエはもう魚の焼きに入っている。
ならばこちらも急がねばと、彼女が用意してくれた炭をコンロに並べる。
さて、後もう少しだ。
ジュワジュワと酒とみりんからアルコールが湯気と共に蒸発していく。
そこに砂糖を加えて煮溶かし、最後に醤油を加え、少しだけ煮詰めていく。
香ばしくもどこか甘い、馴染み深い香りの立ち上がりに、おそらく今の俺と同じ表情をしているであろうダリアが色めきだつ。
鶏肉は既に炭火で焼かれ始め、表面がうっすらと白んできている。
水分が表面に集まり、脂と共に炭火へと落ちる度、どこか心地のいいジュウという音が、香ばしい香りと共に周囲へと広がる。
「そろそろ塗り始めるか」
「待ってました! な、なあどうする、パンか、白米か!?」
「気が早いって。そうだな、今回はこの辺りの食文化にならって、トルティーヤ風に巻いて食べるか。もし可能ならレタスでも刻んでおいてくれ」
「そんな高等テクを俺に求めるなよ……やってみよう」
働かざるもの食うべからず。レタスくらい刻んでみせなされ。
そうして、ハケでタレを塗っては焼き、ひっくり返しては塗り、を繰り返してく。
次第に、飴色に変わっていく肉肌と、焦げ目がついていく皮に、ついつい喉を鳴らす。
以前も出店を開き体験した訳だが、こうして醤油が焦げる香りというのは、想像以上に遠くまでその芳醇な香りを飛ばし、あの時も集客に役立ってくれた。
それは、どうやらこの場所でも同じだったらしく、このどこか嗅ぎ慣れない香りに周囲の人間もまた興味をしめしているようだった。
「いい匂いだねカイくん。お肉もいい色だ。これがそのテリヤキかい?」
「そうだよ。俺の国の代表的な味付けだね」
「カイくんの国……無理だとは分かっているけれど、行ってみたいなぁ」
「ははは、そんなに憧れるような国……いや、世界でもないよ」
もちろん良いところも沢山あるのだがね?
が、少なくとも俺はこの世界の方が自由に生きていける分、素敵に思えるのだ。
さて、じゃあリュエさんにはもう一つお仕事を任せてみましょうか。
「リュエ、マヨネーズを作ってくれるかい? もう一人で作れるだろう?」
「うん? マヨネーズなら沢山ストックがあるよ? ほら」
すると虚空から白い液体の入った瓶を取り出してみせた。
リュエのバッグはここでは使えないはず……つまりアイテムボックスにストックしていたと?
「ふふふ、いつでもタルタルソースが作れるように私のアイテムボックスには材料が沢山いれてあるのさ」
「なんと便利な。じゃあ、そのマヨネーズを少しわけておくれ」
「いいとも。じゃあ私は魚の様子を見てくるね」
トトトと去っていく彼女が、好物を溜め込み、自由に動き回るハムスターに見えました。
リュエハムさん……可愛いかもしれない。
そういえば、元祖ハムさんこと太陽娘ちゃんはあれからどうしたのだろうか。
俺達が乗っていたあの船、たぶんセミフィナルと往復する船だよな。
さすがに降りてどこかへ向かったと思うのだが。
「案外港町で働いていたりしてな」
そんな想像をしつつ、再びお肉をひっくり返す。
うむ、いい感じだ。そろそろ良いだろう。
俺の代わりにとうもろこし生地を焼いているレイスの様子を伺う。
が、そこに彼女の姿はない。既に皿の上には大量の生地が焼き上げられ重ねられているのだが――
「そう、そう、上手です。良いですか、左手は軽く握ってください。力は入れなくていいですからね」
「お、おう」
「包丁の持ち方はそれで良いですからね。刃を斜め前に、すべらせるようにして切るんです」
「ああ……なんだ、結構簡単じゃないか」
「剣を使うんですから、包丁だって使えるはずなんです。これからもお手伝いしていけば、もっと上手になれますよ」
「そういうもんかねぇ……よし出来た。千切りレタスだ」
「ふふ、なかなかの細さです。じゃあこれは冷水で軽く洗って、水分を切っておきましょう」
お母さんと娘にしか見えん。
さて、じゃあこっちも最後の仕上げだ。この出来たて焼き立ての照り焼きチキンを一口大に切り分ける。
そしてリュエから頂いたマヨネーズは、生のコショウを刻んだ物とマスタードと混ぜ合わせ、小さな器によそっておく。
そしてレイスの焼いた生地に、今しがた水分を切り終えたレタス、切ったチキン、煮詰めたテリヤキソース、スパイシーなマヨネーズを乗せてくるくると巻き上げれば――
「完成。照り焼きチキンロール」
さて、じゃあ早速一口といきたいところだが、皆の分も巻いてしまわなければ。
そうしてどんどん皿の上に積み重なっていくロールを見ていると、まるで木材置き場の丸太のように見えてくる。
想定より沢山出来てしまったが、これはアイテムボックスにしまえばいいだろう。
「カイくん魚焼けたよー! この魚、焼くと随分おいしいねぇ」
するとその時、串に刺さった魚をかじりながらリュエがやってきた。
ニジマスに似たオレンジの身を美味しそうに頬張る姿は、やはりハムスターを幻視させる。
「その魚は俺も好きだよ。塩焼きにしても美味しいよなぁやっぱり」
「うん、最高だね。はい、カイくんも一本どうぞ」
「こらこら、皿にのせてみんな揃ってから食べないと。一人だけ先に食べるなんて」
「いやぁついつい。うーん美味しい」
彼女も皿に焼き魚を盛り付け、野外用のテーブルへと運ぶ。
ダリアは既に椅子に座り、こちらのロールに熱い視線を向け、レイスはなにやらポットを冷やしているところのようだ。
「今、レモンとハーブを使ったお茶を入れていたんです。よく冷やしておきましたよ」
「ありがとう、レイス。さぁ、座ろうか」
星空の下、四人で食卓を囲む。
テーブルの上には料理だけでなく、おそらくダリアの持ち物であろう、あのランプが置かれていた。
ゆらゆらと揺れる光の水面が、テーブルと料理をやさしく照らす。
香ばしい魚の香りと、テリヤキロールの甘じょっぱい香りに期待を寄せる皆の表情も、一緒に照らし出される。
「さて、じゃあちょっとアレンジしたけれど、これが俺とダリアの暮らしていた国の味付けなんだ。ちょっと甘めで驚くかもしれないけれど、是非食べてみてくれ」
「はい、楽しみです。では手で失礼して……」
「じゃあいただきまーす」
「ヒャア我慢出来ねぇ! いただくぜぇ!」
「世紀末に帰れ」
ああ、久しぶりの甘みと香ばしさを兼ね備えたあの魅惑の照り焼きを楽しめる。
両手で掴み、生地の隙間から見える美しい飴色の肉と、鮮やかなレタスの緑。
辛さを想像させてくれる粒を内包した、黄色みがかったマヨネーズ。
食べずとも味を想像出来てしまうあまりにも馴染み深いその姿だが、それでも口は開くのを止めてくれず、そのまま――
「あむ……」
しまった、いただきますを言い忘れてしまった。
少し固めに焼かれた生地が、かすかに残るパリっとした食感と共にその味を解き放つ。
ああ、良かった。甘すぎず、しっかりと照り焼きの味だ。
ダリア程ではないにしても、やはり懐かしいと感じてしまう。
思えばアギダルでも和食に似た物は食べたが、そこにこういう甘しょっぱい物はなかったっけ。
「むぐむぐ……」
炭火の香りはどうしてこうも食欲をそそるのか。
鶏の脂とこの甘いタレの組み合わせが、とうもろこし生地ともよく合っている。
ライスもパンもいけるが、トルティーヤでもいけるじゃないか。
濃い目の味付けがレタスにも合うし、マヨネーズに含ませたピリリとしたアクセントにも負けていない。
んむ、満点を与えましょう。
「ず、随分と幸せそうに食べていますね」
「あ……ごめんみんなも食べておくれ。自信作だ」
「ほう、お前が自分でそう言うとは相当だな。じゃあ俺も早速」
どうやらこちらのリアクションに皆の手が止まってしまっていたようだ。
さて、では今度は皆さんのリアクションを観察させていただこう。
ああ美味い。止まらん。マヨ無し版も頂こう。
「むああああああああ! ほれだ! ほの味だ!」
「食いながら喋るんじゃない。まぁ、そんくらい美味いだろ?」
「最高、超最高! うああ……涙出て来る」
「これは……前にオショーユで作ったソースより甘いね! 不思議だ……なんでこんなに美味しいんだろうこれ」
「確かにこの味付けは……美味しいです、凄く……」
皆、頬を膨らませながら見惚れるような笑みを浮かべる。
ダリアだけはさらに涙を流しながら。
ああ、美味いだろ? 俺だってこれは美味いと思った。
それに、どうやらリュエとレイスにも受け入れられたようだ。
「私にとってオショーユはそれなりに近い場所にある調味料でしたが……まさかこんな味になるなんて」
「甘くてしょっぱいってこういう事なんだね。へぇ~……もう一つおくれ」
「相変わらずうめぇなぁ……これがタダで食えるってんだから凄いわ」
「ははは、今回はダリアも手伝っただろ?」
「まぁな。しかし美味いな……あ、こっちの魚もくれ」
釣られるように、俺もまたリュエお得意の焼き魚を頂く。
ううむ……尾びれや胸ビレが焦げないように化粧塩もしっかりしてあるし、火加減が素晴らしいな。
たぶん俺でもここまで上手に作れないぞ。
「んむんむ……うまいな! これ鮭か?」
「いや、ニジマスの仲間だと思う。ほら、俺達三人が小舟で釣っていたヤツだよ」
「ああ、あの時の……えー、俺の国の川にこんな美味い魚泳いでいたのかよ」
「なんかそっちの国って海の幸ばっかり人気で川魚の評価が低かったぞ?」
「ううむ、なんでだろうなぁ」
うまうま。皮がパリっと身はふっくらジューシー。
そうだなぁ、塩漬けにして売りに出してもいいんじゃないか? 塩ジャケ美味いよね。
「もう一匹頂こう。ダリア、今日は少しだけ飲むか」
「いいね、焼き魚で一杯やるか」
久しぶりに一献。
普段晩酌はしないのだが、今日はちょっと特別だ。
初めての野営地。四人での料理。そして、故郷の味。
飲みたくもなるさ。それに、こんなに美味しい魚もあるのだから。
「そんな風に美味しそうに食べてもらえると嬉しいよカイくん」
「ふふ、リュエの焼き魚は本当に美味しいですもんね。私も真似出来ません」
「ふふふ、照れてしまうよ」
夜が、更けていく。
四人で杯を傾けながら。
「いやぁ食った食った! カイヴォンまじでありがとうな!」
「どういたしまして。久しぶりに俺も楽しめたよ」
「しっかし、どうするよこんなにあまって。どんだけ作ったんだ」
「それがな、ロールにすると肉の消費が抑えられて、全部使おうと思ったらこんなになっちまったんだ」
食事を終え後片付けをしているのだが、視線の先には山積みの照り焼きロール。
これからしばらく昼食はこいつになりそうだ。
まぁ、リュエもレイスも気に入ってくれたようだし問題はないのだが。
そんな事を考えていた時だった。片付けをしていたリュエが駆け寄ってきた。
「カイくん、お客さんだよ」
「俺に客?」
「うん。というより、さっき料理をしていた人を呼んでくれないかって」
ほほう、先程に匂いに釣られた人間だろうか?
早速その来客元へと向かうと、テーブルに乗せたままのロールを凝視している一人の若い男がいた。
こら、人の物をそんな風に物欲しそうに見るんじゃありません。
「こら、人の物をそんな風に物欲しそうに見るんじゃありません」
「は! 失礼しました、この料理を作った方でしょうか?」
しまった、思ったことそのまんま口にしてしまった。
「ええ、そうですが。どうしましたか? 買い取りたいのでしたらお譲りしますよ。一つ三◯◯ルクス程でどうです?」
「おや案外リーズナブル……ではなくてですね、いえもちろん一つ頂きますけれど」
「はいまいど。で、どうしたんですか」
「むぐ……なんと美味! やはり醤油で間違いありませんね!」
やや大げさな動きで驚いてみせる男が、そのままスッと目を細めこちらを見据える。
隠そうともしない、何か狙っているかのような表情に一瞬たじろぐ、
なんだお兄さん。もっと寄越せって?
「これに使っている調味料、醤油があるのでしたら是非とも買い取らせて頂きたいのですが、いかがです? ワインボトル一本で四万ルクスまで支払うつもりです」
「ああ、なるほど調味料目的でしたか。ではお断りします」
「んな……相場の一◯倍ですよ!?」
「いやぁ、それこそなかなか手に入らない物なので、この先の旅でも使っていきたいんですよ。申し訳ありませんね」
「く……でしたら六万でどうですか!」
残念。金額の問題ではないのです。別段お金にも困っていないので。
「ぐ……どうしても、ダメですか」
「どうしてもダメです。ふむ、おいダーちゃんちょっと来てくれ」
「ん? なんだそんな呼び方して――ああ、なるほど。で、どうしたよ」
この男、見たところエルフのようだしダリアの名は伏せておいた方が良いだろう。
そしてこの大陸の流通にもある程度通じているであろうダリアに、この男が持ちかけた話を聞かせてやる。
「ん? 醤油なら一応この大陸にも流通してるだろ? そんな法外な金額提示しなくても手に入るんじゃないか?」
「そ、それでは間に合わ……いえ、その」
「ふむ……正直に話したら、このお兄さんも協力してくれるかもしれんぞ?」
「ぐ……そう、ですか」
これこれちびっこ。勝手に話を進めるでない。
これはエンドレシアで購入した大事な調味料なんだぞ、貴重品なんだぞ?
リュエのバッグが機能していない以上、今アイテムボックスにある分がなくなったら終わりだと言うのに。
「実は……私は今日、ミササギ領から引き返して来た身でして……」
すると男性がぽつりぽつりと事情を話し始めた。
先程買い取りたいと言っていた事から察していたのだが、彼は行商人だそうだ。
ミササギ領に商品を売りにむかったのだが、そこで追い返されてしまったそうだ。
「おかしいな、あの領がそんな排他的な真似をするとは思えないが」
「いえ、なにも無条件に追い返している訳ではないのです。どうやら、近々元代表の生誕祭を開くそうで、その準備期間中は制限を行っているそうなのです」
「ん? それがどうして醤油に関係するんですか?」
「実は、領内で求めている品を持っている商人は中に入れるようでして……色々種類はあるのですが、私が手を出せる物が醤油くらいしかなく……」
ふむ……どうやら俺達の目的地でもなにやら事件が起きそうな予感がする。
知らずに向かっていたら、もしかしたら引き返す羽目になっていたかもしれない、と。
「……良いでしょう、ワインボトル一本分でしたらお譲りします。価格は相場の三割増し程度で問題ありませんよ」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、これで破産せずに済みます!」
どうやらミササギで売るためにだいぶ背伸びをした商材を仕入れていた模様。
いやはや、もしかしたら首くくっていたかもしれないな。渡してよかった。
最後にもう二つ、六◯◯ルクスと引き換えにロールを手渡し彼を見送る。
いや、案外照り焼きってこの世界の住人にも受け入れられるんですね?
「生誕祭……そんな催しあったかねぇ?」
「覚えていないとかじゃなくて、知らないのか?」
「ああ、実はミササギには長期滞在していた時期もあったんだが、聞いたことが無い」
「ふむ」
……なんだか『特別』な事が続いているような気がする。
解放者の召喚に、生誕祭。何か関わりがあるのだろうか――?
耳に、水が流れる感覚。くすぐったいような、気持ち悪いような。
空洞に空気が流れ込むような、妙に反響するその音が酷く不快で、私は目をさらに強く瞑る。
暑いのに、冷たいような。一度気がつくと、全身のあらゆる不快感が私の脳を刺激する。
そして――
『――るはむ! ――じまうはむ、早く起きるはむ!』
小さな子供の声。可愛い子供の声。そして小さな手に触れられている感覚。
これは、不快じゃない。これは、夢なのだろうか。
「起きるはむ! こさいればまだ溺れちまうはむ!」
「え? 東北弁? え、何、ここどこ」
「やっと目覚めだはむ……ここ、もうすぐおっきいお船が来て、水がザパー! ってなるはむ。早く逃げるはむ」
聞き慣れた言葉のイントネーションに一気に意識を覚醒させる。
……不快なはずだ。全身の服が水に濡れ身体に張り付いている。
起き上がると、頬についていた砂がパラパラと落ちていく。
辺りを見回せば、どうやらここは砂浜。けれども塩っ辛いような味は口の中に残っておらず、少なくとも海岸ではないという事は分かる。
目の前には、少し汚れたワンピースを着た、そしてボサボサに破けた麦わら帽子を被った可愛い女の子がいる。
この子の言うことが本当なら、私は命を救われた事になるのだろうか――
「ねぇ、ここがどこか貴女は分かる?」
「わがらねはむ……はむここに連れてこられただけだからわがらねはむ」
「連れてこられ……?」
彼女が首を見せつけるように上を向くと、そこには重そうな鉄の首輪がはめられていた。
その事に、私は小さくない衝撃を受ける。
そうか、この世界では奴隷が存在しているんだ……こんなに小さい子供なのに。
「この首輪とご飯を上げるから、ついておいでって言われたはむ。ちょっと恐いけどご飯くれるから悪い人じゃないはむ」
何も知らない子供を売り物にしようとしているのだろうか。
見たところ、着替えも用意してもらっていないようだし、その待遇はあまり良いものではなさそうだ。
どうしようか。嫌な言い方だけれど、この子の持ち主から少し情報を得るべき、だろうか。
身の危険は感じる。けれども、私はこれでも受けた恩はしっかり返す方だ。
……大丈夫、力はある。もしもの時は――