二百九十七話
ゆっくりと彼女が歩み出す。
先代国王の元へと、一歩、また一歩と。
「ああ、さぞや恨んでいるのだろうね。ならばその凶刃の犠牲になるべきは僕なのだろう。さぁ、どうか僕一人の犠牲でこの国を諦めてくれないかい、先生」
何がおかしいのか、薄ら笑いを浮かべる青年。
まるで喜劇でも演じているかのような口調で、煽るように、周囲に聞こえるように青年は語り続ける。
だが――リュエは、そんな彼に目もくれずその横を素通りしてしまった。
それが予想外だったのだろう。フェンネルと呼ばれた青年は、まるで分からないと、理解が及ばないとでも言いたげな間の抜けた表情をし、リュエを視線で追いかける。
「ああ、やはりそうなんだね先生。僕だけでは満足出来ないと、彼等を、王族を根絶やしに、ブライトを根絶やしにしたいと!」
彼女の手には、未だ淡い緑の光が優しげに宿っている。
それがなんなのか、きっと彼には理解できないのだろう。
俺だって、それの本質は分からない。だが少なくとも害意がないことくらい、理解出来る。
怯える国王、そしてその家族の前に、シーリスが躍り出る。
剣を抜き放ち、その切っ先を可哀想なほどに震えさせながらも、強く強くリュエを睨みつけながら立ちはだかる。
「止まりなさい、魔女。我らの故郷であるべき森だけでなく、この地をも脅かすつもりか」
「……いいや、そんな事はしないよ」
そっと手を伸ばし、震えを治めてあげるかのように、その切っ先を指で摘む。
その一摘みで、剣の支配権を奪われたのか、狼狽えるようにして剣を手放し後ずさるシーリス。
「……思うところはあるけれど、君も、同じだろうからね」
「やめろ……私はまだ――」
触れる。通り際に、その緑光が彼女の首筋へと触れる。
瞬く間に広がりを見せる、その得体の知れない現象に、魔女という存在への先入観もあってか、酷く狼狽え、涙すら浮かべながらフェンネルへと駆け寄る。
「フェンネル様! わ、私は、どうなってしまうのですか!」
「これは……先生、そんな事をしても無駄だよ」
「きっかけになれば、それでいいさ」
光の正体に気がついたのか、気持ち不機嫌そうにリュエに言葉をかけるフェンネル。
それでもリュエは歩みを止めず、王とその娘、孫へとたどり着く。
「止めてください……どうか、子供達だけは……」
アークライト卿の時と同じように、まるで今から自分達の命が奪われるかのような反応をしめし、命乞いのような言葉を紡ぐのは、国王の妻であろう妙齢の女性。
「……恐がらせてしまってごめんよ。何も、酷い事はしないから」
「やだ! あっちに行け!」
そして、正確な年齢は分からないが、見た目五才かそこらの小さな子供にまで心ない言葉を浴びせられるリュエが、酷く可哀想で。
何も言わずただ佇んでいたダリアまでもが、申し訳無さそうな表情を浮かべていて。
それでもリュエは、めげずに自分のするべき事を遂行しようと、その手を上へかざす。
手から離れた優しげな光が、ゆっくりと王族達へと降り注ぐ。
恐れや不安、形のない悪意、呪いを打ち破ってくれる、免疫のような魔力。
それが、吸い込まれるようにして一同の身体に広がっていく。
「ああ、なるほどね。みんな、この魔女は、僕達を恨んでいる。森を手に入れたのに、支配すべき人が残らなかったからね。その呪いは後で僕が解呪してあげよう」
先程から、しきりに挑発するような言動を繰り返すこの男の真意が掴めない。
シュンやダリアが動かない今、こちらの戦力が既にそちらを上回っている事くらい推し量ることも出来るはずなのに、何故そうも強気でいられるのか、それが分からない。
「……フェンネル君」
「なんだい、先生」
目的を達成出来たのか、リュエが震える王族から離れ、改めてフェンネルの前に立つ。
その表情、出で立ち、身にまとう空気に鳥肌が立つ。
恐怖ではなく、歓喜からくるそれ。
全身の毛が逆立つような、血がたぎるような、こちらを鼓舞するかのような彼女の姿に『ああ、彼女はもう、この男のどんな言葉にも揺るがない。この先の未来でどんな障害が待ち受けていようとも、正面から切り伏せるのだろう』という、希望の未来を幻視した。
「私は、君の事ですら恨んでいない。いいかい? 私は、ブライトの一族も、それに従った一族も、誰も彼も恨んでなんていないんだ。ただ、心配だっただけなんだ」
「へぇ、随分と寛大な言葉だね。騙されて、契約を結ばされて。ある日目覚めたら、物好きなリヒト以外が里からいなくなって、戻ってくると約束した僕にも見捨てられて、それでも許すって?」
「最初の十年くらいは期待もしていたけれど、すぐに思い直したよ。なにせ――君が語った言葉だったからね。教え子にこんな事は言いたくないのだけれど――」
彼女の身体が、一回り、いや二回り以上大きくなったような気がした。
「君は邪悪だ。初めて私の元を訪れた時、私は君の中に悪を見出した。それでも、ひたむきなその姿に期待してしまったから。そうだね、それがたぶん、私の一番の過ちだったのだろうね」
それは、俺が知る限り、始めてリュエが自分から『誰かを見放した』瞬間だったのかもしれない。
悪だと、かつて自分の教えを授け、そして今『恨んでいない』とすら言った相手を悪だと断じたという事実に、少なからずこちらも衝撃を受ける。
けれども、やはりフェンネルは動じた様子も見せずに、おかしそうな、ニヤつくような表情を浮かべるのみだった。
隣のレイスが、まるで汚物でも見るかのような、軽蔑の眼差しを向けている。
これも、初めて見る表情だった。ここまで嫌悪するとなると、彼女もまた何か感じるものがあったのだろう。
「……カイさん。あの方は、異常です。私は、自分を潔白な人間だとは思っていません。ですが、この場にいると自分が汚れてしまうような、そんな悪寒を感じます」
「気に入らない人間であるのはこっちも同意するよ」
侮蔑の色を匂わせる言葉を吐き出す彼女を、少しだけ下がらせる。
見えない何かが彼女を汚してしまうような気がして。
「酷い言われようだね。けれどもまぁ、魔女からすればそうなんだろうね。邪悪な魔女を騙し封じた以上、恨み言を言われるのは当たり前だ。それで――僕を殺すのかい?」
「誰が殺すものか。恨んでもいない相手を、ただ悪だからと私の推量で罰する訳がないだろう? ただ――」
するとその時、ずっと震えていた王族達が、不思議そうな表情を浮かべながら顔を上げる。
そこにはもう恐怖の色はない。ただ、困惑気味にリュエへと視線を向けていた。
そして――フェンネルの表情がようやく変化する。
忌々しそうに、アテが外れたように。そして――何故かこちらへと視線を向けた。
「もう一度言うよ。私は確かに君達に騙されはした。けれども――私は! 一度たりとも君達を恨んだ事なんてない!」
今度は後ろにいる王族に語るかのように、語調を強めながら。
強く、強く言葉を浴びせていく。
俺にはそれが、その後姿が、泣き叫んでいるように見えた。
悔しくて、でも憎めなくて。
行き場を失った怒りを、自分に向けているように見えて。
「何度も叫んだ。何度だって後悔した。自分を痛めつけもした。自分を粗末にもした。絶望で頭が埋め尽くされて、全部壊してやろうと何度も思った」
彼女の独白は続く。それは、恐らくきっと、千年の間に積もりに積もった心の澱。
その余りの痛ましさに、胸が痛み、熱を持つ。
「愛されたいと、抱きしめられたいと、誰かに心配してもらいたいと、声をかけて欲しいと何度も思った」
次第に、彼女の声が大きく、玉座の間に響き渡る程になり――
「何度も逃げ出そうとしたけど、その度に私の中の私が止めるんだ。心のなかで何度も喧嘩した、妄想だと分かっていてもその子に依存した」
それは、自分の歪みを、壊れた心を認める言葉で――
「我に返ってまた絶望して、現実を受け入れられなくて何度も喚き散らした。けど誰もそんな私すら見なかった」
孤独への嘆き。誰かに見て欲しかったという渇望。
「無意味な殺戮だってした、何度も自分を呪った、あんな決断をした自分を殺してやろうと何度も何度も何度も!」
壊れた心に従った罪の歴史。そして、それでも憎しみを自分にだけに向けた彼女。
常人では絶対に選べない選択――負の感情を、一切他人に向けないという選択を選んだ彼女に畏怖すら覚える。
「だけど! だけど私は!」
そして、彼女は三度宣言した。
それが自分の誇りだとでも言うように。
「私は君達をこれっぽっちも恨んじゃいない!!!! 馬鹿にするな!!!!!」
その宣言は、フェンネルの表情を歪め、そして――王族達を動かした。
彼女の叫びを、告白を、恐ろしい魔女の戯言とは思わなかったのだろう。
彼等の中から一人、代表と呼ぶには余りにも幼い、一人の女の子が、少しだけおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。
子供の予想外の動きに、母親が思わず手を伸ばすも、国王がその手を遮り、ゆっくりと首を振る。
その小さな子供は、未だ険悪な空気を漂わせる二人の間に平然と割り込んできた。
「魔女さんは、魔女さんじゃないの?」
「……そうだね、私は自分の事を魔女と名乗った事は今日まではなかったよ」
「もう一度、お名前を教えて?」
そこに恐れの感情はなく、ただ好奇心だけが、そして無垢な思いだけが残っていて。
リュエは膝を折り、子供の顔をまっすぐ見つめる。
今どんな表情を浮かべているのか、俺にはわからないけれど。
けれども、少女がそれを知らせてくれる。
「泣かないで、お姉ちゃん」
「……ああ、そうだね。お姉ちゃんの名前はね、リュエって言うんだ。私の一番好きな人がつけてくれた、大事な、大事な名前だよ」
震える声で名前を告げた彼女に、女の子がそっと手を伸ばす。
まるで、泣いている妹をあやすような、ぎこちないけれども、とびっきりの慈しみが込められた動き。
……そして、ゆっくりと女の子は母親の元へと戻っていった。
「……君は、きっと良くない事を考えているんだろうね。ここで、私が君に手を出せば、それはきっと君の何か良くない企みを加速させる。そんな気がするよ」
「……」
既に、男から表情は消えていた。
ただ無言で、ゾクリとするような冷たい目を向けていた。
もう、興味を失ったと。なにも期待はしていないとでも言いたげな。
「……そういえば、先生の従者。カイヴォンと言ったかい?」
「従者じゃないよ。私の一番大切な人だよ」
「……それで、君は――許せるのかい? 君を大切だと言ってくれた先生を、僕は貶め、そしてこれからも魔女と呼び、蔑み続けるつもりだけれども」
急激に話を振られる。だが、きっとこちらへ向けた何か思考誘導にも似た術も、この男の企みの一部なのだろうと、その挑発を――逆手に取る。
――煽りってのはこうするんだよ、三流役者が。
「あ、ごめん聞いてなかった。君声小さすぎない? もっとはっきり喋ってくれないか」
「っ! 分かった、もう良いよ。ただ……このまま無事に済むと思っているのかい?」
効果は今ひとつ……いや、そこそこ効いたのだろうか。
気持ち大きな声で、凄むようにその言葉を口にする。
「王族へ謎の術式での暴行。謁見は許可されたみたいだけれど、そんな暴挙を許して覚えはないよ。ダリア、シュン、君達も何をしているんだい? 独断で王族を招集して、こんな身元の分からない人間を放っておくなんて」
「急に饒舌になったな。どうした、そんなに慌てて。懐かしの先生が、いやもしかしたら憧れでも抱いていたのかね、その先生が見知らぬ男と一緒でヤキモチでも焼いたのかね?」「……シュン、その男を捉えろ。これは命令だ」
どうやら地雷を踏み抜いたみたいだ。
完全に感情を消した声でシュンへと命令を飛ばす。
そして、やはりシュンはこの国、いやこの男に尽くすつもりなのか、複雑な表情と共に剣を構える。
だが――もう、俺を縛るモノが存在しない以上――
「悪いが、もうお前には万に一つも勝ち目はねぇよ」
常人よりも遥かに早い幻影がこちらに迫る姿が、一瞬だけ目に映る。
その軌道上に剣を伸ばし、そしてほぼ同時に衝突したシュンの剣を掴み取る。
お前は厄介だが、剣さえ使わせなければどうとでもなると、もう学んだ。
そして、アビリティの力が発揮されている以上――基礎スペックが違うんだよ。
「……そもそも、嫌々従っているヤツの攻撃なんか恐くもなんともないんだよ」
「……お前に何が分かる」
「分かりたくはないね。勝手に悩んでろ」
剣を収め、自分では太刀打ちできないとアピールするかのように両腕を上げ、引き下がるシュン。
粘るだけ無駄だと理解しているのか、はたまたあくまで命令を聞いただけ、もう十分義務は果たしたとでも言いたいのか。
ひとまず諦めたような表情をフェンネルへと向ける。
「……認めよう。先生達を捕らえるのは難しいみたいだね。ただ――この先も無事でいられるとは思わない事だね。いつか、必ず報いを受けてもらうよ」
「その言葉、そっくり君に返すよ。何か企んでいるのは分かったんだ。絶対に君の願いは阻止してみせるよ。何を考えているにしても、きっとロクなことじゃない」
気負いなく、ただ余裕を以って語りながら、リュエが隣へと戻ってくる。
どこか晴れ晴れとしたその顔は、なんだか――
「いいかい? 君の企みは絶対に頓挫する。悪いことは言わないから、黙って国のために、みんなの幸せのために動くのをおすすめするけれど……たぶん無理だろうね?」
「……」
「私達はここから出るけれど、もしまだ邪魔をするのなら……うん、私じゃなくて、カイくんが黙っていないよ?」
自信満々に、まるで当然だとでも言うように、リュエが全幅の信頼を寄せてくるのが誇らしくて。
だからつい、こちらもその気になってしまう。
ああ、邪魔をするならば、幾らでも相手になってやろうとも。
「ただ強い人間に、そこまで信頼を寄せるなんて……随分と腑抜けてしまったみたいだね」
「ふふん、君は分かっていないね。『ただ強い』たったそれだけで、時には万の策も術も上回る事だってあるんだよ」
「どういう意味だい、先生」
「教えてあげないよ。ただ、これだけは知っておいておくれ」
もう、この相手と会話をするつもりがないかのように。
もはやリュエは、フェンネルを見ていなかった。
まるで『久しぶりに見るかのように』隣に立ち、こちらを見上げている。
……ああ、もう良いんだね。もう、ここで悩む必要はないと、苦しむ理由も、悲しむ理由もないんだね。
国はまだ変わらない。けれども、種は蒔けたから、と。
そして、きっと彼女にはもう、少し先の未来が見え始めているのだろう。
俺には分からない。けれども、時折彼女は物事の本質を見抜き、幸福な未来を誰よりも先に思い描いてみせるのだ。
だから、もう迷わないと、苦しむ必要が無いと、心がそう判断を下したのだろう。
「私のカイくんは最強なんだ。きっと、君の企みも全て、カイくんが砕いてくれる」
「……久しぶりに心の底から気分を害されたよ。やはり無事に出すのは止めだ」
リュエの言葉に、ついに堪忍袋の尾が切れたのか、フェンネルが無造作に右腕を振るう。
するとその時、見えない何かがこちらに迫ってくる気配を感じた。
だが――そんな事を言われてしまっては、もうお兄さんちょっと張り切るしかないじゃないですか。
ダリアすまん。こいつは正当防衛だ、大目に見てくれ。
剣を素早く取り出し、その勢いのまま大きく振り上げる。
まるで、向かってくる見えないボールを場外向けてかっ飛ばすかのように、大きく、全力で、精一杯。
何かが剣に触れた気がした。
けれども、それがどうした。そのまま振り抜き、そしてその勢いのまま――
「ちょ!!! カイヴォンてめぇ! やりすぎだ!」
見えない何かを、弾き飛ばす。
ははは、残念こいつはフライだ。ホームランとはいかなかったか。
玉座の間の天井に大穴を穿ち、城のはるか上空へと消える剣圧を見送りながら、さすがに表情を引きつらせたフェンネルへと剣を向ける。
「正当防衛だ。黙って帰ってやるって言ってんだ、大人しくしとけ」
「……悪い、フェンネル。今回ばかりは俺もこいつの意見に賛成だ。黙って帰らせてやれ」
「……右に同じく。修繕費がかさむのは勘弁してもらいたい」
ここにきて、ようやくダリア、シュン、俺の三人の意思が合致する。
遅いんだよ、もうちっと早くこっちの味方になりやがれ。
さすがにこの場をこれ以上荒らされるのは困ると判断したのか、フェンネルもまた、忌々しそうに舌打ちをし、静かに玉座の裏へと戻っていく。
……ところでその玉座の裏って、どっかに繋がっていたりするんですかね?
出てくる時もその裏だったね? なにかこだわりでもあるのだろうか。
フェンネルの姿が消えた事で、ようやく場に満ちた緊張感が緩む。
それを見計らったかのように、今度は静かに落ち着き払った声色でダリアが語り始めた。
「……国王陛下、そして皆さん。まだ混乱する事も多いとは思いますが、一先ず落ち着いてください。これは、あくまで先代、フェンネルが引き起こした争いです。皆さんが不安がることも、心配する事もありません」
先程の攻撃で、せっかく顔を上げた王族が再び恐怖の表情を浮かべてしまっているが、どうやらそれは俺に対してのもののようだった。
ダリアがとりなすと、目に見えて安堵の表情を浮かべる。
そして、すかさずダリアがこちらへと振り向き――
「……王城への破壊行為だが、あれは激情に駆られた先代の攻撃から身を守ろうとしたのだと、ここにいる全員が理解している。とはいえ――やりすぎだ。追求は免れないと思ったほうが良い」
「やっぱそうなるか。けどまぁ――その前に逃げちまえば良いって話だよな?」
悪い笑みを浮かべたヤツが、意味ありげに語る。
その笑みの意味を正しく理解し、こちらもその準備をする。
「騒ぎを聞きつけた騎士連中が来る前に逃げとけ。後でこっちから会いに行く」
「あいよ」
ゆっくりと開く玉座の間の扉へと、早足で向かう。
そしてもう一度振り返り、今も苦虫を噛み潰したような顔をしているシュンに向き直る。
「シュン。納得出来ないならまた今度戦ってやる。今度はそっちも手加減すんなよ。なんだよその剣、追加効果はあっても攻撃力がぜんぜん低いんじゃないのか?」
「言ってろ。お前みたいな人間には分からんよ、大人の事情ってヤツは」
「おお嫌だ嫌だジジ臭い」
きっと俺もリュエも、根本的な問題は何も解決出来ていないのだろう。
けれども、今は引こう。そちらが引いたように、こちらもこの場を去ろう。
種は撒いた。そして、俺とシュンとダリアが、一時的にとは言え再会出来たのだ。
ここから、きっと何かが変わる。そんな予感と共に、今はこの場所を、この国を去ると決意する。
「んじゃあ、また近いうちに遊びに来るわ。じゃあな」
扉の隙間をくぐるようにして廊下へと躍り出て、そのまま近くの窓枠に足を掛ける。
やはり巨木が城を飲み込んでいるかのような、ほぼ植物で構成されているだけはあり、足場となる起伏はたっぷりとある。
すでに大勢の足音が廊下の向こうから響いてきている。時間の猶予はもうなさそうだ。
「リュエ、レイス。ここから降りるけど大丈夫かい?」
「は、はい!」
「私が氷の滑り台を作ってあげるよ。この高さならそうだね……街のあの辺りまで届くんじゃないかな? 建物も多いし隠れやすそうだ」
そう言ってリュエが指差した方角には、少し前まで俺が活動していた飲食街があった。
夜空に出来上がる氷の架け橋に足を乗せ、一気に滑り降りる。
まるで空を滑るかのような感覚に、つい楽しいと感じてしまう。
問題は山積みだ。けれども、今この瞬間だけはそんな感情も全て吹き飛んでしまう。
ああ、それでいい。行き当たりばったりで良いじゃないか。
こいつはぶらり旅。本当なら難しい事なんて考えるべきじゃないのだから。
「ほとぼりが冷めたらアークライト卿のところに挨拶にいかないと、な」
「……まだ街を観光する訳にはいかないよね、やっぱり」
「そうですね。今は……逃げましょう? いつも真正面から戦ってばかりですし、ね?」
「まぁ、逃げたのは本当にこっちなのか微妙なラインではあるがね」
リュエは言った。フェンネルは何かを企てていると。
その詳細は分からないが、少なくとも近いうちに、もう一度あの男とはぶつかる事になるのだろう。
なら、今は少しだけ休戦としよう。さすがに、こっちも疲れてしまった。
恐らく向こうも、こちらの存在に、そしてリュエのとった行動に、なんらかの予定を狂わされたはず。
ならば、今回はここで痛み分けとしてやろうじゃないか。
……痛み分けと言いつつこちらが失った物が無いような気もするが。
だが、少なくともはっきりした事がいくつかある。
そしてリュエもまた、何か掴んだのだろう。
まるで未来の敵を見定めたかのように、夜空に輝く星々を強く見つめていた。
さぁ、『久しぶりに』沢山話そうか、リュエ。
夜空の中、眼下に無数の煌めきを見下ろしながら、前を行く彼女を見つめる。
……おかえり、リュエ。そして――今日までありがとう。