ハロウ
休日の昼下がり。空の淵からぶら下がった銀色の氷柱が仲間からはぐれた雲を引っ掛けていた。随分前に色が変わってしまったらしい畳は、僕が来た時には既に茶色く焼けていた。ポスターの跡や家具が置かれていたと思われる日焼けの後が残る壁に、薄い天井で出来た部屋は築54年のアパートの二階、家賃3万8千円の角部屋だった。階段から一番離れているお蔭で階段を上ってくる足音や、両隣の住人の生活音に悩まされるという事も無い。強いて言えば、隣りの二部屋で火事が起きた場合、飛び降りなければいけないという事くらいだ。
「なーにをしている?」
仰向けに寝転がって窓から逆さまの風景を眺めていた僕の視界が遮られた。いきなり暗い場所に入った時のブラックアウト状態でその顔を見上げたまま言う。
「ちょっと退いてくれよ。今僕は電波を受信して体内時計を合わせてるんだから」
適当な事を言いながら手をヒラヒラと振ると、目を丸くして目の前にいる僕に向かって元気いっぱいの、若干タガが外れている声で叫ぶように言う。
「おお!あの鉄の塔にはそういう役割もあるのかあ~」
顔を上げたので見えている部分が顔面から顎に変わった。
「無駄に高いだけの送信装置では無かったのだな」
「当たり前だろう?」
人間がテレビを見る為だけにわざわざ雲よりも高い電波塔なんか建てると思う?僕はそう言いながら寝返りを打って仰向けになった。氷柱が天空を貫く柱に変わる。
「ちょっとは見直しました?」
僕の問いに、畳に膝をついて窓の外に上半身を乗り出していた異人さんは振り返るとニヤリと笑う。
「いや、まだまだ」
不意に風が部屋の中に吹き込んで来て、遥か遠くから来た宇宙人の髪を靡かせた。
先日の事。第二土曜で高校が休みだったので、目を覚ましたのは11時を過ぎた頃だった。殆ど空腹に起こされたような状態で寝癖のまま財布と携帯、部屋の鍵を持って徒歩5分のコンビニを目指していた。途中で通りかかった公園には、土曜日の昼間、しかも真夏というだけあって外で遊ぶ子供の姿は皆無で、蝉も鳴いていない。あまりの暑さに影を通ろうと普段から人気の少ない路地へ曲がった時だった。
僕は驚いて小さく悲鳴を上げた。地面に人が倒れていた。見るからに行き倒れましたという状態で、バッタリ倒れている。右手の人差し指だけが少し曲がった状態で伸びていて、ダイニングメッセージを書く途中で息絶えたのだろうと本気で考えた。
「と、取り敢えず救急車!」
慌ててポケットから買ったモノの殆ど使っていないスマートホンを取りだそうとしたところ、ポケットから勢いよく飛び出して僕の手の上を飛び跳ねた後、あろうことか床に横たわっている人物の頭に直撃した。
「イタッ!…」
人が声を発するのは当然なのに、その時の僕は先ほどよりも驚いて叫んだ。
「うわっ!喋った!」
その人は頭を抑えながら寝起きの呂律が危うい声で言った。
「喋っちゃいけないのか?」
四つん這いの姿勢になってからスッと立ち上がったので思わず身を引いた。
ようやく思考が落ち着いて来たところで、それが女の子である事に気付いた。小学校低学年くらいで、肩の白い所から徐々に水色のグラデーションになっているワンピースを着ている。紺色の瞳は深い海のようだった。呆然と見とれていると、不意に女の子が言う。
「せっかく気持ちよく眠っていたのに…」
女の子は不機嫌そうにムスッとした顔で言うと、大きな欠伸を右手のパーで受け止めた。
特に身体に異常は無さそうだと安心したと同時に傍迷惑なその子に僕は年上として注意する。
「びっくりするじゃないか!大体こんなところで寝たら危ないだろう?」
「なにが危ないのだ?」
もっともな疑問の様に尋ねられて、僕は呆れて溜め息が出た。
「誘拐されたらどうするんだよ?それにこの暑さじゃ熱中症になるかもしれないし」
その心配はない。女の子はあっさりそう言うと、クルリと回れ右をして薄暗い路地の奥へ歩き出した。
「そんなこと言って、手遅れになってからじゃ遅いんだぞ?」
軽視していると痛い目に合うのだ。それは年上の人間として言い聞かせる義務がある…というよりも軽くあしらわれて少し不機嫌になったところも無いわけではなかった、気がする。
女の子は踏み出しかけた足を止めて再びクルリと振り返った。
「なぜそんなことを言うのだ?大丈夫だと言っているだろうに」
だから、と水掛け論に発展しそうになったところで、女の子の口から聞き流せないワードが飛び出した。
「わたしは宇宙人なのだ。正確には惑星の中で最も支配的立場に当たる生命体に紛れてその知能や技術を探る為の偵察機なのだ」
突然そんな事を言われて思わず生返事を返してしまった。
「…はあ?」馬鹿にされたと思って言い返そうと思ったけれど、そこで冷静になって目の前にいるのが女の子だと改めて思い直した。一応子供の発言なので、取り敢えず付き合ってみることにした。
「あっそ、で?どこの星から来たの?」
「敵にもなりかねない他の星の生命体に素性を明かすわけが無いじゃないか?」
さっき思いっきり自己紹介してたのはどこの誰だったのだろう?相変わらずの横柄な態度に僕はつい揚げ足を取ってみる。
「さっき偵察機って言ってなかったっけ?」
「い、言ってないぞ?我々がそもそも5000年前に星を捨てて思考パターンと性格データを搭載した機械で新天地を探して漂流しているとか言ってないからな!」
中々有体な設定のSF話だなあと思った。
「それで?この星は新天地としてはどう?」
「酸素濃度がやや高いが、まあ住めなくはないだろう」
「それは良かった。じゃあ移住するの?ちゃんと許可取りなよ?パスポートとか住民票とか」
「移住にはまだ詳細な情報が必要だ。たかだか細菌一つで5000年を掛けてやってきた我々が滅亡する事態など、笑い話にもならない」
「細菌って…」
「この星で危惧すべき脅威はそれ以外には無いではないか?」
この子は自分自身の存在を忘れているんだろうか?僕は自分自身を指さして言った。
「人間って言う知的生命体が居るじゃないか?」
「化石燃料に依存する、免疫力の極端に低い生命体など敵では無い」
バッサリ切り捨てられた。子供相手だというのに、また少し不機嫌になってしまう。
「太陽光発電とかなら偉いって言うのかよ?」
「偉いとかいう話なのか?」
なんだかこっちが子供みたいでちょっと惨めになる。
「いや、違うけど…」
「この星にいる人間すべてを集めたところで、そこに居る虫、アリだったか?それの総数と重さは変わらないのだ」
「そうなの?」
反射的に聞きかえしてしまった。きっと根拠も何もない話に決まっている。足元のブロック塀とアスファルトの隙間からせっせと出入りしているクロアリに向かった視線を女の子に戻す。
「だ、だからなんだよ?」
「人間も生き物に過ぎないのだ。もっと言えば虫の方が数億年も前から陸上を支配していたのだぞ?」
「それは知ってるよ」
ドラえもんが載っている小学生向けの図鑑で見た気がする…。
「では、慎ましくすることだ。別に侵略しようなどとは思っていない。ま、わたしはただの偵察機だから情報収集が終われば消滅するだけだ」
消滅とは、また大仰な言葉を使う。ていうか、
「そんなにベラベラ喋っちゃって言いの?」
「あっ!まさかすべては敵の内情を知るための策略だったのか?!」
なわけあるか。
「その通りだ。思い知ったか宇宙人め!」
これで少しはアタフタしてくれるかと思ったけれど、僕の予想に反して女の子ははあ…。と溜め息を吐いた。
「まあ、特に弊害にはならないだろうからいい」
「なんだよそれ!」
僕が項垂れていると、女の子は少し歩いて路地の角を曲がった。
せめてじゃあねとかさよならとかは無いのかよ?と思いながら追いかけると、三度僕は悲鳴を上げた。
「だから路上で寝るなって!」
その後、じゃあ涼しい所を教えろと言われて、コンビニへ連れて行くことにした。というかついて来たと言った方が正しいけど。
「おおー!これは快適」
自動ドアをじろじろ眺めてから冷気で満たされた室内に素直な感想を述べた。
「しかし、電気で強引に冷やしているな。余り当たっていると体調を崩すぞ?」
さっき僕の忠告を無視したのは誰だっけ?
昼を少し過ぎてしまっていたので目ぼしい弁当の棚は閑散としていた。仕方なくサンドイッチとコロッケパンを持ってレジへ向かう。冷蔵庫からコーラを取りだして一度扉を閉めてから少し考えて、ついでにスポーツドリンクに手を掛けた。
カップ麺の成分表示を読み込んでいた女の子をこのままおいて行こうかと思ったけど、一応レジの方から声をかけてみた。気づかなければちょっと無責任だけど、店員さんに任せよう。
「健康を害する物ばかり入れて、摂食というのは栄養補給では無いのか?」
カップ麺は決して健康を害する食事ではありません。
「そればっかり食べてたら栄養が偏るっていう言い方に変更できます?」
女の子にスポーツドリンクを差し出して何か聞かれる前にコンビニを出た。
「おまえは不思議だ」
スポーツドリンクのペットボトルをラッパ飲みして半分ほどを空にした後、ポツリと言った。
「なにが?」
公園のベンチ、クスノキの木陰になっている場所に座って昼食代わりのサンドイッチを食べながら聞く。
「いや、外見が同種の幼体であるから、庇護本能という物なのか…」
「庇護本能って…せめて優しいって言ってくれません?」
「しかし、それでも解せない。同種の幼体であれば見境なく庇護するのか?」
「見境なくって言うか、放っておけないっていうか?」
本当はただの罪滅ぼしみたいなものなんだ。とは言えなかったし、思いたくも無かった。
「そうか、やさしいのか…」
女の子は僕の昼食のメインだったはずのコロッケパンを頬張り、スポーツドリンクでそれを流し込んだ。
いつになったら家に帰るのかと思っていたけれど、流石に暑さに参ってきて家に帰る事にしたけど、半円型の多目的遊具の中に入って行こうとしたので、「家に帰れよ」というと「だから家なんかない」と帰ってきてそこからはまた不毛な水掛け論になり、結局僕は彼女を部屋に招くことになった。
扇風機しかない家に連れて来たけれど、意味があったのかな?
扇風機の首の動きに合わせて畳に手を付いてペタンと座った状態のまま右に左について行く女の子に、僕は暗くなったら警察に電話するかしないとななどと考えていた。その前に、飽きたら帰るんだろうけど。
「なあ、家族が心配してないか?」
「んあ?わたしの活動期間は1週間だ。期限が来れば消える」
因みに今日が最終日だっ!どうだと言わんばかりに胸を張ったけれどただ少し背中が反っただけだった。
「真剣に聞いてるんだからちゃんと答えろよ」
扇風機の首を止めてやると、扇風機と真正面から向き合う形になり、髪が風に靡いて声が揺れる。
「わたしは真剣だ!で、真剣とはなんだ?」
流石にこの設定に付き合うのも面倒になってきた。
「…。えっと、冗談とかを言わないで、伝えたい事をちゃんと言うとか聞くとか、そういう事?」
我乍らどういうことだよ?と突っ込みたくなった。
「なるほど。だとしたら、わたしは終始真剣にお話していたぞ?」
「あっそ」
流石に警察に預けるのは大事になりそうだし最後の手段だ。ていうか、これって傍から見れば誘拐犯の構図なんじゃ…。背筋を冷や汗が伝って顔から血の気が引いて来た時、不意に女の子の震える声がした。
「というか、お前こそ家族はどうした?それともひとり立ちの時期なのか?」
「いや…、ひとり立ちって言うか、一人暮らしっていうだけだけど」
「なぜ庇護される立場なのに親元から離れているのだ?」
「そ、それは…」
扇風機が部屋の空気を叩く音だけの静寂が流れた。
「色々あるんだよ」
僕の表情が変わっていたのか、女の子が不思議そうにこちらを眺めていた。
「なるほど、いろいろあるのだなあ…。で、いろいろとはなんだ?」
ここ数年、両親とはほとんど口を利いていなかった。中学に上がる頃から少しずつ両親の言葉にどこか苛立ちや不満を感じる様になった。家族団らんの空気が何故か居心地が悪く感じる様になった。「学校はどうだ?」という父の問いにも、「別に」と視線も合わせずに答えるくらいで、自分から発言する事は無くなって、家族全員での夕食時、僕は黙って食事を取って、そそくさと自分の部屋に戻る。そんな風にして僕と家族との距離は離れて行った。
地元から離れた都心の高校を進路に選んだのも、単純に制約の無い場所で一人暮らしがしたかったという幼稚な理由だった。それでも毎日の様に母親からは電話が掛ってきて。その時も僕の返事は「別に」だった。
だから、母が突然倒れたという知らせによって、ようやく電話で父の声を聞くことになった。
幸い軽い眩暈とのことだったが、過労と心労による物という事で1日ほど入院した。病室に駆けこんだ僕は普段通りの母の姿に安堵したけれど、病院の外にある中庭で煙草を吸っていた父の言葉に再び僕は苛立ちを覚えた。
「母さんをあまり心配させるな。母さんとぐらいは、ちゃんと話をしろ」
まるで僕の所為で母が倒れた様な言い方に苛立って「僕の所為だって言うのかよ?」と自分でも驚くほどどの大声が出た。それからは責任のなすりつけ合いの様な喧嘩にもならない口論の末、僕は病院を後にした。それ以来実家には気まずくて顔を出していない。
母は僕に気を使っているのか、最近は殆ど電話をかけてこなくなった。
憂鬱な気分を紛らわせるために、窓の外を眺めている女の子にさっきの話の続きでもしてもらう事にした。
「さっき言ってた消滅ってどういう意味?」
窓から見える巨大な電波塔を眺めていた女の子は振り返ると窓の縁に腰かけた。
「消滅というのは消えてなくなるという意味だ」
そもそもこの体は地上に存在する成分を合成して作られている。だから氷が解けるみたいに自然に返るのだ。女の子はワンピースの胸のあたりを少し引っ張りながら言う。体の中心に向かって放射状の皺が寄る。
「徹底してエコなんだ。ていうか、じゃあなんで滅んだんだよ?」
「無くしてから気づくものがあるという事だ。無くさなければ気づかない事もある」
女の子は達観した教訓めいた言葉を言った。
「まあ、お前たちにもそのうち分かるだろう」
偉そうに腕を組み、踏ん反り返った女の子に、僕は注意する。
「というか、年上に対してその口調ってどうなんだよ?」
「わたしは宇宙人だからそもそも人間の年功序列とは無縁なのだ」
あっそ。僕は筋金入りの演技力に脱帽して畳の上に仰向けになった。ウンザリしたのではなく、暑さで参っているだけだったけど。
話が終わると同時に、女の子は再び電波塔の方に向き直って熱い視線を送っていた。
「…」
行ってみる?
自分の口から出た言葉に驚いてなんて冗談だってと言おうとしたが、振り返った女の子の顔に無邪気な笑みが浮かんでいて、僕はそれ以上なにも言えなかった。
「行く!」
高さ600メートル越えの電波塔の足元には複合商業施設があって、夏休み前の休日という事もあり、町から消えた人間を一括転送してるんじゃないかと思うほどだった。
「おおーっ!」
「スゴイな…」
毎日見ている光景だったけれど、一人で来るようなところじゃないと思って一度も訪れた事は無かったので、改めてその巨大さと迫力につられて僕は観光客みたいな反応をしてしまった。
「この人間たちはみんな電波によって集められたのか?」
そんな恐ろしい施設じゃないから。僕は単純に観光や買い物に来ているだけだと説明する必要もない事を説明した。
経済的な余裕は無かったけれど、一応目を輝かせて遥か上空を見上げている女の子に提案してみる。
「展望台行ってみる?」
「展望台?上れるのか?」
明るく弾けた声に僕はフッと笑ってしまう。色々偉そうな事を言っていても所詮は子供なんだなあ。少しだけ羨ましくなった。
この時、入場券があれほど高額だと知っていたら、僕は口が裂けても展望台に上る事を提案したりはしなかっただろう。
赤い旧電波塔も、砲台を置く出島の跡地に建てられたテレビ局も、すべてが見下ろせる高さにありながら、僕の頭の中は7月の残り数日をどう乗り切ろうかと考えるのに精いっぱいだった。
「まあ、大した事は無いな。高高度にも達していない電波塔からの景色などなんとも思わない」
言葉ではそう言ったけど、口調は感動と興奮を抑えきれていなかった。
休憩用のベンチに座って随分薄くなった財布の中を敢えてもう一度確認する。財布の中には千円札が3枚しかなくなっていた。
まあ、よかったのかな…。
「あれは何を食べているのだ?」
シャツを引っ張られて顔を上げると、言われるがまま女の子が指差す先に目を遣った。
女子大生を体現したような女性がクレープを片手に友達らしき女性と楽しそうに電波塔をバックに写真を撮っていた。
「さ、さあ?僕も見た事無いなあ…」
僕は白々しく視線を明後日の方向へ逸らす。女の子が回り込んでくる。
「なぜ目を逸らすのだ?あれはコロッケパンとは違うのか?」
「い、一緒だよ!そう、人間の食べ物はみんな同じ味でつまらないんだよねぇ、あははは…」
今までの経験から適当な事を言ってごまかせる自信があったけど、今回ばかりは女の子も食い下がった。
「そんなわけあるか!カップ麺とか言うのとコロッケパンの成分表示は異なっていたぞ?味が一緒なわけが無いではないか!」
そんな所見てたのか…。
「でも、あれは砂糖を大量に使っていて健康に悪いし」
「食べ続けなければ問題は無い、と言ったのはどこの誰だったかな?」
うぐっ。事もあろうにこの僕が追い詰められている。勝ち誇ったような笑みを浮かべる女の子がノックアウト寸前の僕に最後の一撃を加える。
「食べたい!」
僕は完全に折れ負けた。
「じゃあ、自分で買ってきなよ。あと、御釣りはちゃんともらう様に」
なけなしの500円を渡すと、硬貨を受け取ると20メートル程先に見えるクレープ屋を指さした。女の子はしげしげと五百円玉を眺めた後、意を決した様にトコトコ駆けて行った。
「大丈夫かな…」
少し心配になって結局ついて行くことにした僕の耳に耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「おい!クレープを寄越せ」
強盗かよ!それでもまあ意味は伝わるだろうと思っていたら、女の子が振り返るとこちらに歩いて来た。
「買わなかったの?」
五百円玉を握ったグーを突き出して言う。
「680円だそうだ」
「高っ!」
これで嫌でも親に生活費の前借を頼まなくてはいけなくなってしまった。
口の周りをクリームとストロベリーソース塗れにして至福の笑みを浮かべていた女の子を眺めていると、不意に僕の眼差しに気付いたのか顔を上げた。
「なんだ?顔に何かついているか?」
思いっきりついてるよ?と指摘した僕に対する女の子の返事はそうかの一言だけだった。仕方ないので紙ナプキンで口元を拭いてやると少しムッとされた。
「何をする!わたしはお前の子供じゃないぞ?」
「自分でやらないからだろ?」
気分を慨されたと言わんばかりにムスッとしていた女の子はブツブツ文句を言った。
「全く、人間の親は子供への庇護が過ぎるのだ」
親の庇護?過保護って事?僕は頭にきてつい言い返す。
「これだけワガママ聞いてやってるのにその態度は無いだろ?第一さっきのはなんだよ?」
実際は彼女は何も言っていないし、僕が勝手に提案して連れてきているだけだけれど、その時は冷静さが欠けていた。子供の言い訳だけれど。幸いそこには引っ掛からなかったようで、女の子が問い返す。
「さっきのとはいつのだ?」
「クレープ屋さんで第一声がおい!って。挨拶とか出来ないのか?」
「挨拶?」
「初対面の相手にいきなりおいは失礼なんだよ」
「では何と言えばいいのだ?」
質問攻めにちょっと辟易してきた僕は適当を答える。
「ニッコリ笑ってハローって言えばいいよ」
「そうか。それが意思伝達を始める意思を伝えるための言葉なのだな?」
「そんなに深い意味は無いって。あったり別れたりするときに言う言葉」
挨拶の意味なんて、辞書で引いてもそんなものだろう。
女の子はハロウかぁ…とブツブツ言って一人で納得していた。
見上げると視界の端から青い天井に巨大な棘が突き刺さっていた。
不意についさっきの、彼女から言われた言葉が甦る。
「全く、人間の親は子への庇護が過ぎるのだ」
子への庇護。過保護。自分で鬱陶しいと思っていた事を、僕はこの子にしていたのだろうか?僕は少しショックを受けた。相手の事を思っているのに、必ず相応の答えはくれないなんて当たり前の事を、それがどれだけショックなのかという事を思い知った気がした。
僕も、そうだったんだろうか…。両親が勉強とか友達の事とかを聞いてくるのも、礼儀に対する注意も、心配と優しさだったんだ。けれどそれが鬱陶しくて、つい反発して無視していた。
「親の心子知らずってヤツかな…」
年寄り臭い言葉に苦笑して、隣から不思議そうな視線を向けられた。
日が傾き始めた。真っ白だった太陽は次第に黄色みを帯びて、今は蝋燭の明かりの様にオレンジ色の閃光を放っていた。
「いい加減家に帰った方がいいよ?」
散々連れまわしておいて今さら何をとこころの中でツッコミながら女の子に言った。彼女はボーっと何か別の事を考えながら歩いているようで、適当に生返事を返した。
「ああ、そうだな…」
その様子が気になって足を止めると、女の子も止まった。丁度昼にパンを食べた公園の前だった。
「ここでいい」
女の子が言ったので、僕は冗談のつもりでドーム型のすべり台を指さした。
「そんなこと言って、またあのすべり台に入って行ったりしないよね?」
その言葉にも、ああ。と気の無い返事を返してきたので、なんだか調子が狂う。
「ねえ、さっきからなに考えてるんだよ?」
女の子は俯き加減だった顔を顔を上げる。
「わかったのだ、どうしてお前がわたしに構うのか」
ドキッとした。まさかここに来て誘拐だとか言われたりしたらと背筋が凍った。けれど、次の言葉に僕は別の戸惑いで動揺してしまう。
「お前は、やさしいのだ」
「は?」
「なぜわたしの様な宇宙人を放っておかないのか。子供の姿なら警戒心は抱かない上に言葉に信憑性も無く聞き流せる。けれど、なにかにつけては献身的で不思議だった。自己の利益も無くわたしに様々な情報や物を提供した。体調を慮ってくれた。これはお前がやさしいからなのだろう?」
「そんなんじゃ無いよ」
僕は思わず苦笑してしまった。
「欲しいものを買ってやったりって言うのは優しさじゃなくてエゴだよ」
「わたしを怒るのも自己中心的な満足の為なのか?」
「…」
「お前は他人の事を思う事が出来る。1週間ほど色々な所へ行って色々な物を見てきたわたしが出した結論
だ」
違うんだけどなあ。僕はそんなにいい人じゃないのに…。何と言ったらいいか考えていると、女の子が公園のすべり台の上に掛った夕陽を眺めて呟いた。
「そろそろ時間だ」
「そっか。じゃあ」
僕は女の子の勘違いをそのままにすることにして、挨拶代わりに手を上げた。女の子がニッと微笑む。
「ああ、ハロウだ」
そう言えば、別れの挨拶はまだ教えていなかったんだっけ。つい笑った拍子に視線を逸らしてしまった。
「いや、別れの時はさよならって…」
再び顔を上げると、そこには誰もいなかった。
無邪気で生意気な笑顔は、どこにもいなくなっていた。
驚いて呆然として、街灯がともるまで公園の中を探してみたけれど、其れっきり、女の子と会う事は二度となかった。
翌日、僕は実家に電話を掛けた。丁度お金が無いという口実もある。その旨を告げると、母親は少し呆れたような声であ、そうなのとだけ言った。
「だから、突然なんだけど」
今日帰る。そう言うと受話器の向こうでえっ?という短い驚きの後、母の優しい声が聞こえてきた。
「突然返って来られても、リクエストには答えられないわよ?」
僕は通話を終えて、外出の支度をした。
女の子と出会って別れた日、僕は少し後悔していた。じゃあねでもさようならでも、別れの時の挨拶もあるのだと教えておけばよかったと思った。僕はようやく、一番身近な人の優しさに気付くことが出来たんだ。だから、思った時に伝えるのが一番だ。じゃないと二度と会えなくなって、後悔するかもしれない。最も一人前に、大人になって社会に出てからでも遅くは無いんだろうけど、感謝の気持ちは伝えなければと思った。だから帰る。
優しい親の所へ、ありがとうを伝えるために。




