第三首
「では、これから見てみます」
落ち葉の君が和歌にそっと手を載せるのが御簾の下から見えた。この前と同じ、糸が張り巡らされたような張り詰めた緊張感はない。五感が研ぎ澄まされたような感覚を感じ、風にそよぐ葉の音や、鳥のさえずりが心地よく響く。苦しさのない静かな時間は、不思議と少将には心地よかった。
「藤原中将、三首の和歌のことづてを、今、受け取りました」
「まず、この和歌は、全て人間によって書かれたものです」
落ち葉の君は中将に向かって、和歌を右から順に並べた。
『袖濡るゝこひぢとかつは知りながら 降り立つ田子の自らぞ憂き』
『人の世をあはれと聞くも露けきに おくるゝ袖を思ひこそやれ』
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
それから、一番右の和歌をしめして
「三首とも、女性によって書かれたものですが、この歌はほかの二首を書いた人とは別の人が書いたものです。一瞬、室内に飾られた赤い薔薇も見えました」
落ち葉の君の言葉に、中将は息を呑んだ。
「おそらく、御息所さまです……。御息所さまのお部屋にはいつも赤い薔薇が飾られていましたから……」
やっぱり、私のせいなのだ、と中将は呻くようにもらした。
「またこの二首ですが、左利きの女性が書いたものです。」
「左利き、ですか……」
少将は改めて優雅な文字を見た。
「魔物と取引をする手……」
惟雅が薄気味悪そうにつぶやく。
「ほかには、何かご覧になりましたか」
「残念ですが、この二首は閉めきられたお部屋で書かれたようで物音などは聞こえませんでした。それから」
落ち葉の君の声がすこし低くなった。
「この二首を書いたのは夕顔の君さまではありません。藤原中将、この夕顔の君さまのそばに残された和歌ですが、見つかった場所は女楽の際に夕顔の君さまがお使いになった箏の下ですね」
中将は驚いて御簾の向こうの姫君を見つめた。
「そのとおりです。夕顔が突然あんなことになってしまって、女楽はすぐに中断されました。後片付けのときに、箏を動かしたら下に置かれていたんです」
「もし、夕顔の君さまがご自身で和歌を書かれたなら、わざわざ箏の下になど置きませんよね」
惟雅の言葉に、落ち葉の君も
「はい。それに夕顔の君さまが発作で亡くなったなら、あらかじめこのような和歌を書くこともありえません」
居心地の悪い沈黙が、御簾の向こうから突き抜けてきた。
「また中将に送られたこちらの和歌ですが、夕顔の君さまの亡くなる日の前の晩に送られてきたことを考えると、翌日の夕顔の君さまの死を予告するために送られてきたものだったと思われます」
中将の色白の美貌から血の気が引いた。
「……そ、そんな……。い、いったい、なぜ……」
体をがたがたと震わす中将にかまわず、落ち葉の君は言い放った。
「今回の事件は、物の怪の仕業などではありません。夕顔の君さまは発作で亡くなったのではなく、殺されました。そしておそらく犯人は、中将の恋人を妬んでいるかたでしょう」
「夕顔の君さまがお亡くなりになられたときの様子を詳しく話していただけますか」
中将は体の震えを必死に抑えながら、
「夕顔が突然亡くなったのは、今月の初め、一条の御息所が亡くなってから二週間ほどたった頃の昼でした。夕顔と、二の宮と、椿という女君を呼んで、私の屋敷で女楽を催したのです」
「三人がそれぞれ演奏した楽器を教えていただけますか」
「夕顔が箏で、二の宮が和琴、椿が琵琶です」
落ち葉の君は手元に硯箱と文台を引き寄せると、紙にそれぞれの名前と楽器を記した。
「演奏していた二人から聞いた話では、演奏が始まって、曲が半ばくらいにさしかかったころ、急に夕顔が苦しそうに胸をおさえて、そのまま、何も言い残さずに亡くなってしまったそうなのです」
そのときの様子をまざまざと思い出してしまったのだろう。中将は苦しそうに顔を歪めた。
「急に、ですか……。演奏前や後、あるいは演奏中になにか変わったことはありませんでしたか? 不自然に感じたことやいつもとは様子が変わった人がいたなど」
中将は少し考えてから
「とくに、変わった様子はなかったような……」
「よく思い出してください」
少し強い口調だった。少将と惟雅は、目をぎゅっとつぶって必死に思い出そうとする中将の顔を、黙って見守った。
「私は……演奏中はそばにはいなくて……。演奏を聞きに来てくださったほかのかたと一緒だったのです……。なので……よく、わからなくて……」
中将は必死に記憶を手繰り寄せた。涼しい風の吹いていたあの日、秋の匂いがするなか、三人の女人が演奏していた女楽――。
「……そういえば……一つだけ、ありました」
「なんですか?」
「演奏中に、夕顔が、箏を一度だけ間違えたのです。夕顔は箏の名手で、めったに間違えることはないのですが、あのときは、めずらしく緊張したのかもしれません。夕顔の死とは、関係ないとは思いますが……」
落ち葉の君は静かに考えてこんでいるようだった。
「……夕顔の君さまが間違えた、とおっしゃいましたが、それは別の音を弾いてしまったという間違いでしょうか」
「いえ、ある音で突っかかった後に、二音くらい飛ばしてしまったのです。立て直したのですが、そのあとすぐに苦しまれて……」
脳裏に悲劇的な光景がよみがえり、中将はまた顔を歪めた。
「演奏中に夕顔の君さまに近づいたかたはいらっしゃいましたか?」
「おそらくいなかったと……」
そうですか、とつぶやくと、落ち葉の君はときおり独り言をいいながら、また考え込んだ。
「橘少将。今日はありがとうございました。それにしても、落ち葉の君さまはすごいおかたですね」
時刻は酉の刻一つ(午後五時半~午後六時)ごろ。夕日は傾きかけ、柔らかい日差しが下山する三人の横顔を照らしている。秋も後半に差し掛かった頃で、冷たい風が涼しい風に混じって吹き抜けていた。
「……いったい、夕顔の君さまを死なせたのはどなたなのでしょうか」
惟雅が、足元に散っている、泥にもみくちゃにされた落ち葉に注意して歩きながらぽつりと言ったが、中将も少将もその問いには答えず、ただ黙々と地面を踏みしめながら歩いていた。
「今回の事件は、少々難しいですね」
客人たちが帰った屋敷では、落ち葉の君が中将から聞いた話をまとめた紙を眺めていた。
「藤原中将さまには、たくさんの恋人がいらっしゃるようですから、それだけ嫉妬なさる女人も多いのでしょうね」
右近は落ち葉の君のそばへ灯台を持っていくと、自分も隣に座った。落ち葉の君の手元には藤原中将と関係のある姫君の名前が書きつられている。中将の北の方の二の宮に、女楽に参加した椿の君、そして亡くなった一条の御息所と夕顔の君。ほかにも霞の君や荻窪の君など五人ほどの名前が書かれている。
「夕顔の君さまが亡くなったのは、女楽の演奏中。だれも演奏中に近づかなかったとなると、箏に何らかの仕掛けがしてあった可能性があります」
「でも、中将さまが女楽ではみなさんご自分の楽器をお使いになっていたとおっしゃっていました。夕顔の君さま以外のかたが、箏に仕掛けをなさる時間などありそうにないと思いますが……」
右近は室内におかれている、落ち葉の君の和琴に視線を移した。落ち葉の君は絵の才能にも恵まれていたが、和琴の演奏にも長けていた。今は亡き恋人、賀茂忠広とまだともに暮らしていたころ、忠広が一から教えたのだった。落ち葉の君を、和琴の名手と言われた忠広の最愛の人に似せるために――。
「ほかのかたからも、お話を聞く必要がありそうです。早く犯人を見つけ出さなければ――またお命を奪われるかたがでてしまいます」
右近の優しそうな顔が引きつった。落ち葉の君は右近に向きなおって
「明日、京へ参りましょう。椿の君さま、二の宮さまにもお話を伺ったほうがよさそうです。」
きりぎりすやまつむしが涼やかに鳴いていて、三日月の昇った空の闇には、いくつもの白い星が光を放っている。
落ち葉の君の言った『明日』はこなかった。新たな和歌が、中将に届けられていたのだった。
「落ち葉の君さま! 右近さま! 大変でございます!」
時刻はまだ寅三つ(午前四時半~午前五時)。空が新しい一日を告げようかとしている薄暗い時間に、中将、少将、惟雅は落ち葉の君のお屋敷に来ていた。
「ど、どうしたのですか、このような朝早くに。それも……」
右近が驚いたのも無理はなかった。ほとんど真っ暗闇の山道を走ってきた三人の顔色は赤く、息は切れ切れで、髪はぐしゃぐしゃ。途中で何度も転んだ中将の華やかな狩衣(男性の略装)は泥まみれになっている。
「今朝起きたら、また和歌が!」
『振り捨てて 今日は行くとも鈴鹿川 八十瀬の波に袖は濡れじや』
蝋人形のような顔色の中将と同じくらいに、右近の顔も真っ青になった。
「お、おかたさま! 大変です!」
「すぐに姫君のもとへ向かってください。次は……二の宮さまかもしれません」
御簾のむこうから、いつになく緊張感に満ちた落ち葉の君の声がとんできた。
「つ、次は二の宮ですか!」
「源氏物語では、次に狙われたのは源氏の北の方、葵の上です。もし今回の犯人が六条の御息所を真似ているのなら、中将の北の方さまが狙われる可能性があります」
中将の顔が絶望の色に染まった。
「中将、急ぎましょう! まだ明け方です!」
少将や惟雅に腕をひっぱられながら、今にも腰が抜けそうなのを必死にこらえてもと来た道を大急ぎで引き返す。
ぼろぼろになってお屋敷へ戻った中将を待っていたのは北の方、二の宮の悲報ではなく、椿の君の死の知らせだった。
椿の君の死因は、毒によるものだった。早朝に中将の名前を語った犯人から送られた毒入りの茶を飲んだ姫君は、喉もとを押さえて喘いだかと思うと、激しく吐血して亡くなってしまった。送られた茶は、源氏物語から引用した和歌とともに小さな箱に入れられていた。
『鈴鹿川 八十瀬の浪にぬれぬれず 伊勢まで誰か思ひおこせむ』
この和歌は「賢木」の巻から引用されたもので、伊勢に下る決心をした六条の御息所が、自分との別れを惜む光源氏の歌に返した歌である。
鈴鹿川の八十瀬の浪に袖が濡れるか濡れないか、伊勢に下った先まで誰が思い起こしてくださるでしょうか――という反語をこめた内容だ。
ちなみに源氏が御息所に送った和歌は、今朝、中将の屋敷の簀子に置かれていた和歌である。
『振り捨てて 今日は行くとも鈴鹿川 八十瀬の浪に袖はぬれじや』
わたしを捨てて今日は伊勢に出発なさってしまうのですか? 鈴鹿川を渡るとき、八十瀬のせせらぎで衣の袖が濡れてしまうではないですか。あなたを想う私の苦しい気持ちを察してください――。
「椿の君さまに送られた茶は、女房が直接どなたかから受け取ったものだったのでしょうか」
藤原中将、康之少将、惟雅の三人は、再び宇治に来ていた。とりわけ中将の悲しみは深く、力もなくしてうなだれるばかりだった。そして、落ち葉の君の落ち込みようも深く、その凛とした声はいつになく沈んでいる。
「今朝、簀子においてあったそうです。私のふりをして書かれた和歌が添えられて」
毒入りの茶は、椿の君お屋敷の簀子にそっと置かれていた。中将が椿の君とのやりとりによく使う薄様(貴族が和歌や手紙を送るときに使った紙)には、中将の筆跡とよく似た文字が並んでいた。椿の君は、女房が持ってきた偽の贈り物を、中将からの贈り物だと信じて疑わなかったらしい。とても嬉しそうに受け取ると、中に入っていた高級な茶に大喜びしたという。
「いったい……誰がこんなことを……」
「――藤原中将、ひとつお願いしてもよろしいですか」
静かに涙を流す中将に、落ち葉の君は遠慮がちに聞いた。
「なんです?」
「あの女楽の日に夕顔の君さま、椿の君さまと一緒だった女房、それから二の宮さまとお話ししたいのですが、場を設けていただけますか?」
できると思います――と中将は小さく返事をした。
「では、参りましょう」
落ち葉の君がすっと立ち上がるのが御簾越しに見えた。あまりの急な出来事に、中将は戸惑ったが、すぐに自分も立ち上がると「おねがいします」と頭を下げた。