第二首
「ああいう事件こそ、きみのお得意分野じゃないか」
藤原中将のお屋敷を出た康之少将はそのまま滋川清行のお屋敷に寄っていた。目の前では、清行の細い目がいたずらっぽく笑っている。
「そう。物の怪、怪異、悪霊、全て私の得意とする分野だ。呪符や式神だって、私以上に使いこなす術師はそうそういないだろう」
嫌みったらしく、しかも偉そうに話す清行を見て、京一の陰陽師になったとはいえやはり中身は変わっていないなと少将は心の中で苦笑いした。
滋川清行は、狐のような細い目と薄笑いする口元をのぞけば、それなりの美男子にはいる種類の人間だった。色白の肌に、細身な体。しかしただのなよなよした男たちとは違い、見た目によらずたくましい。社会的地位を加えれば、さっき会った『光源氏』と比べても十分に張り合えるだろう。
それでも彼が『光源氏』のように京中の女性たちの心をつかみきれないのは、その性格のためだった。滋川家の未来の当主として幼い頃から腕をみがいてきた彼には、人一倍強い自尊心がある。実際、実力も十分に伴っている上に、今では主上や女御さまごひいきの陰陽師になってしまったのだから、誰も彼の自信に満ち溢れた態度に文句は言えない。口約束の多い京の社会で、きちんと約束は守り、恩は大切にし、一度引き受けると言ったものには最後まで責任を持つ。そんな清行を少将は決して嫌ってはいず、むしろ頼りにさえしているが、中には彼の癖のある性格をなかなか受け入れられない人もいるようだ。そんなわけで、『京一の実力派変人陰陽師』という肩書きは得られても、『京一の女性に人気の陰陽師』という肩書きは得られず、少将と同い年なのにまだ結婚もしていなかった。
「その京一と呼ばれる陰陽師すらお手上げな事件が、どうしてわたしのようなただの平凡な少将に解決できると思うんだい。いくらきみの幼馴染とは言っても、わたしは呪符や式神は使えないんだよ」
「そう。康之少将は陰陽師ではない。そして、誰も陰陽術でどうにかしてほしいなんて頼んでいない」
少将は目の前のでにやにやしている幼馴染をあきれたように見た。
「落ち葉の姫君……だな」
清行はうなずいて
「実に口惜しいことだが、物体の記憶を追うことに関して、私はまだその姫君の足元にすら及んでいないようだ」
と悔しそうに顔をゆがめた。
『物体の記憶を追う』というのは、残された物からそれにまつわる残像や記憶をたどる一種の術のようなもので、清行が独自に練習していたものだったが、彼以上にその術に優れていたのが宇治の山に住む落ち葉の姫君で、少将の妹君が事件に巻き込まれたときにはその術のおかげで解決することができたのだった。
「餅は餅屋。今回も手がかりが残されているならその姫君に相談したほうが解決がはやそうだしな。それに」
清行の目がまたいたずらっぽく笑う。
「きまじめで恋愛下手な康之少将が美しい姫君と会う口実にもなる」
さもいい案だろう、とでも言いたげな幼馴染に少将は心底あきれた。
「惟雅くんから聞いているよ。宇治の山に住む姫君は、どうやら康之少将のお心を未だにつかんでおられる三の宮さまそっくりのようで、康之少将は珍しく物思いをすることが多くなった、とね」
清行ににこにこしながらぺらぺらと喋る惟雅の様子が目に浮かんで、おしゃべりな惟雅め、と少将は心の中で毒づいた。
「あの事件以来、会っていないそうじゃないか」
「いや、それは……」
落ち葉の姫君に気がないわけではなかったし、会いに行きたいと思ったこともあった。ただ、最後に会ったときの姫君の様子が気にかかり、また三の宮への申し訳なさもあって、宇治へ赴くのにためらいがあったのだ。
「……なあ康之、まじめで一筋なのは大事なことだがね、新しい出会いに対して、怯えてはいけないと思うのだよ」
庭で風に揺れるアサガオを眺める清行の目は、寂しげだった。
「本当に山に住んでいらっしゃるのですね、落ち葉の姫君さまは」
翌日、藤原中将、康之少将、惟雅の三人は落ち葉の君のお屋敷をめざして山を登っていた。最後に少将が姫君と会ってから約一ヶ月。空を覆うようだった燃えるような紅葉も、今はほとんどが散ってしまって、冬景色に変わろうとしている。また空の色も、夏らしさを残していた濃い青から白っぽい霞がかった色に変わろうとしている。
「落ち葉の君さまは大変人見知りなさるおかたでして、わたしのときもそうでしたが、断られるかもしれません」
「そのことは十分に承知しております」
中将と少将はさっきから同じやり取りを繰り返している。少将は、人に会うことを極端に嫌がるあの姫君が中将の話を聞いてくれるかとても不安で、姫君に会える喜びを噛みしめるどころではなかった。もし、話も聞いてくれず、自分のときのように中将が門前払いされたら――そう思うと、気は全く休まらなかった。
「右近さまー! いらっしゃいますかー!」
戸口のところで惟雅が呼びかけると、少ししてから萩(蘇芳と青の組み合わせ)の襲に身を包んだ右近がにこやかに出てきた。
「橘少将に惟雅さま、おひさしぶりでございます! お二人とも、お元気そうでよかった。妹君さまもお変わりはないですか?」
無事に典侍として出仕し、主上のご寵愛もいただいているようです、と答えると、右近はそれは本当によかった、と嬉しそうに笑った。
「あの、こちらのかたは?」
「こちらは」
「藤原巴中将と申します。落ち葉の姫君さまのお力をどうしても貸していただきたくて、今日は参りました。どうか、私をお助けください。このままでは物の怪に取り殺されてしまうかもしれなくて」
少将が紹介する間もなく、中将は右近に懇願した。
右近は少将と初めて会ったときのような迷惑そうな表情を一瞬浮かべたが、取り殺されてしまうという言葉が効いたのか、すぐに戸惑ったような表情に変わった。
「……あの、そういうことでしたら、こんな山奥に住む者にではなく、陰陽師にお願いしたらどうでしょうか」
「すでに相談にはいきました。でも、京一の陰陽師にも手に負えないと言われてしまいました。その人から落ち葉の君さまのお力なら、なんとかしていただけるかもしれないと言われまして、こうして参っております。お願いです。お話しだけでも聞いていただけないでしょうか。お願いします」
なんと中将はその場で土下座までした。半泣きになりながらこうしてぬかるんだ地べたに土下座する『光源氏』を京の女性たちが見たら、一体どのような顔をするだろう――。
「どうか、あの、お顔をあげてください。あの、おかたさまに、お話してきます」
あんまり必死な様子に、さすがの右近も気おされたのか、あたふたしながら屋敷に入っていった。
それからすぐに、右近は出てきた。
「姫さまがお話をお聞きになられるとおっしゃっているので、こちらへどうぞ。でも、解決できるかはわからないともおっしゃっていて」
「ありがとうございます! ありがとうございます! よろしくおねがいします!」
三人は簀子に正座した。目の前には、この前と同じように、御簾が半分ほどかかっている。
「わたくしに、お話とは?」
久しぶりに聞いたお声は、変わらず凛としていて涼しげだった。
「落ち葉の君さま、はじめまして。藤原巴中将と申します。お話を聞いてくださり、本当にありがとうございます」
中将は御簾の向こうの相手に深く頭を下げてから、少将に話したことを落ち葉の君に話した。二人の恋人が続いて亡くなったこと、そして、和歌のこと。
「こちらが、その和歌です」
御簾の下からあの三首の和歌を落ち葉の君に差し出した。
『袖濡るゝこひぢとかつは知りながら 降り立つ田子の自らぞ憂き』
『人の世をあはれと聞くも露けきに おくるゝ袖を思ひこそやれ』
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
「……これは、源氏物語の和歌ですね。たしか、この二首は六条の御息所の和歌ではなかったでしょうか。右近、確か源氏物語はここにそろっていましたね。全部、持ってきていただけませんか」
一瞬で和歌が源氏物語のものだとわかった落ち葉の君に、少将は驚いた。源氏物語は確かに有名だが、それは京での話であって、宇治の山奥に住む人が知っているとは思っていなかったからだ。それに、京の人でさえ全巻持っている人はほとんどいず、それぞれが持っているばらばらの巻を互いに貸し合って読んでいる。題名は聞いたことがあっても、全部読んだことがないという人もたくさんいる。少将も、以前に紅の君が人から貸してもらったものを借りて読んだのだった。
「こちらで全てです」
右近が持ってきた何十冊もの冊子のページを、姫君は次々とめくっていく。
「――ええ、ありましたね。どうぞ」
御簾の下から差し出されたそれぞれのページには、中将の持ってきた三首の和歌と同じものが、確かに載っていた。
「あの……無知で申し訳ないのですが、ぼく、源氏物語はあまり知らなくて……。どんなお話しなんですか」
恥かしそうにする惟雅に、落ち葉の君は
「源氏物語は紫式部が書いた恋愛小説で、主人公の光源氏がさまざまな女性と付き合いながら理想の女性を探す、という内容です。そしてこの二首の和歌を詠んだ六条の御息所は、光源氏の恋人の一人です」
美しい仮名文字を書き、歌の才能もある風流人で当代随一の貴婦人と呼ばれた六条の御息所。光源氏の目に留まり、逢瀬を重ねるが、自身が八歳も年上だということを気にし、なかなか心を許せない。やがて追うばかりの恋に疲れた源氏が、新たな恋人、夕顔の君のもとに通いはじめ、六条から足が遠のいてしまうと、御息所は狂おしいほどの想いと嫉妬心を抱き、ついには生霊となってさまよい、夕顔の君を取り殺してしまう。源氏に捨てられ自尊心を傷つけられることを恐れた御息所は、自ら源氏から身を引き伊勢へ下ろうとするが、未練を捨てきれず決心が揺らいでしまうのだった。そんな中、源氏が愛していないはずの正室、葵の上が懐妊したという衝撃の知らせを耳にし、また、お忍びで出かけた葵祭り(賀茂祭の別名。四月に行われ、簾や冠や牛車に葵を飾る)での葵の上との車争いで自尊心を激しく傷つけられた御息所は、あまりの憎さに魂がさまよい、再び生霊となって今度は葵の上を取り殺してしまう。強い自尊心と源氏への愛にはさまれて身動きの取れなくなった御息所は、源氏に生霊となり人を取り殺していることを知られて、ようやく伊勢への下向を決め、恋は終わりをむかえるのだった。
「あの……こう申し上げてはなんですが、今回の藤原中将は、まるでその光源氏のようですね」
一通り説明を聞いた惟雅が、表情を曇らせた。
「そうですね。一条の御息所さま、夕顔の姫君さま、そして『光源氏』と呼ばれていらっしゃる藤原中将。まるで、物語を写し取ったかのような状況です」
「この和歌ですが、これだけ筆跡が微妙に違いますね。それに、中将さまに送られた和歌だけは、六条の御息所の和歌ではなく、源氏の詠んだ歌です。どういうことなのでしょうか」
右近が示したのはこの二首。
『袖濡るゝこひぢとかつは知りながら 降り立つ田子の自らぞ憂き』
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
「この『袖濡るゝ』の歌を書いたのは、御息所さまだと思います。御手蹟(筆跡)は間違いなく御息所さまのものですから」
水がさらさらと流れるような筆跡で書かれたこの和歌は、六条の御息所が源氏がいずれは自分から離れていってしまうことをわかっていながらも、それでも思いをとどめきれないつらさを詠んだ歌である。
涙で袖をぬらしてばかりいる悲しい恋路とは知りながら、だんだん泥田の中へ入り込んでいく農夫のようなわが身が情けない――というのが歌の意味で、『恋路』に『小泥』をかけている。
中将の恋人の夕顔の君のもとに残されていた『人の世を』という和歌も、六条の御息所が詠んだ歌で、光源氏の正室、葵の上が亡くなった源氏を慰めようと詠んだ歌だ。
葵の上さまが亡くなってしまったというお話しを聞くと、わたくしは涙がでてまいります。一人残された源氏さまがどれほど悲しまれているか、お察し申し上げます――というのが意味で、これに対して源氏は、藤原中将に送られた『とまる身も』という返歌を送る。
生き残った人も、亡くなった人も、結局は世にとどまっていられる身ではないのに、物事に執着なさるのはよくないことです――。六条の御息所が源氏への愛が深かったために生霊となって葵の上を取り殺してしまったことに気づいたことをほのめかした歌である。
「こちらの二首を書いた人物に、お心あたりはありませんか」
落ち葉の君の問いに、中将は首をひねった。
「全く、思い当たらなくて……。夕顔の字でもありませんし……」
夕顔の君のそばに残された和歌と、中将に送られた和歌は筆跡が同じだった。薄様の上を墨が流れているような、優雅な筆跡。
「きっと……一条の御息所さまが物の怪となって、夕顔の君を取り殺してしまったんです。この和歌も、物の怪になった御息所さまが書かれたんだ……」
中将は不安そうに唇をかみしめた。
「夕顔が亡くなったのは、私のせいです……私が、御息所さまとの結婚を断ったから……物の怪となってしまって……それで……」
天気は快晴なのに、嵐の前触れのような重たい空気が五人の間に漂う。半分だけ下げられた御簾の下に並べられている、美しすぎるほどの筆跡の和歌と、得体の知れない雅びな文字の和歌が気味の悪さを強調していた。
「――果たして、本当にそうでしょうか」
突然、落ち葉の君が口を開いた。はっとした三人は、少しも動揺した様子のない姫君を見たが、その表情は御簾越しではわからない。
「わたくしは、物の怪というものを信じません。どんな奇妙な出来事にも、かならず説明のつく事情があります。今回の一連の事件も、人の所業といえる、なにかの事情があるはずです」
落ち葉の君は、その場にいる誰よりも毅然としていた。