第一首
あらすじ:
「亡き御息所さまの物の怪が、私に復讐しようとしているんです」――京で『光源氏』とよばれていた美男子、藤原中将の周りで、二人の女人が突然立て続けに亡くなった。それぞれの遺体とともに発見された和歌は、かの有名な『源氏物語』の登場人物、六条の御息所の詠んだ歌。果たして物の怪の所業か、それとも人間による連続殺人事件か。中将に助けを求められた橘康之少将と落ち葉の君が、一連の出来事の真実に迫る。
*『宇治で解かれる事件手帳』の二作目。
「おかたさま! しっかりなさってください!」
「御息所さま!」
室内は生臭い、異様な匂いが充満していて、入ってきた女房たちはみな息を呑むとともに口元や鼻をおさえた。紅梅色の華やかな几帳に、花びらのように飛び散った血痕。壁にもあちこちに真っ赤なしみがついている。畳には血溜まりの小さな池ができ、室内に飾られた真っ赤な薔薇も、血に染められてどす黒い色に咲いていた。
「おかたさま! どうして……」
「おかたさま!」
「御息所さま!」
雨が静かに降り注ぐ夜、一条のとある屋敷で一人の女が絶命した。
恋人への三十一文字を傍らに残して――。
「少将にお話しとは、一体どのようなお話しなんでしょうね」
「さあなあ。わたしにも全く想像がつかないな。そもそも、藤原中将とはそんなに親しいわけでもない。お屋敷に呼んでいただくのも、これが初めてだ」
乾燥した空気で天気の晴れたある日、橘康之少将は付き人の惟雅とともに藤原巴中将のお屋敷へと向かっていた。
康之少将は橘行宏中納言とその北の方(正妻)の夕日の上との間に生まれた中君で、四年前に元服し、付き人で乳兄弟の惟雅らとともに今は自身のお屋敷に住んでいる。父の橘中納言は、頑固な性格ではあるがとてもまじめなお人柄で、夕日の上だけを大事にしていた。姉の大君こと若菜の姫君は六年前に流行り病で亡くなり、妹の三の君こと紅の姫君は以前、誘拐されるという事件に巻き込まれたが、先月無事に典侍(天皇付きの女性秘書)として宮中へ出仕し、今では光和天皇のご寵愛をうけている、と聞いていた。
「少将、藤原中将って、あの『光源氏』とまで呼ばれていらっしゃるおかたですよね」
惟雅の言葉に、少将は苦笑した。
藤原巴中将は、京で美男子ともてはやされている風流人だ。だれが最初に言い出したのかは定かでないが、紫式部の書いた有名な小説『源氏物語』の主人公にちなんで『光源氏』とまで呼ばれている。
色白で細身なお身体がいかにも貴族風だと女性たちは胸をときめかせ、和歌や漢詩はもちろんのこと、騎射(馬に乗ったまま矢で的を射る遊び)にも長け、笛は名手ときていた。
先月、光和天皇の御弟君の娘の二の宮さまと結婚したが、ほかにも恋人は複数いて今でも頻繁に通っているらしい。
父親譲りの生真面目さを引き継ぎ、未だに亡き北の方の三の宮だけを慕い続ける康之少将にとって、一つ年上の藤原巴中将は気が合わない種類の人間だった。
「お待ちしておりました」
到着した康之少将を、藤原中将は笑顔で迎えた。少将はお屋敷に呼んでいただいたことへの簡単な礼を述べ、惟雅を車に残し、中将について中へ入った。
「わざわざお越しいただいて、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる中将に、少将も応じた。なるほど、こうして改めて中将と向かい合うと『光源氏』という呼び名はとても似つかわしい。
色白な顔、細身の身体に烏色の束帯(男性の正装)が似合っている。目の下にできた濃い隈や少しこけた頬がその美貌に影を落としているとはいえ、中将と並ぶと、ただでさえ大した特徴のない平凡な顔の自分が惨めにさえ思えてくる。
「それで、わたしにお話とは」
「実は今、私の周りで奇妙な事件が起きておりまして、橘少将のご友人の滋川どのに先日ご相談にうかがったのです。そうしたら、滋川どのはご自身の手には負えそうもないとおっしゃられて、あなたに相談するよう薦められました。それで、今日は来ていただいたのです」
滋川清之は少将の幼い頃からの友人で、京では有名な陰陽師の一族、滋川家の一の君。あらゆる呪符や霊符、式紙を使いこなす腕のいい陰陽師で、二年ほど前からは主上や女御さま(天皇の妻)のお気に入りとなっていた。主上のご寵愛をとくに受けていた藤壺の女御さまの死に彼が関わっていたという噂が流れたこともあり、少将は直接尋ねてみたことがあったが、返ってきたのは肯定とも否定ともとれる曖昧な返事で、結局未だに真実はわからない。
ともかく、滋川清行は今一番実力があると言われ、もっとも注目されている陰陽師なのだった。
少将は清行の、あの狐のような笑みを思い出していやな予感がした。主上のお抱え陰陽師にも手に負えない事件で、自分にも関わってきそうな内容は、一つしか思い当たらない。
中将は、少将の目をまっすぐ見て懇願した。
「橘少将、お願いです。少将には滋川どの以上に物から残像を読み取るのがお上手なお知り合いがいらっしゃると聞いております。どうか、そのかたを私にも紹介していただけないでしょうか」
「あの……まずどのような事件でお困りなのか、お話しいただけませんか」
とまどう少将に中将はよりいっそう背筋を伸ばし、語り始めた。
「実は、先月から今月にかけて、立て続けに私の恋人が亡くなりました」
中将の話によると、先月末の雨が降った夜に、恋人だった一条の御息所がお屋敷で亡くなっていたという。刃物で首を深く切られていたためにその出血量は相当なもので、あまりの光景に気を失った女房もいたらしい。亡くなる直前に人と会っているところを見たものはいなく、今のところ御息所は自殺したと考えられていた。
「御息所さまには自殺なさるような理由がおありだったのですか」
中将は気まずそうに視線を落とした。
「お恥かしいお話なのですが、その……結婚を断ってしまって……。先月の始めごろ、御息所さまとの結婚のお話があがったのですが、すでに二の宮さまとの婚約が決まっておりました。それで、断ったのです。付き合いも長く、高貴なおかたでしたので、そのことでかなりお気を病まれてしまったようで……。私のせい、なのです……」
一条の御息所については、少将も聞いたことがあった。前の天皇の春宮妃で早くに春宮とは死別していた。和歌や漢詩などの教養や香などのたしなみも深く、貴婦人の中の貴婦人、というのが京での評判だった。
「ほかにも亡くなられたかたがいらっしゃるのですね」
中将はうつむいたままうなずいた。
「夕顔という女君です」
夕顔の君が自身のお屋敷で亡くなったのは今月の初め、一条の御息所が亡くなって二週間ほどしたころの昼だった。中将が二の宮やほかの恋人たちを集めて女楽を催した際に、夕顔の君は箏を受け持っていたが、演奏中に突然、苦しそうに胸を押さえて亡くなってしまったという。夕顔の君は普段からお体の弱いかたで、日ごろから発作を起こすことも多かった。今回も場合も、発作が起きてしまい、お気の毒なことにお命を落とされてしまったのだろう、というのが周囲の考えだった。
ここまでは不運な出来事が重なっただけ、といえる。御息所は中将に結婚を断られて自尊心を激しく傷つけられたため自殺。夕顔の君は日ごろから発作を起こすことが多く、今回は不幸なことにお命を落とされてしまった。中将にとっては一度に二人の恋人を失ったわけだから可哀相な事件ではある。が、京一の陰陽師に相談するほどのものでもないように思えた。
「なにか、お気にかかっていることでもおありになるのですか?」
中将は三枚の薄様(貴族が手紙や和歌のやりとりに好んで使った紙)を少将の前にさしだした。
『袖濡るゝこひぢとかつは知りながら 降り立つ田子の自らぞ憂き』
『人の世をあはれと聞くも露けきに おくるゝ袖を思ひこそやれ』
『とまる身も消えしも同じ露の世に 心置くらん程ぞはかなき』
「なんです? これは」
右の二首はそれぞれ御息所さまと夕顔の君のお屋敷で見つかったもので、左の和歌は夕顔の君が亡くなる前日に私の屋敷の簀子に置かれていたものです――と中将は説明した。
三首とも達筆だったが、一首だけ筆跡が異なっている。
「このような和歌が残されているなんて。正直、私は怖くて仕方ないのです。きっと、亡き御息所さまの物の怪が、私に復讐しようとしているんです」
さっきまでの爽やかな笑顔はもう見る影もなく、中将は目を真っ赤にして今にも泣き出しそうだった。