第五話
「おかたさまー。橘少将がいらっしゃいましたよ」
紅の君の発見から五日後。少将は惟雅と落ち葉の君のもとを訪れていた。さわさわと女郎花や撫子が風になびき、ヒタキやモズの鳴き声が木々の間から響く。
例によって二人は簀子に腰掛けて、御簾を境に姫君のやってくるのを待っていた。
「おまたせいたしました。妹君さまはご無事だったようですね」
御簾越しに感じられる優雅なしぐさが、少将に亡き妻を思い出させた。
「落ち葉の君さまのおかげで見つけることができました。本当にありがとうございました」
少将は心から感謝していた。もし落ち葉の君がいなかったら、とてもあの少ない手がかりで三日以内に紅の君を見つけ出すことはできなかっただろうし、少将が今、こうして暢気に過ごすこともできなかっただろう。
「妹君さまは、入内なさったのですか」
「いえ、まだです。主上が紅の君の回復を待ってくださるとおっしゃってくださり、一ヵ月後になったのです。ただ、尚侍(天皇付きの女性秘書長)としての入内予定でしたが、今回のことを考慮して典侍(天皇付きの女性秘書)として出仕する(宮中で働く)ことになりました」
尚侍から典侍としての入内になったことに、橘中納言はたいそう不満だった。立場も主上のそばにいられる頻度も尚侍のほうが高いし多い。主上のおそばにはべる機会が多いほど、女御(天皇の妻)になれる可能性も高く、もちろん皇太子も生まれやすい。一族の繁栄を狙っていた中納言としては、実に残念なことだった。
「妹君さまと、妹君さまを連れ去ったかたはどういうご関係だったのですか」
右近が少将と惟雅に茶を運んできてくれた。少将は礼を言って受け取り、
「それがわたしにもよくわからないのです。相手の男は秋葉少将というのですが、妹は少将とは二、三回文を交わしただけで、好意は全く抱いていなかったというのです」
紅の君と秋葉少将の話をまとめると、一ヶ月ほど前に、秋葉少将が紅の君に興味を持ち、文を送ったのが二人の関係の始まりだったらしい。ただ、紅の君は秋葉少将に興味はなく、文の返事もそっけない和歌で返したそうだ。ところが少将は、その和歌をどう読み違えたのかはわからないが、紅の君にますます好意をよせ、文や和歌を送り続けていたという。また少将は二ヶ月前に結婚したばかりで、紅の君への恋が公になると相手の親とのいざこざを招くため内密にしようとし、文を届けさせていた従者にも、目立たないようきつく言いつけていた。
紅の君はというと、断ったはずの相手から一方的に文や和歌を送りつけられて気味悪がっていたが、短気で思い込みの強い橘中納言に相談した挙句、少将との関係を誤解されたら、と思うと怖くて相談する気になれず、また中納言に話が伝わる可能性のある沖少納言にも話せなくなっていたらしい。そして、少将から文や和歌が届いても無視を突き通していたが、八日前、お返事をいただくまでは帰らない、と少将の従者に言われてしまった。困った紅の君は相手に諦めてもらうため、仕方なく自分は入内することになっていると明かし、文や和歌もこれっきりにしてくださいと書いて従者に渡した。
少将のほうでは今日こそ色よい返事が来るだろうと思い込んでいた矢先にそんな内容の手紙を受け取ったものだから、逆上してとっさに紅の君を拉致することを思いつき、実行してしまったという。
秋葉少将は結局、主上のお怒りに触れて官位を剥奪され、両親とも縁を切られて西のほうへ流されてしまった。結婚していた姫君やその両親とも絶縁され、姫君は姫君で現世に愛想をつかし出家してしまったらしい。なんとも不幸な結末だと少将は感じていた。
「――では、妹君さまが入内を嫌がっていらっしゃったのには、何か別の理由がおありだったのですか?」
「それが……」
落ち葉の君の問いに、康之少将は口ごもった。少将自身、紅の君から入内を嫌がっていた理由を聞いたけれど、いまひとつ納得できていなかった。
「妹は『身代わりなど嫌だ』と言ったのです」
「『身代わり』ですか」
少将はうなずいて
「そもそも今回の入内は主上がぜひに、とおっしゃられたことがきっかけだったのです。主上がご寵愛なさっていた亡き藤壺の宮さまに妹が似ているという噂がどこからか広まり、お聞きになった主上がお会いになりたいとおっしゃられて。こんなもったいないことはないとわたしは思うのですが……」
薄い陽射しが茶をすする少将と惟雅を照らしている。爽やかで少し冷たい風が、秋の香りをのせて吹いている。
「……わたくしは、妹君さまのお気持ちがわかるような気がいたします」
落ち葉の君が、しんみりと言った。その凛とした声はどこか寂しげで悲しげで、少将はどう返したらいいか分からなかった。
「お時間は、よろしいのですか」
妙に沈んだ空気をかき消そうと、声の調子を明るくした右近に、少将と惟雅も立ち上がった。
「落ち葉の君さま、右近さま、このたびはお力を貸していただき、本当にありがとうございました」
二人は御簾の向こうの落ち葉の君と見送りに外へ出てきた右近に頭を下げた。
「また、時々うかがってもよろしいですか」
少し期待混じりな少将に、姫君は
「……また、ご縁がございましたら」
と曖昧な返事で答えた。
「少将、ぼく、ずっと思っていたのですが」
山を下りた少将と惟雅は屋敷へ向かって歩いていた。
「落ち葉の君さまって、どことなく三の宮さまに似ていらっしゃいませんか? とくに、お声とか」
「惟雅もそう思っていたか。わたしも、初めてお話ししたときからまるで三の宮と話しているようで、懐かしい感じがしたよ」
少将は御簾越しにうっすらと見えた、小柄な肩幅や小さく白い手、凛としていて芯のある声を思い出していた。
「少将、落ち葉の君さまにお気持ちが傾いていらっしゃいますね」
そう笑う惟雅の目はからかっているようで、少将は恥かしくなって顔を赤らめた。
「橘少将はとてもお人柄のよいかたでしたね」
少将と惟雅が帰った後、落ち葉の君は絵を描いていた。部屋には墨の香りが漂っている。
「……そうでしたね」
落ち葉の君はミコトリを書いていた。墨をのせた細い筆先が、落ち葉の君の手の動きに合わせて滑らかに紙の上を走っている。
「私は忠広さまがいらっしゃった頃のことを思い出しましたよ」
右近の言葉に、落ち葉の君も懐かしそうに微笑んだ。それからまた視線を筆先に戻してから、
「……どうして、男のかたはご自分が愛した亡き人と、生きている人とを重ねようとなさるのでしょうか」
右近は黙っていた。
「先ほどの橘少将のお話しに出てきた主上も、今はもういない人を忘れられずに、その人の面影を誰か別の人に求めていらっしゃいます。そして、あの人も……」
落ち葉の君は筆を紙の上で滑らせながら寂しそうに笑った。
「……忠広さまも、失った最愛の人をお忘れになることができなかった……。そして『わたくし』という過ちまで犯された……」
右近は悲しげに笑う姫君の横顔をただ見ているしかなかった。あの日以後、真実を知ってしまった落ち葉の君に、今かけられる言葉は見つからなかった。
「……今日も良い絵が描けました」
筆先が細い足を書き終えて紙から離れたと同時に、絵が紙から浮き上がった。
墨をまとった漆黒のミコトリが、透きとおった青空へと飛び立っていった。
―完―