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宇治で解かれる事件手帳  作者: 柏木弓依
~囚われ人の章~(全10話)
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第十話

 落ち葉の君が重症を負った、一週間後の良く晴れた日のお昼ごろ。

 少将と惟雅、そして清行の三人は、宇治を訪れていた。落ち葉の君と右近の五人で、簀子に腰掛けて談笑している。落ち葉の君と右近の座っているそばには、桜模様の風呂敷包みが二つと、市女笠いちめがさが二つ、並べられていた。

 「もう、すっかり良くなられたのですね」

 少将が、心から安心している気持ちを言葉ににじませた。

 「おかげさまで」

 清行の的確な止血と、その後の右近の手当てによって、落ち葉の君はすっかり回復していた。つややかな黒い髪はまるで墨を流したかのようにその小柄な背中を流れ、透き通った白いお顔には笑みを湛えている。

 「でもわたしは惟雅さまのお話を聞いたときはどうなるかと、本当に心配したのですよ。おかたさまがあんな大怪我をされたのは、初めてでしたし」

 「右近。あのようなことは、一度経験すればもう十分ですよ」

 「わたしとしては、願わくは一度も経験していただきたくはありませんでしたよ」

 右近の言葉に、その場にいた全員が朗らかに笑った。

 「ところで、玉緒さまはその後はどうされていらっしゃいますか」

 右近が少し、真面目な口調になって尋ねた。

 「近々、京を離れるそうです」

 あの後、玉緒は鏡右大臣から、母親の形見であったあの紅梅の扇を返してもらうと、お屋敷から姿を消した。清行の脅しを受けた鏡右大臣は、お屋敷の人たち全員に、玉緒という女房の存在を忘れるよう言い聞かせたため、玉緒について話題にする人もいなかった。

 「それにしても、小柄な玉緒さまはどうやって二人の女人をあの小屋まで運んだのでしょうか」

風にそよいでいる緑の葉を眺めたまま、惟雅がふと、訊いた。

 「うまく言い含めて、あの場所まで二人を連れて行ったのだと思いますよ」

 すんなり答える落ち葉の君に、少将と清行は、驚いて顔を見合わせる。二人とも、玉緒から事件の詳細を聞いていた。

 「その通りですよ。ちなみに、二人になんて言ったと思います」

 清行が、まるでなぞなぞを出すかのように問いかけると、落ち葉の君は少し考えてから

 「おそらく、月子さまには『この近くに秘密の場所があるから左大臣には内緒にして二人でこっそり行きましょう』というようなことを言ったのでしょう。普段から外に出たがっているあの年頃の姫君なら、『秘密』『内緒』と言えば喜んで着いていったはずです。一方、北の方さまには、『姫君さまのとらわれている場所を見つけた。ただし大勢で行くと犯人に見つかってしまうから二人で夜に助けに行こう』などと言ったのではないでしょうか。あのときの北の方さまの状態ならば、それくらい言えば躊躇なく夜の森に行くでしょうから」

 まるでその場を見ていたかのように淡々と話す落ち葉の君に、少将は感服した。実際、落ち葉の君が言ったとおりだった。

 「玉緒さまはまだお若い。これから先、今度こそ幸せになってほしいものです」

 落ち葉の君は凛とした声でそう、つぶやいた。




 西に傾き始めた陽が、地面に五つの人影を作り出していた。風が吹いては、辺りの草木がかさかさと音を立てる。

 「おかたさま、そろそろお時間が」

 右近に促されて、落ち葉の君はうなずいた。そばに置いていた風呂敷包みと、市女笠いちめがさを抱え、腰を上げる。

 「やっぱり、京を離れられるのですか」

 残念そうに尋ねる少将に、落ち葉の君は、

 「わたくしは、あまりにも人間ひとと関わりすぎました。京の人間ひとたちがわたくしのことを忘れるまで、どこか遠くで静かに過ごします」

 「遠くって、どこですか」

 さぁ――と、落ち葉の君は伏し目がちに微笑んだだけで、答えなかった。 

 まるで童が履くような小さな、しかし上品でかわいらしい履物をはき、市女傘を被った落ち葉の君は、右近と同じように風呂敷包みをそっと抱えた。

 「これを」

 清行がすこし照れるようにして、手のひらに収まるくらいの懸守かけまもりを二つ、手渡した。どちらも、淡黄たんこう色の布に色とりどりの四神しじん(四方位を司る守護神)が刺繍されていた。

「お二人の幸せを、祈っております」

 落ち葉の君は受け取ると、心から嬉しそうに「ありがとうございます」と言い、少将と惟雅にも優雅に会釈をした。

 「それでは、みなさま、どうぞお元気で」

 ほのかな墨の香りのする、美しい姫君とその女房は、どこか遠くの場所にむかって静かに、歩き出した。その後姿をしばらく見送っていた少将は、突然、意を決したようにぐっと拳を握ると、そのまま別の世界へ消えてしまいそうな二人の背中を追った。

 「落ち葉の君さま」

 呼び止められた落ち葉の君がゆっくりと振り返った。垂衣(市女笠についている体半分ほどを隠す布)越しに少将を見つめる、澄んだ夜空のようなあの瞳と目があって、少将は知らず、緊張していた。

 「わたしは」

 橘少将はその実直そうな顔を朱に染めながら、しかし姫君の瞳をまっすぐ見つめて言った。

 「わたしは、あなたが好きです。凛としたあなたの瞳も、ときどき見せてくださるその控えめな微笑みも、真相を見抜くその鋭い推理力も、そして」

 まくし立てるように一気に喋る少将を、驚きと戸惑いの表情で落ち葉の君は見つめている。

 「そして、誰よりももののあわれとをかしを理解し、人間ひとの心に寄り添えるその心も。あなたの全てが、好きです。京の人たちみんながあなたのことを忘れても、わたしだけは、あなたを、忘れません」

 言い終えると、少将の顔はよりいっそう赤くなった。この無器用な告白が聞こえていた清行と惟雅は、「もう少し気の利いたことが言えないものかね」とでも言いたげな顔で、少将の姿をそわそわと見守っている。

 落ち葉の君はしばらく呆気に取られたように少将を見つめていた。しかし、手に持っていた風呂敷包みを、隣でやはり呆気にとられている右近に預けて、少将に向き直ると、ふわっとその美しいお顔をほころばせて、少将がそれまで聞いたことのない優しい声で言った。

 「そんなふうにおっしゃってくださったのは、橘さまがはじめてですわ」

 緊張で冷たくなった少将の手をそっと手に取ると、その華奢で暖かい両手でやさしく包み込む。

 「わたくしに与えられた長い時間のうち、橘さまと一緒に過ごした時間は、本当に幸せでした」

 そうして続けた。

 「きっとまた、お会いしましょう」

 落ち葉の君は、そっと少将の手を離し、右近に預けていた風呂敷包みを受け取ると、また、歩き始めた。優しい日差しに包まれて立っている少将のもとに、清行と惟雅がなにも言わずに駆け寄る。

 三人は、二人の女人の後姿が曲がり角の向こうに消えてからも、しばらくの間、ずっとその場に黙ったまま佇んでいた。

 ふわぁっと三人の頬を風がなでたとき、少将は、かすかな墨の香りを、感じたような気がした。


―完―

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