第九話
壮絶な玉緒の話に、誰も、なにも言うことができなかった。何を言えばいいのか、言葉が、見つからなかった。
鏡右大臣は、恐ろしい顔で玉緒をただ睨みつけていた。その瞳がなにを考えているのか、少将には読めなかったが、少なくとも玉緒に謝る気はなさそうだったということは、感じ取れた。
「なぜだ」
右大臣が呻いた。
「なぜ、七年も月子に仕えていたというのに、なぜ今になってこんなことを」
「義父上が亡くなられたからですよ。今の私にはもう、迷惑をかける相手がいない」
玉緒は悠然と答えた。獰猛で激しい目で右大臣を睨みつける。
「私はこの十一年間、あなたに復讐することだけを考えて、それだけを支えにして生きてきたんです」
そして懐から小型の太刀を取り出した。太刀の刃が放つ光を受けた玉緒の瞳は、ぎらぎらと血走っていた。
「おやめなさい」
落ち葉の君が、右大臣の前に立ちふさがるように一歩前に出て、凛とした声で叫んだ。
「伊田さまは、あなたを復讐者にするために育てたわけではないはずです。これ以上ない悲劇のなかで過ごしたあなたの幸せを願って、幸せになってほしいと願って、育てたはずです」
「そんなのわかっているわ」
玉緒も叫んだ。声を震わせながら、
「義父上は亡くなるときに言った。『幸せになりなさい。憎むことをやめなさい』そう言って、息を引き取った。でも」
キッと落ち葉の君を睨みつける。
「私の母は、絶望と屈辱を抱えて独り命を絶った。そして実の父は『許さないでくれ』と書き残して死んだ。なのに……それなのに、私だけがのうのうと幸せになるなんて、許されるわけがないじゃない!」
あっ、と後ろにいる清行と惟雅が止めるまもなく、玉緒は太刀の刃をまっすぐに憎き相手にむけ、突き走った。玉緒の着ている小豆色の小袿の袖が、ふうわりと、宙に翻った。
「やめるんだ」
「右大臣」
清行と惟雅が、先を走る玉緒を追いながら叫んだ。
玉緒は、立ち止まらなかった。高級貴族の一時の恋愛感情に家族を奪われた人間の瞳が、憎しみ以外の感情を失った人間の瞳が、右大臣をとらえて離さない。小屋の隙間から射し込む陽の光を受けて、太刀の刃が鋭い光を放った。
反射的に少将は、鏡右大臣の前に立ちふさがった。そしてさらに少将の視界を、両手を広げた少将の肩くらいまでの小柄な後姿が遮った。そして――。
次の瞬間、玉緒の太刀が、落ち葉の君の胸に、深く、深く刺さった。
全ては、あっという間の出来事だった。
「落ち葉の君さま!」
少将は、目の前で崩れ落ちるその細い体を支えながら絶叫した。
「しっかりしてください!」
夢中でそう叫ぶ少将は、落ち葉の君の胸元と、玉緒の持つ太刀の刃が、漆黒に染まっているのに気づいた。玉緒もそれを見て、蒼白になりしゃがみこむ。小屋のなかが、まるで大量の墨をそこらじゅうにこぼしたかのような濃い香りに包まれた。
「も、物の怪だ……」
右大臣が震えながら後ずさる。玉緒の後ろから走ってきた惟雅も、着物が真っ黒に染まっていく血の気の失せた顔色の落ち葉の君を見て、立ち止まり、あっと声を上げた。
「落ち葉の君さま! 死なないでください!」
少将は、止血しようと、墨のあふれる胸元を、両手を真っ黒にしながら必死に押さえた。惟雅も駆け寄り、溢れる墨に沈んでいく少将の両手の上から、自分の両手を重ねる。
「どうして、あんな男を守るんですか……」
その横にしゃがみこんで力なく問いかける玉緒に、落ち葉の君はその美しい顔に儚げな微笑みを浮かべると、かろうじで聞き取れるくらいの、かぼそい声で答えた。
「人間を殺してしまったら、あなたの未来は、また、閉ざされてしまいます。もう、あなたは十分に苦しみました。あなたが幸せになっても、誰も、あなたのことを責めたりはしませんよ」
「そんな」
玉緒の頬を、一筋の透明な涙が、すっと流れる。
「でも、あなたが」
「わたくしは」
落ち葉の君が玉緒の言葉を遮った。
「わたくしは、大丈夫、ですから」
「どいてください」
清行が、棒立ちになって様子を伺っている右大臣を半ば突き飛ばすように押しのけて、四人のもとへ駆け寄ってきた。
「惟雅くん、今すぐ、宇治へ行って、あの女房をここへ呼んでくるんだ」
真剣な視線を落ち葉の君に向けながら、そう指示する。
「は、はい」
清行の雰囲気に気おされた惟雅は、ばたばたと足音を立てながら、あわてて小屋から出て行く。
少将は、幼馴染の陰陽師が、真っ白な狩衣の懐から数枚のお札を出したのをみて、怯えた眼差しを向けた。
「清行、まさか……」
「止血するだけだ」
清行は落ち葉の君に視線を向けたまま答えた。
「本当に、本当にそれだけか」
「安心しろ。こんな状況で、嘘はつかん」
そういって、今度は少将の瞳を見てうなずきかける。
「だが私にできるのは、止血までだ。あとは、分からん。なにしろ、落ち葉の姫君は、天才陰陽師加茂忠広がその人生を懸けて造りあげた式神だ。下手なことはできない」
その言葉で、少将は、清行がこの前話したことを思い出した。
――しかし、相手は式神なのだよ――
「この前の話にあった知人というのは、わたしのことだったのか」
「すこし黙っていてくれ」
落ち葉の君は、意識を失っているようだった。清行は、懐から取り出した数枚のお札を、真っ黒に染まった胸のあたり一面に並べると、人差し指と中指を立てた左手をそっと口元に持っていき、低い、ぼそぼそとした声で、いくつかの短い単語を唱えた。
「これで、出血はもう大丈夫なはずだ」
「ほ、本当か」
「あとは、惟雅くんがあの宇治の女房を連れて来るのを待とう」
「き、君たちは!」
振り返ると、成り行きを見守っていた右大臣が怯えながら立っていた。
「そ、その物の怪を助けたのか」
右大臣の声は震えていた。清行を指差すと信じられないというふうに
「君は、陰陽師だろう。なぜ、退治しない」
「退治」
清行は右大臣の言葉をゆっくり繰り返した。それから、切れるような鋭い瞳で睨みつけると、言い放った。
「この姫君はあなたの北の方さまと月子さまを救ったばかりでなく、あなたのお命まで救った、恩人ですよ」
「し、しかし人間ではないではないか」
「人間でないからなんだというのです」
清行の強い口調に、右大臣は黙り込んだ。両目をきょときょとさせながら、清行と少将、そして玉緒を順に見ている。
「なんでしたら」
殺気を放ちながら、清行は右大臣に近づいた。自分よりも背の高い陰陽師に見下ろされて、右大臣は縮こまった。
「戯れの恋愛感情で平和に暮らしていた家族を自殺に追い込んだあげく、その罪とまともに向き合おうとすらしない右大臣あなたを、ここにいる三人で退治しても良いのですよ」
「き、貴様……」
「もしこれまでどおり性根の腐りきった右大臣として平穏無事に暮らしたければ」
清行が時の権力者に凄む。
「月子さまも北の方さまも、誘拐などされなかった、玉緒という女房は始めからあなたのお屋敷には存在していなかった、あなたは落ち葉の姫君という女人を知らない、そうやって今回の一連の事件はなかったこととして忘れるんだな」
「よくも、このわたしにそんなことを」
「忘れてもらっては困るが」
精一杯睨みつけて対抗しようとする右大臣に、清行は、懐から人の形をした闇のように黒いお札を一枚取り出して、ひいらひいらと見せつけながら
「私は陰陽師だ。それも、主上にまで信頼を寄せられている京一の陰陽師だ。もし今回のことを少しでも口外したら、あなたの一族が末代まで不幸でもがき苦しむよう、盛大に呪ってやる。分かったらとっととこの場から去れ」
肩で息をしながら啖呵を切る幼なじみの後ろ姿を、少将は驚きの眼差しで見つめた。物の怪と聞けば喜んで撃退していた清行が、「人間ならざるものは退治する」が信条だった清行が、人間ならざるものを守るために右大臣に反発している。
一歩もひかない鋭い瞳に睨まれた右大臣は、その場を立ち去る以外になかった。すごすごと戸口を出ていく権力者の背中を見送った清行は、ふと我に返ったように少将たちを振り返る。
「清行…」
白い狩衣姿の陰陽師は、いたずらが見つかった童のように、肩をすくめてふにゃっと笑った。