―追憶4―
夕暮れ時。
両親を失い、六歳で独りぼっちになった露子は、川岸にぼんやりと佇んでいた。
――両親とも自殺するなんて、なんと不吉な――
――あの童は疫病神なのよ――
頼れるはずの親戚たちは皆、そういって露子の面倒を見ることを拒んだ。
生きる希望も意味も失った露子の横顔は、とても六歳の女の童のものとは思えない、深い絶望と虚脱感に染まっていた。
履物を脱ぐと、川岸に揃えて並べた。
――さよなら。
そのときだった。
なんのためらいもなく、水のなかに入っていった露子は、突然後ろから、誰かに強い力で右肩を掴まれた。
「なにをしている!」
肩を掴んだのは、父親と同じくらいの年齢の、貴族の男だった。怒ったような、けれどそれ以上に心配しているような表情で、露子を見つめていた。男の纏っていた小豆色の直衣が、露子に父親を思い出させ、露子は堰を切ったように、嗚咽を上げて泣き出した。誰かの前で大泣きをしたのは、母親の遺体を前に泣いたとき以来だった。
声を上げてむせび泣く露子を、男は何も言わずに優しく抱きしめた。露子の涙で直衣が濡れるのも、厭わないようだった。
どれくらいの間そうしていたのかは分からなかったが、露子がようやく泣き終えたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。帰る場所がない、という露子を、男は自分の小さな屋敷まで連れて帰り、暖かいおかゆを食べさせた。暖かいものを食べたのは、数ヶ月ぶりだった。
男はそれほど身分が高くはないようで調度品などの類も質素なものだったが、それがむしろ露子には安心感を与えた。露子の両親も、身分は決して高くはなく、同じように質素な生活をしていたからだ。
男の屋敷に居候をはじめた露子は、男が独り暮らしで、妻だった姫君を一月前にお産で亡くしていることを知った。名前や、家族のことを一切話そうとせず、ただ「帰る場所がない」という露子に、男は着物や人形といったものを毎日どこかで手に入れてきては、露子に与えてくれた。
そうして三週間が過ぎようとする頃。いつものように夜ご飯を二人で食べ終わったあと、露子は、ようやく、自分の名前と両親のことを男に打ち明けた。
「実は、そうではないかと思っていました」
露子の話を聞き終えた男は、穏やかな声でそう言った。
「お気づきだったのですか」
驚く露子に、男は話した。
「少尉のわたしは、山井大尉――つまりあなたのお父上のもとで、働いていました。あなたにお父上のことを、悲しいことを思い出させてしまうと思って、今まで黙っておりました。この数ヶ月、あなたの身に起こったことも、存じております。本当に、おつらかったですね」
伊田、と名乗った男は、静かに、涙を流してくれた。
どうして、私の両親は死ななくてはならなかったの――そう尋ねた露子に、伊田少尉は悲しい表情を浮かべながら、これまでの全てのいきさつを話してくれた。方違えで鏡衛門督が露子たちのお屋敷に泊まった際、露子の母親に一方的な恋心を抱き、それから山井大尉がお屋敷を留守にするときを狙っては、逢いに行っていたこと、山井大尉をお屋敷に行かせないようにするため、自分の宿直を大尉に押し付けていたこと、山井大尉は上司である鏡衛門督が自分の妻のもとへ通っていることを知っていたが、身分が上ですでに権力もある衛門督に抗うことができず悩んでいたこと、など。
露子の心の奥で、鏡衛門督への強い憎悪が沸き起こったのは、このときだった。いつか絶対に復讐してやる、本来なら純真であるはずの六歳の幼い心に、そんな強い負の感情が、深く、根を張った。
決して裕福な暮らしはさせてあげられないが、行くあてがないのなら、このままここで暮らしてもかまわない――伊田は露子にそう言った。露子が伊田を亡き父親に重ねていたように、もしかすると伊田も、生れるはずだった子と露子を重ねていたのかもしれない。露子は、ありがたくその言葉に甘えることにした。
「遠縁の親戚の子」として伊田のお屋敷で暮らすことになった露子は、自ら、名前を玉緒と変えた。初めて伊田少尉と会ったあの日――あの冷たい川に入った日に、「露子」という名の女の童は死んだのだ。そうやって、自分の心にけじめをつけた。
伊田のお屋敷で順調に育っていった露子に、いよいよ働き場所を探す時が来た。運命のいたずらなのだろうか。真っ先に見つかった働き場所は、当時はまだ大納言だった鏡の一の君、月子姫付の女房だった。
「お嫌でしたらお断りしますから、遠慮なさらないでくださいね」
鏡大納言に返事をする前の晩、伊田は露子にそう言った。
「でも、お断りしたら、義父上が鏡大納言に睨まれてしまうのでは」
露子は、このとき少納言の地位に着いていた伊田を心配した。けれども伊田は、そんなことは心配いらない、というふうに微笑んだ。
「鏡大納言はたしかに、大きな力をお持ちですが、あなたにとっては両親の敵。なにもそのような人の姫君に仕えなくても良いのですよ」
しかし結局、露子は月子姫に仕えることになった。露子が、自ら、それを望んだのだ。
露子は今でもときおり、この夜のことを思い出すことがある。この夜、伊田少納言が僅かに見せた、悲しい微笑を。伊田少納言は見抜いていたのかもしれない。このとき、露子がすでに、鏡大納言に激しい復讐心を抱いていたことを。復讐の機会を得るために、お屋敷に自由に出入りのできる月子姫付きの女房という立場を望んだことを。