第八話
女は、他に控えている女房たちと並んで、お部屋の奥の隅に座っていた。女や女房たちの視線が向けられている場所では、鏡右大臣と深琴左大臣による絵合が繰り広げられている。始まってからかなり時は経ち、勝負は終盤を迎えていた。
絵合は、両者とも甲乙付けがたい勝負となっていた。四季折々の草花や動物、宮中行事の様子を描いたものなど、華やかで美しい絵がつぎつぎと広げられては、みなが、感嘆の声を上げていた。
「鏡右大臣さまも深琴左大臣さまも、本当にすばらしい作品をお持ちでいらっしゃいますことね」
どこかの姫君か女房の感動した声が、女の耳にも届いた。
絵合は、熱狂的に、しかし粛々と進んでいく。鏡右大臣は北の方と月子姫がさらわれていることが嘘に思えるくらいに、何事もないようにいつもどおり堂々と振舞っていた。
しばらくして、この日一番の歓声があがった。どうやら、鏡右大臣がとっておきの絵を出品したらしい。
「これは、葛木さまの絵巻物」
「これほどまでに美しい絵は、見たことがありませんわ」
「深琴左大臣も見とれてしまっているぞ」
「勝負、ありましたな」
部屋の隅から遠目に眺めていた女の耳にも、皆が口々にそう言っているのが聞こえてきた。
それから少しして、絵合は終わりを迎えた。勝利した鏡右大臣はついに、十一年前のことについては一言も口にすることはなく、勝者の顔つきで堂々と退出していった。
女はその薄い唇を悔しそうに噛み締めると、立ち上がり、大内裏を後にした。
大内裏を後にした女は、桂川の方向へ歩きだした。暇をもてあました貴族や華やかな姫君を乗せた牛車が行き交うにぎやかな街も、すこし離れれば、鬱蒼とした森へと変わった。女は、歩きなれているらしく、静かな森のなかを迷いなく歩いていく。女のそばを、花の香りや綿毛をのせた風が通り過ぎる。
一刻(約三十分)ほど歩くと、粗末で小さな小屋が現われた。小さい、とはいっても二部屋ほどはありそうな小屋だった。たてつけが悪いのだろう、強い風が吹いては、カタカタと音を立てていた。
女は小屋の前で一旦立ち止まると、なにか決心するように小さく息を吐いてから、ためらいなく、中に入っていった。
「きっといらっしゃると思っておりましたよ、玉緒さま」
紅梅色の小袿を纏った落ち葉の君は、小さく会釈してから、その良く通る澄んだ声で来訪者を出迎えた。その隣では、絵合を終えたばかりの、顔をこわばらせた鏡右大臣と、苦悶の表情を浮かべた少将が立っている。
この場にいるはずのない三人の姿に、玉緒は一瞬、驚いた表情を見せた。それからすぐに立ち去ろうと後ろを振り返ったが、すでに後ろには、険しい顔をした清行と惟雅が立ちふさがっていた。
観念したような顔で、玉緒は再び落ち葉の君を見つめた。
「よくここがお分かりになりましたね」
落ち葉の君は、懐から花模様の懐紙を取り出すと、そっと広げて、はさんでいた小さなものを細い指でつまんで見せた。
「多奈の綿毛です。月子さまの帳台に掛けられていた布に付着していました。そして昨日、右大臣のお屋敷であなたとお会いしたときにも、これと同じものがあなたの小袿の裾や足元に付着していました――そう、今のあなたと同じように」
玉緒はあわてて自分の小袿の裾や足元を見やった。たしかにふわふわとした綿毛がいくつか着いていた。
「でもあなたが姫さまのお部屋で見つけられた綿毛は、風がどこからか運んできたものかもしれませんよ」
挑戦的な視線を受けても、落ち葉の君は動じなかった。
「鏡右大臣のお屋敷周辺を含め、街に咲いている多奈は、まだ蕾や開花したばかりの状態でした。多奈の花が枯れてから綿毛になるまでにかかる日数は、およそ一月。月子姫さまのお部屋まで風が届く距離に咲いている多奈で綿毛のものは、今の時期にはまだ存在していません。そして」
落ち葉の君は、射るようなするどい視線をむけたまま淡々と話し続ける。
「女人の足で、半日で行き来できる距離にある人気の少ない場所で、かつ綿毛になった多奈が生えている場所はこの場所のみ。昨日あなたがおっしゃった賀茂川方面には、確認したところ、そもそも多奈の生えている場所はありませんでした」
淀みのない落ち葉の君の解説に、横に立っていた少将は毎度のことながら、ただ感嘆するだけだった。
「いつから犯人が私だとお気づきに?」
玉緒が興味深げに尋ねた。
「最初にお会いしたときから」
「ご冗談を」
茶化すように玉緒は笑ったが、落ち葉の君は凛とした冷たい表情を崩さない。
「あなたは、わたくしたちが十一年前のことを尋ねたときにこうお答えになりました。『その頃のことは、全くわかりません』と。そしてこうも言いました。『右大臣さまは、衛門督でいらっしゃったころからかなり多くの女人方と関係をお持ちだった』と」
「それがなにか」
「たしかに鏡右大臣は十一年前、衛門督でした。しかし、翌年には近衛大将の位を賜っています。衛門督の位に就いていたのはわずか三年。十一年前のことを全く知らないというあなたが、なぜ十一年前の右大臣の官位をご存知なのですか」
玉緒は感心したように、拍手をした。乾いた音が、埃っぽい小屋のなかにやけに大きく響いた。
「そのすばらしい推理でここへたどり着き、北の方さまと姫さまを無事に救い出したというわけですね。お二人は今はどちらに」
「右大臣のお屋敷で、お休みされています。お二方ともお怪我はされていませんでしたが、今回のことで酷く傷ついておられます」
落ち葉の君の話を聞く玉緒の佇まいは、堂々としたものだった。落ち葉の君の全てを見抜くような瞳から視線をそらすこともなかった。少将には、追い詰められた犯人の姿にはとても見えなかった。
「お、お前はいったい何者なのだ」
それまでずっと黙っていた右大臣が、搾り出すような声で訊いた。
「何者だと思われますか」
いたずらっ子のような訊き返し方だった。右大臣は困ったように落ち葉の君に視線で助けを求めた。視線を感じた落ち葉の君は、右大臣をほうを見ることもなく答える。
「あなたは、右大臣の子を宿したまま亡くなった姫君の後を、数ヵ月後に追ったとされているまだ幼かった姫君なのでしょう」
右大臣は驚いて、長年自分の娘に仕えてきた若い女房を見つめた。
「まさか、生きていたとは……。でも名前が……」
「『まさか』。『生きていたとは』」
玉緒は乾いた声を立ててあざ笑った。それからありあまる憎しみをにじませた澱んだ目で左大臣を睨みつけた。
「ええ、おかげさまで生きていますよ。ただし玉緒という名でね。なに不自由なく全てがご自分の思い通りに進む世界で生きてこられたあなたには、想像もつかない人生を歩ませていただきましたよ」
少将は、これほど残酷な瞳をする人間を、いままで見たことがなかった。深い憎悪と悲しみ、そして憤りを閉じ込めた、獰猛な獣のように凄みのある暗い瞳。十一年間、憎い相手に復讐することだけを生きがいにしてきた人間の瞳。
「話してくれませんか」
思わず、少将はそう言っていた。この女人は、いままでどんな日々を過ごしてきたのかを、誰かに聞いてほしいのではないか――そんな気がした。
「いいでしょう」
玉緒は、ふん、と鼻をならすと、語り始めた。




