第七話
「今から十二年前、衛門督だった私は、ある姫君に恋をした」
晴れていた空はいつの間にか薄暗く曇りはじめていた。今にも突発的な雨が降りそうな匂いを含んだ風が、室内に入ってくる。鏡右大臣は少将たちを前に静かに話し始めた。
「その姫君は、既に私の部下と結婚していた。しかし私は諦めることができなかった。あれほどに私を夢中にさせる姫君には、それまで逢ったことがなかった。私は何度もお屋敷へ通った。今から思えば、ずいぶん強引だったかもしれないが、とにかく私は、姫君に夢中になっていたのだ」
誰も、口を挟まず右大臣の話を聞いていた。外では、案の定、小雨が降り始めている。ぱらぱらと庭の草木にぶつかる雨粒の音が、やけに大きく、部屋に響いた。
「姫君の元へ通うようになってから一年後、姫君は懐妊した。夫の子ではなく、私の子を。子が無事に生まれたら、私は引き取るつもりだった。姫君にもそれを伝えていた。だが、それは叶うことはなかった。姫君は、私の子を宿したことに深く悩み、川に身を投げたのだ。そして」
右大臣は深いため息をついた。
「そして、姫君の夫もまた、姫君の死を知った夜に、毒を飲んで亡くなった。また二人の間には幼い姫君もいたが、彼女も数ヶ月経った後、両親の後を追って川に身を投げた。己のしたことが招いた悲劇を悔い、私は、陰陽師を呼んで祈祷をさせた。姫君たちの魂が、安らかに眠れるよう、七回忌までのあいだ毎年。以上が、十一年前にあったことだ」
打ち切るように話し終えた。そしてまた、重々しいため息をついた。
「それはちがう」
少将は思わず口を開いていた。独り言のように発せられた言葉は、すぐに、右大臣を非難する言葉へと変わった。
「あなたは、三人の冥福を祈って祈祷をしたんじゃない。あなたは亡くなった三人を恐れていたんだ。だから、祈祷をさせた。死者を弔う祈祷ではなく、呪詛返しの祈祷を。違いますか」
身分も年齢も、自分よりひとまわり以上離れている相手に向かって、少将は強い口調で迫った。鏡右大臣はただただ、少将を恐ろしい形相で睨みつけることしかできない。
「二点、確認したいことがあります」
今にも一触即発の空気を変えたのは、落ち葉の君の涼しげな声だった。
「まず、十一年前は衛門督だったとおっしゃいましたが、いつまでその官位に就かれていたのでしょう」
「姫君が亡くなった年までだ。その翌年、私は近衛大将の位を賜った」
「では次に、入水したという姫君とその幼子ですが、右大臣は、ご遺体をご自身で確認されたのですか」
「姫君のご遺体は、姫君が行方不明になってから三日後に川岸で見つかり、寺の者たちが埋葬した。記録だって、残っている」
「幼かった姫君については」
「幼子については、ご遺体は見つからなかったものの、川岸に履物がそろえて置かれていたことから、亡くなったと判断された。その後も、幼子が生きていたという話は聞いたことがない」
「その家族に、親戚はいたのですか」
清行が身を乗り出すようにして訊いた。
「当然だ。姫君にも、夫だった私の部下にも、両親や兄妹は大勢いた」
少将たちの後ろで控えめに座っていた惟雅が、絶望的な表情を浮かべて両手で顔を覆った。もし亡くなった一家の親戚が今回の事件に関わっているとしたら、かなりの時間を要することは目に見えている。とても、明日の絵合までには間に合わない。
「脅迫文にあった、『十一年前の罪を告白し、謝罪せよ』というのは、この件を絵合の場で――つまり主上の前で告白し、亡くなった三人に対して謝罪しなさい、ということだったのですね」
納得したように少将はうなずいた。
「この件を公にすることは、絶対にできない」
右大臣は強い口調で言い放った。まったく揺るぎのない気持ちが、表れていた。
「いまここでこの件を公にすれば、鏡の名は失墜する。一つの家族を破滅させた男のいる一族として。そうすれば、どうなる。私だけでなく、ひめゆりの君も月子も、私の親族も、私をここまで押し上げてきた人たちみんなの一生が狂う。もはや、事は私だけでは収まるものではないのだよ」
人の一生を狂わせておいて、よくもしゃあしゃあと――そう言いたい気持ちを少将はぐっとこらえた。代わりに
「お察しします」
と最大限の皮肉を込めるにとどめた。
再び沈黙に包まれたお部屋に、鳥のさえずりが響いた。さっきまでの雨は嘘のようにあがっており、花びらや草木についた雨粒が、日差しをうけてきらきらと輝いている。
やがて、落ち葉の君がその凛とした声で沈黙を破った。
「明日の絵合についてですが」
部屋にいる全員が、透き通る声で話す漆黒の髪の女人の言葉に耳を傾けた。
「おそらく、犯人は近くで絵合を終始見ているはずです。もし右大臣が絵合でなにも話さなければ、月子さまと北の方さまを閉じ込めている場所へ戻り、二人になんらかの危害を加えるでしょう。つまり」
落ち葉の君のまっすぐな視線が右大臣の視線とぶつかる。
「その時が、犯人を捕らえる機会です」
「でも、落ち葉の君さま、月子さまと北の方さまがとらわれている場所を、わたしたちはまだ見当もつけられていないじゃないですか」
「見当なら、先ほどつきました」
平然と言い放つ落ち葉の君に、その場の全員が一瞬、聞き間違いをしたと思った。少将は驚いて、隣に座っている女人の横顔を見つめた。透き通るように白い肌の、毅然とした態度の落ち葉の君は、とても冗談を言っているようには見えない。
「見当がついたって、あの、どこに」
拍子抜けしたように、清行も尋ねる。
「見当がついたなら、今すぐにでも助けに行かねば」
今すぐ出かけようと立ち上がりかける右大臣を、落ち葉の君の白い手が制した。
「なぜ止める」
「いま二人を助けに行っても、犯人を捕らえることができません」
落ち葉の君はどこまでも冷静だった。
「犯人をとらえることができなければ、今後また同じようなことが起きます。なにしろ犯人は、十一年もの長い間、右大臣への復讐心を抱き続けた人ですから。そうなったら、今度は誘拐と謝罪だけでは済まない恐れもあります。そういった可能性を防ぐためにも、今回、犯人をとらえなくてはならないのです」
「月子とひめゆりの君が絵合まで無事だという保障が一体どこにある」
鏡右大臣が語気を荒げた。落ち葉の君は、右大臣を安心させるように、その氷のように冷たく美しいお顔に薄い笑みを浮かべてから、恐ろしいことを口にした。
「もし犯人が、右大臣の大切にしていらっしゃるものを奪うことで右大臣を絶望させることが目的ならば、とっくにお二人の命を奪っているはずです。誘拐してどこかに閉じ込めておくよりも、最初から命を奪うほうがずっと簡単ですから。まして犯人が男の人ならともかく、今回の犯人は女人です。誘拐して閉じ込めるというのは、女人の身にはかなり負担がかかります」
命を奪う、の言葉に右大臣の顔が青ざめたが、落ち葉の君は気にせず淡々と続けた。
「けれど、今回犯人はそうはしていません。なぜか。それは、犯人が望んでいるのは、あくまでも右大臣の謝罪だからです。それも、公の場での謝罪。だから、少なくとも明日の絵合が終わるまでは、お二人の命は安全なのですよ」
「その言葉、信じてよいのだな」
念を押すように確認する右大臣の大きな瞳をまっすぐに見つめ返して、落ち葉の君ははっきりとうなずいた。