第六話
少将と落ち葉の君が、山代の君のお屋敷を出たのは、空が鮮やかな夕焼け色に染まった頃だった。道の途中で落ち葉の君と分かれた少将は、これまでの状況を報告するため、そのまま幼馴染の滋川清行のお屋敷へと向かった。
「鏡右大臣の女人癖の悪さなら、私も聞いたことがある」
お庭に面したお部屋で、少し冷たくなりはじめた風にあたりながらお茶を飲んでいた清行は、少将の話を一通り聞き終えてから言った。
「とくに若い頃は、方違えで一晩過ごした先で好みの女人を見つけては、しばらく通っていたそうだ。右大臣は元服と同時に今の北の方と結婚されているから、北の方の気苦労といったらなかなか大変だろうよ」
「今回の事件は、おそらく十一年前に鏡右大臣と恋仲にあって捨てられた女人の誰かが引き起こしているものだろうが、右大臣と恋仲関係にあった女人を調べていたら、絵合までにはとても間に合わない。まったく、自業自得だよ」
少将はうんざりしたようにため息をついてから、ぞんざいに唐菓子を一つつまむと口に放り込んだ。一人の女人を大事にする性分の少将にとって、鏡右大臣のような人のために身を粉にして京を走り回るなど、全くもって不本意でしかなかった。
「ところで、その十一年前についてなんだが」
清行が急に真面目な声になった。
「私も調べてみたんだ。そしたら一つ、気になることがあった」
「気になること」
清行は自分の右側に置いていた一冊の古びた記録簿を手に取ると、あるページを開いて少将に見せた。
「十一年前の春先の記録なんだが、ここ。十一年前、衛門督だった右大臣は、私の父、滋川是清に厄払いの祈祷を依頼している。それもかなり強力な、ほとんど呪詛返しにも近い厄払いの祈祷だ」
「それってつまり、鏡右大臣は十一年前に誰かに呪われていたということか」
「おそらく。おまけに、この祈祷はその後六年間、毎年同じ時期に行われている。父上に訊いたところ、右大臣はひどく誰かを恐れていたらしい」
「誰かって」
分からない、というように陰陽師は肩をすくめた。
「ひとまず、明日また鏡右大臣のところへ行く必要がありそうだな。隠していることを全部話してもらおう」
そのほうが良い、と少将の意見に清行も同意した。
夕焼け色の空はいつの間にか深い闇色に染まっており、ところどころで小さな星が光を放っていた。一日中街を駆け回ってくたくたになった少将は、清行の勧めもあり、今晩は清行のお屋敷に泊まることにしたのだった。
――翌朝。
「橘少将! 大変です!」
まだ空がうっすらと白んできたばかりの早朝、惟雅が血相を変えてお屋敷に飛び込んできた。息も絶え絶えなところを見ると、ここまで走ってきたらしい。清行も少将も、惟雅のただ事ではない様子を見て眠気がふきとんだ。
「また一人、さらわれました」
「今度は誰が」
「右大臣の北の方さまです」
少将の脳裏に、脅迫文の言葉が蘇る。大切な者たち――狙われていたもう一人が北の方だということに、もっと早くに気づくべきだった。
惟雅は息を整えながら続けた。
「北の方さまは、昨晩遅くに、どうやら犯人におびき出されたようです。鏡右大臣は、もうお怒りで、少将と落ち葉の姫君さまにすぐにお屋敷に来るようにとおっしゃっておられます。落ち葉の姫君さまにも、別の者が今頃伝えているはずです。少将もすぐに出発のご用意をお願いします。お屋敷の入り口に、牛車を手配しました」
少将はすぐに支度をした。私も行こう、と清行も立ち上がった。
惟雅の手配した牛車に乗った三人は、急いでお屋敷へと向かった。牛車のなかで、惟雅は簡単に状況を話してくれた。
「昨晩の夜遅く、お屋敷の者がみな眠った頃、こっそりと外へ出て行こうとする北の方さまを玉緒さまが見つけました。玉緒さまが言うには、北の方さまは文を持っていて、文には、独りで来れば月子さまと会わせる、というような文章と、簡単な地図が描いてあったそうです。鏡右大臣に伝えるべきだという玉緒さまの意見を、北の方さまは決して聞き入れようとはせず、独りで行こうとするので、ついに玉緒さまは北の方さまのあとをこっそりとつけていったところ、途中ではぐれてしまい、途方にくれてお屋敷に戻り、鏡右大臣に事態を報告したとのことです」
どうしてそんなみえみえの罠にひっかかるかな――と清行は呻いた。少将は、昨日の三枝兵衛佐の言葉を思い出し、追い詰められていた北の方なら引っかかってしまうだろう、と思った。
鏡右大臣のお屋敷には、先に落ち葉の君が到着しており、顔色の悪い玉緒も一緒だった。
「昨夜は、あなたが北の方さまと最後にお会いになられたのですよね」
牛車から降りると、少将は玉緒に話しかけた。お屋敷に戻ってから着替えていないのだろう。玉緒の足元や着ている小袿の裾には、ところどころに土や砂、葉や綿毛が着いている。少将の言葉に、玉緒は小さくうなずくと
「あのとき、無理にでも北の方さまをお止めすべきでした」
「北の方さまは昨晩、どちらへ行かれたのですか」
落ち葉の君が静かに尋ねる。
「お屋敷から、賀茂川の方向にある森です。どうして、お方さまを見失しなってしまったのか……」
と、とうとう泣き出してしまった。
「橘さま、みなさま。まだこちらにいらっしゃったのですか」
泣き出す女房を囲んでおろおろしていた四人を見つけた三枝兵衛佐は、足早にやってくると、右大臣さまは既にお待ちです、と言って四人をこの前と同じお部屋に案内し、足早に立ち去った。
すでにお部屋で待っていた鏡右大臣は、明らかに怒っていた。全身から怒りを放ちながら、少将たちが円座に座るなり、口を開いた。
「橘少将。一体、あなたは何をしていたんですか」
左大臣の低く、太い声が、異様に大きく響いた。
「この度は、このような事態を防げず、誠に申し訳ありませんでした」
言い返したいことは山ほどあったが、少将はこらえて頭を下げた。しかし、頭を下げている幼馴染の隣で、清行は鏡右大臣の怒りを放つ瞳をひたと見据えながら反論した。
「お言葉ですが。橘少将も、そして落ち葉の姫君さまも、全力で事件解決に当たっておられます。ついては彼らに聞きましたところ、右大臣には今回の事件について、お心当たりがあるとのこと。それを話していただかなくては、彼らも身動きのとりようがありません」
清行の言葉に、時の権力者は苦虫を噛み潰したような表情をあからさまにした。それでも、白い狩衣姿の陰陽師はひるまない。
「滋川家の記録によれば、十一年前から六年間、右大臣は祈祷を依頼されていらっしゃいますね。それも、ほとんど呪詛返しに近い、強力な祈祷を。なにをそこまで恐れておられたのですか」
「それと今回のことは関係ない」
「なぜそう言い切れるのですか」
右大臣の目が泳いだ。
「私たちは、今回の件は鏡右大臣が隠しておられる十一年前の件と関係があると考えております。ですから話してください。十一年前にあったことを。まだ、絵合までには時間があるのですから」
しばらくの間、鏡右大臣と清行はにらみ合っていた。互いに一歩も譲らない視線が、ぶつかり合っていた。
そうしてやがて、鏡右大臣の方が折れた。
「わかった。そこまでおっしゃるなら、話しましょう。ただし、これから話すことは絶対に他言無用で願いたい。わが一族に関わることなのでな」
「必ずお約束いたします」
一族の名誉と人命と、あなたにとってはどちらが大切なのですか――喉まででかかった言葉を少将は飲み込んだ。