第五話
少将と落ち葉の君が鏡右大臣のお屋敷を出たのは、玉緒の話を聞いて少ししてからだった。鏡右大臣の北の方であり、月子姫の母であるひめゆりの上にも、月子姫の失踪前後について話を聞こうとしたものの、断られてしまったのであった。
「おかたさまは、今回のことで酷く参ってしまっております。お二方のおっしゃることもわかりますが、どうか、今日明日は、おかたさまのことはそっとしておいてくださいまし」
ひめゆりの上との面会を申し込んだ少将と落ち葉の君に、女房の三枝兵衛佐はすまなそうに、しかしはっきりと、言った。
実際のところ、ひめゆりの上は、月子姫の失踪によって、それはそれはひどくお心を病んでいた。姫君の失踪から二日間。水分も食べ物も全く喉を通らず、締め切ったお部屋のなかで、ただひたすらに泣いていたのである。不吉なことだが、もし万が一月子姫が無事にお屋敷に戻らなかったならば、姫君の後を追ってしまうのではないかというほど、ひめゆりの上は不安定な状態にあった。
そんなわけで、長年お仕えしている女房たちですら、今の状態のひめゆりの上と接するのはなかなか難しいことであったのだから、初対面である少将と落ち葉の君がひめゆりの上に申し込んだ面会を、三枝兵衛佐が断ったのは致し方なかった。
昨日より暖かい日差しに包まれながら、少将と落ち葉の君は、京の街を山代の君のお屋敷にむかって歩いていた。並んで歩く大小の二人を、ときおり生暖かい風が通り過ぎていく。
「十一年間、恨まれつづけるなんて、右大臣はよほどのことをなさってしまったんでしょうね」
少将は、隣を歩く落ち葉の君に話しかけた。冬の澄んだ水面をおもわせるように白いお顔の落ち葉の君の身長は、少将の肩に届くか届かないかくらいであった。
「そうでしょうね」
落ち葉の君は、静かな声で応じた。静かだけれど、悲しみを含んだ声でもあった。
二人の隣を、直衣姿の三人の男たちが楽しげに笑いながら走り去る。走りすぎざまに、小さな砂埃が舞いあがった。少将はまた話しかけた。
「それにしても、十一年間も人を恨み続けるなんて、かなり恐ろしいことですね」
「そうですね」
落ち葉の君が、また静かな声で応じる。
「しかし、恨み続けている人はとても気の毒だとも思います」
「気の毒、ですか」
思ってもいなかった落ち葉の君の言葉に、少将は思わず聞き返していた。落ち葉の君は、小さくうなずくと
「憎しみや恨めしいといった感情は、人間が感じる感情のなかでは最も強い感情です。強すぎるあまり、他の一切の感情――楽しい、嬉しい、おもしろいといった感情を、悲しみで傷ついた心を治してくれる感情を、殺してしまうのです。喜怒哀楽を備えて生れてきたはずの人間が、ある出来事をきっかけにして憎しみや恨みしかもたない人間に変えられてしまうのです。憎しみや恨みをもちつづける人間は、悲しい出来事に囚われたまま決して先に進むことのない止まった時間のなかを、生きつづけることしかできない。それはとても気の毒なことだと思いませんか」
これまで落ち葉の君のように考えたことがなかった少将は、言葉を返せなかった。いままで、恨みや憎しみといった感情をそんなふうに深く考えたことなど、なかった。
「もちろん、だからといって今回の犯人がやってしまったことは許されるものではありません。」
黙ってしまった少将に、落ち葉の君はそう、付け加えた。
鏡右大臣が冬頃まで熱心に通っていたという山代の君のお屋敷は、にぎやかな市井の一角にあった。透垣(向う側が透けて見える垣)のそばには、鮮やかな黄菖蒲が植えられている。お香の匂いだろうか、お屋敷から漂う甘い香りが、少将の鼻をくすぐった。
「右大臣さまについて、お話できることはありませんわ」
鏡右大臣のことで、少しお話をさせていただけませんか――そうお願いをする突然の来訪者たちを、不快感なく迎えた二十歳前後の女人は、山法師の植えられたお庭に面したお部屋に二人を通すと、開口一番にそう言った。
「最近まで、よくお逢いになられていたとお聞きしましたが」
冒頭にあまりにもキッパリと言い切られた少将は、戸惑いながら尋ねた。山代の君は扇で半分隠した白いお顔に自虐的な笑みを浮かべながら、
「たしかに師走の初めまでは、よくいらしていました。けれど、徐々に遠のいていって、睦月にはいってからは、全く」
「鏡右大臣のお越しが遠のくような出来事が、あったのですか」
かなり立ち入った質問をためらいなく尋ねた落ち葉の君の横で、少将は山代の君が機嫌を損ねるのではと、そわそわした。質問された山代の君は、自虐的に小さく笑う。
「どうしてそんなことをお知りになりたいのか、わたくしにはわかりませんけれど、いいわ、人に隠すようなことでもありませんから、教えてあげます。単にわたくし、飽きられたんですわ。あの方は、そういう方ですもの」
「そういう方、といいますと」
山代の君は少し高い声を落として、内緒話をするように口元を扇で隠すと、続けた。
「右大臣さまは、女人関係がとても派手な方で、たくさんの女人方のもとへ通われるのですけど、飽きてしまわれたとたんに、あれこれと理由をつけて通われなくなるのですわ」
そうですか――と落ち葉の君はうなずいた。
「失礼を承知で伺いますが、二日前の夜はどのようにお過ごしでいらっしゃいましたか」
今度は少将が尋ねた。
「こちらにおりましたけれど」
「どなたかとご一緒でしたか」
「ええ、女房が一緒でしたわ。あの、二日前の晩になにか」
「あ、いえ、ちょっとお聞きしたかっただけです」
不審そうに尋ねる山代の君に、少将は、あわてて顔の前で手をせわしなく振って、ごまかした。山代の君は、ふうん、と納得したような、していないような反応をすると、けだるそうに視線を庭先に向けた。
今は疎遠になった右大臣との日々に思いを馳せているのだろうか、山代の君の庭先に向けた視線が懐かしげな憂いをおびた。それから、目の前の来訪者に話すのではなく、まるで自分に言い聞かせるように、小さな声でつぶやいた。
「右大臣さまはお若い頃から熱しやすく冷めやすい方のようでしたし、今では北の方もお子さまもいらっしゃいますし、わたくしのところへいらっしゃるようになった頃からいずれこうなることは覚悟しておりましたのよ。こちらへ通われている間には、随分良くしていただきましたし……」
庭に植えられた山法師の白い花びらが、風に吹かれてさわさわと、揺れた。