第四話
「落ち葉の君さま、どうして鏡右大臣が扇を隠しているとお気づきになったのですか」
右大臣の立ち去ったお部屋を、隅々まで調べている落ち葉の君に、少将は話しかけた。落ち葉の君は、例の脅迫文が置かれていたという帳台の周りを熱心に、調べている。
「薄様の残像を見たときに、見えたんです。紅梅の描かれた、女性用の扇が」
なるほど、と少将は納得した。
「それにしても、右大臣があんなふうにまで隠したがる罪とは、一体なんなのでしょう。それに、普通は犯人を捕まえてほしいっていうところを、そこは求めていないなんて。明らかに不自然ですよ」
きっと右大臣家の名に傷がつくようなことなのでしょう――と落ち葉の君は帳台にかけられた布の裾を順番に見ながら言った。何かを見つけたのか、懐から花模様の懐紙を取り出すと、裾についていたものをそっとつまみあげ、懐紙にはさんだ。
「あのー」
後ろから聞きなれない声で遠慮がちに呼びかけられた少将は、振り返った。落ち葉の君も、声のしたほうに顔をあげる。
歳のころは十八歳前後だろうか。とても質素な顔立ちの小柄な女房が不安そうに両手をもじもじさせて立っていた。しゃがんで帳台の布の裾をいじっている落ち葉の君に、不思議そうな視線を向けている。
「もしかして、月子さまがいないことに気づいた女房というのは、あなたですか」
少将の言葉に、玉緒と名乗った小柄な女房は小さくうなずいた。
「いつも、姫さまを起こすのは私の役目でした」
「前の晩、なにか変わった出来事はありましたか。知らない人をお屋敷のそばで見かけた、とか」
「いえ、とくに、変わったことはありませんでした」
右大臣をはじめとして、お屋敷の人たちに散々聞かれているのだろう。玉緒はよどみなく、聞かれたことに的確に答えていく。
「月子さまの帳台に残されていた脅迫文を最初に見つけたのも、あなたですか」
「そうです」
少将は、先ほど落ち葉の君が言っていたことを聞いてみることにした。
「そのとき、そばに扇がありませんでしたか」
扇、の言葉に、玉緒の表情が反応した。しゃがんでお部屋を調べていた落ち葉の君も、手を止めて玉緒に注目した。二つの視線にとらえられ、玉緒の小さな瞳が、不安げに揺れたのを少将は見逃さなかった。
玉緒はしばらく話そうか迷っていたようだったが、
「右大臣さまがおっしゃったのですか」
「いいえ。でも、あったのですね、扇が」
玉緒はためらっているようだった。小さな瞳が、逃げ場をなくし追い詰められた動物のように落ち着かなく宙を漂っている。しかしやがて、観念したように深いため息を一つつくと、周りに自分たちのほかには誰もいないことをたしかめてから小声になった。
「私が話したというのは、内緒にしていただけますか」
「お約束いたします」
「実は、紅梅の描かれた扇が、そばに開かれて置かれていたんです。私、最初は姫さまのものかとも思ったのですが、良く思い出したら姫さまは梅の扇はお持ちでなくて。それで、姫さまを連れ去った犯人のものじゃないかって思って、右大臣さまにお見せしました。そうしたら」
玉緒はよりいっそう声を落として
「右大臣さまは、まるで、なにか怖いものをみたかのような、そういう慄いた表情を一瞬してから、『これは預かっておく。誰にも、この扇のことは喋るんじゃない』って私に言って、どこかへ持ち去ってしまったんです」
右大臣さまは、なにか隠していらっしゃるんです――と玉緒はつぶやいた。
「月子さまはよく外へお出かけになられるのですか」
いつのまにか、少将のとなりにきていた落ち葉の君が唐突に聞いた。室内の調査は、どうやら終わったらしい。
それまでの話とは脈絡の見えない質問を飛ばされ、一瞬、玉緒は面くらったような色を浮かべたが、すぐにもとの表情に戻った。
「いえ、姫さまはお屋敷ですごされることがほとんどでした。もっとも、外へは出たがっていたのですが、右大臣さまが、外を女人が出歩くのははしたない、とおっしゃっていたのです」
玉緒の話に、少将は、さもあの右大臣なら言いそうだと思った。
「このお部屋を最後にお掃除されたのは、いつですか」
落ち葉の君がまた、尋ねた。隣にいる少将には、落ち葉の君の質問の意図が全く読めない。
「こちらのお部屋を最後にお掃除した日ですか。ええと、月子さまのさらわれる前の日の午前中です」
「その日も一日、月子さまはお屋敷のなかですごされたのですか」
「そうです」
「お掃除のときは、どのあたりを」
玉緒はお部屋を見渡しながら、
「隅々までです。少しでも汚れていれば、姫さまのお召し物がよごれてしまいますから。毎日、午前中にお掃除をしております」
「最後にお掃除をされた後、このお部屋に出入りした方で山へ行かれたかたはいらっしゃいますか」
「山、でございますか。いいえ」
玉緒はいよいよ、落ち葉の君がなにを聞きたがっているのか分からず、とまどっているようであった。一方で落ち葉の君は、そうですか――と小さくうなずいてから、その場を離れて、お庭のほうをぼんやりと見渡した。墨の川のように一糸乱れのない髪をその小さな背に流しながら、お庭に咲き乱れている草花を眺めている落ち葉の君の氷の面のような冷たい横顔は、真剣に何かに考えをめぐらせているように、少将には見えた。
「脅迫文にあった『十一年前の罪』については、なにかご存知ですか」
少将のこの質問に、玉緒は申し訳なさそうに首を横に振った。
「私はまだ童でしたし、もちろんこちらのお屋敷にくる前のことですから、その頃のことは、全くわかりません」
十一年前といえば、玉緒はまだ六つか七つくらいだろう。当時の右大臣は、おそらく十七・八くらい。出世街道をまさに破竹の勢いで突き進んでいた頃だ。
「鏡右大臣に恨みを持っている女人に、心当たりは」
「右大臣さまを恨んでいる方ですか……」
玉緒はまた、微妙な表情を浮かべた。心当たりはあるけれど、それを目の前の人間に伝えていいものかどうか迷っている、あの表情だ。
「たぶん、いま一番右大臣さまを恨んでいらっしゃるのは、山代の姫君さまかと」
「山代の姫君」
初めて聞く名前だった。玉緒はうなずいて、
「鏡右大臣がこの冬まで、かなり頻繁に通われていたところです。もっとも、最近は訪れていないようですが」
「その姫君さまはおいくつですか」
落ち葉の君が視線を玉緒に向けた。
「詳しくはわからないのですが、たぶん二十歳すぎくらいかと」
「さきほど、『一番恨んでいるのは』とおっしゃいましたが、鏡右大臣は女人から恨みをよく買う方なのですか」
落ち葉の君の鋭い指摘に、玉緒はよりいっそう、困ったような表情を浮かべる。
「あまり、右大臣さまの悪い評判をいいたくないのですが……。その、右大臣さまは、衛門督でいらっしゃったころからかなり多くの女人方と関係をお持ちだったんです。だから、右大臣に恨みをお持ちの方は他にもいらっしゃると思います」
ははあ――と少将は呻いた。女人関係が派手だったならば、犯人候補者はかなりの数になることだろう。とても、絵合までの僅かな時間で調べ尽くすのは難しい。
ずっと静かだったお部屋の前のお庭から、小鳥のさえずりが聞こえてきたのを合図に、玉緒は、そろそろ失礼します、と二人に軽く会釈をすると、かすかに衣擦れの音をさせながら、さらわれた主人のお部屋から出て行った。