第二話
鏡右大臣が、十一歳の月子姫の失踪に気づいたのは、今朝のことだった。いつもよりも起きるのが遅い月子姫を起こそうと、月子姫付きの女房の一人が帳台(貴族の寝台)を覗くと、そこで休んでいるはずの姫君は忽然と姿を消していた。
「月子の部屋には、この置手紙が」
鏡右大臣は、震える手で懐からしわしわの薄様(貴族が和歌や手紙を送るときに使った紙)を取り出すと、少将に渡した。少将の横から、清行ものぞきこむ。白い薄様には、細い文字が流れるように短く綴られていた。
三日後の絵合で、十一年前の罪を告白し、謝罪せよ。
さもなくば、大切な者たちを失うだろう。
「これは置手紙というより、脅迫文ですね」
と、少将は文面をまじまじと見つめる。
「三日後の絵合というのは、いまあちこちで耳にする、大内裏で行われるあの絵合のことですか」
清行の質問に、右大臣はうなずいた。
「深琴左大臣家との絵合で、主上もご覧になられることになっている。かなり多くの人々がこの絵合に立ち会われるのだ」
「この十一年前の罪というのは」
少将の問いに、右大臣は曖昧に首を横に振る。
「今回のことと関係がありそうなものは、なにも」
「月子姫の居場所に、心当たりは」
「ないから、こうして困っているのだ」
いらだたしげに語気を強めると、右大臣は少将に迫った。
「橘少将、あなたとあなたのご友人はこれまでいくつもの事件を解決してこられた。ぜひ今回も、絵合までに、さらわれた月子をとりもどしてほしい」
「さすがは鏡右大臣。お願いするというよりは、命令ですね」
宇治の山道を歩きながら、少将の付き人の惟雅は言った。宇治の山の桜はすっかり緑に色づいており、道端のところどころでは、多奈が太陽に向かって一生懸命背伸びをするように、その黄色い花びらを広げていた。
少将は、先ほどの右大臣とのやり取りを思い出しながら、うんざりしたようにうなずいた。
橘少将は滋川清行さまのお屋敷にでかけておいでで、戻りは夕方になります――お屋敷で留守を守っていた惟雅からそう聞いた右大臣は、少将の帰りを待ってはいられないと、清行のお屋敷に押しかけたのだった。
「右大臣家の娘が誰かにさらわれたとあっては、わが家の評判に関わる。くれぐれもこのことは公にせず、内密に処理してもらいたい。さっきも言ったが、三日後の絵合は主上もご覧になられる。なんとしても、そのときまでに、月子をとりもどしてくれ」
そうして一方的に事情をまくしたて、例の置手紙を少将に握らせると、時の権力者は、来たときと同じようにあわただしく屋敷を去っていった。
「歩きながら思ったんですけれど、前にも、こういうことありましたね」
「ああ、紅のときも、たしか期限は三日間だった。」
「あのとき初めて、落ち葉の姫君さまにお会いしたんですよね」
「わたしは一晩、簀子で過ごしたんだった。」
二人とも、少将の妹である紅の姫君がさらわれたときのことを思い出していた。入内の四日前に誘拐された妹を内密に探し出す、という難題に困り果てた少将は、藁にもすがる思いで、いま歩いているこの道を歩いたのだった。
「僕、あのときは、まさか少将がその後も京の事件を解決し続けることになるなんて、思ってもいませんでしたよ」
わたしもだ、と少将は自嘲気味に笑った。
絶大な権力をもつ右大臣直々の依頼とあれば、断るわけにはいかなかった。もし断れば、少将はもとより、少将の父、橘中納言の立場にもなんらかの影響が及ぶことは間違いない。しかし引き受けたからといって、もし三日以内に無傷の月子姫を取り戻せなければ、やはりなんらかの不利益を受けるに決まっている。毎日をそつなく心穏やかに過ごしたい少将にとって、政界の中心人物とはなるべく関わらずにいたいというのが本音だったが、今回ばかりは、仕方がないと諦めるしかなかった。
「右近さまー! いらっしゃいますかー!」
戸口のところで少将が呼びかけると、少ししてから右近が出てきた。卯花(根岸色と白色)の襲に身を包んだ右近は、二人の姿をみると驚いた表情を浮かべた。
「実は、その、また失踪事件がおきてしまいまして。今日、落ち葉の君さまは」
「ええ、いらっしゃいますよ。少々、お待ちになって。」
右近がお屋敷のなかに戻っていく姿を見ながら、ふと、こうしてここへやってくるのは何度目だろうか、と少将は思った。過去をあまり話したがらず、人目を避けて、敢えてこの山奥に、女房と二人きりでひっそりと住まう落ち葉の君。少将が事件に巻き込まれるたびに、嫌な顔をせずに京へ赴いてくれる落ち葉の君。もしかしたら自分は、姫君に相当な迷惑をかけているのではないか――突然、そんなふうに思って、少将は申し訳ない気持ちにかられた。もっと、違う出会い方は、できなかったのだろうか、とも。
少将がそんなことを考えている間に、右近がまたそっとお屋敷から出てきた。小走りで二人のところへやってくると
「どうぞ、おあがりになって。このようなお屋敷なので、お部屋も、とても粗末ですけれど」
「えっ、僕たち、簀子じゃなくていいんですか?」
思いがけない言葉に、惟雅の声が、思わずはしゃいだ。
「簀子の方がよろしかったですか?」
「いえ、よろしくないです!」
「惟雅」
嬉々とする惟雅を少将はなだめた。そんな二人の様子を右近は一歩引いてほほえましそうに見ている。
「さ、どうぞ。ちょうど良三法師さまからいただいた、しとぎ(米粉をこねて蒸し、団子のようにしたお菓子)もありますから、おあがりになって」
ほのかな墨の香りの漂う小さなお部屋で、菖蒲の襲(紅梅と青の組み合わせ)に身を包んだ落ち葉の君は、いつものように、片手にもつ扇でそのお顔を隠し、優雅に脇息にもたれていた。華奢な肩をながれるつややかな漆黒の髪と透き通るように白いお顔が、絵に描いたようにどうしようもなく美しく、少将はまるで竹取物語の天女と対面しているかのような気持ちがした。
「もう、いらっしゃらないと思っておりました」
落ち葉の君が、意外そうな声で言った。
「それは、またどうして」
少将の言葉に、落ち葉の君はすこし驚いたような表情浮かべると、
「滋川さまから、お聞きになってはいないのですか」
「清行からですか、えっと、なんのことでしょう」
まったく思い当たることのない少将の様子に、落ち葉の君は、いえ、なんでも、とつぶやくと、そっとお白湯に手を伸ばし、一口含んだ。
ほうっと息を吐くと、少将のほうを見つめる。
「それで、今度は、どなたが失踪されたのですか」