第一話
近衛大路の一角にある、京一の陰陽師こと滋川清行のお屋敷にて。
薄紫色の狩衣に身を包んだ橘康之少将は、柱の一本に背を預けて、手入れの行き届いた庭を眺めていた。首元からは、根岸色の単をのぞかせている。
庭の片隅に植えられた桜の木は、花びらがほとんど散ってしまって、葉のほうが優勢になっていた。緑色の葉たちは風に吹かれると、かさかさと音を立てながら、もうすぐお昼の日差しがつくりだす木漏れ日を、地面に散らしていた。
「宇治の桜は、それは見事だったよ」
清行の式神――大紫――が注いでくれたお酒を一口含んでから、少将は言った。落ち葉の君からお花見の誘いを受け、一緒に桜を見たのは、三週間ほど前のことだった。もっとも、お花見の帰り道、あまりにも凄惨な遺体を見つけてしまい、そこからは例によって殺人事件解決のために京を奔走する、という災難にあってしまったが。
清行はというと、紺碧色の袖括の緒のついた真っ白な狩衣をふうわりと纏い、首元からは鮮やかな紫紺色の単をのぞかせて、少将のとなりで同じように庭を眺めていた。ときおり唐菓子をつまんでは、小動物のようにむぐむぐと咀嚼している。先刻からほとんど何も話さない陰陽師の色白の整った横顔は、なにか悩み事を抱えているようにもみえた。
「――なぁ、清行、そろそろ、わたしを呼んだ理由を話してくれないか」
少将は、どこなく緊張した表情を浮かべて先ほどから黙々とむぐむぐしながら座っている幼馴染に言った。唐菓子を一つつまんで口に入れては、次の唐菓子にその白い手を伸ばす――それを繰り返していた清行は、少将の言葉を聞いて、唐菓子に伸ばしていた手を引っ込めた。
大事な話があるから、屋敷まで来てほしい――少将が清行からそんな文を受け取ったのは、二日前のことだった。清行がそんなふうに少将を呼び出すことはめったになく、なにか深刻な出来事が起きたのでは、と心配してやってきた少将を、どことなく暗い表情の清行は、甘酒と唐菓子で迎えた。
「実はな」
狐のように細い目を伏し目がちにして、京一の陰陽師は重たい口を開いた。普段は一切の迷いのない涼しげな瞳を、宙に漂わせながらためらいがちに話す幼馴染を見るのは、清行の友人であった加茂博明の事件のとき以来だった。
「実はな、私の知人がな」
「うん」
「想いを寄せている相手がいるのだがな」
「うん」
「その相手がな」
「うん」
ぽつりぽつりと言葉を落としていた清行はまた、その先をためらうように口をつぐんだ。そろそろと伸ばした白い手で、お酒の入った杯をとると、意を決したように勢いよく飲み干す。
「その相手がな、式神なのだよ」
「――は?」
少将の物腰おだやかな視線と、清行の悩みに悩んでいる弱い視線が交差した。真剣そのものの表情の陰陽師は、どうやら友人をからかっているわけではないらしかった。
「いやだから、人間ではないのだよ」
「――はぁ」
思いも寄らない言葉に呆気にとられている少将に、清行は少々いらだつような口調で続けた。
「私は悩んでいるのだよ。その知人に、その想いは捨てよと伝えるべきかを」
「その知人は、相手が式神だということを知っているのか?」
少将の問いに、清行は首を横に振った。
「その式神は、なにかこう、人にとって悪い式神なのか?」
「いや、いまのところは……」
「なら」
少将はなんということでもないというふうに、のんびりした口調で
「伝えなくても良いのではないか」
「しかし、相手は式神なのだよ。人間ではないのだよ」
「確かにすこし変わってはいるが、でもだからといって式神に恋心を抱いてはいけないなんてきまりはないだろう」
「それはそうだが……」
清行は納得がいかないというように手元の唐菓子を一つつまむと、口に放り込む。むぐむぐと咀嚼している様子は、なにか反論の言葉を探しているかのようにも見えた。
「わたしは、何かを好きになったり、誰かを好きになったりすることは、幸せなことだと思うけれどな。心に余裕がある、心が満ち足りているからこそ、好きという気持ちになれるものだろう。それに」
少将はふと言葉を切った。優しい視線が、桜の木に向けられる。
「好きという気持ちは、周りから捨てよといわれて簡単に捨てられるものでもないだろう」
最後の言葉は、少将自身に向けられているかのようだった。桜の木の向こうに、落ち葉の君をみているように、清行には思えた。
「なあ康之」
「うん」
「もし、落ち葉の姫君が式神だったら、どうする」
少将は驚いて、清行の整った顔を見つめた。
「そうなのか」
「いや、その、たとえば、の話だよ。もし人間でなかったとしても、今と変わらない気持ちで姫君と接することはできるか」
――もし人間でなかったら、か。
少将は、ひいらひいらと舞い落ちていく木の葉を眺めながら繰り返した。
ほのかな墨の匂いの香る宇治の山のあの小さなお屋敷に、女房と二人きりで暮らす落ち葉の君が、物体に残された残像を読み取るという不思議な力をもったあの姫君が、もしも、人間ではなく、式神であったら――。
少将は、やがて、言った。
「変わらないだろうなぁ。人間であろうと、そうでなかろうと、あの方は、あの方なのだから」
そうか、と清行は微笑んだ。
ひときわ青葉をつけている桜の枝の先に、ミコトリが一羽、ふうわりととまった。
「橘さま、お客様です」
少将が清行のお屋敷へきてから一刻(一時間)ほどしたころ。
山吹色の髪をした式神に連れられて、一人の男が、かなり慌しげに大きな足音を立てながら、やってきた。
「これはこれは、鏡右大臣。今日はまた、どのようなご用件で」
清行に鏡右大臣、と呼ばれた三十歳すぎの男は、かなり動揺しているようだった。急いでお屋敷まで来たのだろう、がっしりとした肩は呼吸と共に上下し、普段ならそれなりに端正であろう色白のお顔は、血の気が失せ、唇まで青白くなっている。
大事件が起こった、そんな雰囲気を全身にまとった鏡右大臣は、突然の来訪者に呆気にとられている少将をみつけると、すがるように少将の肩を掴んで懇願した。
「助けてほしい。娘が、月子が、さらわれた。」