―追憶1―
あらすじ:
京の権力者、鏡右大臣の姫君がさらわれた。姫君の無事と引き換えに犯人が右大臣に求めたものは、十一年前の罪の告白と謝罪。姫君の奪還を命ぜられた橘少将は、右大臣が隠そうとする十一年前の罪に迫る。「あなたが幸せになっても、誰もあなたのことを責めたりはしませんよ」――落ち葉の君と橘少将がシリーズ最後にして最も悲劇的な事件に挑む。
*『宇治で解かれる事件手帳』の八作目。
一人の男が、床に臥している。年齢は、四十歳くらいだろうか。病なのか、乾いた咳をする男の顔は、青白く力のない表情を浮かべている。
枕元に、一人の若い女が座っている。ときおり飲み物を持ってくる彼女は、どうやら男の看病をしているらしかった。
「露子」
「はい」
男の呼びかけに、露子と呼ばれた若い女は心配そうに返事をした。男は乾いた咳をしてから、
「たしかに、いままでのおまえの人生は、辛いことばかりだっただろう。苦しかっただろう。今でも、憎んでいることだろう。けれどな」
男はまた激しく咳き込んだ。口元を押さえた手の平に、暗い色の血がつく。
おとうさま、と若い女が横になっている男の背をさすった。ぜいぜい、と荒い息をしていた男は、呼吸をおちつけると続けた。
「忘れなさい、とは言わない。忘れられるようなものではないからな。でも、一生、背負っていく必要は、ないのだからな。おまえは、幸せになって良いのだからな」
おとうさま、という言葉は、声にならず、代わりに女の頬を涙が伝った。黒ずんだ男の弱弱しい手を握り締める。
「どうか、幸せに、なるのだよ。憎むことをやめて、幸せに、なるのだよ。おまえは、幸せに、なって良いのだよ」
その夜、病に臥していた男は、この世を去った。
若い女は、また、独りになった。
一ヶ月前の、出来事だった。