第三話
「右近、さっきのかたはまだ外にいるのですか」
時刻はもう丑四つ(午前二時半ごろ)を過ぎていた。秋の夜の生ぬるい空気が山を覆っている。
「はい。いらっしゃるようです」
「そう……」
落ち葉の君は気だるそうに扇を開いたり閉じたりしていた。外に男がいるのなら、さすがに寝るわけにはいかない。かといって起きていてもとくにすることはなかった。
「面倒なことに巻き込まれそうな予感は、当たったようですね」
秋の夜に似つかわしい、凛とした声が響いた。傍らの灯台に照らされたお顔は色が白く、透きとおった肌をしていて美しかった。
「あの……お話だけでも聞いてさし上げては?」
右近の言葉に、落ち葉の君は悲しげに首を振った。
「わたくしは、もう人間とはかかわらないと決めたのです。結局、互いに合い入れない存在ですから。かかわりをもって、またあのように傷つけられることには、もう耐えられません」
「おかたさま……」
落ち葉の君の寂しげなため息が、灯台の火をかすかにゆらした。
「右近」
「はい」
落ち葉の君は脇息(肘掛け)にもたれて扇をもてあそびながら、ぼんやりと宙を眺めていた。
「あなた、先に休んでいていいわ」
「でも、おかたさまは?」
「わたくしは……。そのかたがお帰りになるまで起きています」
「でも、お一人ではもし何かあったら……」
女房の考えを察した女主人は、大丈夫ですよ、と微笑みかけた。
「わたくしは、何かあっても、これがあるので大丈夫ですよ」
落ち葉の君は硯箱を手元に引きよせた。その硯箱、というより、それを満たしている墨が、落ち葉の君にとってただの墨でないことは右近も知っていた。それがあれば、確かに身を守ることはできるだろう。
「では、私はお先に失礼します」
おやすみなさい、という声を受けて、右近が退出するのを見送ると、落ち葉の君はため息をついて少将のまだ居続ける御簾の向こうを見やった。
御簾の向こう側で康之少将は青白い月を眺めて座り続けていた。もうどのくらい時間が経ったのかわからなくなっていた。きりぎりすやすずむしの音が、生ぬるい空気に涼しさを与えている。
「どうしたものかなぁ……」
少将は薄暗い御簾の向こうを眺めた。このままここに居続けたからといって、あのかたくなな姫君が自分の話を聞いてくれるとは、もう思っていなかった。ただ、こんな夜中まで居続けた以上、おいそれと帰る気にはなれなかった。良正法師が今の自分をみたら、相当な意地っ張りだと言うだろうな――そのときの法師の顔を想像して、少将は笑った。それにしても、どうしたものか。もう御簾の向こうの姫君は休んでしまったかもしれない。
少将はまた、空から悩ましげな光を放つ青白い月を見上げた。少しのかげりもない、満月だった。
「三の宮のときも……確かこんな夜だった……」
少将の北の方、三の宮は昨年の出産の際に亡くなっていた。少将の大君となるはずだった子と一緒に。
宮は、もともとお身体が弱くはかなげだった。背丈も少将の肩ほどまでしかなく、白くて透明な美しい肌をしていて、そのまま透けて消えてしまいそうだった。
――殿。 わたくしに、殿の大君ができたようですの――。
宮のほほえみはいつでもあたたかく少将を包み込んだ。ほかの貴族からもいろいろな姫君を紹介されたが、少将にとっては三の宮に勝る姫君はいなく、たった一人、三の宮だけを大切にしていた。
――もう、あのほほえみが少将を包んでくれることは、ない。
「三の宮……」
きりぎりすやすずむしが、夜空に向かって鳴き続けていた。
「泣いていらっしゃるのですか?」
不意に、御簾の向こうから聞き覚えのない凛とした声がして、少将ははっとして顔を上げた。目の前には、月に青く照らされた御簾がかかっているだけだったが、その向こうに人の気配を感じた。
「妹君さまのこと、ですね」
はかなげだが芯のあるその声は、亡き三の宮を少将に思い出させた。
「泣いているのは……実は、妹のことでではないのです……」
そばに愛しい人がいるような気がして、少将は気づくと三の宮のことを話していた。御簾の向こうにいるのは、落ち葉の君という全く知らない姫君だとはわかっていたけれど、その声があまりにも宮と似ているように感じられて、話さずにはいられなかった。
「大切な人が目の前でいなくなってしまうのは……とても胸の痛いことでございます」
落ち葉の君は少将の話を黙って最後まで聞いてから、ぽつりとつぶやいた。
「落ち葉の君さまには、どなたか大切なかたはいらっしゃいますか」
初対面の人に尋ねるにしてはずいぶんと不躾な質問だったが、なぜか答えてくれると思った。御簾の向こうで、かすかな衣擦れの音がした。
「ずっと昔に……一人だけ。とてもお優しいかたでしたが、時折、思い切ったこともなさるかたでした」
「そのかたは亡くなられてしまったのですか?」
沈黙が御簾を通りぬけて二人の間を漂った。小さなため息を、聞いたような気がした。
「……あるとき、人間としての禁忌を犯して、主上のお怒りを買ってしまいました。今は、もう……。現世でお会いすることはないでしょう」
御簾の向こうのお顔はみえなかったが、とても悲しそうなお顔をしているのだろうと思うと、いまさらに、自分のしたおろかな質問を悔いた。なにか、とてつもなく悲しい出来事が、この姫君にはあるように感じられた。
「墨の匂いがしますが、書をたしなまれるのですか」
これ以上、姫気味につらいことを思い出させては、と話題をかえた。
「絵を少し」
「どのような絵をお書きになるのですか」
少将はなるべく陽気な風をよそおった。
「もしよかったら、見せていただけると嬉しいですね」
「このあたりの鳥を……。お見せすることはできませんわ。わたくしの絵には生命が宿ってしまいますから……」
それは、さぞ美しい絵なのでしょうね――と言ってから少将は空を見上げた。悩ましげな月の光は少し弱まり、漆黒の空は薄明るくなり始めていた。卯一つ頃(午前五時半ごろ)の空の色だった。
「本当に、一晩明かされてしまいましたのね」
困ったような、それでいてどこか楽しげな声だった。昼間は全く取りつく島のなかった姫君と、今は話ができていることに少し希望をもって、少将は意を決した。
「落ち葉の君さま、どうか、お力をわたしに貸していただけませんか。どうしても、妹をあと二日で見つけなくてはならないのです」
御簾の向こうで姫君がどのような表情をしているのかはわからなかったが、少将は深く頭を下げた。ここで断られたらもうあきらめるつもりだった。
「そうですね……」
衣擦れの音がして、姫君が立ち上がったのがわかった。
「では……一度だけ、お助けしましょう」
辺りはすっかり明るくなっていて、ヒタキやモズのさえずりが朝の訪れを告げていた。
「少将! ついにやったのですね!」
主人の迎えにやってきた惟雅は少将の顔を見るなり嬉しそうに近寄った。
「ああ。あとはもう姫君頼みだ。なんでもかまわないから、手がかりがつかめると良いのだが。父上はどうしていた?」
惟雅の表情がややくもった。
「それが、まだ何も進展はなくて。中納言さまはいよいよお怒りでした。沖少納言がお聞きになった話では、明け方より少し前、お屋敷のそばに一台の牛車が停まっているのを見た者がいたらしいのですが、そこに紅の君さまが乗っていらしたかまではわからなかったそうです」
「そうか」
少将は、紅の君は自ら失踪したのではなく誰かにさらわれたのではないかと考えていた。さらったのが誰かまでは見当もつかなかったが。
「橘少将、よろしかったらお召し上がりくださいませ」
右近が粥を盆にのせて持ってきた。
「お口に合うとよいのですが。お恥かしい食事で本当にもうしわけありません」
「いえいえ、こちらこそ、朝食まで用意していただいて、ありがとうございます」
右近はにっこりと笑うと、お辞儀をしていった。少将が最初に感じたとおりの、やさしい人柄のあらわれている笑顔だった。
「ぼくの分はないのですね」
少将の食事を物欲しそうにしている惟雅に、
「しかし君はもう済ませてきたのだろう?」
「今朝は何も食べておりませんよ! 起きてすぐに出発したのですから。そもそも主人が一晩中外に放り出されているというのに、付き人のぼくが暢気に朝食を済ませてお迎えにあがるなんて、失礼ではないですか!」
それもそうだ少将は笑った。右近の用意した朝食は特別にすばらしいものではなかったが、一晩の冷えと空腹を癒すには十分だった。
「それにしても、意地悪なかたなのですね、姫君は。お屋敷の中にいれてくださったっていいのに」
「わたしがここで良いと伝えたのだよ、惟雅」
軽い朝食を済ませて一息ついたところで、落ち葉の君も用意ができたらしくそばにやってきた。御簾越しでお顔は相変わらずわからなかったが、小柄なようで、少将にまたあの三の宮を思い出させた。
「お手紙と和歌を見せていただいても?」
御簾の下から色白でか細い手が一瞬見えたとき、少将は思わずどきっとしていた。そのままこの白い手をこちらに引いて、勢いにまかせて御簾をはねのけたなら――。
「これは、それぞれ別のかたが書いたもののようですね」
落ち葉の君の涼やかな声が、少将の意識を引き戻した。よぎった考えを打ち消そうと頭を振る少将には気づかず、姫君は
「この二つの筆跡は似ておりますが、よくみると文字の止め方やはらい方が異なっています。おそらく、和歌は妹君が、手紙は別の人物が書いたのではないでしょうか」
「なぜ、和歌が紅の君さまのものだとお分かりになるのですか?」
「理由は二つあります。一つは、和歌のほうが文字が乱れているからです。誰かの筆跡を真似て文字を書くとき、人はどうしても慎重になります。そばに何か見本を置いて書くにしても、細部に気を配ろうという意識が働きますから、自然に書く速さは遅くなります。また慌てて書いた風をよそおう場合、速く書こうとすると無意識に自分の癖が文字に表れてしまうため、やはりそれなりに慎重に書くはずです。そしてゆっくり書いた場合、この和歌の文字のように墨がかすれることはありません。墨が飛び散ることも考えにくいでしょう。そのように考えると、この二つが似ていて、どちらかを妹君が書いたとするならば、ごまかしのききにくい、和歌のほうではないでしょうか」
少将も惟雅も、得々と語る落ち葉の君の話を理解するのに時間がかかった。まず京では、こんなに淡々と説明をする姫君に出会うことはそうそうない。たいていの姫君は脇息(ひじ掛け)にもたれかかって扇をぱたぱたさせ、こちらが話を振ってようやく「はい」とか「ええ」とか、場合によっては微笑むだけだったり、機転の利く姫君なら和歌で切り返してきたり、とにかく進みの遅い会話をするのだ。男が女の話の内容整理で手一杯になることはまずありえないし、宮中での仕事でさえ、こんなに頭を回転させて話を追っていかなければならないことは、ないかもしれない。
「あの、一ついいですか?」
先に内容をつかんだらしい惟雅が首をひねった。
「逆の場合はないのですか? 手紙のほうが紅の君さまで和歌を別の人が書いた、というのは。和歌を慌てて書いたのはわざと文字を乱して書くことで少しくらい筆跡が違っていても違和感を感じにくくするためだった、とは考えられないのでしょうか?」
落ち葉の君の口調がうつったのか、惟雅もやや早口になっていた。
「わたくしも初めにそれを考えました。ただ、それだとあまりにも手紙の内容がもっともらしすぎるのです。和歌を妹君さまのものだと判断した二つ目の理由にもなるのですが。もし、この手紙を妹君さまがお書きになったのなら、妹君さまはご自身の意志でお屋敷を抜け出したことになります。それなら、別の誰かがこのような不可解な和歌を残す必要がありません。この手紙だけで十分でしょうし、もし和歌を残すにしても、人の和歌をそのまま引用するのではなく、別の句を残していったのではないでしょうか」
なるほどと惟雅はうなずいた。
少将はずっと頭にあった考えを、思い切って言ってみた。
「妹は……何者かにさらわれたとお考えですか?」
隣にいる惟雅の表情が引きつるのがわかった。
落ち葉の君は一瞬の沈黙の後、
「おそらく。この手紙の『契りを結んだかた』に、ご自身の意志に反して連れて行かれたのではないかと思います。そしてこの和歌は、妹君さまが何かを伝えたくて残したものだと考えるのが自然でしょう。」