第五話
話し終えた落ち葉の君のさびしげなお顔を、清行は見ることができなかった。いままで何度も自分や友人を助けてくれた人にとって最愛の、存在理由ともいえる人を奪ったのは、他でもない、自分たちだったという事実が、清行を苦しめていた。
人間にあらざるものは、消すべし。
それが、陰陽師の役目なのは分かっている。けれど、人間に何の害も及ぼさない、罪のないものまで、消し去らなければならないのだろうか。それが、本当に正しいことなのだろうか。
「落ち葉の君さま」
重たい沈黙のなかで、清行がおもむろに口を開く。
「なぜ……なぜ、加茂友平さまの事件のとき、私の頼みを、滋川である私の頼みを、聞き入れてくださったのですか」
「そうですね」
落ち葉の君が、さびしげに微笑んだ。
「あなたのその、瞳のせいでしょうか」
「私の瞳」
落ち葉の君は、優雅に扇を広げた。忠広から与えられたその扇には、唐風の、さまざまな花が描かれていてとても華やかだった。
「あなたのその瞳はときどき、驚くほど殿と似ています。波紋のない水面の奥底で、決して消えることのない炎が静かに燃え上がっているような、意思の強い瞳」
清行は驚いて、目の前の女人をみた。今まで「狐のような目」と揶揄されたことはあっても、そんなふうに言われたことは、なかった。
落ち葉の君はゆっくりと吐息をつくと
「あのとき、あなたはおっしゃいました。『滋川家と加茂家の対立を、おさめたい』と。空々しい理想論をただ語っているのではなく、あなたは本心で、そうおっしゃった」
落ち葉の君の寂しげな視線が、未来に思いを馳せるように、遠くを漂う。
「滋川家と加茂家の対立の象徴であるわたくしにとって、あなたのその本気の思いは、とても嬉しかった。あなたなら、悲劇しか生むことのなかった両家の対立を、本当に終わらせてくれるのではないか、そう期待せずには、いられませんでした」
漆黒の涼しげな視線と、清行の心をそのまま表した弱々しげな視線がぶつかった。
「わたくしは、あなたなら、わたくしのまだみたことのない関係を、加茂家と築いていける、そう信じているのです」
憎んで余りあるはずの滋川家の自分にかけてくれた落ち葉の君の言葉に、清行は、涙を流して何度もうなづくことしか、できなかった。
清行がお屋敷を去った後。
黄金色の半月が、ところどころ空に浮かぶ雲を照らしていた。御簾越しにその月を眺めながら、落ち葉の君はぼんやりと座っている。
「おかたさま」
右近が、ほわほわと湯気をたてているお茶をお盆に載せて、月明かりに照らされた落ち葉の君のそばへやってきた。お盆に載せた一つを、そっと落ち葉の君へ差し出すと、しずしずと下がり、すこし後ろに、座る。
「右近」
落ち葉の君が、月をみつめたまま呼びかけた。手元には、清行が置いていった、萌黄色の日記帳が置かれている。
「なぜ、殿は、是人さまの取引を受けなかったのでしょうか」
お茶を口元まで運んでいた右近の手が、止まった。白い月明かりは、庭先の木々を照らすばかりで、女主人の表情は、右近の位置からは見えない。落ち葉の君は、右近に背を向けたまま続けた。
「この術は、忠広にとって何かを犠牲にしなければならないというような、負担となるようなことはありません。あのとき、是人さまの言うとおりに、もう一人のわたくしを造っていれば、あのようなことにはならなかったはずです」
是人の取引をかたくなに拒み、最後は極刑を受けた忠広。落ち葉の君は、最後にみたあの忠広のやさしい笑顔を思い出していた。
「おかたさま」
天に昇っていってしまいそうな華奢な後姿の女主人に、右近は呼びかけた。
「それは、忠広さまが、おかたさまのことを心から大切に思われていたからですよ」
「たしかに、忠広さまは当初、亡き美代さまの代わりとして、おかたさまを造られました。けれど、忠広さまはずっとおかたさまと美代さまを重ねていたわけではありません」
右近の脳裏に、苦悩した忠広の横顔が浮かぶ。
「忠広さまは悩んでおられました。おかたさまとお過ごしになられる時間が重なれば重なるほど、美代さまとの記憶が、薄くなっていくようだと、よくおっしゃっておられました。おかたさまは美代さまにとてもよく似ていらっしゃいます。けれど、そう、よく似ているに過ぎない。おかたさまと過ごす時間を重ねるにしたがって、忠広さまはおかたさまに、思いを寄せるようになっていったのです。」
落ち葉の君は驚いて振り返った。
「殿が、わたくしに」
右近は、あの優しいお顔でうなずいてみせる。
「ですから、忠広さまはとても苦しんでおられました。ご自身のお命が限りのあるお命なのに対して、おかたさまのお命がかぎりのないものであることを。ご自身の寂しさを紛らわすという自己中心的な目的を果たすために命を扱い、その結果、おかたさまに生涯なくすことのできない、そのような重荷を背負わせてしまったことを後悔しておられたのです」
「後悔」
落ち葉の君はうつむいた。膝の上に重ねられた細い手のひらが、固く握られていく。
この世に生れたくて生れたわけではないうえに、永遠に生きなければならない苦しみを一方的に与えておいて、後悔、とは。あまりに身勝手だと感じた。しかし、そんな女主人の気持ちを汲み取ったように、右近は続ける。
「けれど、一方でまた、おかたさまをお造りになられたことを後悔することは、おかたさまへの恥辱にあたるとも、おっしゃっておりました。是人さまに取引を持ちかけられたのは、そのような頃でした。」
術を使うことでなにか反動があるわけでもないのに、なぜそれほどまでに拒むのかと、是人に迫られたとき、普段は穏やかな忠広は、いつになく激しい怒りを顔ににじませて言い返した。人間は人形ではない、自らの欲を満たすために命を利用することが、どれほど罪深いことかわかっているのか、と。
もっとも、忠広のこの主張を、是人は鼻先であしらった。すでに自らの欲のために命を利用した者に、なにを言われても説得力がない、と。忠広自身も自覚していたことではあったが、その言葉によりいっそう、自責の念を深めたのだった。
「右近」
落ち葉の君は右近のまあるい顔を見つめた。
「なぜ、あなたまで、忠広に術をかけられたのですか。なにも、あなたまでわたくしとおなじ宿命を背負わずとも、良かったのに。あなたまで苦しまなくても、良かったのに」
月が、雲に隠れたのだろう。明かりのなくなったなかで、右近は、悲しげに微笑む。
「忠広さまがおかたさまをお造りになったとき、私もその場に居合わせておりました。けれども、私には忠広さまをお止めすることができませんでした。おかたさまに悲しい宿命を背負わせてしまったことには、私にも責任があるのです。ですから私には、おそばでおかたさまをお守りしなければ、そう思いました。おかたさまがこの世にいつづける限り、私はおそばでお仕えしたい、そう、忠広さまにお願いをしたのです。この身を一度も苦しいと思ったことなど、いいえ、苦しいと思って良い資格など、私にはございません」
右近の覚悟に満ちた揺らぎのない言葉に、落ち葉の君は何もいえなかった。この、百五十年間――もし、そばに誰もいなかったなら、自分はどうなっていただろう。
「……ありがとう」
袖で涙をぬぐう落ち葉の君の華奢な肩を、右近はそっと抱いた。そうして、いった。
「おかたさまが幸せになれるなら、私はどんなことも、厭いません」
雲に隠されていた月がふたたび夜空に現れて、業を背負った二人を優しく、暖かく包み続けていた。
―完―