第四話
なにか良くないことが近いうちに起きる――あの日、白い狩衣の男が来てから漂うお屋敷の雰囲気から、落ち葉の君はそんな予感を感じていた。忠広も右近も落ち葉の君の前では平静を装ってはいたが、ときおり二人のお顔には、深い悩みを抱えているような表情が垣間見えたし、二人とも確実に、ため息が増えていたからだった。
それでも、まさか、あのようなことが起きるとは、想像だにしていなかった。雪が雨に変わりそうな、どんよりとした、あの日のようなことが。
「陰陽師としての禁忌を犯された忠広さまは、お屋敷へやってきた検非違使たちによって、その場で捕らえられました。私とおかたさまは、なんとか逃げ出し、それからはおかたさまを狙う是人さまから逃れるべく、しばらく嵐山のほうへ身を隠すことにしたのです。」
外の世界のことを何も知らない、それまでお屋敷のなかの世界でしかすごすことのなかったものにとって、当たり前だった日常を前触れなく失うことが、どれほど過酷なことか。
清行には、想像ができなかった。どんな言葉を発したらいいのかが分からなかった。つらいなどという簡単な表現では済ませられないことは、分かっていた。
「このときはまだ、なぜこのようなことになってしまったのか、わたくしは分かりませんでした。そもそも、なぜわたくしが追われることになったのか。しかし、それからひとつきほどしたころ、全てを、知りました」
凍てつくような雪の日、落ち葉の君は、嵐山のふもとで再び、落ち葉の君を追っていた是人と再会した。
「なぜあなたはわたくしを狙うのです」
冷たい外気が、白い小袿姿の落ち葉の君の細い身体に容赦なく突き刺さる。
凛とした声は、寒さで白く色づいては消えていった。
「なぜって、決まっているではないですか、あなたがこの世界にいてはならない存在だからですよ」
男は、蔑むように、鼻で笑った。
自分に向けられる見下すようなその目つきが、不快で仕方がなかった。なぜこのような目を向けられなければならないのか、分からなくて、余計に不愉快だった。
「おやめなさい」
右近が、男の前に立ちふさがった。
「おかたさまにそれ以上の無礼なお言葉は、いくら是人さまでも許しません」
「おやおや、無礼と言われる所以はありませんな」
是人に少しも悪びれた様子はなかった。
「わたしは相応のものに相応の対応をしているだけ。いたって当たり前の対応をしているだけですよ。むしろ、人間であるにもかかわらずこのような不浄なものの付き人をしているあなたこそ、その身を恥じるべきです。」
「どういう意味なのです。なぜわたくしが不浄なのです。」
落ち葉の君の問いに、是人は一瞬、真顔になり、それから唐突に、笑い出した。嘲るようにひとしきり笑い、それから呼吸を整えて右近をみやると、
「まさかとは思うが、忠広さまもあなたも、このものに己の正体を教えていないのですか」
落ち葉の君には、目の前で行われている会話の意味がわからない。右近を見るとほとんど柔和な表情しか浮かべることのないお顔に、明らかに緊張がにじんでいる。
「なりません、それ以上は」
右近が男の言葉を遮るように重ねて叫んだ。しかし、男はその言葉ににやりとすると、全くぬくもりの感じられない、ありったけの軽蔑を含んだ瞳を青白い顔の落ち葉の君に、向けて言い放った。
「ではわたしが、何も知らない気高き物の怪に、教えてさしあげよう。あなたは、最愛の女人を失った加茂忠広さまが、自らの心を慰めるために造った、物の怪なのですよ。どれほど高価な着物を纏おうが、どれほど教養を深めようが、所詮は、ひとりの愚かな陰陽師が、その利己的な目的のため禁忌を破って生み出した物の怪だ。それも、身代わりの。己の正体も知らされず、なんと虚しい存在であることよ」
落ち葉の君は声を失った。
雪とおなじくらいに白く、美しいお顔が、蒼白にゆがんでいくのをみて、是人はまた高らかに笑う。それから、殺気のこもった細い目で睨みつけながら、
「物の怪が人間の着物を纏い人間同様の気高さをもって生きるなど、身の程知らずにもほどがある。この地は人間のための地。貴様のような穢れたものがいるべき場所ではない。人外のものは、消えよ」
と、最後まで言い終わらないうちに、狩衣の懐から、白い文字の綴られた黒いお札を数枚取り出し、何かを唱えようとした。
――消される。
瞬間、全身で恐怖を感じた。
理屈ではなかった。
本能で、あれは危険だ、と悟った。
立ちふさがる右近を突き飛ばすように押しのけ、雪で真っ白な地面に、お屋敷から逃げるときに忠広から持たされた筆で炎を描いた。なぜ炎を描いたのかは、自分でも分からなかった。ただ、自分と右近を守らなければ、と必死だった。
雪の上に描かれた炎は、瞬く間に闇のような漆黒の炎となって、驚愕する男のほうへと燃え広がり、あっという間に、不気味なほど静かに男を飲み込んだ。肩で息をする落ち葉の君の目の前で、男は声をあげることすらできずに、静かに、黒い炎のなかで悶えた。
音もなく燃え続ける炎は、弱まることなく是人が絶命するまで静かに、しかし激しく続き、やがて、何事もなかったように、空気に溶け込むように消えた。
「おかたさま、お怪我は」
白く華奢な手をとろうとした右近の手を、落ち葉の君は払いのけた。
はっとしたように右近がたじろぐ。
――物の怪。
――身代わり。
是人の言葉が、頭の中で異常に大きく反響する。あの黒い札を見たときに感じた恐怖が、自身が人間ではないことを、証明していた。
「右近」
「はい」
落ち葉の君は、焼け爛れた男から視線を動かさなかった。胸のうちで、筆舌に尽くしがたい感情が、渦巻いていた。いま右近の顔を見たら、胸のうちで必死にそうした気持ちを押さえ込んでいる何かが、決壊してしまいそうだった。
「あなたは、知っているのですね。なにもかも」
搾り出すように発した言葉に、右近は返事をしない。黙ったままなのが、答えだった。
男の身体には、白い粉雪が積もりは始めている。ちらちらと途切れることなく舞い降り続ける粉雪に、落ち葉の君の吐く息は、瞬く間にとけこんでいく。
「教えてください。わたくしは、なにものなのか。なぜ、殿はわたくしを造ったのか」
知らないほうが幸せなことがある――それを教えてくれたのは、皮肉なことに、是人だった。右近からことの経緯を聞き、全てを知った落ち葉の君は、その後も人の目を避け、右近と共に転々とさまよった。
去年は簀子で忠広と眺めた桜を、わびしい山奥で独り眺めた。
肌を焼かれるような日差しを浴びながら、歩きにくいことこの上ない荒れた道を歩き続けた。
燃えるような紅葉の下で、戯れに独り、絵を描いた。
そしてまた、一面白い雪のなかを、とくに目指す場所もなく歩き続けた。
無意味な一日を重ねていくなかで、落ち葉の君は、自分が少しも歳をとらないことを知った。すりむいた傷から、血のかわりに墨が流れるのを見て、自分が物の怪である事を思い知った。物体に残された映像が見えることに気づいたのも、この頃だった。
必ず迎えに行く――別れ際に放った忠広のその言葉は、守られることはなかった。もう何十回目か分からない桜の時期に、忠広がとうの昔に極刑を受けていたという話を、風の便りに聞いたとき、落ち葉の君は、途方もない虚脱感を感じた。
――なぜ、自分はこの世界に存在し続けなければならないのだろう。
望みもせずに、造られた身体。終わりのない、永遠の時をさまよわなければならないこの身体。
落ち葉の君を守るため、忠広の術によって右近もまたその身を朽ちることのない身にしていたことを知ったとき、初めて忠広に、激しい感情を抱いた。そして同時に、もう二度と会えない人に対して、胸の締め付けられるような思いを抱いて、涙を流した。
それらが『怒り』であり『寂しさ』であり『悲しみ』という名の感情だということを、後で知った。
繰り返し繰り返し過ぎ去っていく色とりどりの四季の景色は、落ち葉の君にとっては、終わりのないその身の運命を忘れさせないための無情な通知にすぎず、長い放浪の末に宇治の山奥の小屋に落ち着くいてからは、極力人間を遠ざけ、御簾で仕切られたお部屋の中で、真っ白な紙に絵を描く日々をおくっていたのだった。